東海道てくてくある記
3月16日、金曜日。一日目、日本橋から保土ヶ谷宿まで、32.2Km。横浜宿泊。
お江戸日本橋 七ツ立ち 初のぼり
行列そろえて あれわいさのさ
コチャ高輪 夜明けて 提灯消す
(コチャエー コチャエー)
やはり日本橋を出立するのはちょっと改まった気分がする。今まで甲州街道と中山道を歩いたけれど、いずれも日本橋が終着点だった。つまり、田舎から江戸にやってきたおのぼりさんであったが、今回は江戸から京に上るわけである。
なぜ日本橋という名前が付いたのか、諸説あるようであるが、我が敬愛する井上ひさしの見解によれば、江戸の真ん中にある橋で、「大江戸の中央、日本の人の江戸に出てこの橋を渡らざるものなし」だからというのが有力らしい。
当時の江戸と京都の標準旅程は十三日から十四日。そこで、十四日で歩こうと決心し、計画を立てた。江戸時代とは違い、旅籠が宿場ごとにあるわけではないから、泊まるところは予め探して予約しておかなければならない。すべてが便利な現代社会にも、不便はあるのだ。したがって簡単には予定を変更できない。
4時55分に家を出発し、5時26分発の高速バスで富士見から新宿へ行く。八王子を過ぎた当たりから中央道の渋滞が始まり、予定よりも1時間近く遅れて新宿に到着。地下鉄丸の内線で日本橋に行く。
9時35分、日本橋を出発。朝の人通りのまだ少ない銀座通りを早足で歩く。田舎と違う、ビルの臭いがする。銀座のユニクロ店のオープンの日で、入口をマスコミが取り囲み、買い物客の列が長々とできていた。都会の風景を見ながら歩くのは楽しく、退屈することがない。
田町では、私が勤めていたNECの本社ビルが懐かしい。NECはかつては天下を取る勢いであったが、今は経営難で苦しんでいる。世の中の盛衰は、平家物語の世界だけでなく、現実のものであることを実感する。
品川宿
高和の大木戸跡を見て、11時25分、品川宿に到着。街道のすぐ横には運河があり、舟が多数停泊していて、かつてはここが海であったことを偲ばせる。この当たりの古い感じと、品川駅周辺の高層ビル街との、新旧の対比が面白い。運河の横にベンチが並んでいたので、ここで休憩する。
鯨塚というのが残っている。昼食にラーメンを食べたが、実に不味かった。品川宿は鮫島商店街へと続く。品川、大森間は、旧東海道の標識が電柱に取り付けてあるので、安心して歩くことが出来る。大森本町ミハラ商店街は、街道を整備している。「旧東海道大森町づくり協議会」の旗が立てられている。街道脇に残っている鈴ヶ森刑場跡を見ていく。
川崎宿
多摩川を渡り、2時10分、川崎宿に着く。六郷の渡りも、今は品川のビル街に向かって、大きな橋を渡る。川崎宿はもう何も残っていないが、通りに標識があり、かつては宿場であったことが分かるようになっている。
鶴見のところにある魚河岸通りは、シャッターが閉まり、閑散としている。多分営業は午前中で終了するのだろう。現住所で生麦三丁目12の所に、生麦事件の碑が立っている。学校の歴史では、何となく薩摩の武士が野蛮で悪いように教わったが、悪いのは日本の文化や習慣を無視したイギリス人であることは明らかである。西洋列強のアジア人蔑視の傲慢さの現れあろう。麒麟ビール横浜工場が500mほども続く。ビール工場のバカでかさに驚くが、ビールをがぶ飲みする人間の胃袋を満たすには、この位の工場が必要なのだろう。工場の前は、横浜環状北線の工事中である。
神奈川宿
横浜駅近くの国道を渡り、神奈川宿へ岡を登る。この登り口には標識が見つからなかったので、道を一筋間違えたが、本覚寺を目印に街道に戻ることができた。神奈川宿は坂の上りに沿ってあるが、いまはマンションなどが立ち並び、広重の絵のように海が見えるわけではない。坂を下り、高速を潜る。軽井沢公園というのがあり、梅が咲いていた。今年は寒く、梅が一ヶ月ほど遅いようだ。道沿いに、壁面に石を貼り付けた豪勢な建物がある。金が惜しげもなくつぎ込まれている。何だろうと思って見ると、「神奈川電子電気機器健康保険組合会館」とある。バブルの時代の金余りに浮かれて無駄使いした一例であろう。
帷子川を渡る手前に、八王子道追分がある。帷子川に沿って町田、八王子に通じる道で、「絹の道」として知られている。八王子に集められた絹を、横浜港に運んだ道である。
松原商店街を抜け、江戸方見附跡を見て帷子橋を渡り、天王町駅前を通り、旧帷子橋の碑のところで国道1号線と合流する。5時50分、保土ヶ谷駅に着く。
横浜駅で買い物をするのは疲れるので、保土ヶ谷駅ビルのパン屋「ヴィ・ド・フランス」で夕食と朝食のパンを買い込み、電車で横浜のホテルに向かう。
3月17日、土曜日。二日目、保土ヶ谷宿から平塚宿まで、30.3Km。平塚泊。
保土ヶ谷宿
5時50分にホテルを出る。保土ヶ谷には大船行きの電車に乗らなければならないが、それに気付かず、わざわざ保土ヶ谷には止まらない本数の少ない東海道線を待って乗る。仕方なく、戸塚で降り、保土ヶ谷に戻る。結局、保土ヶ谷駅を出たのは6時45分で、1時間ばかり無駄をしてしまった。
今日は朝から雨である。ズボンの上に雨具を着て、リュックには雨のカバーをつけ、折りたたみの傘を差して歩く。上着のドット・ショット・ジャケットというのは、完全防水なので、雨のときは重宝する。雨対策の装備をしているので、雨でも歩くのには問題ないが、靴は防水でないのでずぶ濡れである。
何もない保土ヶ谷の宿場を抜け、権太坂を上る。坂の上は武蔵と相模の国境で、堺木地蔵尊があり、少し開けて周辺が整備されている。信濃坂を下り、国道1号線と合流し、しばらく歩いた所で休憩のために、普段は入ることのない「すき家」に入る。ミニ牛丼とサラダと味噌汁の朝食セットを頼む。値段は330円、味はともかく、休憩とエネルギーの補給には充分だ。
戸塚宿
9時20分、戸塚宿に着く。吉田大橋を渡る。ここが「かまくら道」と「八王子道」の追分であったが、いまは車の行き交うただの橋でしかない。戸塚も特に見るべきものはなく、ただ雨の中を素通りする。
遊行寺坂を下り、11時20分、遊行寺に着く。藤沢宿は遊行寺の門前町として栄えたとあるだけあって、大きな寺である。寺の休憩所で休む。雨の日は、休む所が限られるので、このような休憩所は本当にありがたい。藤沢宿は、鎌倉や大山詣での根拠地として栄えたというが、今は何も残っていない。
藤沢から平塚まで、国道をひたすら歩く。藤沢から茅ヶ崎の間には、所々に松並木が残っている。休憩のために、二回マクドナルドに入る。普段は決して入らないマクドナルドであるが、雨の日には重宝する。国道沿いには、マクドナルドがあるので、雨の日には国道歩きも悪いことばかりではない。
平塚宿
5時20分ころ、平塚宿に着く。ホテルの東横イン湘南平塚駅北口は街道沿いにあり、すぐ近くの平塚駅の地下にはデパ地下もあるので、食料の買出しには便利であった。今日一日は、雨の中の普通の道を、ただひたすら歩いた。ホテルでびしょ濡れの靴をバスタオルとドライヤーで乾かす。翌朝までには何とか乾いた。
3月18日、日曜日。三日目、平塚宿から箱根まで、35Km。箱根泊。
平塚宿
昨日は予定では大磯までを、雨のため平塚で切り上げてしまった。今日は箱根まで35Kmの長丁場である。しかも、箱根山を登らなければならない。気を引き締めて行く。
5時20分、ホテルを出発。まだ暗い中を、平塚宿を歩く。「平塚の塚」がある付近まで来ると、日が昇り明るくなってきた。「平塚の塚」は平塚の名前を起こりであるというが、街道から少し入らなければならないので、先を急ぐため省略する。平塚宿は本陣跡などの碑があるだけで、何も残っていない。
花水橋まで来ると、右前方に丸い特徴的な姿の高麗山が、朝靄に霞んで見えてくる。低いやまだが、形のよい美しい山だ。ゆるやかな化粧坂を上る。木立に囲まれた静かな住宅地になっている。軽井沢に似た雰囲気がある。落ち着いて趣味のよい住宅地を通り、大磯駅に出る。駅前のベンチで、最初の休憩をとる。
大磯宿
6時30分、大磯宿に着く。どこが宿場だったのか、全く面影がない。国道脇に鴫立庵がある。風雅な佇まいの庵で、大変魅力的である。西行の有名な歌
心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮れ
による。藤村の旧宅などがあるというが、見ずに先を急ぐ。
二宮駅の手前には、立派な松並木が残っている。松並木は、いかにも東海道であることを感じさせる。東海道の一つの特徴は、この松並木にあると思う。大磯から国府津駅にかけて、住宅が切れ目なしに続いている。ときたまコンビニはある程度で、休む所がない。15Kmほどもある国道歩きは、ほんとうに長い。
小田原宿
酒匂川の酒匂橋を渡り、ようやく小田原市中に入る。11時、小田原宿に着く。なりわい交流館のあたりに、かろうじて宿場の感じが残る。小田原名物のかまぼこ屋が軒を連ねている。昼食は「古い勢」という料理屋でしようと楽しみにしていたが、11時半にならないと開かない。先を急がなければならないので、仕方なくガストで食事をする。
12時に小田原宿を出て、箱根路に向かう。国道沿いの川の土手に桜が咲いている。早咲きの川津桜だろうか。箱根登山鉄道の風祭駅の手前から旧道に入る。古い家並みの旧道を歩いていると、雨が降りだした。やれやれ、雨の中の箱根越えとは。急いで、雨支度をする。
箱根湯本の手前の三枚橋を渡り、いよいよ箱根山の登りが始まる。早雲寺や正眼寺を見て行く。早雲寺の本堂は修復中であった。最初の石畳を上り、しばらくして本格的な山道となる。途中、観音坂、葛原坂、女転ばし坂、割石坂などを登り、3時に畑宿に着く。天気が悪いためか、日曜日にもかかわらず、畑宿の寄木細工の店は閑散としている。数人の観光客と、二グループのハイカーに会っただけである。
畑宿の一里塚から石畳を登る。山の中は、霧と小雨で夕方のように薄暗い。九十九折の車道を、真っ直ぐに貫くように橿木坂や猿滑り坂の急坂を登り、石畳に苦労しながら、4時10分にようやう甘酒茶屋に着く。実を言うと、ここの甘酒を飲むのを楽しみに登ってきた。街道歩きの甘酒は本当に旨い。車できたのでは腹が減らないので、甘酒を飲もうとは思わないが、疲れて空腹感のあるときの甘酒は実にありがたく感じる。旅人には命の水である。当時の旅人が、この茶屋で甘酒を飲んだときの気持ちがよくわかる。
茶屋からも石畳が続く。石畳と言っても整備されていないので、ただ石を並べただけといった風にごつごつしている。まるで河原を歩いているようだ。当時は手入れがよくされていたから、石畳は平らで歩きやすかったのだろう。雨の日に箱根を歩くと、石畳の意味がよく分かる。道が沢筋を通っているので、雨が降ると道がぬかるのである。最初は箱根竹を敷き詰めたようだが、非常に手がかかるので、石畳にしたとのことである。
最後の権現坂を、芦ノ湖を見ながら下る。雨も止み、鶯が鳴いている。ようやく5時に、本箱根に着く。曇っていて視界はよくないが、芦ノ湖の辺でしばし休憩する。箱根神社の朱の鳥居が夕暮れの中で鮮やかだ。今夜泊まるペンションは食事なしなので、遊覧船乗り場の前にあるセブンイレブンで食料を調達する。サラダに弁当、巻き寿司、サンドイッチを二パック買う。
箱根宿
杉並木を通り、関所に向かう。関所には誰もいない。関所を素通りし、箱根宿に着く。ペンションの芦ノ湖グリーンハウスは、箱根宿を抜けたところにある。民宿はどこも営業しておらず、ホテルや旅館以外で泊まれるのはこのペンションだけであった。
3月19日、月曜日。四日目、箱根から原まで、26.4Km。沼津泊。
5時30分、宿を出発。向坂を登る。ここにも杉並木が残っている。まだ薄暗い山道を登り、国道に合流して箱根峠に着く。箱根峠からは、芦ノ湖とその後方に聳える駒ケ岳、双子山の眺めがよい。
箱根峠は道標がなく、どちらに進んでよいのか、分からなくなったが、とにかく国道を三島の方に進むことにした。不安なまま国道を進むと、芦ノ湖スカイラインと合流する地点を過ぎてから広い駐車場があり、この駐車場の後ろに、箱根旧道の標識を見つけほっとする。この駐車場のところから、箱根のいわゆる西坂の本格的な下りが始まる。
西坂は昨日登ってきた東坂と比べると、明るい感じがする。街道の両側には箱根竹が生い茂っている。西坂には四箇所ほど、100mから400mに亘る長い石畳が残されている。この石畳が実に歩きにくい。特に下りは酷い。しかも昨日の雨に濡れて滑りやすく、本当に閉口した。
途中に接待茶屋の跡がある。接待茶屋は篤志家により、私費を投じて運営され、馬の飼葉や旅人に粥を無料で接待した。文政7年(1824年)に、江戸の商人の加勢屋與兵衛が始め、明治に入ってからは下総の性理教会の弟子によって明治12年(1879年)に再開され、その後、鈴木利喜三郎とその子孫が、昭和45年(1970年)まで、私費で茶を接待したということである。
兜岩を過ぎ、山中城跡の掘割の下の部分をちょっと覗き、石畳を下る。一本杉のところの石畳に石橋が再現されている。
富士見平には、芭蕉の句碑が建てられているが、車道脇の眺めの悪い所にある、無骨な大きな碑である。これを建てた人の趣味の悪さが現れている。この日も、「富士を見ぬ日ぞ面白き」であった。たとえ雲がなくても、ここからの富士山はいろいろなものに邪魔をされて、美しくは見えないであろう。笹平まで下ると、三島から沼津にかけての市街地が見えるようになる。しかし、まだまだ小時雨坂、大時雨坂、臼転坂といった急な坂が続く。大きな石に刻まれた箱根路の碑を過ぎ、ようやく長い下りは終わる。この先には、初音ヶ原の松並木と最後の石畳が待ち構えている。
三島宿
10時30分、三島宿に到着。朝食を取り損ねるといけないので、三島大社前のデニーズで食事にする。デニーズは安いばかりで、ひどい味だ。もう金輪際入るものか。三島大社にお参りをし、沼津に向かう。三島宿には、見るべきものは何も残されていない。
三島宿を出てしばらく行った所に、一里塚が残っている。右側は玉井寺の境内に、左側は宝池寺の境内にある。つまり、二つの寺が向かい合っているのだ。この一里塚は姿が美しく見事である。その先の長沢八幡宮には、義経と頼朝が初めて対面した時に座ったとされる、「対面石」といういのがある。本当かどうかは怪しいが、ここを流れる黄瀬川の辺で、奥州の平泉から駆けつけた義経と平家打倒のために挙兵した頼朝とが対面したのは史実である。
沼津宿
1時10分、沼津宿に着く。沼津宿も、宿場としての名残はないが、川廊通り(川曲輪)が宿場であったことの証を伝えている。名前だけで何もないが、狩野川に面した城郭に由来するということだ。本町にある本陣跡の碑を確かめながら、沼津宿の外れにある乗運寺に立ち寄る。形のよい松の木立の山門が印象的だ。乗運寺の開山は増誉長円で、松原の荒廃を嘆き、千本の松を植えたと伝えられる。これが、現在の千本松原の源である。千本松原は、駿河湾の沼津から田子の浦までの十数Kmに亘り続いている。乗運寺の境内には、沼津と千本松原を愛した若山牧水の墓がある。
乗運寺からは、延々と退屈な旧道歩きが続く。変化のない人家が続く、直線の道である。旧道は、千本松原から数百メートルほど離れたところにある。途中、千本松原に寄り道をし、しばらくの間、海岸の防潮堤の上や、松原の中を歩くことにした。海を眺めながらの歩きは気持ちがよく、疲れをしばし忘れさせてくれる。この防潮堤の高さは、14.3mとある。この高さでは、大地震による大津波には役立たないであろう。東海道はほとんどが海抜10m前後のところだから、津波が来たら諦めるより他に方法はない。数百年に一度の大津波に対しては、諦めるしかないのが現状だし、ここに住む人たちもそう思っているのだろう。
原宿
千本松原から旧道に戻り、延々と歩いて、3時20分に原宿に着く。原宿は寂れた感じの街である。これといったものはないが、白隠禅師の誕生の地として知られている。白隠禅師は、貞享2年(1686年)に生まれ、15歳で出家した。臨済宗の中興の祖と仰がれ、「座禅和讃」を著した。墓が原宿の松蔭寺にある。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山と原の白隠」と謳われている。その富士山であるが、あいにくに曇っていて見えない。
箱根から原まで、距離は短いが疲れた。原駅から電車で今日の宿泊地である沼津へ戻る。
3月20日、火曜日。五日目、原から興津まで、35.8Km。興津泊。
5時始発の静岡行きに乗るために、4時45分にホテルを出る。朝食は、清見オレンジ一個、ローソンのサンドイッチを二パックに青汁と紅茶を、4時に起きて食べる。原駅では三人降りる人がいた。
5時10分、原駅を出発。5時半になってようやく日が昇る。五日目にして初めて富士山を見る。昨日の続きの旧道を歩き、1時間で柏原の間の宿に着く。ここには望嶽碑のある立円寺がある。望嶽碑というから期待したが、寺といい碑といい何のことも無い。雲がかかっていて富士山の全容は望めないが、建物などに邪魔されて、この寺からの富士山は望嶽というほどの富士山ではない。
ここから吉原駅まで、右手には絶えず富士山が見えるが、家や建物に邪魔されて、全容を見ることはできない。吉原駅の手前で、街道は右に大きくカーブして西から北へ向かうようになる。その結果というか、本吉原の左富士神社あたりから富士山が左手に見えるようになる。広重の絵にもある左富士だ。左富士神社で休憩する。ここにはトイレもベンチもある。その先の交差点の角に、左富士の碑があり松が植えられているが、とても左富士を眺めるような場所でなくなっているのは残念だ。
吉原宿
平家越えの碑のある和田川を渡ると、吉原宿になる。平家物語でも名高い富士川の合戦のあった所だ。実際には戦いは起こらなかった。平維盛率いる源氏追討軍は、総勢七万余騎で富士川に布陣する。一方の頼朝軍は二十万騎で、黄瀬川に到着。貴族武士の維盛は、坂東武者の勇猛さにおびえ、合戦の前夜、平家軍は避難民が炊事する火を見て源氏の大軍と誤り、すっかり臆病風に吹かれてしまい、水鳥の羽音を敵襲と思い込んで大混乱して逃亡した。この平家の醜態は物笑いの種になったことは言うまでもない。
8時10分、吉原宿に着く。吉原宿はさっぱりとしたきれいなアーケードのある商店街に変貌している。この商店街を抜けると旧道は左に折れるが、この曲がり角が分かりにくく、通り越してしまった。何となく道の様子がおかしいので、すぐ引き返したが、筋を一本間違え、地元の人に聞いてようやく本道に戻ることができた。
1時間半ほど旧道を歩き、身延線を横切る。身延線を過ぎたあたりの道筋が分かりにくい。目当ての常夜灯が見つからず、通り掛かりの人に道を聞いてようやく富士川にたどり着く。富士川端の袂にある松岡水神社で休む。富士川橋からの富士山の眺めが素晴らしく、今までの疲れをしばし忘れさせてくれる。街道筋から、何物にも邪魔されずに富士山を眺められる唯一の場所、と言ってもよい。
富士川を渡ってからの道がまた問題だ。橋を渡り終えて、すこい右に進み、細い坂道を登るのだが、橋からの道なりにも似たような道があるため、そちらに行ってしまった。親切な人がいて、車の中からこの道は東海道ではないことを教えてくれた。本当にありがたい。おかげで無事に岩淵間の宿に至る。岩淵間の宿は古い家が並び、落ち着いた佇まいが印象的だ。この先にある岩淵の一里塚は、一対の塚とケヤキの大木が残り、東海道でも三島の一里塚と一二を争う立派なものである。
蒲原宿
岩淵の一里塚を過ぎてからがまた問題で、道が分かりにくい。道案内がないばかりか、あるはず常夜灯があるべき場所に見つからず、行きつ戻りつしながらも、何とか蒲原宿に着くことができた。12時5分である。
蒲原宿は、日本橋からずっと歩いてきて初めての、古い建物が残る宿場だ。広重の「夜之雪」で有名な蒲原宿で、碑が建てられている。この絵のような風景は望むべくもないが、それにしても、温暖な蒲原に雪が降ることは江戸時代でも珍しかったのではないだろうか。旅籠「和泉屋」の遺構の「お休み処」で食事にする。店のおばさんが進める五目チャーハン、500円、を食べる。店の人によれば、富士川から蒲原までの道は分かりにくく、大抵の人が迷うとのことであった。是非とも道標を完備してもらいたい。蒲原宿には五十嵐歯科医院の大正時代に建てられた洋館が残されている。
由比宿
蒲原宿と由比宿の間は一里に満たない。1時35分、由比宿に着く。由比宿には本陣跡が再現され、その向かいには脇本陣「温飩屋」の建物が残っている。明治時代の郵便局もある。由比は「桜えび」と「しらす」が名物である。「桜えびレストラン」があり、ここには観光客が殺到していた。桜えびの天ぷらか掻揚げを是非とも食べたかった。前もって知っていたら、蒲原宿の「お休み処」で食事などしなかったのにと悔しく思う。
由比宿から由比駅までは「桜えび通り」といい、桜えびとしらすを売る店が軒を並べている。駅の手前には漁港があり、直売も行なっている。立ち寄って、家に桜えびをクール宅急便で送ろうかと思ったが、まだ先があるので諦めた。
由比駅から薩埵峠へ向かう。ここからは海を見ながら、古い家並みの旧道を行く。途中に、小池邸や望嶽亭藤屋などがある。藤屋からは、薩埵峠への登りが始まる。道の両側は、みかん畑で、甘夏や八朔がたわわに実っている。道筋の農家の軒先には、無人販売のみかんが一袋百円で売られている。荷物になるので買えないのが残念だ。それでも伊予柑を一袋だけ買うことにする。ついでに、道端で放置されている甘夏の木から二個失敬した。
薩埵峠からの眺めは素晴らしいの一言だ。駿河湾の向こうに、真白な富士山が見える。目の下には、海にせり出して東海道線と国道と東名高速が走っている。これらの眺めは壮観である。ここでも売っている一袋百円のあおしま蜜柑を買って、峠のベンチで景色を眺めながらあおしまを頬張る。程よい空腹に、蜜柑が美味しい。景色といい、蜜柑といい、最高の気分である。薩埵峠は、箱根と並び、今までの東海道のなかのお勧め第一番である。
景色を充分に堪能し、写真を撮り、興津への坂道を下る。興津川の川越の跡を見て、橋を渡り、国道1号線から52号線が分かれる交差点にあるローソンに寄って食料を買い込む。4時30分、今夜宿泊するクア・アンド・ホテルへ向かう。このホテルには温泉があり、娯楽施設のあるリゾート風のホテルで、それらしき家族連れが多く泊まっていた。海に面して眺めはよい部屋であったが、ホテルとしての設備や雰囲気は決して良いとはいえない。
3月21日、水曜日。六日目、興津から藤枝まで、34.7Km。藤枝泊。
興津宿
5時ホテルを出発。まだ暗い興津宿を行く。宿場としての雰囲気が何となく残っている家並みが続く。以前に拝観したことのある清見寺に寄る。清見寺は奈良時代に創建された名刹で、人質時代の家康も訪れたという。清見寺は小高いところにあるが、高架の道路や建物やらで、ここからの眺めは完全に破壊されてしまっている。坐漁荘跡を見て江尻、いまの清水に向かう。
江尻宿
何となく都会的ではない家並みの続く旧道を進み、細井の松原跡から江尻の商店街へと入っていく。細井の松原跡には無精ひげのような松が植えられているだけである。6時30分、江尻宿の東木戸跡。清水銀座という、田舎丸出しの商店街を抜け、右に曲がって稚児橋を渡る。この辺りが江尻宿のあった所だが、今は宿場の名残もない。稚児橋には子供の河童の象が欄干に飾られていて面白い。
清水道との追分には、ここの名物「追分羊羹」の店がある。このすぐ近くには、妻の母の実家があり叔父がいたが、昨年亡くなった。線香をあげていきたいところだが、寄り道する時間的な余裕がないので、電話だけして失礼した。追分羊羹はよくお土産に頂いたものである。
江尻からは、静岡鉄道に沿って旧街道を進む。町中の道で車も多く、歩きやすい道ではない。歩きながら取留めのないことをあれこれ考える。私の住む富士見はまだ冬で、水仙やチューリップが咲くのは半月以上も先である。静岡は温暖なので、既に春の花が咲き乱れ、家々の玄関には花の鉢植えが飾られている。色とりどりに花は咲いているけれど、どうしてか美しいと感動することがない。北国と南国との季節感の違いだろうか。やはり春の花として物足りなさを感じるのは、長い冬が終り、厳しい寒さから開放され、待ちに待った春がようやくやって来て、土から顔を出した植物たちが色鮮やかに咲き始めるときの、あの言い知れぬ感動がないからだろう。
強い目標を持つということはいいことだ。三条大橋まで歩くという目標があるから、脇目も降らず先に進むことができる。もしどうでもよい旅であれば、あれも見たい、これも見たい、あれを買いたい、あれを食べたいで、迷って困ったことであろう。今はただ府中宿まで歩き、名物の安倍川餅をたべるということだけである。
府中宿
大開発の進む東静岡駅を過ぎ、10時、府中宿、いまの静岡市に着く。回り道になるので、駿府城跡には立ち寄らないことにする。以前に行ったことがあり、いまは公園となっているだけだ。街道筋には徳川慶喜が大政奉還の後に住んでいた家と庭園が残っているので、覗いていく。今は浮月楼という料亭になっている。静岡は大都会なので、宿場は跡形もないが、道路の表示すらもない。途中からどれが旧東海道か分からなくなった。幸いなことに、通りは全て阿部川に向かって平行に伸びている。しばらく駒形通り商店街を進み、行き止まったところで旧道に辿りついた
安倍川の袂には川会所跡がある。ここの昔ながらの「石部屋」で安倍川餅を食べることを楽しみにしていたが、あいにく石部屋は休みであった。仕方なく、橋に一番近い「橋本屋」に入る。片田舎のお菓子やといった風情だが、ここのおばさんは親切で、餅もなかなか美味しかった。お土産に、大福餅までくれた。夕食のデザートにこれを食べたが、これがまた飛び切り美味かった。案外、老舗よりはこのような脇の店もいいものだ。値段は安く、気取りがなく、あんがい美味しいこともおある。安倍川橋を渡る。左側にしか歩道がないので、橋からの眺めはよくない。渡り終えてから反対側に移り、川上の風景を写真に収める。ここからは富士山がきれいに見える。
丸子宿
国道1号線を横切り、丸子の街に入っていく。佐渡の子授地蔵尊の古びた建物が歴史を感じさせる。12時30分、丸子宿に着く。丸子はとろろ汁で有名だった。芭蕉の句を思い出す。
梅若菜まりこの宿のとろゝ汁
丸子宿の外れには、とろろ汁で有名な「丁子屋」がある。ここで昼食とする。とろろ汁定食を食べる。とろろ汁は味噌味で、お櫃に入った麦飯のご飯は食べ放題なので、つい満腹になってしまった。丁子屋の横には、十返舎一九の碑がある。
『東海道中膝栗毛』には「足をはやめてほどなく丸子の宿にいたる。ここにて支度せんと茶やへはいり 北八「コウ飯をくをふか。ここはとろろ汁のめいぶつだの 弥二「そふよ。モシ御ていしゅ、とろろ汁はありやすか ていしゅ「ハイ今できず 弥二「ナニできねへか、しまった ていしゅ「ハレじつきにこしらへずに、ちいとまちなさろ トにはかに、いものかわもむかずして、さつさつとおろしかかり・・・・」と、静岡弁のできず(できますのこと)の取り違えが面白い。やがて、亭主と女房が喧嘩を始め、とろろの鉢を投げつけ、こぼれたとろろ汁に滑って転げまわるという、ドタバタ話となり、二人はとろろ汁を食い損ねるという他愛もない話しとなる。「アノとろろ汁でいつしゆよみやした けんくはする夫婦は口をとがらして鳶とろろにすべりこそすれ それより宇津の山にさしかかりたるに、」と続く。
丸子宿からは国道1号線を歩く。道の駅から歩道橋を渡り、ようやく旧道を歩くようになる。程なく、宇津ノ谷間の宿となる。山間に昔ながらの家が並び、坂道に沿った家並みは風情がある。農家の老人達が縁先に並んでのんびりとしている風景は、絵になりそうだ。
宇津ノ谷峠は短いが、なかなかの難所である。特に下りは急で、思わぬ時間を食った。それでも街中や国道歩きが続いたから、山道が心地よい。峠を下り終えると再び道の駅に出るが、国道に合流することなく旧道に入る。しばらく道なりに進み、左に道が折れると岡部宿である。
岡部宿
3時10分、岡部宿に着く。岡部宿は小さいが、旅籠の「柏屋」が保存され歴史資料館となっている。岡部の町並みは、電柱が地下に埋設されているので整然としていて気持ちがよい。宿場内の道路や歩道は舗装の色を変えて、一目で街道であることが分かるようになっている。このように、建物こそ残っていないが、宿場であったことを町並みとして残そうとする試みは、大変よいことだと思う。このような例は、他の宿場でも見かけられた。岡部宿の外れには、五智如来という五つの石の如来像が並んでいるお堂がある。
岡部宿を出て、国道1号線を歩き、旧道へ入り、単調で面白みのない道が続く。ようやく、樹齢500年というクスの大木のある須賀神社に着く。神社の先で国道1号線を渡れば、藤枝宿が始まる。
藤枝宿
5時5分、藤枝宿に着く。藤枝宿は2Kmほどに渡る長い宿場で、今は「さわやか商店街」になっている。宿場らしい感じが残っているわけではなく、どこからどこまでが宿場なのか取留めのない感じで街が続く。瀬戸川の勝草橋を渡り、ようやく藤枝宿から開放される。文字通り、開放されたという気分であった。
今夜のホテルは藤枝駅の北口にあるので、ここからまだ2Kmほど歩かなければならない。
ホテルに行く前に夕食をとろうと思うが、藤枝駅の通りには入りたいような食べ物屋は皆無である。しかたなくコンビニを捜して、夕食と朝食を調達する。幸い、駅の近くにセブンイレブンを見つけた。弁当を電子レンジで温めてもらったが、コンビニ弁当とバカにしていたが、温めると意外といける。いつもの様に、朝食にはサンドイッチを二パック買う。今日は長い一日であった。
3月22日、木曜日。七日目、藤枝から袋井まで、35.5Km。袋井泊。
5時ホテルを出発。昨日分かれた東海道に戻る。藤枝から島田までの街道には、所々しっかりした松並木が残っている。松の根方に盛り土をしてある本格的な松並木だ。この日は全国的に寒波が襲い、季節外れの寒さであった。西風が強く、向かい風となるので閉口したが、朝はまだ元気なので、ひたすら歩いて7時15分に島田宿に着く。
島田宿
島田宿は判然としない。大井神社前を通り、大井川の「川明け」や「川留め」を告げる鐘を鳴らしたという大善寺の鐘を見る。大役を果たした割には貧弱な寺と鐘楼である。ここから1Kmほどで、大井川の川越遺跡である。
大井川川越遺跡には、川越の町並みの一部が再現され、川会所跡の建物が残っている。少しは当時の様子を想像することができる。川越の地点は、河川敷の大きな広場になっている。川の水量は少なく、流れの筋ははるか遠くにある。
川越地点には橋がないので、500mほど上流に遡って県道381号(旧国道1号線)に架かる大井川橋を渡る。大井川橋はトラス橋で、トラスは17連、全長は1,026.4mもある。大正13年に建設が始まり、昭和3年に完成した。それまでは木造の橋で、しばしば流され、舟による渡船も行なわれていた。今のように不自由することなく渡れるようになったのは、昭和に入ってからであった。
金谷宿
長い橋を渡り、9時に金谷宿に着く。金谷宿側は、川越の跡も碑が残るだけである。金谷宿も特に印象に残るものはない。金谷駅の裏に回り、坂を登っていくと、金谷坂の石畳が始まる。石畳の入口には石畳茶屋があるが、時間的に中途半端なので素通りした。石畳を登っていくと、周囲には茶畑が広がり始める。上りきったところからは、栗ヶ岳の山腹に茶の木で描かれた「茶」の文字が見えてくる。目に付いて面白いが、景観としてはいかがなものであろうか。この辺りの丘陵は一面の茶畑で、このゆったりと開けた感じはなんとなくイタリアのトスカーナの風景に似ている。
菊川坂の石畳を下ると、菊川間の宿となる。のどかな菊川の里を通り、茶畑が一面に広がる中を箭置坂を上ると、小夜の中山となる。
年たけて又こゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山
と西行が詠んだ小夜の中山であるが、今は小夜の中山公園があり、この西行の歌が刻まれている大きな歌碑が立っている。公園の前には夜泣き石伝説に因む「子育飴」を売る茶店があるが、閉店していた。その先の久延寺には、その夜泣き石の一つが置かれている。広重の絵では、夜泣き石は坂に転がっていたが、小夜の中山を下りきるところに、夜泣き石跡の碑と、広重の絵の案内がある。
芭蕉の「小夜中山にて」の句
命なりわづかの笠の下涼み
の涼みの松を通り、先ほどの夜泣き石跡を過ぎ、ものすごい急坂を下ると、日坂の集落となる。
日坂宿
11時15分、日坂宿に着く。日坂は小さな宿場で、各戸に屋号の札が掛けられ、古い家並みも残り、宿場らしさがよく残っている。日坂で昼食と思っていたが、こんな小さな集落には食事のできるところはない。幸運にもパン屋があったのでパンを買い、事任(ことのまま)八幡宮の境内で昼食をとる。境内には杉の大木が茂り、くすの巨木もあり、静謐な空気につつまれている。
掛川宿
日坂を出てから掛川までの道筋は記憶に残っていない。国道沿いの特徴のない道をひたすら歩いたのであろう。1時20分に掛川宿に着く。宿場らしきものは何もなく、道も分かりにくい。とにかく、大手門と天守閣だけは見ておくことにした。天守閣は平成6年に再建されたものである。小振りではあるが、しゃれた形の城である。城の前の天守閣がよく見える茶店でいちご饅頭を食べる。今までいちご饅頭とかいちご大福などは毛嫌いしていたけれど、けっこういける。
掛川宿を出ても代わり映えのしない道が続く。東名高速を潜り、垂木川を渡ったところに善光寺という寺がある。この寺は、この付近が東海道の中間点になることから、仲道寺とも呼ばれている。この仲道寺で休憩する。ベンチもトイレもある。
原川間の宿を通り、国道一号線を横切ると、原川の松並木が現れる。特に、袋井宿の手前に残る松並木は立派である。1Kmほども続く。『徳川実紀』に、秀忠が「諸国街道一里毎に塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」との記述があると、案内板に書かれていた。途中に小学校があり、校門の門柱に「東海道五十三次どまん中東小学校」と大書された大きな板が掛けられていた。学校の本来の名称はもう一方の門柱に、これよりはるかに小さく、控えめに書かれてあるのが面白かった。袋井宿には「東海道どまん中茶屋」という休憩所があるが、袋井宿は、どちらか数えても二十七番目の宿場なので、いたるところでこの「どまん中」を自慢しているのが面白い。東海道で一つしかないのだから、自慢したくなるのも無理はない。
袋井宿
4時30分、袋井宿に着く。東海道どまん中茶屋のところで街道は鈎型に曲がっている。茶屋には老人がいて、休んでいくように勧めてくれたが、ホテルに急ぐからと失礼した。老人からホテルの場所を教えてもらったので、迷わずにホテルに向かう。途中に、東本陣跡、その向かいに宿場公園が整備されている。宿場らしさは、こんなところにしか残されていない。今夜泊まる袋井プリンセスホテルは、すぐ近くにCOOP袋井田町店があり、食料の調達には大変便利であった。5時を過ぎていたので、生鮮食料品が30~40%引きで買えた。
3月23日、金曜日。八日目、袋井から舞坂まで、33Km。浜松泊。
5時ちょっと過ぎにホテルを出る。昨日見た、宿場公園のところまで行く。見附までは県道413号線に沿っての道になる。住宅地の中に、木原一里塚が残っている。その先には、元亀3年(1572年)、徳川家康が武田信玄に敗北した三方原の戦いの前哨戦となった木原畷の戦いの地であることを示す碑がある。三ヶ野には松並木があるが、保存されているというよりは、何となく残っているといった感じがする。
見附宿
住宅地の坂を上り、見付天神から見附宿を見下ろす。7時10分、見附宿に到着。見附はいまの磐田市で、Jリーグのジュビロ磐田の本拠地である。見附宿には、「がんばれジュビロ磐田」の旗がいたるところに立てられている。見附宿には宿場としての建物は残っていない。明治8年に建てられた、日本最古の木造洋風建築の小学校である見附学校が目を引く。なかなか洒落た建物で、当時はさぞや人々の耳目をひいたことであろうと思う。剣道に突き当たり、左に曲がるところには、「姫街道」と書かれた道標がある。浜名湖の渡しを嫌った女性が利用したのでこの名がある。
旧東海道は、磐田駅の方に大きく曲がり、県道261号線に沿って進むが、大回りになるうえに、とりわけ見るべきものがありそうもないので、国道1号線を真っ直ぐに天竜川まで進むことにした。忠実に街道を辿るのもよいが、たまには時間の節約も必要である。天竜川の船着場跡で、旧東海道と合流する。天竜川橋には歩道がなく、歩くのは危険なので、少し上流に架かる国道の新天竜川橋を渡る。大井川橋に劣らず1Km近くある長い橋である。橋を渡り終え、対岸の船着場跡に出る。
天竜川に最初の木橋を造ったのは、中野町村(現在の浜松市)の浅野茂平である。明治4年、四つの木橋と本流に架かる舟橋からなる天竜川橋が完成した。しかし、すぐ豪雨でやられ、この地の実業家の金原明善の手に移り、明治11年に、金原明善により完全な木橋の天竜橋が完成した。その後、幾つかの木橋が造られたが、国道に鉄橋が架けられたのは昭和8年のことである。
天竜川を渡ってしばらく行ったところに、明治・大正期の実業家で治水や林業に私財を投入した金原明善の生家がある。向かいには記念館が建てられている。あまり面白くない道が続くが、東海道線が近づいてくると浜松は近い。
浜松宿
11時45分、浜松宿に到着。浜松は大都市である。新しく近代的な町並みと古い商店街が調和している。きれいな街という印象を受ける。市内には、「東海道お休み処協力隊」と書かれたベンチが各所に置かれている。街道筋には、座って休むことのできる場所が限られているので、このようなベンチは本当にありがたい。浜松宿は、257号線が曲がった所に本陣跡などの碑があるだけで、他の大都市と同様に宿場の位置が確認できるだけである。
浜松から舞坂までも退屈な道が続く。したがって、全くと言ってよいほど思い出せない。しかし、舞坂駅近くになると、突然に松並木が現れ、急に元気が出てくる。この松並木は700mほども続き、330本の松の木が残っているということだ。実に見事な松並木である。この松並木を抜ければ舞坂宿であるが、今日は舞坂駅までとする。
3時に舞坂駅に着く。ここから電車で今夜の宿泊地である浜松に戻る。いつものように、浜松駅のスーパーで食料を買い込み、駅前のホテルにチェックインする。この日はどこで昼食を食べたのか思い出せない。確かどこかでうどんを食べた記憶がある。見附宿から雨となったので、国道沿いにあるうどんのチェーン店に入り、休憩を兼ねて食事をしたが、どこだったか。この日の印象が全体的に薄いのも、一部は雨のせいである。
3月24日、土曜日。九日目、舞坂から赤坂まで、36.1Km。赤坂泊。
舞坂宿
6時3分発の米原行きに乗るために、5時45分頃ホテルを出る。昨日、100円ショップで買ったビニールケースにメモ帳と地図を入れ、ズボンのベルトに吊り下げる。今までその都度ポケットに入れていた手間が省けて快適になった。
6時15分に舞坂駅に着く。昨日歩いた松並木を進み、6時35分、舞坂宿に着く。今日も風が強い。松並木は風から旅人を守ったことだろう。夏の日差しも遮ってくれたはずだ。
舞坂宿には、のり、しらす、かつお節を売る店が多い。茗荷屋脇本陣の建物が残っている。北雁木渡船場跡を見る。室町時代の大地震で浜名湖が海とつながった。それでこの辺を今切という。ここから新居宿までは、海上1里18町を船で渡った。今日は風が強く、歩いて渡るのも大変そうなので、現代の渡船ならぬ電車で、弁天島駅から新居町駅まで行くことに決めた。弁天島温泉のホテル群を眺めながら駅に向かう。
新居宿
新居駅前には案内板があり、新居渡船場跡と新居関所跡まで分かりやすく道が通じている。7時40分、新居宿に着く。関所跡周辺は整備され、宿場らしさを復元している。道はすぐ左に直角に折れ曲がり、1Kmほどで棒鼻跡となり宿場は終わる。
新居宿を出てすぐに松並木が始まる。この松並木は一列であるが、1Kmほども続く見事なものである。周辺は開けてのどかであり、東海道では珍しくのんびりした気分にさせてくれる。中山道には、このようなところが多いが、東海道は市街地や人家が立ち並ぶところばかりで、里で家のない街道筋は貴重である。のどかな感じは白須賀宿まで続く。街道歩きの醍醐味を感じさせてくれる場所だ。
潮見坂を上る。この坂の登り口には古い家が並び、街道筋の雰囲気がある。潮見坂を上った所に、おんやど白須賀があるが、新しく作られた施設で立ち寄る気を起こさせない。まだそんなに疲れていないので、潮見坂公園のベンチで休む。ここは、家康が茶室を造り、信長を接待したところであるが、現在の潮見坂からの眺めは、海辺に美しくもない建物が建ち、それ程よいものではない。東海道は海沿いであるが、建物が立ち並び、思いのほか海が見える場所は少ない。今まででは、小田原の手前、薩埵峠と潮見坂の三箇所くらいか。
白須賀宿
9時20分、白須賀宿に着く。白須賀宿には何も残っていないが、古い建物が多く、昔の姿を留めている。
白須賀宿を出ると、愛知県豊橋市となる。ここから二川までの道は全く酷いものだった。一面キャベツ畑が広がる中を、高速道路のような国道1号線の歩道をひたすら歩かされる。脇を車が絶えず疾走する。防ぐものがないので、強い西風をまともに受ける。畑の中といっても、殺伐とした感じで、この国道の所為でのどかな感じは全くしない。遠くの景色も、低い山が見えるだけで面白みがない。東海道でこんな所は珍しい。しかもコンビニがないので、食べ物を買うこともできない。新居宿から二川までの10Kmほどの間に、二軒のKマートがあっただけである。
二川宿
国道歩きに辟易し、しかも工場と新幹線に挟まれながら、10時55分、二川宿に着く。ここに至る道筋には道案内の標識もなく、いきなり宿場になるといった感じがする。二川宿には本陣が残り、本陣の大きな屋敷が保存されている。これが二川宿の面目を保っている。本陣前の駒屋など、宿場内には古い家並みがまだ残っている。ただ、ここまでの道がよくなかったのと、風が強く今にも雨が降り出しそうな空模様なのが災いして、二川宿には侘しい感じがどうしても付きまとってしまう。二川宿の印象を悪くしたのはもう一つ、昼食に入った鰻屋で食べた天丼のひどさである。鰻屋では鰻丼を頼むべきで、天丼を頼む方が愚かであったかもしれない。ともかく、白須賀と二川の間は歩かない方がよい。
豊橋市に入ってから車が多くなり、しかも運転がなんとなく乱暴な気がする。だいたい歩行者を無視する車が多い。珍しく親切なドライバーがいると思ったら、静岡ナンバーだった。静岡県と愛知県の気質の違いだろうか。
吉田宿
1時40分、吉田宿、今の豊橋市に着く。豊橋は大都会だ。広い通りに市電が走る。でも浜松ほどおしゃれではなく、なんとなく雑駁で田舎びた感じがある。豊橋市内の街道筋には、入って休むような店は見つからず、浜松のように街道筋にベンチが置かれているわけでもないので、休憩するところがない。ただ要所要所には、青地に「東海道」と書かれた道路標識が立てられているので、旧街道を辿ることはできた。
吉田宿の外れの豊川に架かる豊橋を渡る。橋からの開けた眺めに気分がよくなる。流れの向こうに、豊橋の町のビルと背後に連なる山並みが見える。遠くの橋の上方には、吉田城らしきものも見える。豊橋を渡り、ヤマサン醤油の先のサンクスでコーヒーにありつき、ようやく休憩することができた。今夜とまる赤坂の大橋屋に、5時頃には着きますと電話する。
吉田宿から御油宿までは、ほぼ直線に伸びる道をひたすら進む。豊川方水路を渡り、飯田線を越える。ここから先はどんな所だったか思い出せない。紅白の椿が軒下に咲く、和太鼓や鼓の古い専門店があったことと、菜の花が咲く小さな川を越えたことは覚えている。国道と合流し、名鉄の陸橋を越えてようやく御油宿に近づくが、なかなか着かない。
御油宿
大社神社を過ぎ、5時5分、ようやく御油宿に着く。大橋屋にはもう一度電話して、やっと御油に着いたことを知らせておく。この時の気分は、『東海道膝栗毛』の弥次郎兵衛そのままであった。「弥次郎兵衛あまりに草臥ければ、先此所はづれの茶店に腰をかけたるに、あるじの婆ゞ「アイ茶アまいりませ 弥次「モシ赤坂まではもふ少しだの ばゞ「アイたんだ十六丁おざるが、おまへひとりなら、此宿にとまらしやりませ。此さきの松原へは、わるい狐が出おって、旅人衆がよく化され申すハ・・・・」。赤坂宿で宿を取っておくと先に出かけた北八も疲れて、松原で一休みしているところに、弥次郎兵衛がやってきて、北八を狐が化けたものと思い込み、ひと悶着を起こすという筋書きである。『東海道膝栗毛』は羽目を外したドタバタ話であるが、今のテレビでコントとして演じたら実に面白いと思う。十返舎一九の戯作は、今風にいえばコントである。当時の大ベストセラーになった所以であろう。
赤坂宿
御油宿は短く、そう見るべきものもないので、急ぎ足で通り過ぎ、御油の松並木に向かう。狐が化けるという松原のことだ。この松並木は、慶長9年(1604年)に家康の命で植えられたとあり、600本以上の松が今も残っている。昭和19年に、国の天然記念物に指定されている。松並木を抜ければ、もう赤坂宿である。
夏の夜の短いことを、御油と赤坂の間の短いことに喩えた芭蕉の句
夏の月ごゆより出て赤坂や
のごとく、御油と赤坂の間は16町、1.6Kmしかない。
5時30分、赤坂宿に着く。赤坂宿も御油宿と同じようにこぢんまりした宿場で、宿場らしさをまだ色濃く残している。今夜泊まる旅籠大橋屋に入る。大橋屋の内部は、表側が当時のままであるが、奥の部分や二階の客室は改装されていた。その点では、中山道の細久手宿の大黒屋は、客室も食事をする上段の間も昔のままだった。例により、ストレッチをして足の筋肉の手入れをしてから、桧の桶風呂に浸かり今日の疲れを落す。食事は普通の旅館のメニューであるが、栄養は満点であった。翌朝は早いので朝食はいらないと言ったら、宿賃を安くしてくれた。そうは言ったものの、明日の朝食は何もない。何とかなるだろう。
3月25日、日曜日。十日目、赤坂から池鯉鮒まで、32Km。池鯉鮒泊。
5時15分、朝食抜きで大黒屋を出発する。宿の人が早起きしていて玄関を開けてくれた。近くに店がないか聞いたら、4Kmほど行った関屋というところにコンビニがあるといいうことで安心した。そこまで歩けば朝食にありつける。赤坂宿を出てしばらく、立派な家並みが続く山間の集落を進む。今朝の冷え込みは真冬並みである。関屋のコンビニで朝食を買うが、寒くてすわって食事する気にはなれない。幸い、コイン精米機の小屋があったので、糠臭いその中に腰掛けて食事をする。
しばらく国道沿いを歩くが、新しい冠木門が建てられてあるところから本宿村に入る。そこには法蔵寺という立派な寺がある。再び国道沿いの道が続く。左手の山裾にある山中八幡宮を過ぎれば藤川宿だ。
藤川宿
8時に藤川宿に着く。藤川宿は直線に延びているためか、明るい感じがする。取り立てて当時の建物が残っているわけではないが、古い家並みが続いている。
藤川宿を出て名鉄の踏切を渡る手前で、吉良道との追分となる。吉良は吉良上野介の領地であったところだ。吉良道は塩の道とも呼ばれ、吉良でとれる塩は「饗場塩(あんばしお)」といわれる高級品であった。一方の赤穂の塩は安物で、浅野匠守との争いは塩が原因ではない。
吉良道との追分を過ぎると、約1Kmほども続く藤川の松並木になる。この松並木もよく保存されていて美しい。車道の両側の一段高くなったところに松の木が植えられている。
一旦国道から離れ、再び合流するところに、岡崎源氏蛍発祥の地の碑がある小さな公園のようなところがある。そのまま進むと、次第に岡崎の町となり、大岡越前守陣屋跡がある。テレビドラマでおなじみの大岡越前守であるが、大岡忠相は旗本の出身で、町奉行として活躍した後、寺社奉行となる。最後は1万石の大名となり、三河国西大平の地を領地とした。その時の陣屋跡である。陣屋跡を過ぎるころから、街道筋には古い商家などが現れてくる。道なりに進んでいくと、二十七曲がりの碑に出る。ここから、城下町の曲がりくねった道が始まる。
岡崎宿
10時30分、岡崎宿に着く。二十七曲がりは、曲がり角ごとに標識があるので、辿ることは可能であるが、この標識は見つけにくいので迷いやすい。私も、最後の最後で見失ってしまい、仕方なく岡崎城へと向かった。東海道は岡崎城の横を通っているからである。
岡崎城は家康誕生の地である。桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、家康は岡崎城に戻った。その後、家康は浜松城に移り、息子の松平義康が城主となるが、義康は織田信長から謀反の疑いをかけられ自刃することになる。秀吉により家康は関東に追いやられると、岡崎城は豊臣家臣の田中吉政の居城となる。現在の岡崎城や二十七曲がりなどの城下町の骨格は、田中吉政によって整備されたものである。江戸時代は、家康の生誕地として尊重されたことは言うまでもない。しかし、明治時代の廃城令で、城は全て取り壊されてしまった。現在の天守閣は、再建されたものである。江戸城も、駿府城も、岡崎城も、家康縁の城はどれも現存しない。
岡崎城を出ると、東海道は矢作川を渡るが、その手前に当地の名産八丁味噌の工場がある。諏訪にも信州味噌の工場があるが、この八丁味噌工場の規模の大きさには驚く。
矢作川を渡ったところの矢作町のとんかつ屋で昼食にする。このとき、ちょっとしたハプニングがあった。カツ丼ができるまで間、街道歩きのメモ帳に記入しようとしたら、メモ帳が見つからない。てっきり落としたものと思い込み、最後に開いたと思われる八丁味噌工場まで捜しにいった。しかし、見つからない。店に戻り、店の自転車を借りて、岡崎城まで探しに行くがそれでも見つからない。店の人や店のお客さんに同情されながら、すっかり諦めて、味わうこともなくカツ丼を食べた。代金を払おうとしたら、何と、いつもは絶対に入れることのない財布を入れているズボンのポケットにメモ帳が入っていた。この時の驚きと嬉しさは言いようがない。どうも、店に入ったときに、無意識の内にズボンのポケットに突っ込んだらしい。疲れてくると頭がぼんやりして、こんなことが起こるのだろう。これからは、気を引きしてて行こう。
すっかり時間を食い、1時にとんかつ屋を出る。今日の目的地である次の池鯉鮒宿までは、まだ14Kmほどもある。しばらく国道に沿って進むが、尾崎から旧道となる。この旧道に入ったところの尾崎町には松並木が残っている。だがこれは松がまばらで、距離も短い。その先にある永安寺には、「雲竜の松」という実に見事に枝を広げた松の木がある。幹の太さが周囲3.7m、高さが4.5m、横への広がりは、東西17m、南北24mもある。こんな松の木はめったにない。永安寺を過ぎところの、浜屋町屋敷山にも松並木が残っている。中規模な松並木で姿は整っているが松は小振りである。多分、植え替えたものだろう。今本町の松並木は、小規模ながらきれいである。
猿渡川橋を渡ると、元禄時代の道標がある。石の道標には、「従是四丁半北八橋業平作観音有」、「元禄九丙子年六月吉朔日施主」、「八橋無量寿寺」と刻まれている。かきつばたで有名な無量寿寺への案内で、江戸時代から名所であったことがわかる。八橋のかきつばたを有名にしたのは『伊勢物語』の九の次の件である。
「三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるにてなむ八橋といひける。その澤のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯食ひけり。その澤にかきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句の上にすへて、旅の心をよめ」といひければ、よめる
から衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
とよめりければ、皆人、乾飯のうへに涙おとしてほとびにけり。」
形よく原形を留めている来迎寺の一里塚を過ぎると、知立の松並木が始まる。側道を持つ松並木で、500mほど続いている。東海道でも一二を争う立派な松並木だ。馬市之跡の碑が立っている。馬市は、4月25日から5月5日まで毎年開かれ、五百頭くらいが取引されていたらしい。側道は、馬を繋ぐのに使われたという。広重の東海道五十三次にも馬市が描かれているが、松並木はない。
池鯉鮒宿
3時30分、池鯉鮒宿に着く。池鯉鮒宿には何も残っていない。鈎の手にある知立古城跡あたりに、かろうじて宿場の名残がある程度で、どこが宿場なのかわからない。今夜泊まるホテルクラウンパレス知立は、宿場内の街道に面していた。ホテルの向かいがスーパーであったが、田舎じみたスーパーで、レジの態度がまたひどかった。つまらないことだが、こういうところでその町の印象が変わってしまうものだ。
3月26日、月曜日。十一日目、池鯉鮒から四日市まで、30Km。四日市泊。
5時20分、ホテルを出る。池鯉鮒宿を出て逢妻川を渡り、ここからは国道1号線を歩く。刈谷市今岡町の歩道橋のところまで来て、ようやく旧道に入る。この旧道には古い家が並び、宿場よりもよほど宿場らしい雰囲気がある。
境橋を渡るが、ここから尾張の国となる。堺橋からの眺めは一変して巨大な送電線が乱立する風景となる。古い日本の風景から、近代産業の鉄の風景へと一変する。再び1号線に合流し、また旧道に入る。国道1号線は、有松まで旧東海道に絡むように通っている。旧道に入ったところに阿野の一里塚が残っている。国の史跡に指定されているが、今まで幾つか見た一里塚に比べて特に立派という感じはしない。
名鉄の中京競馬場前駅の手前でガードを潜り、駅前に出ると、すぐ左手に伝説桶狭間古戦場跡がある。ここには今川義元の墓があり、今川義元戦死の場所と標した碑が建てられている。これより西方に、もう一つ桶狭間古戦場公園というのがあり、こちらが桶狭間の戦いの中心地で、義元の最期の地とされている。義元の最期の地に関しては、諸説あるようである。桶狭間の戦いはこの辺り一帯が戦場となったことは間違いなく、何れも古戦場としては正しいというのが定説のようだ。
桶狭間の古戦場から旧道を進み、一号線を横切ると、有松間の宿となる。都会の風景から突然のように昔の町並みが現れるので、タイムスリップしたような感覚に陥る。有松は絞り染めの一大産地で、ここの有松絞りで財産を築き上げた商人の家が、昔の姿のままで軒を連ねている。この光景には目を見張るものがある。妻籠宿や奈良井宿とはまた違った、大商人の町並みである。この町並みは800mほども続く。町並みが終わると、巨大な防音壁で囲まれた名古屋第二環状自動車道の下を通る。古い優しい町並みが、現代の暴力的な建造物で押し潰されるようである。
鳴海宿
8時30分、鳴海宿に着く。ところどころ昔の家がある程度で、どこが宿場だったのかわからない。誓願寺で休む。この寺には最古の芭蕉供養塔がある。元禄7年(1694年)甲戊十月十二日と、芭蕉の没した日が刻まれている。鳴海の俳人が芭蕉の死を悼み、死の翌月の忌日に集まり、供養塔を建てることを決めたという。境内には芭蕉堂があり、中には芭蕉像が安置されている。誓願寺は小さいが、手入れが行き届き、気持ちが浄化されるような境内である。
誓願寺から2Kmくらい進むと、笠寺の一里塚がある。片方が残るだけだが、塚とえのきの大きさでは、東海道随一かもしれない。その先には笠寺観音があり、縁日なのか人で賑わっていた。小さな笠寺商店街を抜け、本笠寺駅で線路を渡る。どことなく街の感じが、京都の伏見稲荷に似ている。笠寺からは道形に名古屋の街中を進む。高速1号楠線のところで国道1号線と合流する。国道の脇を、東海道線、熱田橋、名鉄線と順にすぎれば、伝馬町になる。この辺りが宮宿のあったところだ。伝馬町商店街を抜けると、熱田神宮に通じる広い大津通りに突き当たるので、この大津通りを左に進めば七里の渡し跡に出る。広い道路の歩道橋を渡ることになるが、街道歩きの疲れた足には歩道橋の階段がきつい。
七里の渡し跡
10時45分、七里の渡し跡に着く。七里の渡し跡は、宮の渡し公園の一角にある。広い公園の中にベンチもトイレもあり、休むには恰好の場所だ。
しばらく休憩してから、今来た道を戻り、熱田神宮へ行く。熱田神宮の本殿は、広大な森の中に清楚な佇まいをしている。威圧的なところがないのがよい。お参りをすませ、熱田駅から名鉄に乗り名古屋駅に行く。電車の中で、腹拵えのためコンビニで買ったどら焼きを食べる。名古屋駅で関西本線に乗り換え、快速亀山行きに乗って桑名駅で降りる。
桑名の七里の渡し場跡
桑名駅から1Kmほど南に行けば、桑名の七里の渡し場跡に出る。駅からの道には、観光案内の表示が随所にあるので、とてもわかりやすい。12時50分、七里の渡し場跡に着く。渡し場は揖斐川の河口にあり、現在は石組みだけが残っている。渡し場から石垣の堀が伸びていて、船溜りとして使われている。周辺は公園として整備され、桑名城の蟠龍櫓が復元されている。
桑名宿
桑名宿は渡し場から西に伸びていて、今は料亭などが並んでいる。宿場の南が桑名城跡で、街道に沿って500mほど城壁の石垣が残っている。桑名城下は道が鈎型に曲がり複雑である。案内の道標が角ごとにあるのは親切だが、分かりやすい表示とはいえない。まごつくことはあるが、注意して歩けば辿ることができる。街道は一旦北に向かった後、西に向かって進むようになる。最後の角には、昔の火の見櫓が復元されている。小さいものなので、うっかりすると見落としてしまいそうだ。
ここからは1号線に沿いながら旧東海道は進む。特に目に付くものはないが、車が少なく、田舎の家並みが続くのんびりした道が続く。ところどころ田園となり、工場があったりする。朝日駅のところには東芝の工場がある。道半ばの南富田町には、立派な家並みがあってびっくりする。どういう訳か、街道筋のあるところだけ立派な家が並ぶという光景を目にする。
のんびりした街道歩きになると、取留めないことを考え始める。旅は辛いこともあるが、解放感がたまらない。日常生活から完全に脱却できる。これが旅の第一のよさであろう。『東海道膝栗毛』で弥次・北の二人がハチャメチャなドタバタ劇を演ずるが、江戸庶民が旅に出たときに感じたであろう、五人組の窮屈な日常から放たれ自由になったときの解放感を思えば、実感として理解できる。
四日市宿
三滝川に架かる三滝橋を渡ると四日市宿が始まる。4時30分、四日市宿に着く。笹井屋という老舗で、名物の「日永のなが餅」を買おうと店内に入ったが、七個入りのパックでしか売らないということで、日持ちのしない菓子なので買うのを諦めた。国道1号線に面して諏訪神社がある。この辺りまでが四日市宿であった。諏訪神社からは、街道はアーケードのある四日市商店街となる。この商店街のサンシというスーパーでいつものように食料を買い、近鉄四日市駅近くの今夜のホテルへ向かう。近鉄四日市駅周辺は、東京のような垢抜けたショッピング街になっている。四日市宿のあった辺りの雑駁な町並みとの落差が大きい。早く部屋に入って休みたいので、街見物をすることもなくホテルに入る。
3月27日、火曜日。十二日目、四日市から関まで、27Km。関泊。
5時20分ホテル出て旧街道に戻る。四日市宿はほとんど何ものこっていないが、繁華街を過ぎるた街道筋には連子格子の家が数多くあり、「東海道」の札をかけた家などもあって街道気分を醸し出している。
日永は立派な木造屋や古い家が残っている。日永の一里塚跡を過ぎて日永の追分を通る。日永の追分は東海道と伊勢街道の分岐点である。多くの旅人がここから分かれて伊勢参りに出かけたことであろう。
やがて杖衝坂に至る。貞享4年(1687年)芭蕉は伊賀に帰る途中この坂で落馬する。句碑が建てられている。
歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな
古事記によれば、倭健命が伊吹山で神の使いの白猪に『・・・還らん時に殺さん」と告げられる。この坂に至った時「いと疲れませるに因りて、御杖を衝きてややに歩きたまひき。故、この地を号けて杖衝坂と謂ふ」とある。杖衝坂の言われである。急坂が今も残る。
采女を過ぎて鈴鹿市国分となる。伊賀国分寺跡がある。ここから旧道の集落に入る。車の往来はなくなり、今までの喧騒が嘘のようだ。四日市からここまでの道標表示は実に親切であった。分かりやすい道標は、街道歩きをしているとその
ありがたみが身に沁みる。
石薬師宿
8時30分、石薬師宿に着く。宿の入り口の休憩所で休む。石薬師宿には小澤本陣跡が残る。その先の連子格子の家は歌人で国文学者の佐佐木信綱の生家で、隣には資料館がある。佐佐木信綱は明治時代の人で、「夏は来ぬ」の歌詞で馴染み深い。
卯の花の匂う垣根に時鳥早も来鳴きて忍音もらす夏は来ぬ
また『信綱かるた』には
四日市の時雨蛤、日永の長餅の、家土産まつと父を待ちにき
とある。
浦川を渡ると石薬師の一里塚跡が宿の外れにある。
庄野宿
9時35分 庄野宿に着く。直線の宿で、人一人いない静かさである。油屋であったという旧小林家の住宅が資料館として残されている。
石薬師からこの辺りは、国道を離れると長閑な集落や畑の道となる。どこか中山道を思い出させる。今までの東海道のにぎやかさから解放され、久しぶりにのんびりした気分になれる。
亀山宿
12時、亀山宿着。 茶屋町、鍋町、東新町などを通り、江戸門跡の鍵の手を曲がって東町に至る。各家に屋号の木札が掛けられている。東町商店街にある脇本陣跡、本陣跡を過ぎ高札場跡の鍵の手を曲がり横町に入る。
「きらめき亀山21街並み保存会」の表札が目に入る。万町、西町、西新町、万町の旧家、荒物屋跡、西町問屋場跡、亀山城跡、西町ますや(旧舘屋住宅)など、今に宿場の名残を残している。亀山は宿場保存の一つのモデルである。西新町の京口門まで西の外堀があった。
京口坂からの家並みも一種の風格があり印象的であった。道路は色分けされ、屋号札が掛けられている。途中の野村集落にある森家住宅(国の登録有形文化財)でぜんざい550円を食す。京口坂橋を渡りしばらく先に野村の一里塚が残る。片側だけであるが、甲州街道の神戸の一里塚に匹敵するムクの大木と塚である。
亀山宿から関宿までの途中は景色も良く楽しい。ただし、東名阪自動車道の巨大な建造物が視界に入るようになると、異様な感じに襲われる。この場違いなコンクリートの城壁のような建築物は、景観は台無しにしてしまった。
関宿
2時10分、関宿に着く。中山道の奈良井宿、妻籠宿に匹敵するほどに、当時の宿場町の原風景が保存されている。さすがに東海道だけあって規模は大きく、東追分と西追分の間約1.8Kmにわたり、約200軒の町屋が残る。東海道で唯一の当時の姿がほぼ残されている宿場である。貴重なだけでなく、一度は訪れたい所だ。
東の追分は伊勢別街道の分岐点で、一の鳥居が立ち、常夜灯や道標が残っている。鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の度に、宇治橋南詰の鳥居が移される。
参勤交代などで宿役人が大名を迎える御馳走場、開雲楼と松鶴楼の芸妓置屋、旅籠の鶴屋、百六里庭と眺関亭、伊藤本陣跡、両替商の橋爪家、重要文化財の地蔵院、旅籠の会津屋など、見所が数多くある。さすがに東海道である。
今夜の宿である関ロッジは関宿から坂を上った高台にあり、見晴らしがよい。教会関係者で満室であった。
3月28日、水曜日。十三日目、関から石部まで、40.4Km。甲西泊。
5時、関ロッジを出る。今日は40Kmの長丁場。心して出発する。まだ暗い山道を、席宿の西追分まで下る。ここで左に道をとれば、伊賀、大和に通じる。国道1号線の歩道を進む。国道端の駐車場の中に、檻に入れられたようにして「転び石」が転がっている。「転び石」は各地に残る弘法大師伝説の一つである。国道から離れ、市瀬の集落を通り、再び国道を進むと、筆捨山が見えてくる。江戸時代から名勝とされ、広重も「阪之下・筆捨嶺」と題して描いている。しかし、私の目にはそれ程の山に映らない。広重の絵の茶屋のところには家が数軒建っていて、名勝筆捨山の景観を害しているのは残念だ。
坂下宿
しばらくして旧道に入り沓掛集落を抜けると、多角形のドーム型をした鈴鹿馬子唄会館が目に入ってくる。その隣には、鈴鹿峠自然の家となっているかつての木造小学校がある。この小学校の佇まいがなんとも懐かしい。6時30分、坂下宿に着く。往時は鈴鹿越えで賑わったであろう坂下宿も、いまは山間の集落に過ぎない。
坂下宿を出て、岩屋観音のところから杉林の中を進むと、片山神社に出る。石畳があり、ここから鈴鹿峠への登りが始まる。八丁二十七曲といわれる急な山道も、一登りすれば378mの鈴鹿峠に出る。時刻は7時40分、坂下宿から1時間の登りである。峠の茶屋があったところは何の変哲も無いただの林の中である。その先は開けて、周囲には茶畑が広がり、休憩所が設けられている。音に聞く鈴鹿峠への期待が大きかっただけに、多少の失望感に襲われる。
西行は『山家集』で、「世をのがれて伊勢の方へまかりけるに鈴鹿山にて
鈴鹿山憂世をよそにふりすてていかになり行くわが身なるらん
芭蕉は『猿蓑』のなかの連句、梅若菜の巻で
ほつしんの初はじめにこゆる鈴鹿山
何れも、鈴鹿山を新しい人生へ向かうために越える峠として、現実に越える鈴鹿峠と、抽象的な意味での峠を掛けている。さて、私の場合は
鶯をともに越えるや鈴鹿山
たまたま鶯が鳴いていた。
峠からは国道1号線をひたすら下る。ゆるやかな長い下りが終わると、東海道は「街道橋」を渡って田村神社の境内に入っていく。田村神社は坂上田村麻呂を祀る。街道は神社の中で直角に曲がり、神社の入口を出て道路を越え、道の駅・あいの土山の脇を進む。道の駅の向かいに、街道名物の「かにが坂飴」を売っている高岡商店がある。せっかくだから、千年以上の歴史を持つという「かにが坂飴」を買う。「八つ割飴」とも言われ、鈴鹿山麓にいた大蟹が退治されたとき、蟹の血が塊り八個の飴となり、「この八ツ割り飴は諸厄除けに効あり」ということで、「厄除けのかにが坂飴」として広まったと、袋の裏に書かれている。自然の甘味の素朴な味がする。一袋650円である。
土山宿
9時45分、土山宿に着く。連子のある建物が多く残り、宿場らしさを感じさせるが、新しい家も多くなっている。街道の舗装を色づけしているので、宿場ムードが自然と高まる。江戸時代の建物を改造した「うかい屋」で、少し早いが昼食にする。ここの名物は鴨南蛮で、かつての土山名物「夕霧そば」の復活を試みたものであるが、「夕霧そば」がどんなものであったかは分からないとのことだ。鴨南蛮は630円で、合鴨の肉が美味しい。
土山には「あいの」という枕詞がよく使われるが、これは鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」からきている。なぜ「あいの」なのかについては諸説があるようで、定説はないそうだ。坂下宿に相対するの「相」は、歌の文句からも有力だが、藍染めの「藍」だという説もある。「愛」もあるのだろうか。
土山宿を出ても古い家並みが続く。屋号札から、土屋町、頓宮、市場村とわかる。国道を横切り、野洲川上流に架かる歌声橋を渡る。橋からの川の眺めがとても美しい。街道筋にある地安寺は、整った形の山門を構えた寺で、全体の姿が大変美しい。地安寺の先には、小規模だが形のよい松並木が残っている。松並木の横は茶畑になっている。
旧道沿いの古い家には屋号札が掛けてある。「土山の町並みを愛する会」によるもので、屋号札は土山宿からずっと続いていて、ここでも、亀山宿と同じ屋号札プロジェクトがあるようだ。この屋号により、大野村には旅籠が多かったことが分かる。宿場でもないのになぜ旅籠なのか、間の宿だったのか、ちょっと不思議である。大野村で国道を渡るが、渡った先には競ったように立派な家が並んでいる一画がある。このような立派な家並みが続く一画に所々で出会う。隣近所の見栄だけでは立派な家を建てられないから、そこだけ裕福になる経済的理由があるのだろう。
街道を歩いていて常に感じるのは、古い木造家屋の家並みは調和が取れていて美しいが、新しい家が建ちはじめると、途端に町並みの景観が崩れてくる。原因は、一にアルミサッシ、二に壁に使う新建材だと思う。アルミサッシの連子を入れている家があったが、これは論外である。このような、便宜主義の横行が、日本の美を壊している。木材を使わなくなったと同時に、日本人は家の美観を失い始めた。こういう素材を安易に開発した建材メーカの責任は重大で、経済性優先と便宜主義に乗っかった建築家と注文主の責任も大きい。
水口宿
1時10分、水口宿に着く。水口宿は、古めかしい建物が多く残っていて、懐かしさを感じさせる風景が印象的な街だ。京風の屋根のカーブのある家も見かけられるようになる。町毎に山車の蔵がある。ポスターには、4月20日から水口曳山まつりが始まるとある。
鉤型を曲がり、宿場を出て真っ直ぐ進む道沿いには、松並木の残りを見かける。北脇畷の終わる所にもわずかだが松並木が残っている。和泉の一里塚を過ぎると、横田の渡し跡に突き当たる。横田の渡し跡は公園になり、大きな常夜灯が往時を偲ばせる。横田川(今の野洲川)の渡しは、3月から9月までは四艘の船渡しで、10月から2月までは土橋であったと、案内板に書かれている。
横田の渡し跡からは、国道脇を進み、国道1号線の横田橋を渡る。橋の上から野洲川をながめると、三上山(近江富士)が見える。鈴鹿峠を越え、近江に来たことを実感する。この辺りは道路が分岐するため、歩道が入り組んでいて分かりにくい。JR草津線の三雲駅の先で線路を渡ると、石部までの長い旧道が続く。
時には人家が途切れ、菜の花畑の向こうに近江富士が見えるのどかな風景も展開する。天井川になっている大沙川と由良谷川のトンネルを通り、4時25分、白壁の土蔵造りの北島酒造のところで、本日の行程は終了する。ここから、甲西駅近くにある甲西アートホテルに向かう。ホテルの向かいにある大手のスーパで食料を買う。
3月29日、木曜日。十四日目、石部から三条大橋まで、37.7Km。京都三条泊。
今日は最終日。5時にホテルを出る。昨日は石部宿よりだいぶ手前で終わっているので、本日の行程は40Kmを確実に越える。北島酒造のところに戻り、東海道を歩き始める。まだ薄暗いので、ウツクシマツ群生地の美松山がどれだかは判然としない。
石部宿
5時45分、石部宿に着く。ところどころに残る古い家並みと高札場跡や鉤型の道が、宿場の面影を充分に残してくれる。宿場の終りの西口跡は公園になっていて、ベンチも置かれている。ここで休憩する。今日は長丁場なので、こまめに休むことにする。ここは西縄手といって、かつては長い松並木があったという。現在は、20本ほどの松が植えられているだけだ。
西口を出ると、街道は金山の跡を大きく曲がるようになっているが、道筋が判然としない上に回り道になるので、そのまま道路を直進する。名神高速を抜けると、ときには田園風景が広がり、右手には三上山(近江富士)が大きく見えるようになる。
伊勢落の集落に入ると、古い民家が軒を連ねるようになる。街道が右にカーブするところで、行く手に大きな白壁が目立つ重厚な建物が見える。旧和中散本舗である。豪商の巨大で立派な家屋敷が、当時の姿のままで残っている。徳川家康が腹痛を起こしたときに、この薬でたちどころに治ったので、家康により和中散と名付けられたと言われている。シーボルトも立ち寄ったという。ここを通る旅人は皆この薬を買い求めたのだろう。往時の繁栄振りが目に見えるようだ。
三上山(近江富士)の美しい姿を眺めながら草津へ向かう。途中の小野村にある生垣の続く家並みが美しい。草津川沿いに進み、国道1号線を渡り、天井川の草津川を越え、草津川の横を進めば草津宿だ。
草津宿
8時50分、草津宿に着く。ここは昨年、中山道を歩いた時に通ったので、馴染みの場所である。東海道は追分で中山道に突き当たることになる。この草津追分と、追分のすぐ近くに残る草津宿本陣が、今日の草津宿の全てである。この先にある、草津宿街道交流会館で休もうとおもったら、まだ閉まっていてトイレも使えない。昨年の中山道を歩いた時もそうであった。トイレくらい開けておいてもらいたい。仕方なく、その横の地元FM局のスタジオ前のベンチで休む。
草津宿からは、住宅の続く旧道を歩く。国道1号線を渡り、野路の一里塚跡を目印に旧道に入る。野路の玉川跡を通り(ベンチがあるので休憩)、住宅地を進めば行く手に比叡山が見えてくる。うんざりするほど歩けば、11時15分、漸く瀬田の唐橋に着く。
唐橋はその特徴である両脇の庇の塗り替え工事中で、姿を見ることができない。歩道も、琵琶湖と反対側の一方しか使えない。昨年見ているからよしとする。橋を渡り、昼食のできる店を捜しながら石山の商店街を進むが、なかなか見つからない。ようやくあった最初のラーメン屋で八宝菜定食を食べる。店を出て歩き始めると、次々と食堂が現れる。皮肉なものである。
ルネサスの半導体工場をぐるりとまわると、膳所に着く。この辺りから漸く道路案内が見られるようになる。草津宿を過ぎてここまでの間、道路標識をほとんど見かけなかった。この点では、地方の方が街道を大切にしているようだ。
膳所神社のところで少し道草して膳所城跡に立ち寄る。今は琵琶湖の岸辺に公園となっている。ここから先も、道路標識はあまり親切ではない。目を凝らすと、電柱に表示があるので、これを頼りに何とか義仲寺までの曲がりくねった道を辿る。去年は迷ったが、今年は大丈夫であった。
今回も義仲寺に寄って、芭蕉の墓参りをする。義仲寺はトイレが新設されたりして、管理が行き届いている。芭蕉の墓前にはいつも新鮮な菊の花が飾られているようである。やはり観光地なのだろう、数人の観光客が来ていた。また、途中でも、四人ほど街道歩きと思われる人に出会った。
義仲寺を出て大津の街中に入っていく。宿場らしい古い建物や商店も見かけられる。創業明治元年という簾の専門店「森野すだれ老舗」があり、珍しいので店先を覗いていたら、店の人から中を見ていくように声をかけられた。結局、全国観光土産品連盟の推奨品に輝いたという竹のスプーンを買ってしまった。
大津宿
1時45分、大津宿に着く。大津宿といっても、今ではどこからどこまでなのかは判然としない。ここからは国道を歩き、逢坂山を越える。狭い山の狭間を、車の流れが絶えることがない。一年分の排気ガスをたっぷりと吸わされた感じだ。逢坂の関の碑、月心寺を通り、山科の追分に出る。この追分の所の道はいつも分かりにくい。道路標識がないので、前回も、今回も道を間違えた。
横断歩道橋を渡って国道1号線を越え、山科駅前を通る旧道、いわゆる三条街道に入る。山科の商店街を抜け、東海道線を潜って天智天皇陵に出る。コンビニでお茶を買って、天皇陵の入口のところで休憩する。大津からここまで、休める場所はほとんどない。途中でコーヒーでも飲もうと思うが、適当な店もない。だが、もうすぐ京都だと思うと元気が出る。東海道も余すところ僅か、三条街道を御陵から日ノ岡峠を越え、蹴上、粟田口を経れば三条大橋である。
御陵の前から旧道に入るが、道が狭く、標識もないので分かりづらい。ここから東山の日ノ岡峠を越える。旧道は、関西らしいみすぼらしい建売住宅の密集する住宅地を上る。途中に、歴史ある亀の水不動尊があるが、今は荒れ果て、私有地につき立ち入り禁止の立札が立ち、車が置かれている。江戸中期、木食正禅養阿上人が日ノ岡の改修工事を行い、梅香庵を開いて飲み水などで旅人を助けた。その水が亀水であるが、今は個人の所有物になっているようだ。
蹴上に着き、寺院の屋根が見えてくると、京都にやって来たという実感がわいてくる。歩きやすい広い歩道を粟田口へ向かう。次第に京都の町並みとなり、ビルの合間に残る京町屋をみると、ますます京都だなという思いが増す。粟田口から平安神宮の朱の大鳥居と、青蓮院の楠を眺め、白川橋を渡り東大路通を越え、三条街道を進めば三条大橋である。
三条大橋
4時50分、三条大橋に到着。十四日間の旅は終わる。三条大橋から鴨川を眺め、しばらくのあいだ感慨にふける。橋の袂にいる人に、記念の写真を撮ってもらう。後で見ると、疲れきった表情の姿が映っていた。三条でささやかな食事をする。この時、実家の母から電話があり、無事着いたことを報告する。自宅と息子夫婦のところにも電話する。和菓子屋でお菓子を買い、ホテルに入る。
14日で東海道を歩く装備、歩き方、食事、計画と結果
13泊14日で東海道を通して歩くための、具体的な装備、歩き方、食事、実際の計画と実績をまとめました。
装備
荷物を出来るだけ軽くすることが秘訣です。重いと疲れるばかりでなく、肩が痛くなったりして辛い思いをすることになります。
(1) 靴。私はランニング・シューズを愛用しています。上級者向きの、靴底が硬めのしっかりした作りのもの。軽く、蒸れにくく、雨では濡れますが乾きやすいです。一足で、甲州街道、中山道、東海道、日光街道、奥州街道の五街道を歩きとおしましたが、まだまだ使えそうです。
(2) 下着類。着替え一式だけ。靴下だけは着替え用に二足。ホテルでこまめに洗濯します。バスタオルで水分を吸収したり、ドライヤーで乾かせば、大抵翌朝には乾いています。肌シャツは半袖のTシャツにしましたが、3月下旬はまだ寒い日があるので、ユニクロのヒートテックの長袖の方がよいかもしれません。
(3) 上着類。夏用の長袖シャツ。長袖シャツは着替え用を一着。寒いときのためにフリースの長袖一着。上着として、ドット・ショット・ジャケット。これはウインド・ヤッケにもなるし、雨具にもなるので便利です。登山専門店で売っています。
(4) 雨具。折りたたみ傘。上着は、ドット・ショット・ジャケット。雨具のズボン。
(5) 食料。途中で調達出来るので、基本的には持ちませんが、空腹になっても店がない場合もあるので、パンのようなものを1個は持った方が安心です。私は、葡萄パンとチーズがお気に入りです。飴類、チョコレートなども疲れたときなどには重宝します。ホテルで飲むためのティーパック、インスタント・コーヒーなど。野菜類が不足しがちなので、青汁を持ちました。
(6) 薬など。バンドエイド、目薬、日焼け止めなど、必要に応じて。
(7) ザック。中山道を歩いた時は、登山用の40Lのザックで行きましたが、少し大きすぎ重かったので、今回は日帰り用の25Lくらいのザックにしました。少し小さく、上着を入れたりすると一杯になりますが、コンパクトで軽くて快適でした。
歩き方
(1) 一日平均で33Km、実際には一日に25Kmから40Km歩くことになります。4Km/1時間として、正味の歩行時間は7時間から10時間です。食事や休憩、写真、見物などで3時間は必要ですから、行動時間は10時間から13時間になります。ホテルには遅くとも5時には着きたいので、出発時間は、日の出前、3月なら5時頃にはしたいものです。目的地には出来るだけ早い内に着き、休養をたっぷりとることが、疲労を回復させる秘訣です。ホテルに着いたら、必ずストレッチを入念にします。これが最も大切で、疲労を回復させて、次の日に疲れを持ち越しません。
(2) 休憩。街道筋には、座って休む所やトイレは、無いものと思って下さい。したがって、休むところがあれば、疲れていなくてもこまめに休むことです。コンビニがあれば、トイレをしておきます。コンビニには、すわるところがないのが難点ですが、最近は簡単な休憩コーナのある店が出来てきました。国道筋には、マクドナルドやガストなどの大型チェーン店が随所にあるので、食事と休憩にはもってこいです。
食事
(1) 朝食。5時出発だと、ホテルの朝食は使えないので、前日に、スーパーやコンビニで調達します。私は、サンドイッチを2パック、みかん1個、紅茶、青汁でした。
(2) 昼食。朝が早いので10時ころにはお腹が空いてきます。国道筋には食堂がありますが、街道筋には全くといっていいほどありませんから、早めに見つけて食事にします。街道の名物はできるだけ食べるようにします。土地の美味しいものを食べるのは、旅の楽しみの一つです。
食料のところにも書きましたが、旧街道筋には店や食べ物屋は全くありませんから、非常食は必携です。
(3) 夕食。ホテルについてから食事に出かけるのは面倒なので、大抵、ホテルにチェックインする前に、スーパーやコンビニで夕食と朝食を調達します。私の基本的なメニューは、サラダ2パック、おかずとご飯、あるいは弁当か寿司、量が足りない時はパンを1個、デザートのお菓子、果物です。夕食を考えれば、食事つきの旅館がベストといえますが、ここは予算しだいです。幸い、私の泊まったホテルの周辺には、スーパーがありました。
計画と結果
宿場 宿間距離 累計 一日歩行距離 日 着時刻/出発時刻 宿
(Km) (Km) (Km)
日本橋 0 0 9:35
1品川 7.8 7.8 11:25
2川崎 9.8 17.6 14:10
3神奈川 9.7 27.3 16:50
4保土ヶ谷 4.9 32.2 32.2 1泊目 3/16(金) 17:50/6:45 ホテル プラム/コスモY
5戸塚 8.8 41 9:20 045-314-3111
6藤沢 7.8 48.8 12:00
7平塚 13.7 62.5 17:00/5:20 東横イン湘南平塚駅北口
8大磯 2.9 65.4 33.2 2泊目 3/17(土) 6:30 0463-27-1044
9小田原 15.6 81 11:00
10箱根 16.5 97.5 32.1 3泊目 3/18(日) 17:00/5:30 芦ノ湖グリーンハウス
11三島 14.7 112.2 10:30 0460-83-6078
12沼津 5.8 118 13:10
13原 5.9 123.9 26.4 4泊目 3/19(月) 15:20/5:10 三交イン沼津駅前
14吉原 11.7 135.6 8:10 055-954-3577
15蒲原 11.1 146.7 12:05
16由比 3.9 150.6 13:35
17興津 9.1 159.7 35.8 5泊目 3/20(火) 16:30/5:00 クア・アンド・ホテル
16江尻 4.1 163.8 6:30 054-369-6111
19府中 10.5 174.3 10:00
20丸子 5.6 179.9 12:30
21岡部 7.8 187.7 15:10
22藤枝 6.7 194.4 34.7 6泊目 3/21(水) 17:05/5:00 ホテルルートイン藤枝駅北
23島田 8.6 203 7:15 054-645-8000
24金谷 3.9 206.9 9:00
25日坂 6.5 213.4 11:15
26掛川 7 220.4 13:20
27袋井 9.5 229.9 35.5 7泊目 3/22(木) 16:30/5:00 袋井プリンセスホテル
28見附 5.8 235.7 7:10 0538-43-1111
29浜松 16.4 252.1 11:45
30舞阪 10.8 262.9 33 8泊目 3/23(金)15:00/6:15 コンフォートホテル浜松
31新居 5.9 268.8 7:40 053-450-6111
32白須賀 6.5 275.3 9:20
33二川 5.7 281 10:55
34吉田 6.1 287.1 13:40
35御油 10.2 297.3 17:05
36赤坂 1.7 299 36.1 9泊目 3/24(土) 17:30/5:15 大橋屋
37藤川 8.8 307.8 8:00 0533-87-2450
38岡崎 6.6 314.4 10:30
39池鯉鮒 14.9 329.3 32 10泊目 3/25(日) 15:30/5:30 ホテルクラウンパレス知立
40鳴海 11 340.3 8:30 0566-85-3939
41宮 6.5 346.8 10:45
42桑名 0 346.8 12:50
43四日市 12.5 359.3 30 11泊目 3/26(月) 16:30/5:20 ホテルエコノ四日市
44石薬師 10.7 370 8:30 059-350-0311
45庄野 2.7 372.7 9:35
46亀山 7.8 380.5 12:00
47関 5.8 386.3 27 12泊目 3/27火) 14:10/5:00 国民宿舎関ロッジ
48坂下 6.5 392.8 6:30 0595-96-0029
49土山 9.7 402.5 9:45
50水口 10.5 413 13:10
51石部 13.7 426.7 40.4 13泊目 3/28(水) 16:25/5:45 甲西アートホテル
52草津 11.7 438.4 8:50 0748-72-6060
53大津 14.3 452.7 13:45
三条大橋 11.7 464.4 37.7 14泊目 3/29(木) 16:50 KOTO HOTEL KYOTO
075-751-8788
東海道のお勧め7コース
東海道を14日間で通して歩きましたが、このとき面白いと思ったコースや、ハイキングとしてお勧めできそうなコースを七つ選んでみました。
(1)日本橋から神奈川(横浜)
都会の真ん中で、東海道の歴史を感じさせるものは残っていないが、江戸の中心であるから、歴史的な地名や史実は豊富です。過去と現在を対比させながら、都会の風景を楽しみながら歩くのもよいものです。東京や神奈川に住んでいても、普段は電車で通り過ぎてしまうので、案外知らないことが多いものです。意外と、新しい発見があって面白いと思いますから、是非一度歩いてみてください。
(2)小田原から三島
言わずと知れた箱根八里です。一日で歩くのは大変だから、箱根の温泉で一泊するのもいいし、電車で箱根湯本まで行き、箱根の関所までハイキングしてもいいし、いろいろなバリエーションがあります。
(3) 由比から興津
薩埵峠からの富士山が最大の見どころです。3月から4月なら、由比で特産の「さくらえび」や「しらす」を買ったり、食べたりするのも楽しいと思います。道端ではみかん農家の軒先で、一袋百円でみかん(あおしま、いよかん、ネーブル、あまなつ、はっさく、清見など)を売っていますから、大きなザックを用意していくと後悔しません。興津では清見寺まで足を延ばすのもいいでしょう。
(4) 丸子から岡部
丸子宿の「丁子屋」で名物とろろ汁を食べて、宇津ノ谷峠のハイキングを楽しむコースです。岡部からはバスで東海道本線に出ることになります。岡部から藤枝までは面白くないのでお勧めできません。
(5) 金谷から日坂(から掛川)
金谷から金谷石畳を上り、茶畑の中を菊川石畳、菊川の里、小夜の中山と歩く手ごろなハイキングコースです。短歌に興味のある人ならば、歌枕の小夜の中山は是非行ってみたいところです。日坂からは、掛川まで歩くか、バスになるが、何れにせよ掛川も見て帰りたいところです。
(6)関から土山、または亀山から関
関宿は、東海道で唯一原形が保存されている宿場です。東海道で一番の見どころと言ってもよいでしょう。全長1.8kmに亘り、200軒ほどの家が当時のまま保存されています。中山道の奈良井や妻籠に匹敵します。関からは、鈴鹿峠を越えて土山までのハイキングを楽しめますが、鈴鹿峠から土山までは、国道の歩道を歩くことになります。
亀山の古い町並みを見てから関まで歩くコースも、途中ちょっと幻滅するところもありますが、お勧めできます。
(7)大津から三条大橋
神社仏閣、史跡、名所の多い所なので、いろいろなプランが考えられます。たとえば、石山寺、瀬田の唐橋、膳所城跡、義仲寺、大津、その後は国道歩きになりますが逢坂の関跡を越えて山科に抜けるか、あるいは三井寺や坂本へ行くのも選択肢の一つでしょう。
山科からは、桜のきれいな毘沙門堂などの山科の寺を見物したりして、三条街道を天智天皇陵から日ノ岡峠を越えて蹴上まで行きます。蹴上からは、南禅寺と周辺のお寺、哲学の道から銀閣寺、粟田口から青蓮院、知恩院、祇園方面へと行くことも、あるいは平安神宮へ行くことも、それこそお気に召すままです。