中山道てくてくある記

下諏訪から京都

3月13日、日曜日。一日目、下諏訪宿から塩尻宿まで、12Km。自宅に戻る。  

 3月11日、東北から関東にかけての太平洋沖で、「東日本大震災」と命名されたマグニチュード9.0の巨大地震が起きる。各地で余震が続く。福島第1原子力発電所では、津波により冷却機能が失われた。街道歩きどころではないが、3月13日に車検を予定していたので、茅野にあるディーラーに車を届けるついでに、下諏訪宿から塩尻宿までを歩いた。3月24日からは塩尻宿から京都まで歩く予定で、宿泊地のホテルや旅館を予約してある。地震と津波の被災者のことを思うと気が重い。原子力発電所の事故も先行きが心配だ。のんびり街道歩きなどしていてよいのかと思いながら、茅野から甲州街道を歩いて下諏訪まで行った。

 

下諏訪宿 

 諏訪大社下社の秋宮の前を通り、老舗の和菓子屋「新鶴」で名物の大福を買い、下諏訪宿の中山道と甲州街道の合流点に向かう。そこから左に曲がり、中山道の旧道へ入る。この辺りのわずかな区間は、宿場の俤を残している。当時の建物も保存されており、その一つは下諏訪町の歴史民族資料館になっている。
今日の行程は塩尻までと短いので、歴史民族資料館を見学することにした。縦繁格子の出格子造りの典型的な宿場の商家の建物で、明治の初めに建てられた。狭い間口の右側にある入り口を入ると、「通り庭」という土間が裏庭に通じている。入り口左手には板の間の「見世」がある。二階の天井は斜めに張って、屋根が低くなっている。裏には閑静な庭が設けられ、土蔵が建っている。

 
 資料館には江戸末期から明治初めにかけての下諏訪宿の写真が展示されていて、当時の姿を偲ぶ事ができる。1861年当時の下諏訪宿の市街図によれば、江戸方面から湯町、横町、直角に曲がって立町、加宿友之町と続き、立町と加宿友之町の間は鍵の手になり、ここに高札場があった。立町の突き当たりには公衆の温泉があり、その左に脇本陣、その奥に本陣があった。温泉は武士の入る湯と、庶民の入る湯とが分けられており、庶民の湯には囲いもなく外から丸見えだった。本陣を中心に横町、立町に旅籠や茶屋や商家が並び、その続きには職人や百姓屋が軒を連ねていた。広重の描いた旅籠で食事をしている風景は、当時の写真から想像するしかない。

 
 当時の旅姿の絵図も興味深い。庶民の間にも物見遊山や神社参拝の旅行が盛んになり、文政7年(1824年)八隅芦庵による『旅行用心集』など、旅の案内書も出版されるようになっていた。必要最小限の携行品でも30品目以上になり、手行李に入れたり、風呂敷に包んで振分荷物にして担いだ。

 
 和宮の下向では、本陣岩波家に宿泊しており、文久元年(1861年)11月5日、午後5時着、翌朝7時に出発している。前泊地は本山宿、次の宿泊地は和田宿である。お供、江戸からの出迎え、通し人足、助郷、警護など総勢8万人に及び、荷物の引き継ぎには4日を要したという。滅亡寸前の江戸幕府が最後の威信をかけた大事業であった。中山道を歩くと、どの宿でも和宮下向のことを展示している。江戸末期のことで比較的最近の出来事であることと、この下向のために宿場や街道では大掛かりな改修が行なわれたことなどによる。街道筋にとって
はそれだけ大騒ぎであった。
 

 11時35分、資料館を出発。旧道はすぐに国道と合流するが、下諏訪駅前を過ぎて左の旧道に入る。旧道に入りすぐの所にある「魁塚(さぎがけつか)」で昼食にする。江戸末期、江戸城総攻撃に加わった赤報隊の墓である。富士見橋で再び国道と合流するが、橋を渡りすぐの西大路交差点で左の旧道に入る。
この辺りは岡谷市の長地地区で、わが姓である御子柴姓の家が多い。旧道を進むと、左に渡辺家住宅が保存されている。渡辺家は高嶋藩に仕える下級武士で、城下ではなく在郷の村に住んだ散居武士といわれる身分だった。18世紀中ごろに建てられた家で、現存する武士の家として貴重なものである。

 
 渡辺家を過ぎると右に桜の美しい平福寺がある。この寺は「おひぎりさま」と呼ばれる日限地蔵(ひぎりじぞう)で有名だ。日を限ってお参りすると願いが叶うということで、23日の縁日は大いに賑わったそうである。大正から昭和にかけて、製糸工場で働いた女工の、心の拠り所でもあったという。4月23日に春の例祭がある。

 平福寺を過ぎ広い道路を渡ると、生垣の美しい住宅街となる。この旧道沿いの町並みは、緑が豊かで落ち着きと趣がある。古い家も多く残り、魅力的な町並みを形成している。ここに住む人々の心の豊かさを感じさせるような町である。


 やがて旧道は国道を横切る。ところどころにある本棟造りの家や土蔵造りの家を見ながら、街道の趣がわずかに残る旧道を進む。この辺りは今井地区で、道はゆるい上り坂となる。やがて左に、冠木門風のコンクリートの柱を立てた番所跡と、右には御小休本陣だった今井家の屋敷が当時のまま残っている。国の登録文化財に指定されている。今井家の前で一休みする。


 今井家を過ぎると、いよいよ塩尻峠への登り道となる。中央道岡谷ICの脇を通り、石舟観音を過ぎる道は次第に急になる。振り返ると、諏訪湖が広がり、その向こうに八ヶ岳が連なり富士山も見える。まさに、英泉が描いた諏訪湖眺望の画の構図だ。ただし、現在は電線や家に邪魔されて、そのように美しくは見えない。峠に近づくと道にはまだ雪が残っていて、すべって歩きにくい。


30分程の登りで、1時半に塩尻峠に到着する。国道は長い距離を迂回して峠に達するが、街道は直登するので、思ったよりも早く峠に達する。峠は明治天皇の巡幸にちなんで「御野立公園」と呼ばれ、展望台ができている。諏訪湖と富士山、南アルプスそして北アルプスを展望できる。富士山、北岳、奥穂高岳の本邦第一位から三位までのピークを見ることができるのは、この塩尻峠だけということである。ここからなら、英泉の描いた景色が障害物に邪魔されることはない。


 街道は峠の尾根を突っ切ってそのまま真っ直ぐに下る。峠の下には茶屋本陣跡が残っている。御膳水の碑があり、その奥に井戸がある。山の中の一軒家であるが、手入れされた家屋敷があり、今も人が住んでいる様子だ。不便ではあろうが、趣のある閑静な住まいである。早春の日を浴びて、福寿草の群落が黄色の花を咲かしていた。


 茶屋本陣跡からはなだらかな道が続く。東山一里塚跡を過ぎ、高ボッチ高原への道路を分けると、視界が開けて東山集落に入る。なだらかな傾斜地に畑が耕作されている。不便な山間地であろうと、少しでも平地があれば畑を開墾して人が住み着く。東山地区も、そんな山国の宿命を感じさせるような集落だ。現在でも、車があるとはいえ生活に便利な場所ではない。昔は、子供達は1時間くらい山道を歩いて、塩尻宿にある学校に通ったのである。


 東山集落を過ぎた所で国道と接するが、すぐに旧道が続く。国道の横断トンネルを潜り、中央道に架かるみどり湖SAの橋を渡れば柿沢の集落となる。柿沢は稀に見る保存状態のよい集落である。北アルプスを遠望する坂道に沿って、静かな集落が形成されている。街道に沿った家並みの生垣が美しい。古い家がまだ多く残されていて、塀と門構えの旧家や、本棟造りの旧家も見られる。車がほとんど通らないので、村の表情が昔の姿をよく留めている。豊かさと共に、生活の質の高さを感じさせる集落である。こういう集落はけっして多くはない。
集落の途中から左に入ると、畑の中に柿沢の首塚と胴塚というのがある。武田信玄と小笠原長時が戦ったとき、勝った武田軍は首実検の末に遺体を放置して引き上げた。これを哀れんだ村人達が、首塚と胴塚を建てたのだという。

 
 柿沢集落を抜け国道を横切ると、右に「小坂田公園入り口」の標識がある。その先に、堂々たる伽藍を持つ永福寺がある。永福寺には、「立川流」による建造物が三棟ある。「立川流」は、諏訪の寺社建築の大工棟梁で、江戸時代末期には全国に名を知られた。観音堂は二代目立川和四郎富昌によるものであるが、彫刻用材のケヤキの枝下ろしの時、不慮の事故で命を落とした。それでこの観音堂は二代目立川和四郎の最後の作品となった。山門と仁王門は、二代目の弟子である立木音四郎種清によるものである。
 

塩尻宿

 永福寺から鍵の手に曲がれば塩尻宿である。2時55分、塩尻宿に着く。仲町を下ると、右手に「五千石街道」の碑がある。五千石街道は、最短距離で松本へ通じている。塩尻宿の中心部に小野屋住宅が当時の姿を留めている。小野屋住宅は旅籠屋で、国重要文化財に指定されている。現在は修復中で、大きな建屋で覆われていた。その向かいに、本陣跡、脇本陣と陣屋跡がある。
塩尻宿は明治15年に大火があり、ほとんどを焼失してしまった。それに加えて国道が通るため、大型車がひっきりなしに軒を掠めて疾走する。歩道もないから、歩くのも大変である。宿場の表通りは生活の場でなくなってしまい、街の風景はこの半世紀の間に死に絶えてしまった。残念ながら塩尻宿には宿場の俤がほとんどない。柿沢集落とはよい対照だ。鈎の手を曲がり、旧道に入ると阿礼神社の前に出る。阿礼神社の夏祭りは、京都の祇園祭りの影響が感じられて、田舎にしてはなかなかのものである。


 塩尻宿を出ると堀内集落に入り、右手に堀内家住宅がある。堀内家は堀内村の名主を勤めた豪農で、建物は18世紀後半に建てられたとされる。明治時代に改築されているが、堂々たる風格のある「本棟造」と呼ばれるこの地方特有の建物である。


 堀内を出ると、下大門まで国道を歩く。下大門から塩尻駅に向かう。大門はかつて「塩尻銀座」と呼ばれ、田舎町の中心街であったが、塩尻駅の移動と共に中心地も移り、今は寂れてしまった。

 
塩尻宿の思い出

 母の実家は塩尻宿の仲町にある。「中野屋」という屋号で呼ばれ、かつては商家であった。火事に遭ったため、当座の造りであったというが、縦繁格子の出格子造りで、二階の天井が低い典型的な宿場の建物だった。間口が狭く奥行きの長い家で、四部屋が奥に向かって続いていた。建物の裏には庭があり、りんご、さくらんぼ、柿、あんずの木が植えられていて、収穫の時期には食べ放題だった。裏庭には用水路が流れ、用水路の向こうには離れが一軒あって、さらにその奥は畑になっていた。畑の外れには裏道が通っていて、そこまでが敷地である。間口が狭く奥行きの長い、典型的な宿場の区画割である。間口が狭いため敷地は思ったより狭く、200坪程度しかない。
  
 「ちいおばちゃん」という伯母が一人で住んでいたが、国道の交通量が増えるに
従い、車の騒音と振動で住めなくなってしまった。家の老朽化も手伝い、やがて奥の離れを取り壊し、そこに家を新築して住むようになった。表の出格子造りの家は放置され、とりわけ保存する程でもない普通の商家であるため、ためらいもなく取り壊されてしまった。宿場の俤がなくなっていく、一つの典型的な例である。このようにして、小野家のような特別立派なものを除いては、次々と古い家は取り壊され、歯が抜けた様になっていく。隣の「薬屋」の家ももうない。

 
 塩尻宿には遊郭と呼ばれる横丁が残っていた。用水路が流れ、柳の木があり、一種独特の情緒のある一角であった。私の子供の頃はまだ料理屋などがあり、華やいだ雰囲気があった。そこに子供相手の雑貨屋があり、夏休みには花火や虫取り網や虫篭などを買いにいった。昆虫採集が夏休みの日課のようなもので、そのころは蝶や虫や蛍はいたるところにいた。その店では日光写真というものを売っていて、伯母が買ってくれた。日光に当てると印画紙に映像が浮かび出るもので、そんなものが子供を夢中にさせる時代であった。

 
 塩尻宿の外れにある永福寺の裏手の山中に、「小坂田」と呼んでいた池があって、貸しボート屋が二軒あった。小学生のころ夏休みになると、伯母がボート乗りによく連れて行ってくれた。何もない時代、ボート乗りが唯一のレクレーションだった。ボートに乗り、アイスキャンデーを買ってもらったのを、昨日のように思い出す。

 
 塩尻宿の阿礼神社の夏祭りは盛大である。各町が装飾を凝らした屋台を持ち、一階には子供達が乗り、二階には笛、太鼓、鉦の囃子が陣取り、町民が掛け声と共に牽いていく。屋台の屋根に立って、御幣を振る勇ましい者もいた。次々に繰り出す屋台の行列は、実に華やかなものだった。屋台は立派なものから粗末なものまで、それぞれの町の経済状況を反映していて面白かったが、今はどれも立派になったようである。田舎にしては結構な規模と内容を誇り、京都の祇園祭の小型版と言ってもよいものだ。祭の日には普段食べられないようなご馳走が用意され並べられた。当時の生活は質素なものだったから、この年に一度のご馳走がまた楽しみであった。これを食べながら、屋台の通るのを見物するのである。小遣いをもらい、神社の境内の出店に行くのがまた楽しかった。この祭りも、一時は国道の交通の妨げになるということで裏通りを通るようになり、祭の華やかさと情緒は失われてしまったが、最近はまた国道に戻った。 

 
 阿礼神社の前の街道筋には、親戚筋の藤森家があり、子供のころにはよく遊びに行った。「ぶんちゃ」と呼ばれる耳の不自由な子がいて、よく一緒に遊んだ。子供同士、相手の耳が聞こえなくても、遊ぶのに何の支障もなかった。今は、「中野屋」の維持管理をしてくれている。

 
 塩尻宿から10分くらい西へ行ったところの下西条という所に、母の従姉妹の家がある。「紺屋」と呼ばれ、元は染物屋だった。いつも「しもじょう」と呼んでいたこの家には、大きな敷地の中に清水が湧き出ていて、この清水で染物をしていたということだ。庭には池があり、丹精に刈り込まれた躑躅が植わっていて、鯉が泳いでいた。家は古い民家で、奥座敷があり、食事はまだ囲炉裏を囲んでしていた。私より年上の5人の子どもがいて、ここに遊びに行くのが何よりも楽しみだった。だが私が頻繁に遊びに行ったり、泊まったりするのを、伯母は喜ばなかった。多分、伯母は独身で子どもがいないので寂しかったのと、当時の「しもじょう」の暮らし向きを慮ったからであろう。だが、子供心にはそれが恨めしかったのだ。私の塩尻宿の思い出は、「ちいおばちゃん」と「しもじょう」に尽きると言ってもよい。

 

3月24日、木曜日。二日目、塩尻駅から奈良井宿まで、25.5Km。奈良井宿泊。 

 6時54分、富士見駅から電車で塩尻駅へ向かう。東関東大震災で、街道歩きを延期しようかとも思ったが、自粛していても仕方ないし、旅をして少しでもお金を使ったほうが、日本経済を元気にし復興に役立つと思い、予定通り決行した。

 7時35分、塩尻駅を出発。下大門に向かう。下大門から中山道に入ると、すぐに右側に大門神社がある。樹齢300年のケヤキの大木がある。大門神社は大門地区の氏神で、柴宮八幡社といっていたが、昭和になって若宮八幡社を合祀して、大門神社となった。道筋には旧家が2、3軒残っている。中央東線のガードを潜り、昭和電工の塀沿いに進む。昭和電工を過ぎると、レタス畑の中に平出一里塚が見えてくる。一対のうち一つは畑の中に、もう一方は人家の裏にある。
8時20分、平出遺跡着。縄文時代から平安時代にかけて、199軒の住居跡が発掘されている。南に形の良い山があり、平地が広がっている。現在は遺跡の周辺は葡萄園になっている。北に松本平が広がり、穂高連峰の白い峰々がよく見える。

 
 今度は中央西線の線路を横切り、中信農業試験場の前を通ると、国道と合流する。しばらく国道を歩けば、洗馬宿への旧道に出会う。洗馬宿の手前に「肘掛松」の跡がある。細川幽斎が「肘掛けてしばし憩える松影にたもと涼しく通う河風」と詠んだと伝えられる松である。ただし、当時の松の木はすでになく、代わりにまだ若い木が元の場所の近くに植えられている。

 

洗馬宿

 ここから旧道を下ると、北国西往還との追分になる。中山道を進めば洗馬宿である。洗馬宿には昔の建物はほとんど残っていない。太田の清水があるので立ち寄る。この水で、木曽義仲が馬を洗ったと伝えられている。この旅における木曽義仲伝説の始まりである。広重の傑作である柴舟の絵は、どこから描いたのだろうか。そんなことを思いながら、奈良井川の方を眺める。

 洗馬宿は他に見るべきところは無い。そのまま中央西線の線路を横切り、本山宿へと向かう。3月末なのに、今日は冬並みの寒さである。10時になろうというのに、道路の温度表示には-1℃とでている。冬物の厚い手袋を持ってこなかったので、手がかじかんで字が書けない。休んでいると寒いので歩き続け、40分ほどで本山宿に着く。

 

本山宿

 本山宿は国道19号線のバイパスのおかげで、ひっそりと静かである。ここも古い家並みはさほど残ってはいない。ただ、屋号などは残されていて、宿場の雰囲気は保たれてはいるが、取り立てて見るべきものはないようだ。本山宿は信州そば発祥の地といわれている。手打ちそばを体験できる本山そばの里がある

 本山宿を出て、日出塩集落に入る。山が両側から迫って畑など耕す土地もないような所だ。それにもかかわらず、家並みは立派である。何により生計を立ててきたのであろうか。  

 
 しばらく国道を歩くと、桜沢に出る。この桜沢までが尾張藩の支配下であった。洗馬の辺りは高遠藩の領地であった。桜沢からは辰野の小野に通じる道が分かれている。当初中山道はこの桜沢から善知鳥峠を経て岡谷に通じていた。それが後に現在の塩尻峠を越すルートに変更された。桜沢には「是より南木曽路」の碑が建てられている。まさにこの辺りからは木曽谷が狭まり、文字通り「木曽路」の感じがしてくる。奈良井川と国道と中央西線がかろうじて通るほどの隙間しかない。こんなところにも茶屋本陣跡があり、今も立派な建物が残っている。明治天皇の中山道巡幸の際のご休憩所となったことによのだろうか。道路の温度表示はようやく1℃になったが、相変わらず寒い。

桜沢を過ぎ国道を歩くが、片平集落から奈良井宿までは信濃路自然歩道があるの で、そちらの道を辿ることにする。片平付近はのどかなところで、集落のいたるところに、山からの豊かな湧水がある。今も生活用水として使っているようだ。信濃路自然歩道は贄川宿の山際を通るので、贄川駅に下る。塩尻宿に住んでいた「ちいおばちゃん」が教員をしていた贄川小学校が見える。私も子供のころ、伯母に連れられて学芸会の大道具の製作を手伝いに来たことがあるので懐かしい。ちょうど12時ななったので、贄川駅の誰もいない待合室で昼食にする。暖房もないのでとにかく寒いが、建物の中はまだましだ。

 

贄川宿

 駅を出て国道を進み、眼鏡橋を渡って贄川宿に入る。その入口に、贄川番所跡が復元されている。この番所跡の建物が、街道歩きの気分を高めてくれるが、今の贄川宿には当時のものはほとんど残されていない。ただ、重要文化財の深澤家住宅が目に付くくらいである。まして広重が描いた旅籠の風景など見られるはずもない。

 
 国道をしばらく進むと、道の駅の所で平沢へ入る旧道に出会う。平沢は漆器の町だ。町中が漆器店といってもよいくらい漆器店が軒を並べている。毎年6月の始めに、平沢を中心として木曽漆器祭りがある。この時は、大変な人出であるが、普段の平沢は訪れる人も無くひっそりと静まり返っている。私の母も漆器祭りの時に、ここで掘り出し物の漆器を買い求めていた。私の結婚式の引き出物も、この平沢で捜した漆器の小鉢であった。

 平沢から奈良井宿までは、奈良井川沿いの信濃路自然歩道を歩く。のんびりと気持ちのよい道だ。中央西線の線路を渡ると、奈良井川の上流に奈良井宿が見えてくる。その後方には明日越える鳥居峠が見える。

 

奈良井宿

 3時に奈良井宿に到着。雪が舞い始めた。いつも観光客でいっぱいの奈良井宿も、人はまばらで静まり返っている。地震の影響と、この天気のせいであろうか。とにかく寒いので、宿場を一巡りして宿に向かうことにする。奈良井宿はもう何度も来ているが、その度に本当によく保存し、修復し、再現したものだと感心する。他の宿場の変貌振りを見ているだけに、奇跡としか思えない。多少作られた印象はあるものの、実によく当時の姿を復元している。昔の町並みの保存と再現の見本であろう。いつも、これは日本の宝だと思う。外国人を連れてくると喜ばれるので、少なくとも3回は案内しているはずだ。外国人を連れていると、何かと店の人がサービスしてくれる。

 今夜泊まる民宿「いかりや」は、当時の建物を改築したものである。表は昔ながらであるが、家の中は全く現代風に改築されている。ただ和室には昔の欄間とか襖をそのまま使って、旅籠の感じを出してはいる。間口に対し奥行きはその15倍はある、文字通りの鰻の寝床だ。それでも客室は11部屋もある。家の片側に廊下が通り、廊下に沿って部屋が一列にずっと並んでいる。客は私一人であった。東関東大震災で、外国からのツアー客は全てキャンセルになったということだ。そう、やはりこのような時には出来るだけ出歩いて、復興のための経済活動を活発にさせなくてはならない。

3月25日、金曜日。三日目、奈良井宿から福島宿まで、20Km。福島宿泊。 

 6時30分に宿を出る。宿のご主人が記念写真を撮ってくれた。奈良井宿を足早に抜けて、宿外れの神社を過ぎて山道に入る。英泉の絵では、険しい道と「名物お六櫛」を売る店が描かれているから、この山道に入った所辺りの風景であろうか。 以前、薮原宿から奈良井宿までは歩いているので、道は知っている。昨日からの冷え込みのために、道は凍っている。特に板を張った橋の上は氷で滑りやすい。手がかじかむので、手袋の手をズボンのポケットに入れて歩く。

 途中に葬沢という所を通る。天象10年(1552年)木曽義昌と武田勝頼の戦があり、武田側が大敗し約500名の戦死者を出した。その死体を沢に葬ったのでこの名前があるという。


 7時30分に鳥居峠に着く。標高1197m、天気がよく御嶽山がよく見える。かつては「はらい坂」とか「薮原峠」と呼ばれていたが、木曽義元が小笠原と戦った時、戦勝祈願に鳥居を建てたことが「鳥居峠」の名の起こりだという。
備え付けの熊避けの鐘を鳴らしてから、栃の大木の生える雪道を御嶽遥拝所へ進む。芭蕉の
 木曽のとち浮世の人のみやげ哉
は、この栃の木のことだろう。以前来た時は栃の実がたくさん落ちていて拾って帰った。


 御嶽遥拝所から眺めると、御嶽山は朝日に照らされて白く輝いている。このすぐ下の公園には芭蕉の句碑が二つある。一つは「雲雀よりうへにやすらふ峠かな」であるが、この句は木曽路とは関係ないので、天保13年(1842年)に更科紀行で木曽で詠んだ「木曽の栃うき世の人の土産かな」の句碑を追加した。英泉の描いた薮原宿の絵には、「雲雀よりうへにやすらふ峠かな」の方の句碑が描かれている。ちなみに、その下には「義仲の硯水」も描かれている。


 薮原の集落を眼下に見ながら峠道を下る。途中には申し訳程度の石畳も残っている。気持ちのよい道を一気に下り、尾張藩の御鷹匠役所跡を過ぎれば薮原宿だ。

 

藪原宿

 9時だというのに0℃である。今の薮原宿にはこれといった見所がないが、お六櫛を売っている店がある。お六櫛はもともと妻籠宿のお六という娘が売り出したものだが、それが旅人の間で評判となった。櫛に使うミネバリという硬くてねばりのある木が、鳥居峠付近で多く採れることから、薮原宿の伝統技術となった。英泉の画によれば、奈良井宿でも売っていたようだ。1寸(約3cm)当たり10本から25本の櫛の歯を鋸で入れる大変な技術である。

 駅を過ぎて線路を渡り国道に合流する。しばらく国道を歩くが、菅橋で木曽川の右岸に設けられた道へ入る。ここからは、木曽川と山の間の静かな道を歩く。木曽川の流れを聞きながらのんびりと街道歩きを楽しめる道だ。日義集落を過ぎ、山吹山の手前で国道を横切って旧道に入る。もう使われなくなった昔の国道で、舗装は痛んで崩壊しつつあるが、歩くには何の支障もない。再び国道に出会い、国道を横切れば巴ヶ淵に着く。


 巴ヶ淵は、義仲の側室の巴御前が少女時代、ここで水浴びをして武勇を鍛えたと伝えられている。なるほど、夏には水浴びをしたらさぞかし気持ちがよいだろう。巴ヶ淵には休憩所があるので、しばらく休む。

 

宮ノ越宿

 巴ヶ淵を過ぎれば宮ノ越宿は近い。この辺りは木曽義仲が育ったところだ。義仲の父源義賢は源義朝の弟であるから、義仲と義経、頼朝兄弟とは従兄弟同士ということになる。義賢は義朝と対立し、義朝の長男の義平に討たれてしまう。駒王丸(義仲の幼名)は殺されるところであったが、義賢の家臣であった斉藤実盛らの取り成しで命を助けられた。駒王丸は斉藤実盛によって木曽の豪族中原兼遠のもとに送られ、この木曽の地で養育された。

 斉藤実盛は義仲の命の恩人であるが、義賢亡き後平氏に仕えることになったため、篠原の戦いでは義仲軍と戦うことになる。この戦で義仲軍が勝ち、実盛は殺されてしまう。このことを知った義仲は、悲しみに号泣したと伝えられている。斉藤実盛の最後は『平家物語』に取り上げられている。死を覚悟した実盛は、せめて若い姿で死にたいと、白髪を黒く染めて出陣した。


 義仲は、平維盛の率いる北陸討伐軍を倶梨伽羅峠の戦で打ち破り、この篠原の戦いでも勝利して都に上り、平氏を追放した。中山道、北国脇往還(善光寺街道)には、義仲の足跡や伝承があちこちに残っている。


 この宮ノ越宿にある徳音寺には義仲の墓がある。中央奥が義仲の墓、その下の列には右から、今井四郎兼平、義仲の母、巴御前、樋口次郎兼光の墓が並んでいる。今井四郎兼平、巴御前そして樋口次郎兼光は、義仲の育ての親中原兼遠の子供たちである。いずれも最後まで義仲に忠実であった。ちなみに、義仲のもう一人の側室山吹御前も兼遠の娘である。徳音寺の前には立派な義仲館が建てられているが、この時期は閉館していた。


 木曽川にかかる橋を再び渡って宮ノ越宿に戻る。ちょうど昼なので、バス待合所のベンチで昼食にする。広重の夜霧の中を行く農民の一家を描いた絵は、モダンな感じの傑作であるが、どこと行って景色に特徴があるわけではないので、宮ノ越のどこだかは分からない。


 宮ノ越からは旧道を進む。この辺りから木曽谷は広くなり、ちょっとした平野が開けてくる。地名も文字通り原野という集落になる。ここの街道沿いのビニールハウスと家の横に、「中山道東西中間之地」の標柱が無造作に建てられている。これではあまりに味気がなく、中間地点に来たという感慨が沸かない。国道と合流し、すぐに正沢川の七笑橋を渡り再び旧道に入ると、手習天神(山下天神)がある。


 手習天神は、木曽義仲を育てた中原兼遠によって、義仲の学問の神としてこの地に勧進したものだという。小さな神社であるが、境内にはイチイの大木が5本ほど立っている。江戸時代にも、中山道を歩く旅人にこのイチイの古木は有名だったようだ。

 

福島宿

 木曽川の荒川橋を渡り、川沿いの道を行く。中山道ではないかもしれないが、狭い谷筋であるから迷いようがない。福島の町の手前で、中仙道に戻るために国道を目指す。やがて、大きな冠木門を潜ると、その先に福島関所跡がある。関所は石垣の上に建てられており、その上は急峻な山になっている。石垣の下は木曽川であるから、なるほど関所として相応しい場所である。広重の福島関所の絵は、まさにここを描いたものである。

 関所からは福島の町が見渡せる。木曽川の対岸には、山の中腹まで家がびっしりと建っている。木曽義仲の墓がある興禅寺も見える。先ずその興禅寺に行ってみることにする。


 興禅寺には、看雲庭という広い枯山水と、万松庭という池泉のある庭園がある。工事中ということで、拝観料を取らずに見せてくれた。看雲庭は広大ではあるが少々大雑把な感じが否めない。一方、万松庭は小さいが趣のあるよくできた庭園だ。義仲の墓は寺の裏手にある。


 興禅寺の裏の山腹に木曽福島郷土館があるというので行ってみた。ところが、この郷土館は閉館となっていた。仕方なく、山にへばり付く様にして建てられた住宅地の中を降りて行くと、山村代官屋敷跡に出ることができた。この代官屋敷のことは、島崎藤村の『夜明け前』にもたびたび登場する。なかなか立派な屋敷である。代官屋敷から、福島宿に向かう。

 
 坂を登ると、福島宿の上の段というところに出る。ここには古い家並みが残されており、当時の姿を顧みることが出来る。ただし保存されているのはこのわずかな区間だけのようだ。福島宿を抜けて、福島駅に行く。駅は福島の町を見下ろす高台にある。今夜泊まる旅館も見える。その近くにスーパーも見えるので、そこで食料を調達してから、旅館に入ることにした。

 
3月26日、土曜日。四日目、福島宿から野尻宿まで、30Km。野尻宿泊。

   福島駅前から道標に従い、細い旧街道を進む。道は再び町へ下り、塩淵という所を通る。線路沿いの道をしばらく進み、線路を渡ると神戸の集落に入る。また線路を渡り再び渡り返すと、木曽御嶽遥拝所がある。小高い所にあり、石段を登ると社がある。いまは木が茂っていて御嶽山の眺望は期待できない。

 再び線路を三度横切り、国道と交わったりしながら旧街道を進む。昨夜の雪が凍り付いて、ジョギングシューズだとつるつるに滑る。何度か転びそうになった。坂が多いので、道の脇の雪が残っている上をそろそろと気を使いながら歩くので、なかなか進まない。宮ノ越から福島にかけての木曽谷は広がり、町が出来るだけの広さがあったが、この辺りは再び谷が狭まり、歩いている旧街道と、鉄道と国道と木曽川で谷は埋まってしまう。


 国道に合流すると、程なく木曽の桟の上に出る。国道を渡り木曽川に架かる橋を渡ると、そこから桟の石垣の遺構を見ることが出来る。当初は、丸太を蔓で編んだ文字通りの桟であったが、旅人の松明で蔓が燃えたため、1648年に尾張藩は石垣を築きその上に木材を渡して桟とした。その後、石垣を補充し、平らな道となった。現在は、その石垣の上を国道が通っている。桟の上の山肌は、コンクリートで固められ、まるで要塞のような形相を呈している。


 この桟の石垣が見える木曽川の対岸には、芭蕉や子規の句碑が建っている。
    桟や命をからむ蔦かずら
これは更科紀行にある芭蕉の句で、当地で吟じたものだ。この他にも
         桟や先ずおもひいづ馬むかへ
という句を残している。馬迎へとは、古代に朝廷に献上する馬を逢坂の関で迎える儀式のことである。
一方、子規の句と歌とは
  かけはしやあぶない処に山つつじ
  桟や水にとどかず五月雨
  むかしたれ雲のゆききのあとつけてわたしそめけん木曽のかけはし
と、軽い調子のものである。


 桟よりも、桟からの道が実は危険であった。満足な歩道もない国道を、それこそ命がけで歩く。今日も寒く、国道の温度表示は0℃である。足元に気をつけ、車に気をつけ、懸命に歩く。JRの線路を渡り、横断歩道のない国道を横切り、やっとのことで上松宿の十王橋に通じる旧道に入ることができた。

 

上松宿

 十王橋から上松宿である。宿に入ってすぐの上町は、宿場の雰囲気が漂っている。だが、取り立てて見る所はない。
 そのまま上松宿を通り抜け、国道に沿った旧道を進むと寝覚の床に着く。入口に臨川寺という寺があり、寝覚の床まで降りるには、拝観料を払ってここを通らなければならない。一種の通行税みたいなものだ。200円であるが、なんとなく損をした気持ちになる。


 寝覚の床は汽車の窓からは幾度も見ているが、実際に来て見るのは初めてだ。時間があればゆっくりとしたい所であるが、急な坂を登って街道に戻らなければならないので、写真だけとってすぐに引き返した。広重が、この先にある小野の滝を絵にして、この寝覚の床を絵にしなかったのはどうしてであろうか。


 寝覚の床から国道を横切って、さらに住宅地の中を登る。旧道は現在の国道より上方の山の中にある。大きく山側に入り込んだ道が、再び国道と合流する所に、小野の滝がある。広重の絵の通りの滝であるが、現在は滝の上を中央線が走る。滝を囲むように高架橋が建てられている。これが滝の額縁のようである。滝そのものは残っているものの、国道に面し、鉄道で額縁をはめられては、かつて細川幽斉に「布引や箕面の滝にもをさをさおとらじ」と言わせた風情はもはやない。広重の絵が当時の姿を留めるのみである。


 小野の滝から須原宿までは、延々と国道を歩く。ただし、歩道がついているので、さほど嫌ではない。途中、立町集落に入るが、湧き水があり、家並みには趣が感じられる。倉本駅を過ぎた所に、空木岳への登山口がある。この間、右手に木曽川の流れを見ながら国道を歩く。桃山発電所があり、その辺りからの木曽川の流れは美しい。谷がまた狭くなり、鉄道と国道と木曽川だけとなる。片瀬山登山口を過ぎると、今度は川幅が広くなり、流れも山の急流からゆったりとした流れになっていることに気付く。

 

須原宿

 国道を歩くこと2時間半で、須原駅に着く。駅前には名物「桜の花漬」で知られる店がある。ここから須原宿が始まる。須原宿で目に付くのは、木をくり貫いて作った「水舟」と呼ばれる給水設備だ。丸太をくり貫き、両端に板を張って水を受け、一端に排水口を設けたもので、宿場のあちこちにあり、今も生活の用水に用いている。それぞれデザインに趣向を凝らし、中には屋根を付けたものまである。

 須原宿は古い家並みがよく残っており、道もゆるくカーブしていて、街全体に情緒がある。広重の雨宿りの絵は、須原宿のどこを描いたのだろうか。
宿場の外れにある定勝寺は、桃山時代に建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。こんな山の中にどうしてこんな立派な寺があるのかと訝しく思う。京都にあっても、決して見劣りのしない寺である。拝観したかったが、時間がないので割愛せざるを得なかった。


 定勝寺を出て旧道を山のほうに進むと、英泉の絵にある、岩出観音堂と伊奈川橋がある。残念ながら岩出観音堂の前に二階建ての民家が建ち、これが邪魔をして美しい岩出観音堂の舞台を見通すことができない。残念なことである。岩出観音堂はその清水寺のような舞台に登ってみるよりも、遠くから眺める方がよいのだ。伊奈川橋は形こそアーチ型であるが、鉄筋コンクリート橋であるから、英泉の絵のような趣は全くない。しかし、少し離れて眺めてみれば、構図としては英泉の絵のようである。


 伊奈川橋を過ぎてしばらくの間、のんびりとした田園風景が広がる大桑村の旧道を進む。振り返ると、木曽谷の合間に中央アルプスが見える。国道と合流し、大桑の道の駅を過ぎると、右に入る旧道がある。その旧道を進めばやがて野尻宿に着く。

 

野尻宿

 3時20分、野尻宿に到着する。野尻宿は「七曲り」と呼ばれるように、宿場内の道が直線ではなくうねっている。これが宿場の情緒を増している。粗末ではあるが古い家が残っており、宿場の雰囲気を醸し出してくれる。「西のはずれ」と書かれた、宿場の端まで行ってから、野尻駅に戻り、今夜泊まる民宿に電話をして、女将さんに車で迎えに来てもらった。

 
3月27日、日曜日。五日目、野尻宿から中津川宿まで、32.5Km。中津川泊。

 民宿の女将さんに野尻駅まで車で送ってもらう。民宿は、阿寺渓谷の入口の所にある。阿寺渓谷にはハイキングコースがあり、なかなかよい所らしい。朝食を早くしてもらったので、駅を6時40分に発つことができた。

 線路と林に挟まれた静かな旧道を進む。再び行く手を山が遮り、両側の山が迫ってくる。線路を二度横切り、国道と合流してから左手の旧道に入る。集落があり熊野神社のところで国道と線路を横切ると、十二兼の集落に入る。


 十二兼は山間のひっそりとした集落だ。十二兼駅前から木曽川を見下ろすと、美しい渓谷を成していることに驚かされる。この辺りは柿其峡という風光明媚なところである。特に、駅から少し先の柿其峡に架かる柿其橋からの眺めは見事だ。寝覚の床のような風景が広がる。平らな岩が幾重にも連なり、その間を川が流れている。橋の反対側からは、これから行く三留野宿に向かって、木曽川が幅広くゆったりと流れている。


 柿其からは国道を歩く。国道といっても歩道はとても広く、しかも木曽川の上に張り出しているので、車は煩くなく景色を楽しみながら歩くことができる。今は快適に歩けるが、当時は難所であったらしい。谷は狭まり、両側は山であるから、桟を設けねば歩けなかった。羅天桟というのがあった。今歩いている歩道はまさに現代の桟である。
やがて、金知屋という七軒ほどしかない集落を過ぎると、左に入る道がある。これが旧道のようだ。この道を進み線路を渡ると三留野宿に入る。
 

三留野宿

 三留野は、今までの木曽谷の宿場とはなんとなく感じが違う。狭い谷の圧迫感はなくなり、開けた伸びやかさと明るさを感じる。広重が、畑と丘と、丘の上の鳥居と梅の花、遠くに低い山が連なる、木曽らしくない絵を描いているのが納得される。なるほど狭く険しい木曽谷を越えて三留野に入ると、そんな解放的な、なにかほっとした気分になる。

 三留野の本陣跡には垂れ梅の古木があり、今ちょうど満開だ。梅とその背後の山の組み合わせが美しい。円空仏があるという等覚寺に行ってみたが、寺の中にあるのか案内もなく見ることはできなかった。三留野は野尻宿と同様に「七曲り」となっていて、古い家もよく残されており、宿場の俤の強いところだ。
南木曽駅を右下に見て、この地の神学者園原先生の碑の前を通り、妻籠宿への街道に入る。三留野宿から妻籠宿までは、古き良き日本の原風景が感じられる山里の道だ。ゆるい上り下りが続き、竹薮や杉木立の中を進む。突然、武士に出会ったとしても不思議ではないような気がする。それほど、時代を超えた趣が感じられる。


 途中に、良寛の歌碑がある。木曽路にて
 この暮れにもの悲しきにわかくさの妻呼びたてて小牡鹿鳴くも  良寛
鹿や、猪や、猿が出てきても不思議ではないような道だ。

 

妻籠宿

 10時40分、妻籠宿に到着。いつもながら、観光客やハイカーで賑わっている。本当に、ここだけに人がいる。これまでの道中、人に会うことは稀であった。東日本大震災後の自粛ムードにもかかわらず、観光地にはそれなりの人出があり安心する。

 妻籠宿はいつ来ても、江戸時代に戻ったような錯覚に陥る所だ。多少は作られた感じがしないではないが、そんなことを詮索するよりも、昔の街道の旅の気分に浸るほうがよい。今回は街道歩きが目的なので、妻籠宿もそのまま通り過ぎる。朝が早かったのでここで昼食にしてもよいのだが、朝食を腹いっぱい食ってきたので、次の馬籠宿まで行けそうだ。


 妻籠宿を抜け国道を渡ると、飯田街道追分のある大妻橋を渡る。坂を上ると大妻籠の家並みがある。ここも、妻籠宿同様に景観が保存されている。石畳がわずかに残る昔ながらの街道を進む。ハイキングをするにも好適なところだから、幾組かのハイカーに行き会う。途中、すこし回り道して男滝、女滝を見物することにした。山道を進み、一石栃白木改番所跡と一石栃茶屋跡に出る。白木改とは、丸太ではなく、製材した材木の搬出を取り締まることをいう。一石栃茶屋跡の前にある山水をペットボトルに詰め替える。ここから続く馬籠峠の道は、昨夜の雪がまだ残っていた。雪の道を峠に向かう。


 峠の集落を通り、十返舎一九の歌碑を見て、気持ちのよい道を下っていく。馬籠宿手前の展望台で、恵那山や、眼下に広がる馬籠宿から落合宿にいたる丘陵や、遠くの中津川宿の平野をしばらく眺める。

 

馬籠宿

 1時20分、馬籠宿に到着。馬籠宿は復元というよりも、むしろ新たに作ったという感じがする。宿場も時代ごとに変わるのであるから、これはこれでよいのではないか。馬籠宿が他の宿場のように消えることなく、現在の姿を作り出しているのは、島崎藤村の『夜明け前』の賜物であろう。文学というものは計り知れない力を持っている。馬籠宿も観光客で賑わっている。途中でパンをかじったが、腹が減ったので店に入って五平餅を食べる。普段なら食えない一人前をぺろっと平らげた。

 本当に、宿場の中だけ人がいる。馬籠宿を一歩出ると、人一人いなくなる。ゆるくカーブしながら丘陵地を登っていく静かな田舎道を、恵那山を左に見ながらのんびりと進む。のどかな田園風景だ。やがて道は下りになり、人も車もめったに通らない快適な道が続く。


 落合宿から中津川宿へ続く平野が一望でき絶好の場所に、正岡子規の句碑と休憩所が設けられている。久しぶりに見る、開放的で広々とした景色を見ながらしばらく休憩する。
 桑の実の木曽路出づれば穂青かな  子規
とある。子規は学生時代に中山道と北国西往還を旅している。その時、木曽路で詠んだ句であろう。子規の優れた句ではないが、旅で感じる季節感を感じることができる


 さらに気持ちのよい道を進んでいくと、新茶屋に着く。ここには、天保13年(1842年)、美濃派の俳人によって建てられた芭蕉の句碑がある。
 送られつ送りつ果ては木曽の秋
その横には、1940年に建てられた、島崎藤村の自筆による「是より北木曽路」の碑がある。


 この新茶屋から、十曲峠の石畳が始まる。この石畳は、その長さ、石の大きさと形、保存のよさで、中山道でも屈指である。3mから5mくらいの幅の石畳が、約800mに渡って続いている。木が鬱蒼と茂る山の中の石畳を感心しながら下っていく。落合宿へは十曲峠は下りである。石畳が終わりさらに下っていくと、視界が開け行く手の丘陵の上に落合宿が見えてくる。広重はこの辺りから、落合宿の風景を描いたのであろう。落合川の下桁橋を渡る。

 

落合宿

 3時10分、落合宿に着く。立派な門構えの本陣が残ってはいるが、宿全体としてはかろうじてその俤を残すだけである。馬籠宿から中山道には、白と薄茶の小石を混ぜ込んだ舗装が施してある。とても良いアイデアだと思う。道案内がなくても迷うことなく、街道を辿ることができる。この舗装道路も、中津川に向かう途中、広い国道バイパスで寸断され、ここだけ道を探すのに苦労した。

 落合宿を出ると、恵那山を背にして歩くようになる。与坂というきつい坂を登る。坂の上には与坂立場跡がある。ここから振り返ると、開けた景色が展開し、落合宿と十曲峠がよく見える。


 左に恵那山、右に笠木山が見えるようになる。与坂を過ぎても、また坂がある。坂の上には子野の一里塚跡と覚明神社というのがある。まだ咲いていないが、垂れ桜の大きな古木のある子野の石仏群を過ぎる。国道を渡るとまた坂になる。国道には地下歩道があるが、足が痛いので、車の合間を縫って国道を横断した。どうも、左足首がはれて痛みがある。馬込宿から中津川宿までは、道が曲がりくねっていてほとんど直線部分がない。しかも、坂また坂で平坦な道がない。痛めた足には堪える。


 上金の新興住宅地のなかに白木改番所跡がある。材木の監視が厳しかったようで、白木改は要所要所に置かれている。番所跡を過ぎて、ようやく中津川の町が見える高台に出る。高台を下る所に、「すみれ塚」と呼ばれる芭蕉の句碑が建っている。
 山路来て何やらゆかしすみれ草
この大津への山中で詠んだ句による。大津出身の菅井家が、故郷の大津を懐かしみ、この句碑を建てたのだという。高札場跡のある茶屋坂を下れば中津川宿だ。
痛めた足を引きずりながら、4時30分に中津川宿に到着。今夜宿泊する中津川駅前のホテルに向かう。

 
3月28日、月曜日。六日目、中津川宿から細久手宿まで、30Km。細久手泊。 

中津川宿

 今日は山道を30Km歩かなければならない。まだ左足の踝の上がはれている。どうなることか。とにかく、5時50分にホテルを出発する。

 
 中津川宿は中津川の町中を真っ直ぐに貫いている。今は老舗などが構える落ち着いた商店街となっているが、所々に当時を偲ばせる建物が残っている。宿場の中ほどで氾濫を繰り返したという四ッ目川を渡る。庄屋の肥田家「田村屋」の家が残っている。代々庄屋を勤めた家で、最後の庄屋を務めたのが肥田九郎兵衛通光である。通光は馬風という雅号を持つ俳人でもあり、平田国学の門人でもあった。幕末の倒幕運動にも加わった行動的な人物で、『夜明け前』の小野三郎兵衛のモデルである。ウエストンが恵那山に登った時、この肥田家に宿泊している。現在、肥田家の家は曽我家医院となっている。中津川宿は、馬籠から美濃東端地域にかけての、文化と経済の中心地として栄えた。今もその存在感と落ち着きを感じさせる。

 本町、横町通り、下町通りと桝形を通り、中津川橋をわたる。広重の絵は、この辺りの中津川宿の外れから描いたのであろう。今はもうその景色を思わせるものは何もない。


 中津川宿を出て、しばらく静かな住宅街を進み、駒場村の高札場跡を通る。中津川市街で途切れていた、白と薄茶の小石を混ぜた中山道の舗装がまた始まる。小石塚の立場跡からは御嶽山が真白に見える。ここに街道筋としては珍しくコンビニがあるので、小休止とする。左足は相変わらず痛いので、いつものように早く歩くことができない。


 ここから国道のバイパスを渡る。広い国道が旧道を寸断するので、入口を見つけるのは大変である。幸いここには指道標が付けられているので、それに従い静かな旧道に入ることができた。住宅と田園の静かな道であるが、頻繁に通勤の車が通る。千旦村高札場跡を過ぎ、分岐点を旧道に進むと、車の通らない静かでのどかな田舎道となる。坂本立場跡、尾張白木番所跡などを通る。今は篠原家となっている茄子川御小休所が残っている。中津川宿と大井宿の中間にあり、大名などが休息した所だ。この辺りからは御嶽山がよく見える。その先の広久手坂からは、中央アルプスの展望が開けてくるので、景色を楽しみながら歩くことができた。


 茄子川、岡瀬沢を過ぎて甚平坂を登る。甚平坂の上には、休憩所が設けられ、広重の雪道を描いた大井の絵が石碑になっている。御嶽山を望む雪の山道を描いたのはこの場所であるということだ。なるほど、その通りであろうと思う。御嶽山の眺望が素晴らしい。休憩所にはトイレもあり、ここでしばら休むことにする。

 

大井宿

 関戸一里塚跡を過ぎ、坂を下って中央道と中央線を渡れば大井宿だ。9時30分、大井宿に到着。現在は恵那市となっている。足の痛みが酷いので、薬屋を捜す。不要な時はいくらでも目にする薬屋が、いざという時にはなかなか見つからない。幸い街道筋に見つけたが、10時前なのでまだ閉まっている。仕方なくしばらく待っていると、店のシャッターが開き始めた。症状を説明し、湿布薬を購入する。店の小母さんは親切な人で、「街道歩きはいつでも出来るから、無理せず止めたらどうかと」忠告してくれる。話をしていると、大規模店ができて小さな薬局はやっていけないので、今月限りで60年続いた薬局を店仕舞いをするとのことだ。どおりで棚には商品がほとんど並んでいない。私が最後の客だったかもしれない。幸いなことに湿布薬くらいは残っていた。そんなわけで、三日分ほど買ったが随分おまけをしてくれた。湿布薬を貼ると、いくらか痛みも取れ歩くのが楽になったようだ。これなら大丈夫だろう。

 最初の桝形を回り、本陣跡や庄屋古山家などを見ながら、再び桝形を曲がる。中山道広重美術館があるが、今回は寄っている暇がない。大井宿は開けた明るい感じのする宿場である。古い家も残り、宿場の雰囲気を今も感じさせる。

 
 大井宿を出て町の中の道を進む。町外れの感じがする住宅地に、西行硯水公園がある。「西行は文治2年(1186年)、三度目の奥州旅行の帰路、3年間をこの地で過ごした」とあるが本当だろうか。西行の生涯では、文治2年に東大寺勧進のため二度目の奥州下りを行い、伊勢に数年住んだ後、河内弘川寺(大阪府河南町)に庵居して、建久元年(1190年)にそこで入寂したとされている。つまりこの地の言い伝えに拠れば、伊勢ではなくこの大井に住んだことになる。西行がこの地を訪れたのは確かであろうが、西行を慕うあまりの西行伝説が生まれたとしても不思議はない。

 
 西行硯水を過ぎ、畑の中の道を進んで中央線と中央道を越すと、いよいよ「十三峠」の山道になる。登り口に「十三峠」の碑があり、石畳を上って行くと西行塚がある。この西行塚も、この地で西行が死んだことになっているが、西行を思慕する人々が西行の死を知って、ここに墓を立てたということかもしれない。山の林の中に塚はあり、その横が展望台になっている。この展望台からは、中央アルプスの駒ケ岳、宝剣岳、空木岳、南木曽岳、右には恵那山が見渡せる。

 西行塚の展望台から峠道に戻り、林の中の一本道を進む。開けたところに槙ヶ根一里塚があり、ベンチが置かれて休憩所になっている。まだ11時であるが、朝が早かったので昼食にする。普段は信州の高い山を見慣れているので、美濃の低い山の起伏が続く風景は新鮮に感じる。中央道が見えるので、今いる位置はおおよそ見当がつく。

 
 山の中の昔の姿そのままの街道を進む。この辺りはまだ比較的平坦だ。やがて槙ヶ根立場跡に出る。ここは土岐、多治見を経て伊勢、名古屋に通じる「下街道」との追分である。かつては九軒の茶屋があって賑わったという。この先も、尾根道が昔の街道そのままの姿で続く。

 
 姫御殿跡や首無し地蔵などを通り、「乱れ坂」を下り「乱れ橋」を渡る。大名行列の列が乱れ、旅人の息が乱れたことによるという。尾根道から集落を通り、再び尾根道となる。紅坂を登ったあたりで、行く手に権現山が見える。あの山を巻いていくのであろうか。十三峠の道はまだまだ続く。幾つもの上り下りを繰り返しながら、大久後の集落を抜け、権現山の下の炭焼立場跡に出る。うんざりするほどの上り下りを繰り返し、痛い足をかばいながら山道を歩く。本来なら楽しいはずの山道であるが、こんなときには実に辛い道だ。軍事的目的のために、わざわざ曲がりくねり、上り下りの多い山道を街道に選んだとのことであるが、旅人には迷惑なことである。昔の旅人もさぞかし難儀をしたことであろう。やっとのことで、寺坂の「十三峠」の碑があり、長かった峠道が終わる。

 

大湫宿

 寺坂を下って宗昌寺まで来ると、大湫宿が見渡せる。山間のひっそりとした宿場であり、目の前の一塊の集落がその全てであろう。2時50分、大湫宿に着く。脇本陣が昔の姿を伝えている他は、これといった物はない。宿場が終わろうとする所に神明神社があり、樹齢1200年とも言われる大杉が立っている。この大杉が大湫宿のシンボルとも言えそうだ。高札場跡を過ぎれば家並みは終わり、久しぶりの里歩きとなる。

 
 舗装された里の平らな道を進むと、「大湫の二つ岩」という、大きな岩が二つ山肌に露出した所がある。母衣岩と烏帽子岩という。この特徴的な地形は、まさに広重が大湫宿を描いた場所に違いない。そんなことを思いながら歩いていると、すぐ横の山の斜面にカモシカの姿を見かけた。

 
 平坦な里の道もやがて琵琶峠への山道となる。琵琶峠の道は、その入口から500mほど続く石畳で知られる。落合宿の十曲峠の石畳も見事であったが、琵琶峠の方がそれよりも一段と素晴らしい。石が大きく、平らで、とても歩きやすい。とにかく一つ一つの石の大きさがすごい。人力でよくこれだけの石を山の上に運んだものだ。峠を越えると、一対の八瀬沢の一里塚が残っている。

 
 石畳も終わると、道は山の中の舗装された道路へと変わる。林の中の道で、車もほとんど通らないから本来なら快適なはずであるが、とても長く感じる。変化がないからであろうか、自然の中の道も次第に飽きてくるものだ。その上に足が痛む。湿布を変えると少し痛みが取れた。なにか臭いにおいがする。何かと思ったら、養鶏場がある。それも今まで見たこともないくらいの大規模な養鶏所である。臭いの問題から、このような山中にあるのだろう。この大規模な養鶏場が幾つもある。野鳥も多いだろうから、鳥インフルエンザ対策も大変だろうと思う。山の中の舗装道路は延々と続く。弁財天の池を過ぎ、足を引きずり、ただ黙々と歩く。ようやく奥之田の一里塚跡に着く。この間の一里はとても長く感じた。ここまで来れば、細久手宿はすぐだ。
 

細久手宿

 4時45分、細久手宿に着く。宿へと下っていく道の左手に工場があるが、かつてはこの工場の敷地を街道が通っていた。広重は、この辺りで細久手宿の画を描いたようだ。今夜泊まる大黒屋はすぐ見つかった。というよりも、細久手宿はこの大黒屋を除けば何もないといってもよいくらいだ。全く見所のない宿である。大湫宿とこの細久手宿は、中山道でももっとも辺鄙な所にあり、小さな集落である。

 
 大黒屋は152年前に立てられた。尾張藩専用の本陣である。大黒屋の主人に丁寧に迎えられ、玄関から二階の座敷に通された。歩けばぎしぎし音がする、古い建物だが、床の間に一枝の白梅が生けられ、古びた中に由緒のある趣が漂っている。こんな本格的な日本家屋の家に泊まるのは、子供のころ田舎の親戚に行って以来の体験だ。浴室とトイレは現代風に改築されていたが、これだけは必要なことである。夕食は、一階の上段の間で頂いた。客は私一人で、殿様になったような気分を味わった。食事も美味しく、満ち足りた気分である。大黒屋のご主人と奥様は気品のある方たちで、さすがは本陣の家柄だと感心する。寝室の座敷にはテレビもない。たまにはこのような静かな時間は必要だ。部屋に備えてある中山道関係の本を読んだり、宿泊客の記念帳に記入したりして、その日も早く床に着いた。朝食は無理を言って6時半にしてもらった。
 

3月29日、火曜日。七日目、細久手宿から太田宿まで、25Km。太田泊。 

 大黒屋のご夫婦に見送られて、7時10分に宿を出る。親切にも朝食を早く用意してくれた。
 細久手宿を出ると、時々車が通りはするが山間ののどかな道路を行く。山の中の平和な風景が展開する。やがて道路から離れ、再び山中の昔ながらの中山道が始まる。その入口の秋庭坂を上った所に、秋庭坂の三尊石窟がある。三体の石仏が石垣を組んだ石窟に立っている。石窟と言っても、敦煌の莫高窟をイメージしてはならない。日本的な小さな石窟である。このような小さな石窟が、街道筋の所々に見られる。


 美濃の丘陵地帯を横断する昔ながらの道が続く。鴨之巣一里塚が残っている。木立も、杉や桧や雑木に混じって竹林が多くなり、暖かい地方に来たことを感じさせる。やがて視界が開けて、のどかな山里の風景が広がってくると、山道は津橋の集落に入る。美濃は信州と比べると伸びやかで穏やかだ。高い山や狭い谷や急流がなく、どこまでも続いているように見える低い丘陵地帯が気持ちを和ませてくれる。農家の小母さんが椎茸を干していた。「見事な椎茸ですね」と言うと、純朴そうに微笑んでいた。


 街道は再び山道となる。諸ノ木坂を登った所が物見峠だ。展望台が設けられているが、霞んで遠くの山は見えないし、そもそも木々に遮られてそれ程展望がよいとも思えない。やがて道は集落を抜けて車道に出る。唄清水とか一呑の清水などが道端にあるが、今は飲めそうもない。十本木立場を過ぎたところに、広重が描いたとされる木賃宿らしきものが残っている。確かに場所といい家の形といい、広重の画の通りである。事実そうかもしれない。ただ、家は荒れ果て、手入れもされずに放置されている。このままでは朽ちてしまうに違いない。


 広重の木賃宿を過ぎると謡坂の石畳となる。この方向は下りであるから、謡うと言っても鼻歌である。この石畳の修復中に、隠れキリシタンのものと思われるマリア像が発見された。このマリア像が残されている。
車道に出た所に、耳神社という全国的にも珍しい神社がある。神社の備え付けの錐を耳に当てれば耳の病が治るとされている。治った人は年の数だけの錐を簾状に編んで奉納しなければならない。そのような錐の簾が納められていた。

 再び旧道に入り、最期に急な坂を下る。「牛の鼻欠け坂」という。あまりに急で、牛の鼻が地面にこすり付けられたことによる。これが最後の坂で、もう京都までは峠らしい峠はないとのことである。足が相変わらず痛むのでやれやれと思う。幸い足の具合は良くはならないが悪くもならない。これは良い兆であろう。最後の坂というのは嘘であるが、地勢的には正しいだろう。この先は、今までのような厳しい峠越えはないはずだ。


 当面「牛の鼻欠け坂」を最後に、道は平坦になる。広大な濃尾平野がここから始まるからだ。中山道はここから関が原まで、濃尾平野を横断する。集落を過ぎ国道に合流した所に、和泉式部廟所が建っている。道端の無粋な建物の裏手にある。あまり大事にはされていない様子だ。和泉式部の唄が刻まれている。

 ひとりさえ渡ればしずむうきはしにあとなる人はしばしとどまれ
和泉式部は晩年に東山道を旅し、この地で病に倒れたとされる。事実は知らないが、そう言い伝えられている。西行の伝説と似たところもある。そういえば、甲州街道の上諏訪の温泉寺にも、和泉式部の墓があった。
 

御嶽宿

 ここからは久しぶりの国道歩きとなる。歩道さえ広ければ、景色を眺めながら歩けるので、これはこれでよい。バイパスへの分かれ道でうっかりバイパス側へ進んでしまったが、すぐに気付いたので、御嶽宿の方向に戻ることができた。
11時20分、御嶽宿に着く。御嶽宿は近代化され、宿場としての建物はほとんど残っていない。中山道みたけ館の入口にベンチがあったので、そこで昼食にする。街道歩きではいつ食事にありつけるかわからないので、昼食にはいつもパンを持参している。


 願興寺という古刹が宿の中心にある。平安時代の創設で、本堂は天正時代に再建されたものというが、境内は趣がなく古刹という感じがしない。願興寺の角を回り、古い家がまだ残る旧道を進む。ここで地元のおばあさんと道連れになる。地震のこととか、手に怪我をして病院通いをしたとか、とりとめのない話をしながら連れ立って歩く。これから少し先のスーパーまで買い物に行く所だという。もう九十歳になるというが、足は達者でどんどん歩く。足が痛く早く歩けない私は、追いつくのがやっとであった。国道に出たところで、これが「鬼の首塚」だと教えてくれる。私はこれ幸いと、少し見ていくから先に行ってくれと言って別れた。見るほどの物でもないのですぐ歩き始めると、先ほどのおばあさんは振り向いて、私はこちらに行くけれど、あなたはそちらへ行けと、親切にも道案内をしてくれた。そこで手を振って別れを告げた。


 ここから伏見宿までの中仙道は、たまに旧道に逸れるものの延々と国道歩きが続く。足が痛み出した。引きずるようにして休み休み歩く。この辺りはただの平地で、景色に何の特徴もなく見るものは何もない。そういえば広重も、どこにでもある一本杉の下で憩う旅人を描いていた。それでも広重の画には、広がる平原の向こうに集落があり、御嵩富士と思われる山が見え、のどかな風景が展開されているが、今はもうそんな景色すらどこにも残っていない。

 

伏見宿 

 1時に伏見宿に着く。伏見宿は国道沿いにあり、もう何も残っていない。それでも宿の中央部に休憩所が設けられ、木曽川の新村湊の説明がしてある。街道筋からは分からないが、伏見宿は近くを木曽川が流れ、水運で栄えた所なのだ。新村湊からはこの地の産物である茶、瀬戸物、麻、たばこ等を運んだ。

 伏見宿を出ると、国道歩きがさらに一里ちかく続く。ようやく殺伐たる国道から離れ、太田線の踏み切りを渡り、今渡という集落に入る。ここには立場があったためか、古い家並みが残っている。国道を横切り、多治見へ通じる国道を分けて右に曲がれば、太田橋はもうすぐである。やっと着いたという思いで、太田橋の袂から木曽川を眺める。木曽谷の流れとは一変し、川幅は広がり、水量の多いゆったりとした流れだ。上流にはダムのようなものができて、異様な景観を呈している。今はシーズンオフなので、日本ラインの船乗り場には船も人気もない。
太田橋を渡り、対岸の堤防の遊歩道を進む。橋の下流に、太田の渡し跡の碑が建っている。広重はここを描いている。木曽川の流れを見ながら遊歩道を歩き、右の家並みへ下れば、そこが太田宿である。

 

太田宿

 3時、足を引きずりながらも太田宿に着く。太田宿は木曽川に沿って川のすぐ横に軒を並べ、宿場としての俤をよく留めている。笠ガ岳や槍ヶ岳の初登頂をした播隆上人の墓がある祐泉寺へ行ってみたが、墓を見つけられなかった。いつもなら歩き回って捜すのだが、足は痛く、寺の人に尋ねてみようとする気力もなかった。太田宿には脇本陣の林家の住居とか、黒壁の老舗の造り酒屋の建物などがあるので、宿場としての趣がある。

 今夜泊まるホテルは美濃太田駅前であるが、駅がどこか分からない。街の人に聞いたが説明が要領を得ず、足が痛いにもかかわらずとんでもない回り道を強いられてしまった。途中で食料を買おうとしたが店がない。ホテルに着いたら、貸し自転車があったので、近くのコンビニを教えてもらい、今夜と明日の食料を買いに行った。

3月30日、水曜日。八日目、太田宿から加納宿まで、25Km。岐阜泊。

  7時30分、駅から脇本陣林家住宅の所に出て、高札場跡、郡上街道追分を通り、木曽川の土手に出る。土手の下に、虚空蔵堂と承久の乱の古戦場跡の碑が建っている。ここからは国道に合流するまでの間、木曽川の土手道を行く。

 
 木曽川の流れを見ながらの道は楽しい。遊歩道になっているので、ウォーキングをする人たちが多い。すれ違うと、大きなリュックを背負って歩いている私を不思議そうな目で見る。中には話しかけてくれる人もいて、京都まで歩くと言うと一様に感心してくれる。木曽川は一旦遠ざかるが、また川縁を歩くようになり、坂祝河畔に出る。木曽川は川幅を狭ばめ、多くの奇岩の間を流れるようになる。「行幸巌」と名付けられた大きな岩もある。坂祝河畔は、日本ライン下りの第一の景勝地として知られている所だ。
 
 今まで、狭い木曽谷を歩き、次は美濃の山中を歩いてきたので、このゆったりとした木曽川河畔の道は心が開けて気持ちがよい。この気持ちのよい土手道も、木曽川が左に大きくカーブする辺りで終り、その先は国道を歩くようになる。しばらくの国道歩きを我慢すれば、右手の山の中に入る旧道への入口がある。道路と線路の下を潜ると、うとう峠を越える旧道に出る。御嶽宿に向かう所に「牛の鼻欠け坂」があったが、あれが最後ではない。まだまだ峠はある。うとう峠の道は、登山道のような細い道であるが、峠に近づくと石畳の広い道となる。峠の上に出ると、都会的な感じのする住宅地が広がっている。道は住宅地の中を鵜沼宿

へと下っていく。

鵜沼宿

 10時20分、鵜沼宿に着く。芭蕉が逗留した脇本陣坂井家の住宅は新しく再建されていた。残っている部屋の図面などを参考にして新築した建物で、まだ白木の真新しい家である。建物の前には芭蕉の句碑などがまとめられている。坂井家の案内人によれば、電柱の地中化などを進め、この脇本陣を中心にして鵜沼宿の景観を守ろうとしているとのことだ。しかし、脇本陣の向かいの古い造り酒屋の入口には、コンクリートの小屋のようなものが建っていて景観を著しく壊している。坂井家の案内人も頭痛の種だと言っていた。

 
 宿場を出て旧道を進むと、鵜沼の市街地の向こうに犬山城が見えてくる。犬山城は木曽川河畔に建っていて、街道からは少し離れている。広重の画では犬山城が大きく描かれているが、街道から見える犬山城は小さい。
 
 やがて旧道は国道21号線に合流する。車の往来が激しく、歩く所は側溝の蓋の上だけで歩道と呼べるものではない。2mほど横を、スピードを上げた車がビュービューと通る。国道ならぬ酷道である。幸い、大阪から街道歩きに来た人と行き会う。並んで歩くのは大変だが、しばらく話を交わしながら歩く。京都方面から、中山道を一日分づつ歩いているとのことだ。ここは酷いが、この先の街道は良い所があると慰めてくれる。私は足が痛く早く歩けないので、途中から先に行ってもらった。国道は各務原駅前を通り、三柿野駅を過ぎて高架を渡った所でようやく旧道に入る。

 
 旧道の入口には三菱重工の大きな工場がある。とにかく、国道から開放されてほっとする。街道は各務原市街へと入っていく。住宅地に六軒一里塚跡の柱がひっそりと立っている。国道沿いには休む所がなかったのでそろそろ疲れてきたが、休める場所がどこにもない。仕方なく歩き続けるが、ようやく児童公園があったのでここで休憩する。各務原市役所の前を通り、しばらく行くと緑の多い市民公園があった。休むには絶好の場所だが、もう休んでしまったので通り過ぎる。ようやく公園の桜が咲き始めている。桜に慰められながら歩く。
新加納立場跡と一里塚跡を過ぎると、古い家が残る高田の集落に入る。高田から次の蔵前にかけて、「七曲がり」の様な曲がりくねった道となる。加納宿は城下町であるから、防衛的な意味があったのだろうか。手力雄神社参道の所で街道は桝形となり、角には「左木曽路」の小さな石碑が立っている。続いて切通の集落となる。ここには立場があり、陣屋などもあった。古い家が残っているのはそのためだろうか。切通という地名は、この辺りの滞留水を境川へ流したことに由来する。
細畑で156号線を渡る。この辺りも古い家が多い。そこに一対の細畑一里塚が残っている。一里塚のすぐ先に地蔵堂があり、「西京道 加納宿、伊勢名古屋ちかみち」と書かれた石碑が残っている。連格子のある古い家が数軒ほどあり、なんとなく加納宿に近づいてきたことを感じさせてくれる。

 

加納宿

 東海道線の高架を過ぎて、名鉄の茶所駅の踏切を渡れば加納宿だ。とうとう東海道線が走るところまで来た。3時30分、加納宿に入る。最初の桝形の所に、加納宿内の中山道の地図が置いてある。この地図は懇切丁寧に書かれていて、桝形が多い複雑な加納宿内の道を迷わずに進めた。地図に従って歩いていると、中山道は薄茶色に舗装がしてあることに気が付いた。道を辿っていくと大手門跡に出る。大手門を進めば加納城であるから、立ち寄ってみることにした。加納城はほとんど何も残っていない。石垣もほんの一部が残されているだけで、天守閣のあったところは広場となり、市民の憩いの場となっている。大手門跡に戻り、再び中山道を辿る。本陣、脇本陣跡の碑があるだけで、加納宿には宿場らしきものはもう何もない。宿内の街道だけがはっきりと分かるようになっているだけだ。 岐阜駅の通りまで来た所で、駅の北口にある今夜泊まるホテルに向かう。いつものように、駅ビルで食料を買う。

 3月31日、木曜日。九日目、加納宿から関が原宿まで、31Km。大垣泊。 

 ホテルの朝食を大急ぎで食べ、7時30分に出発。昨日の地点に戻り、中山道を進む。東海道線を再び横切り、五差路に出る。ここの所がちょっと分かりにくいが、中仙道の案内が出ているので安心して進む。右に大きな岐阜市民病院が見えるだけで、何の代わり映えもしない通りだ。国道を二つ続けて突っ切り、追分橋を渡ると鏡島弘法で、そこから1Kmほどで長柄川の河渡橋に出る。

 河渡橋の袂に案内板があり、ここにはかつて鏡縞湊があったということだ。大きな河に架かる大橋を渡るのは意外と大変だ。といういのは、国道を来ればそのまま橋の歩道に出られるが、街道からだと、歩道の取り付きまで随分と回り道をさせられるからだ。河渡橋もその例に洩れない。長柄川は水量も多く木曽川に劣らない。川のはるか向こうには、岐阜の町が霞んで見える。

河渡宿

 長柄川を渡ると、国道の向こう側の土手下が河渡宿であるが、橋から降りて河渡宿へ行く道は分かりにくい。新興住宅地があって不安になるが、河渡の一里塚の碑があるので、河渡宿だと確信できる。8時40分、河渡宿着。河渡宿は見栄えのしない宿だ。なんとなく粗末な感じの家が並ぶが、宿場の感じは残っている。河渡宿では英泉が鵜飼の様子を描いている。芭蕉の句もあり、鵜飼の華やかさと、それが終わった後のもの寂しさをうまく描写している。
           おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
英泉の画はこのまさに「おもしろうて」を描いているように思う。

 
 河渡宿を出て真っ直ぐ進み、国道23号線を渡る。住宅と工場の入り混じった殺風景な道を進む。街道らしくない道でちょっと不安になるが、時折古い家並みがあるので、街道だと確信が持てる。糸貫川の糸貫橋を渡り、延命地蔵、本田代官所跡を通り、畑の中の道となる。ビニールハウスが並び、「さぼてん村」と書かれた大きな看板が見える。よく見ると、ビニールハウスの中でサボテンを育てている。私は園芸が趣味であるが、サボテンには特に興味がない。けれども、こんな所で育てているのかと面白く思う。

美江寺宿

 樽見鉄道を美江寺駅のところで渡れば美江寺宿だ。9時40分、美江寺宿着。宿の中ほどで道が直角に曲がる所に、美江寺神社がある。その境内にベンチとトイレがあるので、ひと休みする。この美江寺神社の中に、美江寺観世音堂と高札場跡がある。この辺りは揖斐川に近く、水害の頻繁に起こるところで、水害から守るために美江寺を建立し十一面観音を祀った。これが美江寺の地名の由来である。この十一面観音は、斉藤道三によって岐阜市の美江寺に移されてしまったので、ここはその名前だけを留めるだけになってしまった。美江寺宿は小さな宿で、これといって見るところはない。

 宿を出て犀川を渡る手前に千手観世音堂があり、石仏が安置されている。犀川を渡ると、柿畑が川沿いに広がる。富有柿の産地ということを知った。ここの風景は何となく広重の画を思わせる。この辺を描いたのであろうか。

 
 その先で広く新しい道にぶつかる。大抵こういう所で街道が分からなくなる。交番があるので道を尋ねたら、愛想の悪いお巡りさんが出てきて、とんでもない方向の道を教えられた。呆れたことに中山道を全く知らないようだ。仕方なく街道と思われる道を進み、家の前で仕事をしている人に聞くと、すこし戻った所の斜めの道を教えてくれた。

 
 揖斐川の豊田橋を渡るのがまた一苦労であった。車道はあるが、歩道に出るには相当な距離を回り道しなければならない。仕方なく、川の土手を登り、ガードレールを跨いで橋の車道に出て、車道を渡ってまたガードレールを跨いで歩道に出た。車が少なかったから何とかなった。大きな川を渡るのは、今も昔も簡単ではない。橋の上からは、右手にまだ雪を被った伊吹山を見ることができる。橋を渡った先の街道も分かりにくい。道標もないので、当てずっぽうに進む。幸い、左手に古い家並みが見えるので、そこが街道であることは間違いなさそうだ。

 
 そこは呂久の集落である。古い家並みの残るよい所だ。整った公園のようなものがあるが、これが和宮縁の小簾紅園だ。小さいが感じのよい日本庭園があり、池の回りに紅葉が植えられている。ベンチもあるのでしばらく休憩する。当時ここには呂久の渡しがあった。当時の揖斐川(呂久川と言った)は、現在の位置よりもずっと西側を流れており、今は川の西岸にある呂久の集落が、当時は東岸にあった。今いるこの地点から揖斐川を渡ったのである。江戸時代以降に、川筋が東の方に移ったわけで、その時呂久の集落は流されなかったのであろうか。

 呂久の集落を抜け、揖斐川の支流の平野井川を渡り、土手に沿って進む。川は見えないが、高い土手が続いている。これがかつての揖斐川の西岸なのだろうか。やがて土手を離れ、西に向かって伊吹山を眺めながら進む。採掘で削られた山が見えるが、これが赤坂の石灰岩と大理石の採石場であろう。赤坂は、東洋一の大理石の産地である。しばらく赤坂郊外の静かな道を進む。この道も「七曲り」のように、ゆるいカーブを幾つも描いている。小さな川に桜並木があるが、まだ咲いていない。菜の花が所々で咲いている


 近鉄養老線を東赤坂駅の所で越し、杭瀬川を渡れば赤坂宿である。広重の画は、この杭瀬川の手前から赤坂宿の方を描いたのに違いない。杭瀬川を渡った所には、赤坂港があった。昔の杭瀬川は水量が多く、水運が盛んであった。今も当時の常夜灯と港の建物が残っている。

赤坂宿

 12時40分、赤坂宿に着く。赤坂宿は風格のある古い家が残っていて、落ち着いた感じがする。宿場の出口に兜塚がある。この塚は、関が原合戦の前日、杭瀬川であった戦の戦死者を葬ったものだ。

 
 赤坂宿を出てしばらく行ったところに、昼飯(ひるい)という集落がある。昼飯の集落には他にはないような大きな屋敷が三、四軒並んでいる。楠木や欅の大木が茂る屋敷もある。どこか普通の集落とは違う趣がある。
東海道線を渡ると、青墓の集落になる。義経に縁の「よしたけ庵」というのがあり、そこから左に曲がって少し行ったところに「照手姫の水汲み井戸」というのがある。

 
 赤坂に宿場が移る前には、青墓に宿場があった。青墓宿は『義経記』に登場する。「これは義朝浅からず思ひ給ひける長者が跡なり。兄の中宮太夫の墓所を尋ね給ひて御出であり。」とある。義経の父義朝が平家に敗れ落ち延びるとき、青墓の宿に立ち寄った。ここには義朝の馴染みの長者(女主人)がいたからである。義朝の次男で義経の兄である中宮太夫朝長は、矢傷を負いこの地で死んだ。朝長の墓所はこの青墓にある。義経が吉次に連れられて平泉に行く途中、青墓の宿に泊まり、朝長の墓をお参りしたのである。「よしたけ庵」というのは、その時の義経が泊まった所とされている。さらに『義経記』には、「兒安の森(赤坂の子安神社)を外処に見て、久世河(赤坂の杭瀬川)をうち渡り、墨俣川を曙にながめて通りつつ、」と、吉次と奥州に向かう旅の様子が書かれている。
青墓から青野の集落に入ると、美濃国分寺跡へ通じる道の入口がある。青野を過ぎて、相川の相川橋を渡る。相川の土手は桜並木で、多数の鯉のぼりが川原に渡してある。その向こうには雪の伊吹山が美しい。桜が咲いたらどんなにか美しいことだろう。橋を渡れば、そこは垂井宿だ。

 

垂井宿

 2時15分、垂井宿に着く。古い家が残り、いかにも宿場の感じがする。旅籠屋の亀丸屋は今も営業しているが、建物の外観は少し作り変えられているようだ。古い造り酒屋の黒塗りの建物も目を引く。宿場の中ほどにある南宮大社の鳥居を入ったところに、垂井の清水がある。清水は樹齢800年と伝えられるケヤキの根元から湧き出ている。清水の水を飲んでみると、甘く口当たりのよい味だ。ぺットボトルに清水の水を入れ替える。芭蕉がここで詠んだ句が碑になっている。
  葱しろくあらひたてたる寒さかな
垂井の清水は歴史が古く、天平12年(740年)聖武天皇の美濃行幸の折りここに立ち寄ったとされる。
 垂井の清水はこれが有名であるが、もう一つあると地元の人が教えてくれた。少し行った人家の間にその清水はあった。地元の人が使っている様子で、生活の匂いがしていた。垂井宿の出口の所に西の番所跡がある。広重は、ここから宿場に入場してくる参勤交代を描いたのだろう。
 

 東海道線と国道を越え、垂井の一里塚跡、浅野幸長陣跡などを過ぎると、濃尾平野も両側から山が迫り、あたかも袋の口を閉じたような感じになってくるが、木曽谷のように谷が狭まるわけではない。山は迫るものの、関が原と呼ばれるように、十万や二十万の大群を動かすだけの広がりはある。

 
 国道を横切り、東海道線と国道の間を中山道が通るようになると、関が原集落に入る。関が原集落は驚くほど豊かな感じがする。どの家にも生垣があり、大きく堂々とした家構えをしている。今まで見た集落とは感じが異なる。この豊かさは何によるものであろうか。集落を抜けると、松並木が現れる。わずかな間であるが、昔の街道はこんな感じであったのだろうと思う。広重の、松木立の中に茶屋が二軒ある関が原の画を思い出す。もちろんここを描いたのではない。左の国道沿いに旗が幾つか立てられていて、そこに家康最初の陣地と書かれている。少し小高くなった所だから、そこからなら関が原を見渡すことができ、全軍の動きを掌握できたであろう。

関ヶ原宿

 4時10分、関が原宿に着く。国道が走っているので、宿場と言う感じではないが、ここにもどっしりした古い家が立ち並んでいる。関が原宿にはもう見るべき所はなさそうだ。時間があれば古戦場めぐりをしたいところであるが、今回はその余裕がない。 今日の予定はここまでにして、関が原駅に向かう。今夜の宿泊は大垣駅前のホテルを予約してあるので、電車で戻らなければならない。車窓から今日歩いた垂井や赤坂が見える。随分歩いたものだと思う。

4月1日、金曜日。十日目、関が原宿から高宮宿まで、28Km。彦根泊。

  大垣から米原行きの電車に乗り関が原で降りる。通勤客も降りたので、関が原に工場でもあるのだろうか。7時45分、関が原駅を出発し、昨日の続きの関が原宿を歩く。今回の旅では、家康最期の陣地や関が原合戦開催の地などの古戦場跡を見ることは諦める。関が原宿は国道が走り、街のようになっているので、広重の絵にあるような松並木に茶屋のある風景はどこにも残っていない。

 西首塚のところから旧道に入る。旧道沿いも古い家が多く立ち並んでいて、昔の田舎の風景を思い出させてくれる。福島正則の陣跡を通り、木立が見えてくると何となく由緒ありげな建物が突如として現れる。これが不破関跡である。
不破関は673年に、壬申の乱でこの地の重要性を知った天武天皇によって、東海道の鈴鹿関と北陸道の愛発関とともに設置された。不破関は、藤古川の左岸に数百メートルの土塁を築いた大掛かりなものだった。正式に制度化されたのは701年の大宝律令の時であるが、789年には廃止されてしまう。不破関が機能したのは1世紀あまりでしかなかった。しかし、不破関はその後も存続はして、鎌倉時代には関守が置かれ通行料を徴収したりしていた。また、江戸時代まで、国家の非常時には関を閉じる「固関使」が送られ「固関の儀」の儀式が執り行われていた。荒れ果てた不破関の様子は歌に詠まれている。
 人すまぬ不破の関屋の板びさしあれにしのちはたゞ秋の風
新古今集にある藤原良経の歌で、良経は平安時代末から鎌倉時代初めにかけての人である。芭蕉も

 秋風や藪も畠も不破の関
を残している。今須宿の「車返し」の故事に出てくる二条義基の話は、室町時代初期の南北朝時代である。不破関屋は荒廃しながらも、修理はされて存続していた。

 
 藤古川を渡る。壬申の乱で、東側の大海皇子(天武天皇)と西側の大友皇子(弘文天皇)がここで相対した。矢尻の池とか黒血川といった、壬申の乱にまつわる逸話が残っている。

 
 まだ梅の花が咲いている集落を通る。そこには鶯の滝という小さい滝がある。しばらく東海道線に沿った山道を登り、峠のような所を越え、国道を渡れば今須宿だ。

今須宿

 8時50分、今須宿着。今須宿も古い家が多く、落ち着いた感じのする集落であるが、取り立てて特徴があるわけではない。通りには人一人いない。静まり返った感じであるが、両側を国道と名神が走っているので、車の音だけが妙に聞こえる。

 
 今須宿を出て右に曲がると、「車返しの坂」がある。荒れ果てた不破関跡の歌をわざわざ詠みに来て、村人によって修理されたことを聞き、興醒めしてここで引き返すとは酔狂な人もいたものだ。

 
 道が左に曲がりゆるい坂になる。ここが長久寺という集落で、「寝物語の里」として知られている。美濃と近江の国境で、昔は国境に沿って美濃側に「両国屋」、近江側に「かめや」という旅籠があり、壁伝いに寝ながらにして他国の人と夜話ができたということだ。この旅籠を広重は描いている。二軒の旅籠が軒を接し、界に「江濃両国境」の標柱が立ち、美濃側の旅籠には「不破之屋・・・」の板が吊るされている。

 
 近江国に入ると、街道筋には珍しい楓の並木がある。幹は1mもあろうかという古木である。楓のこのような大木だけでも珍しいが、それが並木を作っているのだ。そんな貴重なものが、無造作に放置されているような感じがする。周辺の景観も含めて、もう少し大切に保存したいものだ。

柏原宿

 9時40分、柏原宿に着く。周囲の山は低く、開けて明るい感じがする。右手には伊吹山がよく見える。柏原宿は一直線に伸びた長い宿だ。柏原駅を過ぎた辺りから、昔の宿場の雰囲気が濃厚になる。宿場を大切の守ろうとする気概が伝わって来る。木曽の宿場以外では、珍しく保存状態が良い。

 
 広重が描いた「亀屋」が今も残っている。伊吹山のヨモギから作る艾(もぐさ)は上質なものとして有名であった。もぐさの商いで身代を築いたのが「亀屋」である。初代の松浦弥一郎は、千両近く投資をして53箇所の田畑でヨモギを栽培し成功を収めた。広重の絵にも描かれている福助は今も店の中にある。福助は「亀屋」の勤勉な番頭がモデルだということだ。「亀屋」は建物こそ残っているが、今ではもぐさを使う人は少なく、すかり零落した感じがする。歴史的建物の前に、自家用と思われる軽自動車を駐車させ、店の人も何となくしょぼくれた感じがするのは気のせいだろうか。今の若い人に「灸を据える」と言っても、何のことか分からないだろう。

 
 柏原宿を過ぎると、静かな里歩きが楽しめる。松並木も少し残っている。鶯ガ原という風流な名前の原もある。林の中の旧道を歩き、古い家の残る梓集落を抜ける。ここにも松並木が痕跡を留めている。しばらくの間、名神と国道に挟まれた殺伐たる道となるが、一色集落を過ぎると再び木々に囲まれた道となる。
11時30分、醒井宿に着く。柱を弁柄色に塗った家が目に付くようになる。二階を土壁のままにした家もある。近江国に入り、次第に家の意匠も変わってくることに気がつく。

醒井宿 

 宿に入るとすぐに「居醒の清水」がある。日本武尊の伝説が残る清水である。ここで昼食とする。残念ながら、清水の水を飲めるようにはなっていない。「居醒の清水」のすぐ上を名神が走っている。道路工事で清水の水脈は影響を受けなかったのかと思うくらいにすぐ上を高速道路が通っている。「居醒の清水」を水源として、宿場の左手(南側)に地蔵川が流れる。地蔵川には清流でしか生息できないバイカモが繁茂し、ハリヨという小魚が泳いでいる。ハリヨはよほど注意して捜さないと見つけられなかった。この地蔵川が宿場を情趣溢れるものにしている。他の宿では見ることのできない貴重な町並みである。醒井宿には「居醒の清水」の他に「十王水」と「西行水」が湧き出ている。醒井宿はまさに清流の町だ。醒井宿の中ほどにある了徳寺には、天然記念物のイチョウの大木がある。イチョウの葉に銀杏が生るという珍しい木である。

 
 広重の、一本松の横を二人の家来が荷物を担いで通る画は、六軒茶屋の辺りを描いたとされているが、残念ながら六軒茶屋跡を見過ごしてしまった。

 
 醒井宿をいい気分で出るが、出たところは歩道のない国道である。しばらく歩いて旧道に入る。この辺りの集落も、地蔵川ほどの清流ではないが、通りの左側に用水路が流れている。樋口という集落で国道を渡り、古い家並みの息郷集落を通り、北陸自動車道を越えると久禮の一里塚跡に出る。道は名神の横を沿うようになる。アイリスオーヤマの大きな工場が名神の上に見える。

番場宿

 1時5分、番場宿に着く。何もない宿である。宿を出たところに、聖徳太子によって建てられたという蓮華寺があるが、少し歩かないといけないので諦める。京都から逃れてきた六波羅探題の北条仲時ら430名余りの墓もあるという。広重の絵には、旅人で賑わう宿場の入口が描かれているが、おそらくこの西の口であろう。

 
 番場宿を出て、西番場集落に入る。この集落の方が、番場宿よりも古い家が並んでいる。集落を抜けると、山の中へ入り、名神の側道を歩くようになる。しばらくして名神から離れ、ちょっと趣のある山里を通り、貧しい感じのする集落を抜けると摺針峠に出る。

 
 広重の画から想像していたのとは全く異なる摺針峠の風景だ。もう望湖堂はなく、工場の高い塔で景観を邪魔され、電柱は張り巡らされ、琵琶湖の水際ははるか遠くに追いやられ、「中山道第一」と言われた眺望は見るも無残である。これほど期待と現実との落差の大きなことはめったにない。少し休んですぐに峠を下る。

 
 これが中山道で最後の急坂であろうか。荒れ果てた山道を下る。廃棄物処理場の横を通り国道に出る。国道を少し歩き、左の旧道に入り、木々の茂る道を進むと鳥居本宿に出る。

鳥居本宿

 2時35分、鳥居本宿に着く。合羽を作る店が多かったのか、「合羽所」の看板が吊るされている。文化・文政のころには15軒の合羽所があったという。鳥居本宿で先ず目に付くのは、赤玉神教丸で有名な有川家の豪邸である。18世紀中頃に建てられた、まるで城のような建物である。万治元年(1658年)創業ということで、今も営業している。鳥居本宿は、細い通りに沿った細長い宿で、古い家並みは多いものの、宿場としての雰囲気は失せてしまっている。

 
 鳥居本宿を出ると、彦根に行く彦根道の分岐に出る。「右 彦根道、左 中山道 京いせ道」とある。彦根道は、朝鮮通信使の通行に使われたので、朝鮮人街道とも呼ばれていた。やはり彦根道を進んで、安土、近江八幡、彦根を通った方が面白かったのだろう。

 
 追分を過ぎると、再び名神に沿った道となる。小野町の集落に入る。立派ではないが古い家並みが続く。中世には小野に宿駅が設けられていた。ここも道の左側に用水路が設けられていて、きれいな水が流れている。小野塚というのがあり、小野小町がここで生まれたという言い伝えがある。

 
 芭蕉の昼寝塚がある床山八幡宮を過ぎ、彦根インターの道を潜り、国道を突っ切る。正法寺町に入ると住宅地となるが、車の往来が激しく辟易する。しかも歩道が全くない。芹川のところに大きな森のある石清水八幡宮があるが、相変わらず左足の痛みがあるので素通りする。住宅地をただただ歩き続け、ようやく近江鉄道の踏切に出る。踏切を渡れば高宮宿だ。

4月2日、土曜日。十一日目、高宮宿から守山宿まで、32Km。守山泊。 

高宮宿

  7時3分発の近江鉄道貴生川行きに乗り高宮で下車。7時15分、高宮駅を出発。高宮宿では、二階が土壁になっている家が目に付く。多賀大社参道の大鳥居の前を通る。1635年に建造された、高さが8mあまりもある大きな鳥居である。多賀大社はここから参道を3Km程も行った所にある。多賀大社は伊邪那岐命と伊邪那美命を祭る滋賀県第一の神社で、鎌倉時代から信仰を集めていた。高宮は多賀大社の門前町として栄えたが、また「高宮上布」という麻織物業の集積地としても栄えた。今はもうその痕跡を残してはいないが、昔ながらの提灯屋などの古い店は残っている。
 
 本陣跡の斜め向かいに、芭蕉の紙子塚というのがある。芭蕉が当地の小林家で一泊したが、芭蕉と気付かぬ家の主人は芭蕉に古紙子を与えた。その夜の寒さに耐えかねた芭蕉は、「たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子」という句を残した。この句で芭蕉と気付いた家の主人は恥じかつ感激して、芭蕉に紙子羽織を送り、古紙子をもらい受けて庭に埋め記念の塚としたという。これが紙子塚の謂れである。芭蕉の紙子の句としては
    かみこ着てぬるとも折ん雨の花
が知られている。
 犬上川に架かる高宮橋で宿場は終わる。この橋は当時「無賃橋」と呼ばれ、橋は有料だった時代に、この橋は無料であった。広重は、背丈ほどの高さのある「高宮上布」の荷を背負った二人ずれの女を描いているが、この画はこの犬上川あたり風景と思われる。


 葛籠町という古い家並みの残る集落を抜け、出町集落となる。ケヤキの大木の並木のある出町集落の街道も、「七曲り」のように道が曲がりくねっている。
四十九院集落を過ぎ、豊郷小学校の前を通る。豊郷小学校の旧校舎はとても小学校とは思えない。大学と言っても通用する洋風建築だ。この小学校出身の伊藤忠商店専務の古川鉄長治郎が、アメリカの建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の校舎と講堂を寄贈したものである。なるほど、奇特な人がいなければ、こんな素晴らしい校舎が生まれるはずはない。豊郷小学校を過ぎると、左に大きな豊郷病院が見える。その先に、伊藤忠商事の創設者伊藤忠兵衛を記念した「くれない公園」がある。ベンチがあるので一休みする。この公園の隣は、丸紅商店(後の丸紅)の創始者である、伊藤長兵衛(忠兵衛の義理の甥に当たる)の生家がある。伊藤長兵衛は本名を若林長次郎といい、伊藤長兵衛商店の養子となり七代目を継いで伊東長兵衛となった。1921年に伊藤忠商店を合併し、丸紅商店(今の丸紅)を創設した。先ほどの豊郷病院は長兵衛が寄付したものである。このすぐ近くには、忠兵衛の屋敷跡が伊藤忠兵衛記念館となっている。豊郷は伊藤一族の町だ。


 その先を少し行ったところに、近江商人の藤野屋本宅の跡があり、内部を公開している。先を急ぐので見学しなかったが、「星印」の鮭缶で財を成した。現在も「アケボノ缶詰」として続いている。鮭缶を始めて世に出した人である。
 真っ直ぐの道を進むと、右手に江州音頭発祥地の碑が建っている。近江音頭は天正14年(1586年)に始まったと書かれている。現在の姿になったのは明治初年で、千樹寺観音堂を再建した折、祭文語りの名人西沢寅吉を呼んで、その音頭で踊った時からであるという。これが評判となり近江一帯から美濃、伊勢へと広まっていった。


 江州音頭発祥地のすぐ先に、宇曽川に架かる歌詰橋というのがある。この橋の名前の由来が面白い。将門の乱を平定した藤原秀郷が、平将門の首を運んでこの橋を渡ろうとしたところ、首が目を開いて秀郷に襲いかかってきた。そこで秀郷が「歌を詠んでほしい」と咄嗟に所望したところ、首は歌を詠めずに地に落ちたという故事による。


 高宮宿と愛知川宿の間は平坦で、出町集落の一部区間を除けばほとんど直線である。まったく無駄のない街道となっているが、この間は見るものがあり、不思議と退屈しない。リュックを背負い、地図を手にして街道を走っている人が私を追い越して行った。これには驚いた。どこからどこまで走るのか聞きたかった。

 

愛知川宿

 9時40分、愛知川宿に着く。当時の竹平楼という料亭が今も営業している以外、取り立てて見るものはない。宿場の中ほどに案内板が立てられた一角がある。そこで休憩しながら、愛知川の無賃橋に関する説明を読む。
愛知川は当時流れが激しく「人取り川」と呼ばれていた。文政12年(1829年)、式宮弥治衛門忠喜ら四名の同志が、橋の建設の許可を彦根藩に申し入れて、1831年に完成した。商人たちの浄財で造ったので、通行料は取らなかった。この橋は広重の画にも描かれていて、橋の袂に「むちんはし はし銭いらす」と書かれた木柱が立っている。広重の木曽街道が刊行され始めたのは1835年とされるから、ちょうど橋が完成して間もないころを広重が描いたことになる。この無賃橋も今は「御幸橋」というコンクリートの橋となり、車が行き交っている。広重の絵の風情は全くないが、橋を渡って対岸から下流を眺めると、まだ自然の川の風景が広がっていて、広重の描いた頃を髣髴とさせる。
 橋を渡ると五個荘の中町に入る。近江商人で有名な五個荘であるが、近江商人屋敷は街道筋から離れているの見ることができない。この辺りの家の造りは独特だ。重厚な瓦屋根を持ち、堂々と立派だが、仰々しく成金的でもある。田舎の人が見栄を張って豪華に建てたという感じがする。一軒だと異様だが、家並みを成せばこれはこれで一つの様式と言えなくはない。決して美しいというのではない。
 旧道が国道を突っ切った先に、湖東三名水の一つという清水が湧き出ている。飲んでみるとまろやかな味がした。ペットボトルの水を捨ててこの清水の水を入れる。旧道が国道と合流し、新幹線を越える辺りから行く手に横に長く広がる森が見えてくる。これがかの有名な老蘇の森である。森の北西端は、新幹線と国道8号線により分断されている。
 

 12時、老蘇の森にある奥石神社で昼食とする。老蘇の森の案内によれば、2250年前、高霊天皇の時、この辺りは人の住めるような所ではなかったが、石辺大連という人が松、杉、桧を植えたところたちまちにして森になったという。平安時代には不如帰の名所としても知られた。後拾遺集に大江公資の歌がある。
 東路のおもひでにせむ郭公老蘇の杜の夜半の一声
中山道は老蘇の森を回りこむように通っている。 

武佐宿 

 老蘇の森を過ぎ、古い家並の残る道をひたすら歩く。1時、武佐宿に着く。古い商家の大橋家が残るのみで、旅籠の中村屋は取り壊されてしまって更地になっている。武佐宿に見るべきものはなさそうだ。
 歩道のない国道を歩く。車のディーラー、タイヤやバイクの専門店、工場などが立ち並ぶ。都市郊外の車でしか来られない雑然とした通りだ。六枚橋を渡った所で左の旧道に入るが、これも殺伐とした感じの所である。そんな所に相応しいかのように、住蓮坊首洗い池がある。住蓮坊は法然の弟子である。後鳥羽上皇の女房の松虫姫、鈴虫姫が住蓮坊に帰依しため、これに怒った後鳥羽上皇により住蓮坊は首を刎ねられた。この時、松虫姫と鈴虫姫が、それぞれ上の句と下の句を呼んだ気の利いた歌がある。
 身になれし錦の小袖やきすてて弥陀のみ国に墨染の袖
 

 再び国道を歩く。この先旧道があるが、今は日野川に橋がないため渡れない。そこで国道をそのまま進むことにする。日野川を渡った所で、侵入禁止と書かれた土手の道を進めば、橋がないために途切れた旧道と合流するようだ。
善光寺川を渡ると旧道に入り、鏡の里となる。広重の旅人が船橋を渡るところを描いた武佐の図は、この善光寺川の風景であろうか。今の善光寺川は、何の変哲もない川となっている。

 
 鏡の里には古代より宿駅が設けられ、中山道となってからは立場があって賑わった。旧道沿いの鏡集落は、今もその俤を残している。再び国道になるが、鏡里は国道沿いでも古い家と新しい家が調和を保ち、きちんとした家並みを形成していて気持ちがよい。

 
 国道の右手に義経宿泊の地の碑がある。白木屋に泊まったと伝えられている。その碑の下に腰掛けて休憩する。『義経記』にも、牛若丸が吉次に伴われて鞍馬寺から奥州に向かう途中に、最初の宿泊地として鏡の宿が出てくる。「駒を早めて下る程に松阪をも越えて、四の宮河原(今の山科)を見て過ぎ、逢坂の関うち越えて大津の濱をも通りつつ、瀬田の唐橋うち渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者(遊女宿の女将)は吉次が年ごろの知る人なりければ、女房あまた出しつつ色々にこそもてなしけれ。」とある。京都を出て鏡の宿までは約36Kmであるから、一日行程である。『義経記』には続いて、その夜たまたま鏡の宿に泊まっていた由利太郎と藤沢入道以下八人の強盗が、吉次の荷物を狙って押し寄せたが、遮那王(義経の幼名)と吉次が五人の首を刎ねて撃退したとある。

 
 義経宿泊の地の先に鏡神社がある。鏡神社は新羅から渡来した王族を祀るというから、その歴史は古い。当時の日本に須恵器などの先進文化をもたらした。鏡神社の入口に、義経の烏帽子掛け松があるが、今はその幹だけが保存されている。鏡神社の先には、やや荒れ果ててはいるが義経元服の池などもある。しかし、『義経記』には鏡の宿での義経元服の話はなく、熱田で元服したことになっている。ついでながら『義経記』によれば、二日目は鏡の宿を出て、小野の摺針峠、番場、醒井を通り、青墓の宿に泊まり、三日目は尾張の熱田の宮に宿泊している。鏡の宿から青墓の宿までは62Kmもあるが、「醒井過ぎれば、今日も程なく行き暮れて」とあり、醒井までは41Kmであるから時間的には記述の通りで、醒井から青墓までさらに21Kmを夜中まで進んだことになる。馬に乗ってであろう。

 
 鏡の里を過ぎて間もなく、工場用地のような荒れ果てたところの裏手に、平宗盛終焉の地とされる場所があり、ひっそりとした塚が立っている。時々弔う人がいるらしく、汚らしく置かれたビンなどに花が供えられている。『平家物語』には、「さる程に、九郎太夫判官(義経)やうやうに陳じ申されけれども、景時が讒言によて鎌倉殿(頼朝)さらに文明の御返事もなし。「いそぎのぼらるべし」と仰られければ、同六月九日、大臣殿(宗盛)父子具し奉て都へぞ帰りのぼられけり。大臣殿はいますこしも日数ののぶるをうれしき事におもはれけり。道すがらも「ここにてやここにてや」とおぼしけれども、国々宿々うちすぎうちすぎとほりぬ。・・・・日数ふれば都もちかづきて、近江国しの原の宿につき給ひぬ。・・・」とあり、篠原で子の右衛門督と共に首を刎ねられた。これが平宗盛の最期である。

 
 壇ノ浦で平宗盛父子は、義経に敗れた平家一門の武将らが、ことごとく殺されまた入水して死んで行くのを眺めながらただ呆然としていた。『平家物語』はこの様子を詳しく語っている。「大臣殿おや子は海に入らんずる気色もおはせず、・・・侍どもあまりの心うさに、とほるようにて、大臣殿を海につき入奉る。右衛門督是を見て、やがてとび入給ひけり。みな人はおもき鎧のうへに、おもき物をおふたりいだひたりしていればこそしづめ、この人おやこはさもし給はぬうへ、なまじいゐに究竟の水練にておはしければ、しづみもやり給はず。・・・・たがひに目を見かわしておよぎありき給ふ程に、伊勢三郎義盛、小船をつとこぎよせ、まづ右衛門督を熊手にかけてひきあげたてまつる。大臣殿是を見ていよいよしづみもやり給はねば、おなじうとりたてまつりけり。・・・」。宗盛父子は生け捕りにされ、鎌倉に送られ、また京都に戻される途中、京都にあと一日というところで首を刎ねられた。宗盛父子の墓は、この死に様を物語っていてあわれである。

 
 宗盛父子の墓から国道に戻り、村田製作所野洲事業所の前を通る。ここだけは歩道が広い。浄勝寺の前で旧道に入るが、またすぐ国道に戻り、篠原神社からはずっと旧道を歩くようになる。守山宿まではまだ一里以上もある。途中、桜生史跡公園があり甲山古墳の小高い円墳が印象的だ。資料館もあるが、疲れてもいるのでそのまま進む。新幹線を過ぎると彦根道(朝鮮人街道)追分に出る。鳥居本宿で別れた彦根道とここで合流する。行畑商店街を抜けると野洲川に出る。橋の上からは、ようやく今日の宿泊地守山の町が見えてくる。野洲川を渡れば間もなく守山宿だ。ただここからは歩道のない国道を歩かなければならない。
 

守山宿

 5時30分、守山宿に着く。小さな流れがあり、案内板が立っている。ここは吉身という所で、古くは「吉身郷」と呼ばれ、豊かな森と清流の流れる風光明媚なところであった。広重が守山宿を描いた画には、川に沿って茶店が並び、川の両岸には桜が咲き山が見える。こんな風景は今はどこにもないが、かつての守山宿はそのような所であったのだろう。広重はこの「吉身郷」を描いたのかもしれない。現在の守山宿は近代化され新しい街並みになっているが、古い家も残されていて、宿場町としての歴史の風格を感じさせる。 今夜泊まる駅近くのホテルに向かうが、道筋が斜め方向に伸びており、思わぬ遠回りをさせられた。でもそのお陰で、スーパーやコンビニで買い物をすることができた。幸い左足の痛みは酷くならず、むしろ快方に向かっているようだ。

4月3日、日曜日。十ニ日目、守山宿から京都まで、31Km。京都泊。

  今日は最終日。早く京都に着きたいので、6時にホテルを出発、6時15分に守山宿に出る。落ち着いた感じの守山宿を足早に進む。守山宿は、京都を出立して一日目の宿泊地であるから賑わった。吉見、本宿、今宿からなる大きな宿であった。街道が左へカーブする所の右手にある東門院に立ち寄る。東門院は、比叡山延暦寺の東の関門という意味で、比叡山の守りとして建立された寺であり、守山の名の由来でもあるが、取り立ててどうというお寺ではない。守山宿の外れの住宅街の一角に、今宿の一里塚が残っている。

 落ち着いた住宅地を真っ直ぐに進んでいくと、栗東市に入る。この辺りは綣村といった。左手に大宝神社の広大な森が見えてくる。大宝神社は素戔鳴尊(しさのおのみこと)を祭り、大宝元年(701年)の疫病祈願を起源とする歴史を持つ。ベンチとトイレがあるので、小休止をするのにちょうどよい。


 栗東駅を過ぎ、国道2号線をひたすら歩く。まだ歩き始めたばかりだから歩みは軽く、東海道線の下を潜って右に曲がり旧道に入れば、伊砂伊砂神社である。伊砂伊砂神社は小さいが、奥ゆかしさを感じさせる美しい神社だ。本殿は重要文化財に指定されている。


 草津駅に近づくと、街道は高層マンションの谷間を進むような感じになる。中山道としては、東京以来の高層ビルである。草津駅を過ぎて、アーケードのある商店街を行く。まだ時間が早いので店は閉まっていて、通勤の人が通るだけであるが、昼間ともなれば賑やかな商店街であろう。本当に街道なのかと疑われ、この道筋に草津宿があるのかどうか心配になるほどだ。商店街を抜けてトンネルのような所を出ると、そこが草津追分である。

 

草津宿

 現在の草津追分には、広重が描いた両側に岡の広がる風景はない。町の真ん中で、残された道標だけが昔を偲ぶ縁である。追分を真っ直ぐ進めば京都で、左に曲がれば東海道で江戸に向かう。中山道はここが終点で、この先は京都まで東海道となる。中山道をずっと歩いてきたので愛着を感じて、中山道にから離れるのがなんだか寂しい気分になる。一方、これから東海道を歩くと思うと、それはそれで始めての事なので、気持ちの高ぶりを感じる。

 
 7時35分、草津宿に着く。草津追分のすぐ先に、現存する本陣としては最大級といわれる草津本陣がある。内部を公開しているが、京都まで先は長いので素通りする。外から見た目にも、その大きさが分かる。多くの宿場を見てきたが、本陣が残っている所は稀である。明治になっても街道の役割は残ったが、本陣はその存在意義を失ったから、維持していくことすら困難になったことは容易に理解できる。商家や旅籠は残っても、不要となった本陣の家屋敷は無用の長物でしかなかったのであろう。本陣の斜め前に、草津宿街道交流館がある。今日も寒いのでトイレに行きたくなるが、時間が早すぎて閉まっている。トイレくらいは開
けておいてもらいたいものだ。

 草津宿を出ると、少しうらぶれた感じのする商店街になる。やがて国道1号線を越え、野路の一里塚跡を過ぎる。野路の家並みはどこか垢抜けていて、今までの中山道沿いと比べると都会的な感じがする。やはり京都に近づいているからであろう。野路は古代から宿駅のあった所である。一里塚跡からしばらく行ったところの右手に、「野路の玉川」がほとんど消滅寸前の姿でかろうじて残っている。古代より萩の咲く名勝地として知られていたが、今は畑と家の入り混じったどこにでもある風景である。
 あすもこん野路の玉川萩こえて色なる浪に月やどりけり   千載集 源俊頼
 のきしぐれふるさと思ふ袖ぬれて行きさき遠き野路のしのはら   十六夜日記

 
 「野路の玉川」を過ぎ、月輪という家並みの美しい道を進む。この先、家並みの続く旧道を歩き続ける。瀬田に入り、時々道を探しながら入り組んだ道を進むと、ようやく瀬田の唐橋に通じる道路に合流し、右にゆるく曲がれば唐橋の袂に出る。

 
 現在の瀬田の唐橋はコンクリート橋であるが、唐橋風の意匠を施してある。橋から眺める景色は美しい。私の好きな風景だ。川の向こうには大津の町が重なり、琵琶湖の方には近江大橋が長く伸びている。琵琶湖から流れ出る瀬田川は水量が多く、ボート競技の細長いボートが行き交っている。芭蕉も俳句を残している。
    五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
    名月はふたつ過ても瀬田の月
瀬田の唐橋は交通のまた軍事上の要衝であるから、「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、壬申の乱以来しばしば歴史に登場している。

 
 671年の壬申の乱では、近江朝の大友皇子と叔父の大海皇子(天武天皇)が瀬田の橋で対峙したが、大海皇子が突破して勝利して、都を近江から飛鳥浄御原宮に遷都した。また764年の阿部仲麻呂(恵美押勝)の乱では、平城京を逃れ瀬田川を渡って近江の国衙に入ろうとした仲麻呂を、朝廷軍は先回りをして瀬田の橋に火を掛けそれを阻止した。これにより仲麻呂は追い詰められ敗北する。義仲の最期においても、今井四郎兼平と源範頼が瀬田の橋で対峙した。兼平は一旦は阻止して義仲と落ち合うが、最後は破れてしまう。これ以外にも、幾つかの戦の舞台となっている。

 
 瀬田の唐橋を渡り、賑やかな石山商店街に入る。左に行けば石山寺だ。東海道は右に進む。続いて晴嵐商店街を抜け、巨大な半導体工場をぐるりと回る。確か昔は新日本電気だったような気がするが、今はルネサスの半導体工場になっている。かつてはライバル同士であった三菱、日立、NECからなる半導体メーカで、海外勢との競争に打ち勝つための最後の砦である。
 

 膳所に入ると、再び街道らしい街並みになる。膳所商店街を抜け、膳所神社、縁心寺、和田神社などを見て進む。和田神社は重要文化財に指定されている。樹齢600年といわれるイチョウの大木がある。石田光成が捕らえられて繋がれたという木である。この辺りからは琵琶湖が近い。少し道草をして琵琶湖の浜に出てみることにした。ここはまだ琵琶湖の端で対岸が狭いが、左手の方向は琵琶湖の広がりを充分に感じさせてくれる。ゆっくりしたいところだが、次の目的地である義仲寺に急ぐ。
 

 昔の建物が多い落ち着いた通りを行くと、小さな義仲寺の前に出る。さっそく拝観料を払って中に入る。寺の人は親切で、リュックを置かしてもらう。街道歩きのことなどしばらく話をしてから、さっそく芭蕉の墓を詣でた。芭蕉の墓は、遺言に従い木曽義仲の墓の隣にある。この隣には巴御前の墓がある。義仲の墓はこれで三つ目だ。芭蕉の墓は俳人らしく、大きくもなく小さくもなく、趣のある自然石に墓碑が刻まれている。墓前には菊の花が活けられていて、いつも絶やさずに花が供えられている様子だ。寺の人に墓の前で写真を撮ってもらう。芭蕉の句碑をいくつか見ながら街道を歩き、今こうして芭蕉の墓前にいることが信じられないような気がする。感慨にふけると同時に、何か不思議な気持ちにもなる。境内には芭蕉の句碑をはじめ13の句碑が建てられている。ここに最も相応しい句碑はこれであろう。
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る
元禄7年10月8日、芭蕉最後の吟で、10日に遺書を認め、12日午後4時に大阪の旅先で没した。遺言に従い、遺骸はその淀川を夜川船で上り、13日に義仲寺に着き、14日に葬られた。享年51歳であった。

 
 義仲は源義経、範頼の軍勢に破れこの膳所で討ち死にした。その最期の様子は、今井四郎兼平の忠誠ぶりと壮絶な最後とともに『平家物語』に詳しく描かれている。その後、巴御前が義仲の菩提を弔うためにここに草庵を結んだ。鎌倉時代から「無名庵」、「巴寺」、「木曽塚」、「木曽寺」あるいは「義仲寺」と呼ばれていたとのことだ。芭蕉はしばしば義仲寺を訪れ、ここに滞在している。芭蕉が木曽義仲をどう思っていたのか、その心のうちは想像するしかないが、芭蕉の残した幾つかの句を読むと、夢破れた敗者への心の傾斜を感じる。
 木曽の情雪や生ぬく春の草
    義仲の寝覚の山か月悲し
    むざんやな甲の下のきりぎりす
    月さびよ明智が妻の咄しせん
これらの句から、義仲、斉藤実盛、明智光秀への深い共感を感じる。いずれも敗者たちである。『奥の細道』の「国破れて山河あり、城春にして草青みたりと笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」
    夏草や兵共がゆめの跡
は、とりわけ義経への思いに溢れている。
 

大津宿 

 義仲寺を出ると、次第に通りは賑やかになり大津市街に入る。滋賀県庁前を通る。明治24年、警備の巡査がロシア皇太子に切りつけた大津事件のあったのはこの辺りだ。NHKがドラマ化した柴遼太郎の『坂の上の雲』にも出てきたので、記憶に新しい。日露戦争前の事件だ。大津宿はどこからどこまでだか判然としないが、町並みに趣があり宿場であったことを感じさせる。広重は人で賑わう宿場の様子を描いている。木曽街道の田舎の宿場とは異なる、華やかな空気が感じられる画だ。通りの先には琵琶湖が迫っている。当時の琵琶湖は今よりも宿場に近く、大津宿は琵琶湖の水運の中心地でもあった。
 ここからは国道1号線に沿って、車に急かされながら進む。先ず蝉丸下社に寄る。蝉丸は宇多天皇の皇子敦実親王の雑色で身分は低いが、親王から琵琶の秘曲を聞き覚え、逢坂山に住んだという。今は、音曲の神様として慕われている。後撰集に百人一首でも有名な歌があり、その歌碑が境内に建てられている。
 これやこの行くも帰るもわかれては知るも知らぬもあふ坂の関
その先の、谷の狭まったところに蝉丸神社上社がある。下社ほど立派ではなく、すこし荒れた感じがする。
蝉丸神社上社の付近は、両側から急峻な山が迫り谷を狭くして、関を設けるには相応しい地形だ。逢坂の関の始まりは大化2年(646年)というから、不破関よりも古い。平安時代中期には、不破関、鈴鹿関とともに三関に数えられ重要視された。逢坂の関は『源氏物語』や歌に頻繁に登場するようになる。清少納言も歌にしている。
    夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ (後拾遺集)
その後も、交通の要衝としてそれぞれの時代の役割を担ってきたが、近世に道を掘り下げたため、その正確な場所が分からなくなってしまった。国道が坂を上りきった所に逢坂関跡の碑が建っているが、この場所というわけではない。


 道は下りになり、風流な庵という感じの月心寺の前を通る。門から中を覗くと、花が丹精に活けてある。それに惹かれてちょっと中に入ってみると、今まで見たことのない赤に白の縁取りがある椿が美しく咲いている。思わず写真を撮った。寺では女性グループの集まりがあるのか、中から笑い声が聞こえる。


 坂を下って、国道1号線と161号線が分岐する辺りで道筋が分からなくなる。東海道が国道で分断されているのだ。街道は大抵真っ直ぐであるから、こういう場合には直線の方向に進めば間違いないのだが、人に聞いたために道を間違えてしまった。教えてくれた通りに、歩行者用の地下道を潜って京阪京津線の向こう側に出たが、どうも様子が違う。京都へ行くには問題ないが、街道らしくないのである。やはりそうかと思いながら少し先で線路を越し、街道があると思われる方向に進むと、そのとおり東海道の山科商店街に出ることができた。このようなことは街道歩きをしていると幾度となく体験する。旧街道など知らない人が多いから、とんでもないことを教えられることがある。地元に住んでいる人は大方信頼できるが、仕事でそこにいる人は要注意だ。お巡りさんもその例外ではない。


 山科の商店街を歩く。右に毘沙門堂の矢印が見える。桜で有名であるから、一度行って見たいと思っているが、今日は時間もないから山科駅前を真っ直ぐに進む。途中に、山科地蔵、徳林寺、十禅寺、当麻寺などがある。やがて旧道は三条街道の広い道路と合流する。東海道線を越し、下御陵野町で東山を越える細い旧道に入る。御陵とは天智天皇山科陵のことである。


 住宅地の中を上っていく。山の上の方は、細い道の両側にいかにも関西らしいみすぼらしい住宅が、軒を接してひしめいている。こういうのを見ると、いかにも関西らしいと思う。関西は古い歴史と伝統的な文化が、骨の髄まで染み込んだ良さがあるが、一方では貧困な一面がある。山の上でこの道も三条街道と合流する。左の東山は青蓮院将軍塚の辺りであろう。

京都

 ここまで来ればもう京都の町はすぐそこだ。東山ドライブウェイの下を通り、坂を下っていけば蹴上である。疎水の桜並木はようやく咲き始めたばかりのようだ。この数日の冷え込みで今年は桜が遅い。京都の桜を楽しみにして、はるばる信州から歩いてきたが、ちょっと残念である。でも、垂れ桜はちょうど満開であろう。

 都ホテルの前の広い歩道を三条大橋へと向かう。疲れた足も元気を盛り返す。三条通の町屋を見ると、いかにも京都だなという実感が湧く。京都の町屋はどこかが違う。造りが洒落て洗練されている。丸みと繊細さがある。こういう意匠は、地方では絶対にまねができない。粟田神社の参道を過ぎ、白川を渡る。柳の新緑がやわらかく迎えてくれる。


 終に三条大橋の上に立つ。街道歩きの終点だ。橋の上から鴨川を眺める。見慣れた風景ではあるが、鴨川はいつ見ても京都を感じさせる所だ。上流のゆったりした眺めも、下流の四条あたりの賑やかな町並みも、川岸に張り出した家並みの風景も、どれも京都らしい。とうとう京都にやってきた。五年振りの京都である。

下諏訪から日本橋

11月10日、水曜日。一日目、下諏訪宿から和田宿まで、24Km。和田宿泊。

 5時30分に家を出る。風が強く寒い。夜明け前の空に星がきれいだ。寒いのでフードをかぶる。この時、帽子を落としたらしい。駅に着いてから帽子のないことに気がついた。始発電車まで15分しかないが、急いで探しに戻る。ほとんど家の近くまで戻った所で見つけた。やれやれ、電車は出てしまった。仕方なく、駅の待合室で次の電車を1時間待つ。何のための早起きか、幸先の悪いことである。
 予定より1時間遅れで、7時45分に下諏訪宿に着く。一昨年歩いた甲州街道との分岐点が、本日の出発点だ。すぐ先には真鶴の菓子屋、その向こうが諏訪大社秋宮で、馴染みの所だ。


 和田峠までの街道は国道142号線を歩かなければならない。中山道のほとんどが国道となっているからである。佐久と諏訪を往来する車が頻繁に通り、しかも山中であるから歩道がない。街道歩きにとっては最悪の道である。今日越える和田峠の方角を眺めると、昨夜雪が降ったらしく、山の稜線の木々が白い。途中、わずかばかり街道は国道から外れ、諏訪大社御柱祭の木落とし坂の上を通る。上から覗くと恐怖心を感じるほど急で長い坂だ。しばらく国道を歩くと「水戸浪士の墓」がある。幕末、親王派の志士である水戸浪士が京都へ登る途中、ここで高島藩と戦った。この墓を過ぎ、曲がりくねった国道を車に身を細めながら進むと、ようやく和田峠への登り口に差しかかる。

 
 ここからは山道である。昨夜の雪でぬかるんだ道を登る。途中で山道を整備してくれている人たちに出会った。日本橋まで歩くと言ったら、皆一様に感心してくれる。現代の車社会では、歩くこと自体がことさら珍らしくなってしまった。

 11時30分、和田峠に到着。峠の手前は急斜面で、昔は重い荷物を運ぶのにはどんなにか難儀を強いられたことであろうと想像される。風があり寒くて休む気にもなれず、写真だけ撮ってすぐ下ることにする。和田峠は黒曜石の産地で、石器時代から採掘されていたというが、どの辺りであろう。こんな山中に、黒曜石をどのようにして何をヒントに発見したのであろうか。人間が、悠久の時間を経て積み重ねてきた気の遠くなるような営みに思いを馳せる。


 峠を越えると、道は広くなだらかになる。峠は、一方が急でもう一方はなだらかであることが多い。和田峠もその例に洩れない。ここで今日初めて峠歩きの夫婦連れに出会う。東餅屋跡にあるドライブインを過ぎたところで昼食をとる。日は射しているがとにかく寒い。風を避けて草むらに座ろうとしたら、鹿の糞だらけで閉口した。


 和田峠から和田宿までの街道は、国道でつぶされることもなく残され、整備も行き届いている。途中に、旅の人馬に食事や馬鍬を無料で提供した永代人馬施行所の立派な建物が保存されている。ところどころ石畳の道が残る。落葉樹と針葉樹の混じる山の中の街道歩きを満喫する。この道は人気があるのであろう、街道歩きのツアー・グループに行き会った。

和田宿

 午後2時30分、和田宿に着く。帽子を落さなければ、もう1時間も早く着いたことになるから、かえって幸いだった。24Kmの山道を、およそ7時間で歩いたことになる。衣類、雨具、食料をぎっしりと詰めた登山用のリュックを背負い、寒いので休憩を満足に取ることなく歩いたのが祟ったのか、右足の内側の筋が痛い。この先がちょっと心配だ。

 今日泊まる本亭旅館は宿場の中心にある。宿に入ってからまた出直すのは億劫なので、宿場内を見て回ることにする。本陣、「かわちや」など、古い建物が保存されている。
足も痛いので、3時には旅館に戻った。客は私一人だけとのことである。この時期は客が少ないのかと聞いたら、不幸があって休館にしていたのだという。本亭旅館は庄屋の家を旅館に改造したもので、旅籠に泊まるような気分になれる。建物の横には立派な門が残されているが、修理する余裕がないのか荒れ果てている。美しかった筈の庭も、手入がされずに散らかっている。外の様子から内部も想像できようというものだ。こざっぱりとはしているが、居心地が良いというほどではない。江戸時代の旅籠に泊まると思えば、それよりもずっと快適であろう。すぐ風呂に入り、冷え切った体を温めた。石油ストーブを炊かないと部屋は寒い。燃料費として300円を徴収された。

11月11日、木曜日。二日目、和田宿から岩村田宿まで、30.5Km。中込泊。 

 7時35分、本亭旅館の夫婦に見送られて宿を出立する。旅立ちの気分がする。本日の行程はおよそ30Km、快晴で無風であるが、霜が降りて空気は冷たい。和田宿は細長い山間にあるので、8時になっても山に遮られて日が射してこない。寒いので陽射しが早く欲しい。山の斜面には朝日が当たり、唐松の黄葉が輝いている。大門川に架かる大和橋の付近で、ようやく朝日が顔に当たるようになった。冬の太陽は本当にありがたい。

長久保宿

 やがて長久保宿に着く。街道を直角に曲がると、ゆるく登る坂道の両側に宿場の面影を残す静かな集落が並んでいる。

 
 長久保宿を通り抜け、曲がりくねった道を登っていくと笠取峠に至る。峠からの浅間山の眺望を期待したが裏切られた。峠のすぐ下の一里塚跡で休憩し、暖かいお茶を飲む。昨日痛めた右足は、坂を登る時にまだ痛む。この痛みなら大事には至らないだろうから、歩きながら治してやろう。

 笠取峠を下っていくと、前方に浅間山が見え始める。その手前には笠取峠の松並木も見えてきた。松並木は保存され、よく整備されて観光スポットになっている。車で見に来る人や、街道歩きツアーの団体グループの人たちに出会う。「日本橋まで歩く」と告げると、皆一様に驚いてくれるので、ささやかな誇らしさを感じる。

芦田宿

 松並木を抜けると芦田宿である。芦田宿でも、本陣跡の休憩所で休んでいる街道歩きの中年女性グループに出会う。一緒に休憩する。グループの一人が飴をくれたので、包みを破って口に放り込むとチーズだった。

茂田井間の宿

11時30分、茂田井間の宿に到着。茂田井は白壁の土蔵造りの屋敷が立ち並ぶ、美しい集落である。古い建物がよく保存され、昔を偲ばせる。道端にいた老婦人に挨拶をすると、「しなの山林美術館」となっている旧家の奥様であった。今回は先を急ぐので、見学はパスする。茂田井間の宿の中心をなすのは、矢沢酒造、武重本家酒造といった造り酒屋の建物である。一目でそれと分かる女性の二人連れに出会う。“エホバの聖人”の勧誘である。「私は仏教ですから」と言うと、直ちに解放された。茂田井間の宿を出たところの畑の横で昼食にする。家から持参したパンとりんごを食べ荷を軽くする。本亭旅館でおにぎりを作ってくれると言ったが、冬はご飯が冷たくなって食べられたものではないのでお断りした。田舎の宿場には食堂などまず無いから、食料を持参することは必須だ。街道筋にはコンビニも無いのである。

望月宿

 茂田井間の宿を出れば、30分ほどで望月宿だ。望月宿はこの辺りの中心地として商店が立ち並ぶ、ちょっとした田舎町である。かの有名な「望月の駒」のイメージを描いていたが、「望月の駒」と望月宿とはあまり関係なさそうである。望月宿を抜けて川を渡ろうとしたら、旧道に架かる橋が工事中で通行止めになっている。なんとしても街道を歩きたいから、柵を乗越えて、鉄板の上を歩いて渡ってしまった。橋を渡ると瓜生坂の登りにかかる。ここからは望月宿が一望できる。瓜生坂にはほんの一部分であるが、広重の絵に描かれているような旧道が山の中に残されている。

八幡宿

 瓜生坂を越えるといよいよ佐久平だ。ようやくここから平坦な里の道となる。歩いてきた道を振り返ると、信濃路は本当に山また山であることを実感する。
途中で道を間違えながらも、1時50分に八幡宿に着く。余り見るところもなく素通りしようとしたら、そこに住んでいる人から、ここが本陣の跡だと親切にも声をかけられた。ありがたく礼を言い「ここが本陣だったのですか」と、大きな家の一角を眺めた。


 八幡宿にはその名の由来であろう八幡神社がある。八幡神社で一休みする。八幡神社は重要文化財に指定されている由緒ある神社である。立派な造りの随神門と、それより小振りの瑞垣門を抜けると、奥に本殿がある。意匠を凝らした彫刻で飾られた建物で、こんな田舎にあるのが不思議な気がするくらい立派である。これこそ、「望月の駒」を産した御牧に由来する神社である。古代より御牧があり、朝廷に名馬を献上していた。ここがその中心地であったのだろう。芭蕉の『更科紀行』の中で、中山道木曽路で読んだ句
         桟かけはしや先おもひいづ馬むかえ  
を思い出す。朝廷へ献上する「望月の駒」も、この木曽の桟を通って参上したのだなあという感慨である。馬むかえとは、逢坂の関で馬を出迎える恒例の儀式である。

塩名田宿

 八幡宿を出て、浅間山から菅平にかけて続く長い山並みを遠望しながら進むと、佐久平の中央を貫く千曲川に出合う。千曲川に架かる中津橋を渡れば塩名田宿だ。橋を渡り終えた川岸に、大きな舟つなぎ石がある。当時の舟橋を固定した岩のように大きな石である。塩名田宿にはちょっと風情のある建物が川岸に残っている。

 塩名田宿を出てすぐの所に、重要文化財の駒形神社ある。神社の石段を、初日に痛めた右足を引きずりながら登る。上り坂になるとまだ痛む。神社の創立に関しては不明であるが、1846年に再建されたとある。騎馬の男女の神を祀っているというが、小さな本殿は建物で囲われていて内部は見えない。この駒形神社も明らかに「望月の駒」と関係している筈だ。


 りんご園や畑の広がる佐久平をひたすら進む。左側には長野新幹線の高架が街道と平行して走っている。その向こうには、長大な佐久の山並みが横たわる。左端は、菅平高原、根子岳、四阿山(あずまやさん)、中ほどが湯ノ丸山、右端が前掛山と浅間山。佐久平を特徴づける印象的で美しい景観だ。六月の初め、レンゲツツジの咲き乱れる根子岳と四阿山を登った時のことを思い出す。浅間山はまだ登ってない。登山禁止と聞くが、いつか登りたいものだ。浅間山の山頂からは、時折白い水蒸気が雲のように噴出しているのが見える。

岩村田宿

 4時20分、日が沈みかけちょうど浅間山が夕日に染まるころ、岩村田宿に着く。岩村田は佐久平の中心地の一つで、現在は大きな商店街となっていて宿場の面影は全くない。歴史的に、ここが宿場であったということだけである。
私の家内は合気道をやっているが、岩村田には合気道の佐久道場がある。毎年5月には世界各地から合気道を習いに弟子達がやってくる。
岩村田駅から小海線に乗り、今日の宿のある中込へ向かう。

11月12日、金曜日。三日目、岩村田宿から軽井沢宿まで、18Km。中込に連泊。

  7時5分、岩村田駅を出発。碓氷峠があるため、今日の行程は軽井沢までの18Kmと短い。快晴であるが、天気予報では午後一時雨となっている。

小田井宿

 国道を歩くこと45分、小田井宿への旧道に入りほっとする。8時15分、小田井宿に着く。静かな宿場で、当時の雰囲気をまだ残している。公家や武家の子女が好んで宿泊したことから、「姫の宿」とも呼ばれている。そのせいかどことなく奥ゆかしく優雅な佇まいが感じられる。宿場の外れに、東屋風の休憩所が設けられている。ここで一休みするが、空気が冷たく鼻水が出てしかたがない。じっとしているのも寒くて、お茶を飲んですぐ出発する。

 小田井宿を出てしなの鉄道の線路を潜り抜けると、西軽井沢になる。この辺りからの浅間山の眺めが美しいと聞いているが、あいにく天気予報どおりの小雨模様の天気となってしまった。道は林に沿って進むようになり、ちらほらと別荘風の建物が目に付き始める。すると急におしゃれな雰囲気になってくる


 田舎屋でも、日本の伝統的な家屋には様式美があるが、現代の和洋折衷の住宅には美意識といったものが感じられない。デザインはまちまち、建材はまちまち、色もまちまちで、安っぽさばかりが目に付く。特に田舎の住宅地は、面白くもなんともない。ところが別荘地帯になると、趣味のあるしゃれたデザインの家が多く、これを見ながら歩くのは楽しい。日本の一般住宅が様式美を持つようになり、美しい景観を持つようになるのはいつのことだろう。


 9時40分、小雨の中を追分に着く。中山道と北国街道の分岐点である。追分には石碑がそのままの姿を残していて、当時を偲ばせる。現在の追分宿は別荘地となり、宿場の面影はまるでない。泉洞寺という寺があり、門前にあるモミジが真っ赤に紅葉している。別荘の敷地には好んでモミジが植えられているので、どこも紅葉がきれいである。この季節は人が少なく、雨模様の天気も手伝って寂しさを感じる。


 堀達雄記念館があるが、素通りする。『風立ちぬ』は、私の住む富士見町にある結核療養所、現在の富士見高原病院が舞台であった。この辺りは富士見にもどことなく似ているが、こちらのほうが少しおしゃれである。

沓掛宿

 11時10分、沓掛宿、現在の中軽井沢に着く。中軽井沢には宿場を思い出させるものは何も残っていない。地元の人に聞いて、ようやく本陣跡を見つけることが出来た。沓掛と言う名前も消え、今は商店街に変貌している。中軽井沢駅を過ぎ、軽井沢中学校の横にある池の端のベンチで昼食にする。雨も上がり、日が射してきた。少し暖かくなり、岩村田のローソンで買ったパンをかじる。

 中軽井沢を過ぎると、街道は国道から分かれて唐松林の別荘地帯へと入っていく。道の両側にある瀟洒な別荘を楽しみながら、林の中の道を進む。時折車が通るが、静かな道である。唐松に混じって、別荘に植えられているモミジの紅葉が美しい。今まさに紅葉の盛りである。富士見にある、犬飼毅の別荘だった「白林壮」や、政治家小川氏の別荘「帰去来荘」のモミジの紅葉は美しいが、軽井沢の紅葉もそれと似ている。


雲地池という美しい池があり、寄り道をする。ここに来ると観光客が急に多くなった。池に紅葉が映って美しい。赤く染まった水面を水鳥が遊んでいる。池をバックに、新郎新婦が結婚式の記念撮影をしていた。

軽井沢宿

 旧軽井沢のロータリーを過ぎると軽井沢宿である。軽井沢宿は、現在は旧軽井沢と呼ばれ、軽井沢の中心地である。おしゃれな商店が立ち並び、観光客でごった返している。街道歩きの格好では場違いな感じがさえする。人ごみの中を歩く気がしないので、軽井沢宿は明日に残して、紅葉しているモミジの街路樹の道を駅に急ぐ。

 広重の軽井沢宿の絵に描かれている、旅人が焚き火から煙草の火を取っている風景は、今では想像することすら難しい。富士見も軽井沢も古くからの別荘地であるが、富士見はお金のない学者の別荘地、軽井沢はお金持ちの別荘地と言われていた。やはり軽井沢は、ちょっと住んでみたいと思わせるおしゃれな所である。

11月13日、土曜日。四日目、軽井沢宿から松井田宿まで、20Km。高崎泊。 

 7時54分、軽井沢駅を出発。軽井沢のホテルが満員で、中込のホテルに連泊したので、出発が遅くなってしまった。本日の予定は碓氷峠を越えて安中宿までであるが、行き着けるであろうか。天気予報では全国的に快晴であるが、軽井沢は一面の雲リ空である。早朝の軽井沢宿いわゆる旧軽井沢は、昨日とは別世界のように人一人いない。静寂そのものである。無人の商店街を抜け、つるや旅館を過ぎた所に芭蕉の句碑が建っている。
 馬をさへながむる雪の朝哉
いかにも信濃路での句のようであるが、熱田神宮への街道で読んだ句である。
高級別荘が立ち並ぶ林の中の道を進むと、すぐに碓氷峠への登りとなる。ハイキングならば遊歩道を歩くことになるが、今回は街道歩きなので、敢えて車道を進むことにする。この時間帯は車もなく歩くことが出来るが、普段の車の多いときには危険であろう。碓氷峠への登りで一茶が詠んだ句がある。
      しなの路の山が荷になる寒さ哉  (七番日記)
一茶集には、夏の部に「しなの路の山が荷になる暑さ哉」とある。こちらの方が実感がこもっている。


 9時10分、碓氷峠に立つ。碓氷の名の由来の如く、薄日が射している。先ずは石段を登り、日本武尊を祀る熊野神社を参拝する。家族全員の健康と、特に妹の病気回復と母の足が良くなるよう祈願する。
峠からは展望がほとんど利かない。少し道を戻って、見晴台へ行くことにした。その価値は充分あった。群馬県側を眺めると、妙義山が山水画に出てきそうな、独特の形をした山頂を連ねている。のみで削ったような奇怪な山容は、自然の造形の傑作である。若山牧水は『火山の麓』で、「中にも鋭い角度をなして幾つともなく空に突き出て居る妙義山の峯々の輪郭が、しょんぼりとその光線の中に浮いているのが取分けてうら寂しい。」と書いている。なるほど多感な青春時代、一人でこの峠に立ったならば、「しょんぼりと」、「うら寂しい」と感じたかもしれない。今の私は「絶景かな」と、能天気なほど健康的である。
長野県側を眺めると、昨夜の雪で白くなった浅間山の緩やかな斜面が美しい。にょきにょきとした妙義山と、ゆったりとした浅間山の対照が妙である。再び群馬県側に戻り、妙義山を心行くまで眺める。
 剛直の冬の妙義を引寄せる   山口誓子 熊野神社の句碑
ここでついでに、万葉集から碓氷峠を詠んだ歌を二首紹介しよう。
 日の暮に碓氷の山を越ゆる日は夫(せ)なのが袖もさやに振らしつ 

第十四巻 上野国
 ひなくもり碓日の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも 
第二十巻 防人他田部子磐前


 碓氷峠からの下りは完全な山道である。軽井沢側よりもなだらかであるが、はてしなく続いているように感じられる。折しも紅葉の真っ盛りで、道は落ち葉に埋もれていて、時々窪みに足を取られたりする。紅葉を楽しみながらも足元に気を配りながら、軽快に下って行く。紅葉がきれいでつい写真を撮りたくなるので、遅々として進まない。山中では二組のハイカーに出会っただけで、人気がない。熊避けの鈴の音と、落ち葉を踏むがさがさという音だけがあたりに響いている。


 安政年間、安中藩では藩士を鍛えるために「安政の遠足(とうあし」)」と呼ばれる侍マラソンが行われた。安中から碓氷峠までの25Kmあまりである。日本のマラソン発祥の地かも知れない。峠道のいたるところに「侍マラソン」の標識が立てられていた。

坂本宿

 石のごろごろして歩きにくい急坂を過ぎると、眼下に坂本宿が見えてくる。坂本宿は妙義山の麓を一直線に伸びている。この辺りで呼んだとされる一茶の句がある。
    坂本や袂の下は夕ひばり


 12時に坂本宿に着いた。初日に痛めた右足の痛みは取れたが、峠の下りから平坦な道になると、今度は左足の甲が痛くなる。坂本宿は英泉が描いたとおりに、妙義山を背にした風光明媚なところにあり、700mほども一直線に伸びる道に家々が並んでいる。しかし、現在の坂本宿は見るところはなく、しかも道路が工事中で落ち着かず、そのまま素通りしてしまった。一茶がよく泊まったという「たかさごや」という旅館も、あったのかなかったのか見落とした。


 碓氷関所跡の手前にある関所食堂でラーメンを食べる。ガイドブックに載っていた店であるが、とくに旨くはなく小汚い食堂だった。碓氷関所跡は門だけが残っている。坂本宿の入口に関所が設けられていたため、追分節の馬子唄に「雨が降りゃこそ松井田泊まり、降らなきゃ越えます坂本へ」と歌われたように、旅人はとにかく関所を早く越えて、坂本宿でゆっくりしようとしたのであった。


 関所跡、続いて横川茶屋本陣を過ぎると、右に横川駅が見えてくる。リアス式鉄道と、「峠の釜飯」で有名な横川駅である。昔、信越線に乗ったとき、横川駅に着くと乗客が競うようにして釜飯を買っていたのを思い出した。あまり大勢の人が買うので、私も興味をそそられて釜飯を買ったが、特別旨いとも思わなかった。記念にと陶器でできた器を持ち帰ったのを覚えている。


 そんなことを思い出しながら、国道18号線に沿って先を急ぐ。本日は安中まで行く予定だからだ。ところが碓氷神社の所で道を間違え、旧道への入口を見過ごして国道を進んでしまった。かなり歩いた所で、たまたま通りかかった地元の人から道が違うと教えられた。街道歩きの話をしていると、群馬県下の中山道を歩いたことがあるという。偶然にも、街道に興味を持っている人であったことはまことに幸運だった。だいぶ時間と労力をロスして旧道に戻る。旧道からは妙義山がよく見えた。こちらの角度から眺める妙義山もなかなか良い。


 不運は重なるもので、上越自動車道を越えた所でまた道に迷った。国道バイパスが拡張され、地図に載っている旧道が見つからない。仕方なく感を頼りに街道と思しき道を進む。すると地元の人が立てた「中山道旧道」と書かれた立て札を見つけた。感が当たったと喜んで歩いて行くと、どうしたことか地図とはかけ離れた方向に道は進んでいく。不安になるが、また「中山道旧道」の立て札を見つけ、気を取り直して歩き続ける。それにしてもおかしい。道は国道から離れる一方である。仕方なく田んぼの農道を、松井田宿の方向に進むことにした。ようやくのことで地図に示されている旧道に戻ることが出来た。それにしてもあの立て札は何だったのだろう。街道も時代によって道筋が変わることがあるから、中山道の古道だったのかもしれない。お陰で1Km以上のロスをしてしまった。この回り道は、痛みを抱える足に堪えた。

松井田宿

 松井田宿にようやくたどり着き、宿場の中ほどにある無料休憩所で一休みする。ラーメンだけでは腹が減ってきたので、コンビニで昨夜買っておいたあんパンを食べる。あんパンは大好物であるが、普段はほとんど食べないし、本当に美味しいあんパンは少ない。ましてコンビニのあんパンを買うことはまずない。でも街道歩きや登山のときだけは例外で、コンビニのなんとか工場製あんパンでも、それを買うことが楽しみである。

 まだ2時前であるが、安中宿まではあと10Kmほどある。休憩を入れて少なくとも3時間はかかる。日暮れは4時半であるから、安中宿の手前で暗くなってしまう。それに安中までは高崎線の駅はない。暗くなってまた道に迷ったら大変である。仕方なく本日は松井田宿で切り上げることにした。やはり碓氷峠越えは負荷が大きかった。その上、道に迷ったのが痛かった。この10Kmをどう挽回しようか。


 松井田宿はそう見るべきものが見当たらない。「雨が降りゃこそ松井田泊まり」の馬子唄を思い出す。「日が暮れりゃこそ松井田止まり」といったところであろうか。


 松井田駅から高崎線に乗り高崎に向かう。本日の宿は高崎駅前のアパホテル高崎である。このホテルには温泉の大浴場がある。ホテルに早く着いたので、誰もいない大浴場でのんびりと旅の疲れを癒した。これはこれで贅沢な気分である。

11月14日、日曜日。五日目、松井田宿から新町宿まで33Km。高崎連泊。

  ホテルの朝食バイキングを普段の量の何倍も食べて、7時30分発横川行きの電車で松井田まで戻る。8時5分、松井田宿を出発する。松井田宿からは右に妙義山を眺めながら気持ちの良い旧道を進む。右足の痛みは幸いにもなくなったが、左足の甲が昨日から痛い。しかし、この痛みは歩き始めて1時間もすると消えてきた。この原因は後ほど判明する。

 妙義道常夜灯のある付近からの妙義山の眺めがすばらしい。電信柱が映らないように場所を探して写真に収める。一眼レフを首にぶら下げて歩くのは煩わしいかぎりであるが、写真を写すたびにリュックから出すのはもっと煩わしいから仕方がない。郷原という少し趣のある集落を通る。

安中宿

 原市の杉並木は、今は数本の大木を残すだけであるが、若木を植えて杉並木を復活させつつある。あと百年もすれば、立派な杉並木に成長するであろう。杉並木を過ぎて旧道が国道18号線を越えると、安中市中に入る。10時15分、安中宿に着く。安中というと、先ず思い出すのがカドミウム汚染と、信越線の車窓から見える東邦亜鉛安中製錬所の巨大な鉄骨のジャングルのような殺伐とした風景である。どうしてもそのような先入観から安中宿を見てしまう。安中は安中藩の城下町であるから、固定観念なしで町を散策すれば、違った印象を持つようになるであろうが、宿場を素通りする限りにおいては、残念ながら安中の悪いイメージを払拭するには至らなかった。

 街道歩きで困るのがトイレである。特に寒いときは、急に行きたくなっても家並みが続いていると、ちょっとというわけにはいかず我慢するしかない。安中でも急の用事に困ったが、幸運にも工事現場の仮設トイレを見つけた。コンビニを見つけたら、買い物はぜずともこまめに用事を済ませることである。

板鼻宿

 安中駅前の広い国道バイパスを抜けて再び旧道に入る。鷹の巣橋を渡ると板鼻宿だ。ところが、板鼻宿がどんな所であったかどうしても思い出せない。ちょうちん屋とか皇女和宮資料館とかあったはずであるが、多分ぼんやりと通り過ぎたのであろう。

 
 そういえば『義経記』に、義経が吉次に連れられて平泉の藤原秀衡のもとに下る途中、陵みささぎが館たちを焼いて逃げ「上野国板鼻といふところに着き給いけり」とある。この板鼻で宿を借りようとした。主がまだ帰宅しておらずしかも偏屈者だから、泊めたら大変なことになると断られるが「今宵一夜はただ貸させ給え。色をも香をも知る人ぞ知る」と言って、義経は強引に泊まってしまう。やがて主人が帰宅し義経であることを知るや、重代の家臣であるとして義経に終生の忠誠を誓うことになる。この主人こそ伊勢三郎義盛である。

 板鼻宿を出ると、高崎宿までしばらくの間国道18号線を歩くことになる。歩道があるため歩きやすいが、実に退屈である。上州のとりわけ景色がよいわけではない平坦な道を、ただひたすら歩くだけである。国道端にだるま屋があり、高崎に近いことを感じさせる。

高崎宿   

 上豊岡の茶屋本陣のところから旧道に入る。12時を少し回っていたので、旧道沿いにある「四川」という大きな中華料理店で昼食とする。店は地元の人や法事帰りのグループなどで賑わっていた。800円の五目焼きそばを注文する。ボリュームたっぷりで二人前はあったが平らげた。最初は旨いと感じるが、終わりのころには味に飽きてくる。並みの中華料理は、どこでもそうである。朝のバイキングと昼の焼きそばで、今日はさすがに満腹である。でもこの先まだ15Kmは歩くから、夕食までには腹が減るであろう。

 烏川に架かる君が代橋を渡る。橋の上からは遠くに赤城山や榛名山を見ることができる。遠く上州まで来たのだなということを実感する。高崎市内に入り、街道が分からなくなった。仕方なく市役所を目当てにして、駅の方向に進む。市役所の周辺は、コンサートホールなどがあり、美しい都市の景観を作っている。高崎駅前の街道と思われる通りを、倉賀野宿を目指して進む。

倉賀野宿

 上越新幹線の高架を潜り、特に特徴とてない退屈な旧道を歩き続けること1時間半で倉賀野宿に着く。倉賀野宿の外れには常夜灯があり、ここが日光例幣使道へ別れる追分である。日光例幣使は貧乏公家が勤め、宿場に長逗留して金銭をせしめた。ただでさえ飢饉や大名行列の使役などで困窮する宿場に大金を要求して庶民を苦しめた。そこで、こんな落首が生まれた。
 このへさま さかさにすれば へのこさま ぶらぶらせずに すぐに立ち去れ
これに対して、例幣使のほうも
 このへさま さかさにすれば へのこさま にぎりさえすれば すぐに立ちます
とやり返したという。藤村の『夜明け前』にも、馬籠宿における日光例幣使の横暴振りが克明に描写されている。そういえば『夜明け前』の主人公青山半蔵も中山道を江戸に往復していた。

新町宿

 しばらく退屈な道を歩くと、烏川に架かる長い柳瀬橋を渡る。橋からの開放的な景色に一息つく。烏川沿いの道をさらに進み、4時、日の傾くころ新町宿に到着する。新町宿も特に見るところはなさそうである。新町駅から高崎線で高崎に戻る。

11月15日、月曜日。六日目、新町宿から熊谷宿まで、28Km。熊谷泊。

  7時50分、新町駅を出発。今日も歩き始めは左足の甲が痛む。新町宿を出るとすぐに神流かんな川を渡る。神流川は上野国と武蔵野国との堺である。つまり群馬県から埼玉県に入る。上野国をおよそ二日間で横切ったことになる。神流川からは上州の赤城山、榛名山、歩いてきた方向には妙義山が見える。英泉の大名行列が橋を渡るところを描いた「神流川渡場」の絵には、浅間山が描かれているが、浅間山には気がつかなかった。

 この辺りはネギの産地なのだろうか、街道脇の畑にはネギが青々と育っている。富士見ではネギの葉は寒さで枯れかけている。野菜の青さから、温暖な地であることがよく分かる。

本庄宿

 9時40分、本庄宿に着く。本庄宿については記憶が薄い。特別印象に残る所ではなかったのだろ。本庄宿からしばらく歩いて八幡神社を過ぎる辺りから、のどかな田園となる。街道は小山川の川沿いを進み、やがて滝岡橋という御影石造りの橋を渡り、小山川の対岸に出る。滝岡橋は、こんな所には場違いなくらい立派な橋である。

深谷宿

 国道を横切り、島護産蚕神社で休む。ここから時たま車の通る旧道をひたすら歩くこと1時間余り、12時15分に深谷宿に着く。深谷宿もこれといって特徴のない所である。昼時なので、食堂を探す。幸い「ひさご」という気の利いた和食の店があった。ランチメニューの天ぷらミックスを注文する。750円でなかなか旨かった。座敷でゆっくりと足を伸ばし疲れをとる。

 深谷宿から熊谷宿までは10Km。ひたすら旧道を歩く。国道を歩くよりましであるが、地方の旧道には歩道がない。しかも、車がひっきりなしに通る。その都度身を細めて道の端に寄らなければならない。親切に避けてくれる車もあるが、すれすれに通って行く気の利かない車も多い。これには全く閉口する。

熊谷宿

 3時30分、ようやく熊谷の市中に入る。小雨が降りだしてきた。大きな町に入るとどこも街道が分からなくなる。迷いながらも、熊谷のデパート前で旧中山道の標識を見つけた。どうやらこのデパートは、中山道を遮るようにして建っているようだ。デパートの門を曲がると、また中山道の標識があった。このデパートの地下で、今夜の夕食に寿司のパックを買う。

 デパートを出ると、中山道は熊谷のメインストリートになっている。この通りにあるキング・アンバサダー・ホテル熊谷が今夜の宿である。名前負けしない、清潔で広々とした良い部屋だった。いつものように、足のストレッチを入念にしてから、ゆっくりと風呂に浸かり疲れをとる。早めの食事をして、ベットに横になりながら明日のコースを確認し、テレビを見ながら寝てしまう。

11月16日、火曜日。七日目、熊谷宿から浦和宿まで、40.5Km。浦和泊。

  四日目のロスを挽回すべく、今日は浦和宿までの40.5Kmを歩かなければならない。この時期の日照時間は約十時間だから、明るいうちに着くために、5時50分、まだ暗いうちに出発する。幸い、左足の甲の痛みは、靴紐をきつく結びすぎたのが原因であることが判明した。毎日長時間歩いていると、靴のちょっとしたことが足の痛みを引き起こす。因みに私の愛用しているのはウォーキング・シューズではなくランニング・シューズである。それも底の厚いクションがよく効いた固めのものが、歩くにはちょうどよいようだ。今履いている靴は、甲の当たりが少し窮屈で、これが足の痛みの原因になったようである。自分の足にぴったりする靴はめったにない。

 高崎線の踏切を渡り、住宅地を抜けると荒川土手に出る。この先の中山道は4Kmほど荒川の土手を行く。ようやく前方から朝日が昇る。日の出の写真を撮ろうとしていたら、散歩の人から話しかけられ、シャッターチャンスを逸してしまう。土手からは眺望を遮るものがない。西には富士山と秩父の山々が、後ろを振り返ると妙義山が、北東の方角には榛名山と赤城山が見える。広々とした河川敷を眺めながら、久下の長土手と呼ばれる荒川土手を、軽快な足取りで進む。今まで道路ばかり歩いていたから、まことに快適である。

鴻巣宿    

 土手道が終わる所に、歌舞伎で有名な権八地蔵がある。街道は再び町中の旧道を歩くようになる。熊谷宿から次の鴻巣宿までは16Kmも離れている。13Kmくらい歩いた所の氷川八幡神社で大休止を取る。住宅地をさらに歩き、9時50分、4時間歩いて鴻巣宿に着く。鴻巣宿は関東三大雛市で知られる。街道筋には人形店が軒を連ねている。

 鴻巣宿から1時間歩いて浅間神社で休む。境内では老人達がゲートボールを楽しんでいた。街道筋には腰を下ろして休むような所はないので、神社が恰好の休憩場所となる。車の走る歩道のない旧道がさらに続く。

桶川宿

 11時50分、桶川宿に着く。桶川は山形とともに紅花の産地であった。紅花の商いで儲けた豪商の土蔵造りの商家が今も残っている。ちょうど昼食時なので食堂を捜すが、宿場ではどこも飲食店が少ない。諦めかけたころ、「いしづか」という和食の気が利いた店を見つけた。メニューの最初にある肉うどんを注文する。「注文してからうどんを茹でるので15分ほどお待ち下さい」とある。待つ甲斐あり、腰が強く、歯ごたえのあるうどんが実に旨かった。肉もたくさん入っており味がよかった。食後のコーヒーも百円でたっぷりあった。帰りしなに「おいしかった」と言ったら、店員が嬉しそうな顔をしていた。

上尾宿

 1時15分に上尾宿、3時10分に大宮宿に到着。上尾宿から少し都会らしくなる。大宮宿はもう都会で、歩く人も街も都会的である。
桶川宿から大宮宿まではずっと旧道を歩くが、実につまらない道である。歩道はなく、車がひっきりなしに通る。家並みも全体に粗末で趣味に欠ける。群馬県下と埼玉県下の平地は景色が単調で見所も少なく、歩いていて退屈する。中山道を通して歩こうという目標でもなければ、わざわざ歩くこともないかもしれない。中山道を歩く人に勧められるのは、上州なら横川駅からの碓氷峠越え、信州なら信濃路はどこもよい。

大宮宿

 大宮宿を過ぎると、急に高層ビルが目に入り、街道は近代的な通りとなる。「さいたま新都心」という、近年になって開発された街である。ケヤキの並木道となり、歩道は広くて歩きやすく、疲れた足にやさしい。

浦和宿

 4時35分、日の暮れかかるころ浦和宿に到着する。歩道に、ナスを売る老婆の彫刻が据え付けられていて、薄暗がりで見ると本物と見間違う。浦和は埼玉県の中心地であるし、東京圏内であるから賑やかである。駅前のホテルに着く頃には、すっかり暗くなっていた。いつものようにスーパーで夕食を買い、ホテルに入る。浦和はJリーグ浦和メッツの本拠地であるから、駅前はレッズのイルミネーションで飾られていた。今日は、日の出前から日没まで、40.5Kmを歩いた。お疲れ様でした。

11月17日、水曜日、八日目最終日。浦和宿から日本橋まで、26Km。 

 今日は最終日。ホテルは朝食付きであったが、食事は階下にある24時間営業のデニーズで実に粗末なものだった。東京に近づくにつれ食事の値段は高くなり、中身は貧弱になる。今日も日の出前の6時にホテルを出発する。

 日が昇るころ焼米坂を通る。かつて焼米を売る茶店があったのでこの名がある。次の六辻という辺りで、違う道に入り込み迷ってしまった。近くを走る埼京線の駅まで行ってしまい、交番に道を尋ねる。親切に教えてくれた。

蕨宿

 7時40分、蕨宿に到着。蕨宿はこの辺りには珍しく宿場を保存している。昔の建物が特別に残っているわけではないが、宿場の雰囲気を現代風に演出している。

 蕨宿を出ると、次は荒川の戸田の渡しである。現在は大きな戸田橋を渡る。荒川を越えればいよいよ東京都だ。戸田橋からの荒川の眺めは、何となくウィーン郊外のドナウ川を思わせる。どちらの川も水はきれいでない。戸田橋から都会の道を2.5Kmくらい進むと、志村の一里塚がある。一対の一里塚がほぼ原形を留めている。下諏訪からここまでの中山道で、一里塚が現存しているのはここだけだ。こんな都会の真ん中で、よくぞ残ったものである。何かの偶然が一里塚を残したのであろう。

板橋宿

 9時45分、板橋宿に着く。板橋の名の由来となる板橋を渡る。もちろん現在の板橋は普通の橋で、板を渡した橋ではない。現在の板橋宿は活気のある商店街に変貌している。地方の商店街は衰退する一方であるが、都会では健在である。こういう古い商店街は人情味があって楽しい。

 中宿の商店街を抜け、都電荒川線を渡ると巣鴨地蔵通り商店街になる。11時10分、少し早いが庚申塚の近くの店に入り昼食にする。この店は見かけだけで最悪だった。アジの焼き魚に味噌汁が付いただけの定食が800円。東京の食堂は高くて不味い。巣鴨の商店街も活気に溢れていて、下町らしい感じが好ましい。地蔵通りというのは「とげぬき地蔵尊」を本尊とする高岩寺があるからある。境内には「洗い観音」があり、水をかけて自分の悪いところを洗うと治るという信仰が今も盛んで、順番待ちの長い列が出来ていた。


 東京の都会らしい街を楽しく眺めながら、白山、東大赤門前を通り、お茶の水の湯島の聖堂を過ぎると秋葉原である。この時になって初めて、中山道が秋葉原を通っていることを知った。


 秋葉原は私にとって特別の場所である。父の『電波科学』という雑誌で知った「秋葉原」という名前は、信州育ちの少年にはあこがれの所であった。そんなことがきっかけとなり、半導体を職業とするようになった。横浜に住むようになり、オーディオを趣味として、秋葉原へはよく通った。このごった返して、無秩序で、しゃれっ気のまるでない、おたく的な街が、特に好きというわけではない。それでも、古いものから最新のものまで、なんでもかんでもごちゃ混ぜに詰めこんだようなこの街は、電気に関するものならば何でも手に入る魔法の引き出しである。秋葉原は、真空管から半導体へ、アナログからディジタルへ、ブラウン管から液晶へ、オーディオからパソコンへと、エレクトロニクス技術の革新に合わせて変貌しつつ繁栄を続けている。日本の活力を象徴する街でもある。

日本橋

 もう日本橋はすぐそこだ。立ち並ぶビルの向こうに、お馴染みの日本橋三越が見えてくる。日本橋の袂にある道路元標を感慨深く眺めて、八日間の中山道歩きは無事完了した。一昨年に甲州街道を歩いた時と同じように、日本橋を渡り、最初に出会う「とらや」で羊羹を買い、帰路についた。