私の近況2023

2023.1.18 全ての部品を高校生に譲る

 会社に就職した時から、オーディオ制作のために買い求めたきた部品類が貯まり、プラスティックの整理ダンスに収まったまま、もう使う予定がなくなっていました。いつかは処分しなければと思いながら、手が付けられずに来てしまいました。捨てるのはもったいないし、だからと言って、引き取ってくれる人もいないしと、放置してきたのが実際のところです。
 突然転機がおとづれました。孫娘が、日本の中学校を体験したいと言うことで、2学期だけ預かり、富士見中学校に通うことになりました。この時、原村でイルミネーションを音楽に合わせて点滅させるプログラムを作る活動がありました。そこに孫が参加しましたが、グループの中に高校生がいて、プログラミングや電子工作に特技を持っていました。早速聞いてみると、電子部品に興味があるようです。そこで、この高校生に、私が今まで貯め込んだ部品類や測定器などを、全て譲ることにしました。
 私もが学生の頃、お金もなく、部品を集めることには苦労しましたから、人から譲ってもらう嬉しさはよく分かっていました。今は時代が違いますが、若い人に少しでも役立てもらえれば本望です。
 車で、原村の別荘地にあるその高校生の家まで届けましたが、別室に工房まで持っていて、さまざまな工作機械が揃っていました。聞いてみると、知り合いの大工さんなどから、いらなくなった工具を譲ってもらっているとのことです。私の部品類も、うまく使ってくれるものと思います。


 

2023.2.8 出来ることは何でもやろう 何が当たるかわからない
     外資のメガソーラー開発を阻止した 

 3年間の戦いの末、とうとう事業者はメガソーラー開発を断念しました。計画地は富士見町の帰去来荘という、明治時代からの別荘の跡地です。糸魚川静岡構造線に沿った、活断層のずれにより生じたテクトニック・バルジという丘の上にあり、一方は崩れやすい急斜面になっています。しかも、表層はローム質粘土層の軟弱な地盤です。そこに、地下浸透により、雨水を染み込ませる設計になっていました。土砂崩れの危険性と設計の不備、住民説明の不十分であること、などにより、事業者は撤退に追い込まれました。
 
 

帰去来荘(小川別荘) 

 小川平吉(1870ー1942年)は、御射山神戸村(現・富士見町)出身の政治家である。平吉は日露戦後の講和条約への不満から発した日比谷焼打事件の立役者として知られ、後には政友会の重鎮となった大物政治家である。かたや射山と号して漢詩を能くした。1910年(明治43)年に郷里の富士見村(現在の富士見町塚平)に別荘を建て、四~五世紀の中国の文学者である陶淵明の詩に因んで帰去来荘と名付けた。
 平吉の交友関係は広く多彩で、多くの文人墨客や政治家と付き合いがあり帰去来荘に招待した。中でも小説家の田山花袋や、五・一五事件で倒れた犬養毅は、帰去来荘の隣の朝鮮別荘に長期滞在した。その他の客人の中には、総理大臣経験者の田中義一、近衛文麿をはじめ、政治家の頭山満、前田米蔵、洋画家の中村不折、日本画の池上秀畝、小室翠雲、中国文学者の久保天随、ジャーナリスト・評論家の長谷川如是閑、人間国宝の陶芸家富本健吉、中国出身の棋士呉清源など、多子済々である。
 一方で、政治家としての小川平吉の評価は必ずしも芳しいものばかりではない。『日本新聞』を提唱した国粋主義者として知られ、日韓併合にも積極的に関与し、治安維持法の制定を図った。鉄道大臣在任中には、それまで左書きだった駅名をすべて右書きに改め、説明のローマ字を廃止するなどして「国粋大臣」の異名をとった。鉄道大臣辞任の2か月後の昭和4年、5つの私鉄買収にからむ五私鉄疑獄事件で起訴され、昭和11年大審院で懲役2年の判決を受け、位階を剥奪された。これを機に政界から引退した。このように、平吉の評価は毀誉褒貶に相半ばすると言ってよいかもしれない。
 小川平吉の二女(こと)は宮澤裕と結婚し、その息子が元総理大臣の宮澤喜一と元法務大臣の宮澤弘である。宮澤弘の妻の甥が総理大臣の岸田文雄である。宮澤喜一は平吉の孫にあたるから、若い頃には帰去来荘に遊びに来たと『私の履歴書』で述懐している。
 
 「祖父は郷里の信州にも別荘を持っていた。標高は千メートル近いところなので、夏は涼しくて、この別荘で夏休みを過ごすのはとても楽しみだった。陶淵明の詩からとって「帰去来荘」と名付けていた。そういう雰囲気の中で暮らしていたので、私は自然に漢籍に親しんだ。
 祖父の薦めで犬養毅(木堂)さんが近くに別荘を持っていた。田舎のことなので、近いといっても約一理の距離はあっただろう(注:実際は500メートルくらい)。その道程を犬飼さんはステッキをついてゆっくり歩きながら、祖父を訪ねてきた。偉い人だったが、少年の私の目には小柄なおじさんという印象しかなかった。物おじもせずに、犬養さんのひざのうえでよく抱いてもらったものだ。
 「不憂、不惑、不畏」。父が犬養さんから贈られた書だが、今でも私の家に掛けている。祖父の信州の別荘にはテニスコートがあって、若き日の犬養道子さんが遊びに来たこともあった。」
 
 
 小川平吉の五男(平五)は堤家に養子婿となり、その娘の堤敦子が元総理大臣の鈴木善幸の息子鈴木俊一の妻である。鈴木善幸の娘は元総理大臣の麻生太郎の妻である。このように、総理大臣を四人も排出する閨閥の中心に位置するのが小川家であった。平吉の孫の小川元も宮沢喜一の秘書を経て衆議院議員になった。宏池会に属していたが、大物政治家にはなれなかった。このように小川家は女系による閨閥の要であった。

朝鮮別荘

 朝鮮の親日派政治家宋秉畯(そう へいしゅん)は、日韓併合に尽力した功績で日本政府から爵位を贈らた。小川平吉とも懇意だった関係から、明治44年に帰去来荘の隣に別荘を与えられた。通称「朝鮮別荘」と呼ばれている。しかし宋秉畯はこの別荘を利用しなかったので、6年後には平吉の所有となった。
 後に「朝鮮別荘」は、小川平吉から政友会所属の代議士前田米蔵(犬飼内閣の商工大臣、後に鉄道大臣)の所有となった。戦後、前田米蔵は、帰去来荘に隣接し朝鮮別荘の建屋のある一角を、富士見村の三井伊三郎に売却した。その後、サンモール修道会やカトリック幼きイエス会の所有を経て、河角邸となっている。「朝鮮別荘」の当時の建物は改築の際に建物に併合されたようだ。今も当時の井戸が残っていて、生活用水に使われている。前田別荘の方は、娘の由良家が継承して、現在は由良富士見高原荘となっている。

田山花袋 

 田山花袋は1916年(大正5年)五月に、編集者・翻訳家の前田晁に勧められて富士見を旅した。この時に帰去来荘に一泊した。この時の印象であろうか、『花袋全集 第二十四巻』臨川書店 (青空文庫より転載)には、
 「此間ちよつと信濃の富士見に遊んだ。かねて噂にはきいてゐたが、成ほど好いところだ。日本でも、かうしたひろい雄大な高原の眺望は、越後の赤倉と此処とより他にないと思ふ。そこでは、小川平吉氏の別荘のあるあたりが殊に好い。八ヶ岳を左に、駒ヶ岳を右に、富士をその真中に見た眺望は、忘やうとしても忘れられない。汽車で通ると、日野春の停車場が好いだけで、小淵沢も、富士見も、さう大して目をひかないが、一度、富士見の停車場の向ふの丘陵の上に立つて、こんなところがあつたかと思はれるやうな広い眺望がその前に展開された。
 丘の上には、測候所があつた。それに、富士見といふ村の名のもとにあるところどころの村落は、いかにも山村らしい感じを持つてゐて好かつた。気風もまた淳樸であつた。私は一夜を小川氏の帰去来荘にすごした。硝子戸を四面にはめた明るい好い別荘で、藪の中には、赤い山躑躅などが咲いてゐた。杜宇ほとゝぎすが人を掠めるやうにして鳴いた。」とある。
  
 富士見がよほど気に入ったのであろう、花袋は同じ年の7月から10月まで、小川平吉の計らいで朝鮮別荘に滞在した。花袋の滞在中には、民俗学者の柳田國男や島崎藤村も来訪した。花袋はここで『ある轢死』、『帰国』、『山荘にひとりいて』などを書いた。1923年刊の『花袋紀行集』の中の紀行文『山を越えて伊那に』では、この時の滞在を回想している。
 
 「富士見の停車場を出てまだいくらも行かない中に、左の丘の上に新しい洋館が見える。赤い白い旗が揚っている。それは測候所である。それと相対して、笠を着たような屋根の馬鹿に大きい別荘が見える。これが小川平吉氏の別荘である。この間に、仔細に注意すると、松林の中に埋もれるようにして、平屋の小さな家が目に付くであろう。基処に私はある年七月から十月の中旬までいた。
 好い処だ。別荘地としてこの位好い処はないと思われる位好い処だ。初めて行った時には卯の花が白く咲いていた。つづいて山いちごが熟した。山木瓜の実も黄くなった。桔梗、刈萱、女郎花なども咲いた。八月末には山は殆ど山花を似て彩られたように見えた。十月には初茸が沢山出た。
 晴れた日には、測候所の露台の上に、日本アルプスの槍ヶ岳が見えた。小川氏の別荘の二階から見ると、常念、穂高、乗鞍などもはっきりと見えた。」
 
 射山こと小川平吉は、花袋との交遊を『寄田山花袋寓荘』と題する漢詩に残している。
 寂寂山荘夜 蟲聲満露庭 知他高士臥 隔樹一燈青

測候所

 文中にたびたび現れる測候所は、釜無川の氾濫に備えて設置されたようである。測候所は廃止され、和田小六(国際司法裁判所判事)の別荘となった。これも失火で消失して、キリスト教関連施設となり、1999年に三位一体ベネディクト修道院が東京の目黒から移転してきた。米国ミネソタにあるセント・ジョンズ修道院から、アメリカ人修道士が何人か派遣されていたが、これも2014年に廃止となり、現在はJA長野厚生連の所有となり、富士見高原メディカル研修所「やまぼうし」となっている。

犬養毅 

 犬養毅(木堂)が初めて富士見を訪れたのは、1922年(大正 11 年)の春である。小川平吉に「高原の自然が雄大で美しい上に、土地が高燥で、軽井沢のように湿気がなく、健康にもいい」と勧められ、朝鮮別荘に滞在した。富士見がすっかり気に入った犬養は、同じ年の7月にも、慶応義塾時代からの友人であった、日本画家の榊原銕硯とその家族から誘われ、同行している。犬養は、同年中に何回か訪れたようで、11月にも富士見青年会に出席する目的で富士見を訪れている。
 1923年になると、富士見に別荘を建てる計画を進めた。小川平吉から朝鮮別荘を借用し、 家族をつれて滞在した。別荘の設計図は富士見在住の人物に依頼し、 大工も木材もすべて現地調達し、のちに富士見村村長になる樋口隆次に直接指示して建設を進めた。こうして、1924年に白林荘の母屋が完成した。
 これ以来、犬飼毅を慕う政財界の人々の別荘が、周辺に建ち並んだ。帰去来荘から富士見ヶ丘にかけての一帯が、別荘地帯となっていった。犬養毅の側近中の側近であった古島一雄も、白林荘の西隣に別荘を建てた。古島一雄は後に吉田茂の相談役となり「政界の指南番」とも言われた人物である。この別荘は、岩波書店の創業者の岩波茂に引き継がれた。
 戦後、吉田内閣の法務大臣であった犬養毅の三男犬養健は、同内閣の厚生大臣山縣勝見に白林荘を譲った。それ以降、白林荘は山縣勝見の手厚い保護のもとに維持管理され、現在は山縣家の内外汽船(株)が保有している。

帰去来荘の思いで 

 私たちが移り住んだ頃は、夏になると小川一族が帰去来荘にやって来た。近所の女性がおさんどんに通っていた。普段は静かなこの一帯も、夏になると別荘から人声が聞こえ、都会人の出入りがあり、なんとなく避暑地としての雰囲気を感じさせた。お盆が過ぎてこれらの客人が去ると、ここら一帯は急に静かになり、初秋の寂しさを感じさせた。
 近所のよしみでたまたま我が家に立ち寄った小川元夫妻から、帰去来荘への立ち入りを許可されていた。建物の周囲は、樹齢百年を越す欅、杉、松、紅葉などの樹木で覆われ、八ヶ岳や富士山の眺望は利かなくなっていた。春には赤紫のミツバツツジや深紅のヤマツツジが咲き、ひらけた芝地には、七月末に山百合が、夏の終わりになるとマツムシソウが咲き誇った。モミジの紅葉は格別美しく、鮮やかな赤・落ち着いた赤・オレンジ・黄のグラデーションは格別で、多彩な紅葉を朝昼夕と楽しんだ。時にはカモシカ、キツネ、サルなどの野生動物も現れた。
 商工会が主催するウォーキングイベントのコースに白林荘とともに使われたりして、観光のスポットにもなっていた。近くの保育園児が保母さんに連れられて時折遊びに来たりして、地域の人たちに親しまれていた。
 帰去来荘に隣接して、幼きイエス会の寮があった。もと朝鮮別荘の建物があった所だ。この寮には夏になると修道女が集まり、無言の行などをしていた。その隣に由良富士見高原荘がある。帰去来荘からこの辺りまでは、当時の樹木がそのまま残され、往時の別荘の雰囲気を今でも残している。
 富士見駅方面から帰去来荘に行くには、一旦国道20号線の富士見交差点まで下り、ここから坂道を登ることになる。田山花袋はこの坂道を、「男にしてもひどい路」と形容した。坂道は帰去来荘のある丘を取り囲むように左右2本がある。右は白樺団地沿いの道で、左は若宮、木の間に通じる道である。右の道は、白林荘や由良富士見高原荘、朝鮮別荘を経て帰去来荘に通じている。現在は舗装されて車の通る広い道になっているが、荷物などを持っていると辛い坂道であることには変わらない。左は交差点から続く車道で、地元では「別荘坂」とも呼ばれていたようだ。緩い坂を登っていくと帰去来荘の表玄関の入り口がある。さらに登って右にカーブした擁壁の途中に、狭い階段があり、そこを登ると帰去来荘の裏口に出る。私たち夫婦や東京の友人たちは、右を「男坂」、左を「女坂」と呼んでいる。交差点のところから、新公園を経て帰去来荘の裏門に直接登る近道があるが、今は藪に覆われてしまっている。新公園には「大正8年6月射山」と刻した石碑が立っている。富士見財産区で整備されていたが、今は放置されたままである。
 この帰去来荘も小川元の代になると維持管理が難しくなってきた。富士見町に売却話を持ちかけたようだが、うまく進まなかったようである。この時の町の対応が違っていたら、今回のようなメガソーラー建設の話にはならなかったと悔やまれる。
 2012年3月、遂に小川兄弟は帰去来荘を蓼科グリーンビュー開発株式会社に売却してしまった。すでに別荘ブームは過ぎ去り、バブルも弾けて、別荘地が売れる時代ではなくなっていた。住宅地として売り出しているようであったが、買い手が付かなかった。宅地として切り売りされるという噂が立ち、周辺の住民は環境の変化を予感して不安を感じ始めていた。

 
2023.3.25 自然エネルギーの歪な構造

 環境破壊と生活破壊をもたらす外資によるメガソーラー計画は、住民の反対運動で阻止できました。一方で、再エネの拡大は地球温暖化を防ぐために、待ったなしです。その観点から、富士見町における太陽光発電の実態を経済面から分析しました。
 富士見町の年間使用電力は85GWhです。これに対して、富士見町で発電する太陽光の総計は、年間64.3GWhになることが分かりました。なんと、使用電力の75%を太陽光で賄えていることになります。あと20GWhで再エネ電力100%が達成されます。公共施設や企業、家庭の屋根にパネルを設置すれば、実現できるレベルに来ています。環境上の問題が多い野立ての太陽光に頼る必要はなさそうです。
 問題は、太陽光発電による売電収入20億円/年の94%が、東京都をはじめとする町外に流出していることです。発電事業者のほとんどが、町外の企業であり、富士見町はその場所と環境を提供しているに過ぎないのです。この歪な関係を今後いかにして是正し、地元で発電した電力は地元で消費し、その利益が地元に還元されるようにしていくことが必要です。メガソーラーのFIT期間は20年です。これが期限を迎える10〜20年後に、地域再エネ事業に転換してゆく方策が求められます。
 

2023.4.30 富士見町町議選挙 女性議員の進出と革新議員の胎動

 4月23日に富士見町の町議会選挙が行われました。議員の成り手が減り、無投票の自治体が目立つようになりましたが、富士見町では逆に11人の定員に対して、15人が立候補し、激戦となりました。現職2人の引退に対して、新人が6人立候補し、その中に若い女性候補が二人含まれていました。女性進出の潮流が、富士見町にも押し寄せてきたのです。
 結果は、町政の変革を求める新人4人が当選。トップ当選は女性候補で、断トツの1位でした。もう一人の女性候補も4位と大健闘しました。上位5位までに、改革派の町議が入りました。女性議員は、今までの議員1人に加え、全部で3人となりました。
 現職の保守的な議員たちの得票は伸びず、下位に沈みました。これからの町政の変化を予感させる出来事でした。
 
富士見町 定数11-立候補15  投票者数7,573 投票率64.15%
当 1,284 渡辺葉   34 無・新①
当 797 五味仙一  60 無・現2
当 728 牛山 基樹    58 無・現②
当    647 山口肇        65 共・新①
当 646 西明子   36 無・新①
当 596 小倉 裕子 62 無・現②
当 446 織田昭雄  75 無・現⑤
当 407 三井 新成 69無・現④
当 406 矢島尚   59 無・現③
当 373 名取久仁春 68 無現③
当 352 牛山 吉彦    60 無・新①
  302 川合 弘人    68 無・現
  257 小林 寿政    61 無・新
  127 島正拳         81 無・現
  122日高 憲三      59 無・新
 

2023.5.7 異次元の少子化対策では少子化は止められない

 2023年5月5日のBSプライムニュース『2050年に1億人割れか 生物学で考える人口減 少子化対策なぜ空転?』は興味深い内容でした。出演者は、北海道大学農学部の長谷川英祐 准教授と、人間総合科学大学人間科学部の森田理仁助教で、政治家の発想とは全く異なる、生物学の見地から少子化問題を論じていました。
 生物学からは、現在の日本の人口ピラミッドは絶滅個体群の形になっており、人口減少は止められないとのことです。岸田内閣の異次元の少子化対策は、人口減少を止めるには役に立たないとの見解です。病気に例えれば、病気を根治できないが、症状を緩和させ、進行を遅らせる対症療法でしかないということのようです。私も常々、少子化対策は本当に効果があるのか懐疑的でした。中途半端で、何か本筋を捉えていないという印象を拭えませんでした。
 森田さんは「子供を産んで育てることが幸せな社会」にならない限り、子供は増えないと言っていましたが、なるほどと合点がいきました。確かに、子供の数が多かった時代は、結婚して家庭を持ち、子供を作ることが人生の目標でもあり、子宝に恵まれることが幸せでした。こんな時代では、子供を産み育てる喜びの方が、子育ての大変さとか経済的負担よりも勝っていました。それが経済的に豊かになり、女性の社会進出が進むことで、この関係が逆転し始めました。
 生物的には、いったん少子化が始まると止めようがないということです。ただし人間には叡智があります。全く手をこまねいて、日本が国家として存続できなくなるのをただ待つというのは寂しい限りです。でもそのためには、経済支援、子育てサービス、共育と言った、従来型の政府の少子化対策では全く不十分だということです。長谷川さんも、全く期待できないと断言していました。人口を増やす方向に持っていくには、社会の価値観を根本的に変えなければならないというのが、生物学からの警告です。
 価値観の転換として、生物学の知見から「齢間分業」と「共同繁殖」がヒントになるとのことです。母親を子育てから解放し、子供を産んでも母親が必ずしも育てる必要のない社会構造にするということです。「齢間分業」でいえば、若い女性が子供を産み、高齢者が仕事として子育てを受け持つということです。「共同繁殖」とは、親、祖父母、兄弟の血縁が子育てを受け持っていたのを、地域や社会でも子育てを受け持つように変えていくということです。
 女性を子育てから解放することで、子供を産むことが幸せになる社会になるのかどうか分かりませんが、このくらいの価値観の転換をしない限り、少子化を止めることはできないということです。
 

2023.6.2 ホトトギス

 
 ホトトギスが鳴く季節になりました。
   目には青葉 山ほととぎす  初鰹
よく知られた、山口素堂の句です。素堂は甲斐国(北杜市)巨摩郡上教来石村の出身で、富士見町の隣の村になります。
 百人一首には左大臣藤原実定の歌
   ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる
が選ばれています。
 ホトトギスは夜も鳴きます。ホトトギスの鳴き声を聞くと、初夏になったことを実感します。新緑もすぎ、緑の葉が旺盛に繁茂する季節です。
 この時期になると、カッコウの鳴き声も聞こえてきて、一層初夏の到来を感じさせますが、カッコウが鳴くと、これと競うようにホトトギスが鳴き始めます。すると、まるでこれに唱和するようにウグイスも鳴き始めます。毎年この時期になると、これらの鳥の三重奏を聴くのが楽しみになっています。
 これらの鳥が競い合うように鳴くのには訳がありそうです。そこで、調べてみると、ホトトギスもカッコウも托卵と言って、他の鳥の巣に卵を産みつける習性があります。ホトトギスはウグイスの巣に、カッコウはオオヨシキリ、モズ、ホオジロの巣に卵を産み付けます。
 ホトトギスはウグイスの巣を探し、ウグイスの卵を一つ巣から落として、自分の卵を産み落とし、ホトトギスの卵はウグイスよりも早く孵化して、ホトトギスの雛は残りのウグイスの卵を巣から落としてしまいます。こうして、ウグイスは自分の子と思い込んでホトトギスだけを育てるのです。
 カッコウが鳴くと、競うようにホトトギスが鳴き始めるのは、自分の縄張りを主張するためのようです。つまり、ホトトギスはこの領域にあるウグイスの巣は自分のものであると宣言するのです。カッコウも同様に、縄張りを主張するのでしょう。ウグイスが鳴くのは、巣を守るための警戒心からかもしれません。
 人間は勝手に鳥の鳴き声を楽しんでいますが、鳥たちにとっては生存をかけた熾烈な戦いなのです。

 
 

オオヤマレンゲ


 

2023.6.13 オオヤマレンゲ

 オオヤマレンゲを実生から育て、何百本も育苗している方がいます。茅野市に在住ですが、富士見町に寄贈したいので、どこか植えるのに適した場所はないかと相談を受けました。富士見町にはパノラマリゾートや富士見高原リゾートの「創造の森」など、オオヤマレンゲに適した場所があります。町役場に話を持ちかけたのですが、役場の担当者はオオヤマレンゲを知らないためか、話が進みませんでした。
 そこで、ツテを頼って、パノラマリゾートに直接相談したところ、植生を担当している方が積極的で、植栽を快諾してくれました。100本ほどが植えられています。
 「創造の森」の方は消極的で、この時は話が進みませんでしたが、地域おこし協力隊で植生調査や育成を担当する苗代夏菜さんが、「創造の森」で見られる草花をまとめた図鑑「創造の森 植物BOOK」を作成したことを新聞で知り、早速連絡を取りました。結果はまだわかりませんが、良い方向に進むことを期待しています。
 我が家にも、3年前に苗を2株いただき、庭に植えました。そのうちの一本が、今年花芽を付け、今日開花したのです。なんとも愛らしく上品な花です。
 

2023.7.11 きれいごと

 バイデン大統領はウクライナにクラスター爆弾の供与を決めました。クラスター爆弾は不発弾が多く、民間人が犠牲になることから、オスロ条約で禁止されています。米国は条約に批准していませんが、ウクライナ供与にあたり、通常弾薬の備蓄が底をついていることと、ウクライナ領土からロシア軍を追い出す目的に限定することで、国際的理解を得ようとしました。私は正しい選択であったと思います。ロシアの膨大な地雷原に対しては、不発弾の危険性など言っていても意味をなさないでしょう。
 
 これに対して、条約に批准している英国やスペインは、供与に懸念を表明しました。立場上そうしたのでしょうが、懸念であって反対ではないところが、ずるくも感じられます。ウクライナへの武器支援が遅れたり不十分であったりした結果が、クラスター爆弾の供与に至ったわけですから、言い訳ぜずに、ウクライナに供与すべきです。
 
 あらゆるルール違反を繰り返すロシアに対して、こちらだけルールを守れと言うのは、あまりにもきれいごとすぎます。クラスター爆弾で、ロシアがNATOやウクライナをつべこべ言う資格は全くありません。
 

2023.7.24 なぜ日本の賃金は上がらないのか

 7月23日の朝日デジタルの記事、デービッド・アトキンソン氏の
「給料は上がるのでなく上げるもの」伝説といわれたアナリストの助言と、この記事への朝日新聞編集委員=中小企業の応援団長のコメントは大変興味深いもでした。なぜ、海外では賃金が上昇し、日本ではなかなか上がらないのか、その理由が分かるからです。
 
 「日本ではなぜ、生産性が高まらないのですか。」の記者の問いかけに対し、デービッド・アトキンソン氏は持論を展開します。
 「問題は中小企業にあります。日本では大企業の生産性は先進国とあまり変わらないのですが、中小企業の生産性が低いのです。大企業に対する中小企業の生産性が欧米は約7割ですが、日本は5割。日本人の7割が働く中小企業の生産性が低いので、全体の賃金が低いわけです。日本の企業数の85%を占める『小規模企業』の社員は平均3.4人。生産性向上のための投資はとてもできません。つぶれろ、というつもりはありません。自社で生産性を上げられないのであれば、他社との協業などに取り組むべきです。中小という規模だけで、政府が税制や補助金で支援するのはやめるべきです」
 
 「下請けいじめの解消はもちろん、大切です。しかし、それだけで全体の給料を上げることはできません。なぜなら、下請けいじめが多いのは製造業や建設業ですが、製造業は企業数の10%強、建設業は12%しかないです。しかも、生産性も賃金も他業種よりかなり高いです。低いのは、小売りや飲食・宿泊、散髪やクリーニングなどの生活関連サービスです。非正規や女性が多い分野ですが、ここを底上げしないといけません」。「最低賃金の適切な引き上げは、経営者が生産性を高める動機付けになります。」
 
 以上のデービッド・アトキンソン氏の主張に対して、朝日新聞編集委員の中島隆氏は反論しています。

 「つぶれろとは言っていないといいますが、つぶれろと言っているのと同じです。 中小企業の存在意義は、生産性では片付けられないことがたくさんあります。」 そして、中小企業の社会的役割をあげています。
 
「・地域の雇用を守る。地域の存在そのものを守る。
・上から目線の大企業から相手にされない人材を雇用する。面接に落ちつづけ てしまい、途方にくれていた人。そんな人を雇うのが中小企業です。
・罪を犯してしまった人たちを雇用。
・大企業を追い出された人を吸収する。
・人生100年時代に、70代、80代の人にも働いてもらう。」
 
 最後に、「中小企業の経営は経済学ではなく社会学だ」と。つまり、中小企業の役割は経済活動というよりも、社会福祉に近いということのようです。
 
 中島氏の意見は、多くの日本人の考え方や心的傾向を代弁しているように思えます。合理化よりも弱者救済を大切にすべきだという、心の優しさがあるようです。
 
 しかし、 私は、グローバル化が行き着いた現代においては、中小企業の生産性を欧米並みに高めていかざるを得ないと思います。それには、まず最低賃金を上げ、それに見合う経営努力を半ば強制的に経営者に促すことが避けられないと思います。日本人は優秀ですから、外からの力が働けば、それにうまく対応できるし、今までも外から強要される変化にうまく対応してきました。日本は現状に最高レベルに最適化してしまうあまり、自己変革をすることが苦手です。
 
 一方で、海外旅行者に好評の、日本のサービス産業のおもてなしの心は失いたくありません。日本人の持つおもてなし精神を失わずに、生産性を高めることができれば、明るい未来に希望が持てます。
 

2023.8.24 戦前は神話から生まれた

 2022年で明治維新から太平洋戦争敗戦までが77年、戦後が77年となり、戦前と戦後が並んだことになります。戦前は戦争に明け暮れた時代、戦後は平和と繁栄を謳歌した時代とも言えます。
 
 日本経済新聞の記事で、辻田真佐憲氏の『「戦前の正体」愛国と神話の日本近現代史』が紹介されていました。興味を惹かれたので、早速本を取り寄せて読んでみました。なるほどそうだったのかと、納得できる内容でした。
 
 奈良時代に、天皇の正当性と権威を確かなものにするために、古事記や日本書紀が編纂されました。いわゆる「記紀」は神話であると同時に、歴史書でもありました。天皇の祖先はアマテラスで、国譲りの物語を経て、皇孫降臨により高天原から高千穂の地に降り立ち、その曾孫が神武天皇で、高千穂から東征により熊野から大和に入り、橿原で初代天皇として即位します。以後、万世一系の天皇として現在まで続いています。
 
 しかし、天皇が実権を握り統治した時代は、平安時代の初めまでで、その後は藤原氏の摂関政治となり、平清盛以降、徳川家まで、天皇から任じられた征夷大将軍として、武家が政治の実権を握ってきました。徳川幕府が倒れることにより、大政奉還がなされ、ようやく天皇に実権が戻され王政復古となりました。
 
 明治新政府は新しい日本として、天皇を中心にする国の形「国体」を確立します。その根拠となったのが、「記紀」です。今まで忘れられていた神武天皇を持ち出し、大日本帝国憲法では、第1条で「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とし、国体を確かなものにするための忠孝を教える「教育勅語」が公布されました。
 
 明治政府は、国体を確立するために神話を最大限利用したのですが、この神話が国民に浸透すると、今度は国民の側から神話国家の誇大妄想が生まれてきました。「八紘一宇」も、政府が言い始めたことではなく、国学者や思想家が使い始め、有名な詩人や作曲家により軍歌に使われ、次第に軍部が戦争の拡大に利用することになり、戦争のプロバガンダとなっていきました。古事記の神武天皇東征で戦意を鼓舞するための久米歌に登場する「撃ちてし止まん」も、軍歌に使われ、広く国民が唱和することとなりました。いつしか、神話が国民の側からの戦争プロバガンダとなってしまいました。
 
 ロシアのウクライナ侵略を、ロシア側はあらゆるプロバガンダで正当化しています。我々には歴史の意図的な歪曲としか映りませんが、ロシア内では一種の神話化が進んでいるのかもしれません。
 

2023.10.8 徳川家も墓じまい

 私の近況もしばらくサボっていて、久しぶりの更新です。どうも歳とともに、様々な意欲が減退してきます。最近は、家内に勧められて、ピアノの練習を始めました。簡単な曲を一日一小節のペースで進めています。課題曲はバッハの平均律の第一曲目のプレリュードです。なんとか最後まで進みましたが、曲として弾けるようになるにはまだまだ遠い道のりです。
 
 ところで朝日新聞で、面白い記事を目にしました。2023929日の
『徳川慶喜家「私の代で家をしまう」 玄孫が背負った責任と墓の行方』です。
最大の権力者であったあの徳川家家ですら、最後の将軍徳川慶喜の玄孫で、現在、墓や史料などの管理をしている山岸美喜さんの代で、墓の維持管理ができなくなり、遂に墓仕舞いをすることになったといことです。ちなみに、徳川宗家は、慶喜から3代目の慶朝で断絶しています。
 
 あの徳川家すら避けられない現実です。現在NHKドラマで『どうする家康』が放映されていますが、まさに世の中の諸行無常を感じざるを得ません。歴史の権力者ですら避けられない運命ですから、ましてや、我々庶民までが墓に縛り付けられ、その処分に悩むのはどうしたものでしょう。この時代、墓というものを考え直さなければならないでしょう。
 
 

2023.10.16 戦争の原因

 
ロシア 衝突の源流
 NHKの番組「ロシア衝突の源流」2023年2月25日放映 は今日のロシアの行動を考えるために大変勉強になりました。ケンブリッジ大学の国際政治学の権威リチャード・ネッド・レボー教授によれば、戦争の原因は「恐怖」「威信」「欲望」という3つの動機にまとめられるということです。歴代のロシア皇帝たちは、これらの動機に取り憑かれ、戦争の歴史を繰り返してきました。
 
 1682年に即位したピョートル大帝は、ロシアの近代化・西洋化を推し進めました。どこか日本の明治維新と重なります。大国になるために必要な海軍力をイギリスに学んで増強し、その結果、1700年にスウェーデンとの間に、バルト海の覇権を巡って大北方戦争を起こします。そして1703年から、ロンドンやパリに引けを取らない都市としてサンクトペテルブルクの建設を始めました。これらの動機は、ヨーロッパに対しロシアの「威信」を高めるためでした。
 
 1762年に即位したエカテリーナ2世は、サンクト・ペテルブルクにエルミタージュ宮殿を作り、美術品を大量に購入しました。ロシアの「威信」を高めるためです。1768年には、黒海から地中海に出るルートを確保するために、オスマン帝国に対して露土戦争を起こします。クリミア半島、ヘルソン、マリウポリなどを獲得し、さらに南下してルーマニアを支配下に置木、ワインの製造を奨励し、ヨーロッパに輸出して外貨を稼ぎました。さらに、木材や麻などを輸出して、ロシア通貨による経済圏を作りました。また、支配地にロシア正教の教会を作り、東ローマ帝国の正当な後継者として、ロシア正教を常に政治と一体化して行ったのです。エカテリーナのやったことはは、今日のプーチンの野望と似ています。エカテーロナの戦争の動機は、「威信」に加えて領土を広げて豊かになるという「欲望」でした。
 
 1853年、ロシアのニコライ1世はトルコ領内の正教徒の保護を理由にトルコに侵攻し、クリミア戦争が起きました。ロシアは、自分たちがギリシャ正教、すなわち東ローマ帝国の後継者であると位置づけ、正教を守る守護者と位置付けてきたのです。しかしこの時は、英仏がトルコに味方したため、ロシアは敗北して、クリミア半島のセバストポリ要塞は陥落し、ロシアの南下政策は失敗に終わりました。南にルートを持ちたいロシアには、いつの時代にも黒海に面した地域を領土にしたいという「欲望」が消えることはなかったのです。今のプーチンにも言えることです。
 
 そして今回のプーチンによるウクライナ侵略は、ロシア系人民の保護を理由にしながらも、NATOの当方拡大への「恐怖」と、ロシアの宿痾のような「威信」への信仰と、南方進出への「欲望」によるものと言えそうです。とりわけ、ロシアが失った旧ソ連邦の「威信」を回復したいという願いは強いと思います。我々には理解が困難なウクライナ戦争の動機には、「恐怖」、「威信」、「欲望」の全てが絡んでいると言えるのではないでしょうか。
 
 

2023.11.12 イスラエルのやっていることはジェノサイド

 イスラエル建国の時は、私はユダヤ人に同情し、ユダヤ人の国家を建設することを支持していました、今は少し違ってきました。違法な入植を続け、パレスチナ人をガザ地区に封印し続けるイスラエルに対し、パレスチナ人が反発するのは当然です。ハマスによる攻撃の原因を作ったのは、今までのパレスチナに対するイスラエルの拡張主義と抑圧政策です。
 
 イスラエルは「自衛権」と称して、すでに1万人以上のパレスチナ人を殺戮しました。ハマスへの攻撃と称していますが、やっていることはガザ市民への無差別攻撃です。そこにハマスが潜んでいることを口実にしていますが、誰が見てもやり過ぎです。「自衛権」の範囲を大きく逸脱し、戦争犯罪と言われても仕方ないでしょう。
 
 問題なのは、米国をはじめとする西側諸国が、政治的理由とユダヤ人に対する贖罪意識からイスラエルに気を遣って、この「自衛権」を声を大にして認めていることです。ならば、パレスチナにも同様に「自衛権」を認めるべきでしょう。パレスチナにとっては、理由もなく先制攻撃をしたわけではなく、そこには根強い歴史的理由があるのです。ハマスを一方的にテロと糾弾し、イスラエルの大量無差別攻撃を「自衛権」と擁護するのは、西側諸国のご都合主義です。ロシアによるウクライナ侵略では、ロシアを非難するのは当然です。ならば、ハマスの先制攻撃に対する10倍返しのようなイスラエルの非人道的な武力攻撃も非難すべきでしょう。西側の「二重基準」はやめるべきです。
 
 イスラエルの国防相は「動物と戦っている」と発言しました。こんな発言は、ハマスの奇襲攻撃に対する感情的反発というよりは、パレスチナに対するイスラエルの優越意識と差別意識から出たものでしょう。イスラエルは、同じ民族が受けたホロコーストの苦しみを、パレスチナ人にも感じるべきです。このままでは、パレスチナとイスラエルの憎しみの連鎖は永久に続くことになります。
 
 

2023.12.9 アメリカに失望

 アメリカの二重基準が指摘されているが、今回も目に余ります。12月8日に行われた国連安全保障理事会で、パレスチナ自治区ガザでの即時停戦と全ての人質の解放を求める決議案が否決されました。イスラエルを擁護する常任理事国の米国が拒否権を行使したからです。15理事国のうち、、英国が棄権し、日本やフランスなど13カ国が賛成しました。米国が今回のガザ情勢で拒否権を発動するのは2度目で、国際社会における米国の求心力低下は増すばかり。
 
 ガザ情勢をめぐる緊急会合が、国連憲章上の権限に基づくグテレス事務総長の異例の訴えを受けて、8日に開かれました。この決議案はアラブ首長国連邦(UAE)が提出しました。決議案は、人道目的の停戦とイスラム組織ハマスが拘束する人質の解放を要求したものです。米国が拒否権を発動する理由は、ウッド国連次席大使によれば「米国は最高レベルで人命を救い、永続的な平和の基礎を築くための外交を展開してきた」、「我々は即時停戦を求める声には賛同しない。(停戦は)次の戦争の種をまくだけだ」ということですが、イスラエル以外の国の賛同は得られないでしょう。米国の孤立が際立ちます。
 
 ウクライナ支援についても、追加援助予算の審議が、米国上院で止まったままです。共和党が共和党がメキシコ国境の移民対策強化を求めたためです。米国の国内政争が、ウクライナ情勢の先行きを暗くしています。これでは米国がプーティンを勝たせる結果になります。パレスチナもウクライナも、解決できるのは米国だけで、まだそれだけの力は十分ある大国です。
 

2023.12.10 アメリカはイスラエルと同罪

 イスラエルによるパレスチナへの攻撃は、大人が銃を持って、ナイフを振るう子供と戦っているようなものです。しかもイスラエル人が1人殺されると、子供を含む100人のパレスチナ人を殺害することを正当化しています。これが、ユダヤ人がホロコーストから得た教訓なのでしょうか。つまり、弱ければ殺される、強いうならなければならない、そして危害を加えるものは容赦しない、相手の犠牲がいくら甚大でも構わない、ということなのでしょう。
 
 そのイスラエルに、アメリカは軍事援助をしています。米国防総省傘下の国防安全保障協力局は声明で、戦車搭載の弾薬13981発の売却を承認し、8日に議会に通知したことを明らかにしました。総額を1650万ドル(約154億円)のようです。大人と子供の戦いをさらに有利にするために、大人に武器の援助をするようなものです。これでは、イスラエルによるパレスチナ人の大量殺戮に加担していると言われてもっ仕方ないでしょう。イスラエルへの武器援助はアメリカの国益であるというのが理由ですが、アメリカがイスラエルの非人道的な武力攻撃を支援することは、イスラエルと同罪であり、この方が国益に反すると言わざるをえません。
 

2023.12.27 岸田首相に期待するとしたら

 安倍派による裏金問題が世間を騒がしています。政治と金の問題は、いつになっても解決されないようです。リクルート事件の反省から、自民党が1989年に策定した「政治改革大綱」も、中身は立派でしたが、政治資金規正法では巧妙に抜け穴を設け、企業献金が個人に渡る仕組みを作り込み、不正があっても議員個人には法的責任が及ばないようにしました。「政治改革大綱」も完全に忘れ去れれ、岸田首相も派閥から離脱することをしませんでした。
 
 この問題が追い討ちとなり、岸田内閣の支持率は20%台に落ち込み、不支持率は60%台に上昇しました。当初より、岸田文雄という人が総理に相応しいのかどうか疑問でした。一番の理由は、話し方に魅力がなく、頭の中で文章を読んでいるような話し方で、人の心を打つことがないからです。この人の話が、心に届いたことがありません。いつ聞いてもつまらないのです。「現状は、これこれこうである。だからこの問題を解決していかなければならない。」この人の言い方は、いつもこうで、内容にこのようにして解決するという具体性がなく、こうしたいと言う意思が全く伝わってきません。聞いていて、つまらないのです。
 
 岸田さんが輝いたのは、広島でのG7サミットの瞬間だったように思います。外交と広島は、彼の得意分野であったからです。当初に掲げた「新しい資本主義」は、期待したものの、具体的な中身がなく、結局消えてしまいました。ウクライナ戦争により、中国や北朝鮮による軍事的脅威が切迫感を持って感じられるようになり、防衛費増額を決めたまでは良いのですが、増税するのかどうか、財源が曖昧なままです。その他の政策に関しても、いつもの話ぶりと同じで、その時々の問題に対する対症療法を掲げるだけです。物価が上がれば、補助金を出す。一時的な減税をする。賃金が上がらなければ、賃上げを要請する。少子化対策には子育て世帯に金銭的援助をする。要するに、風邪を引いたら風邪薬を与える、腰が痛ければトクホンやサロンパスを貼る、といった具合の対症療法にすぎません。岸田さんの政策には戦略性と具体性がないのです。
 
 岸田政権はこのまま低支持率のまま続くのでしょう。自民党の中に、岸田さんに代わって政権を取ろうとする次のリーダーが見当たりません。若手議員からも、政治改革を叫ぶ声が聞こえてきません。小選挙区制の弊害か、議員が皆小粒になってしまったようです。昨日もテレビ番組に、二階派を離脱し、今や崩壊の危機にある安倍派に移ったピエロのような某議員が出演していましたが、自分を正当化するだけで政治資金改革などやる気が感じられませんでした。いまだに、自民党を庇っている様子です。この人物は、自民党のコアの雰囲気を代表しているのでしょう。
 
 ここで、起死回生の一手を打つとしたら、思い切った政治改革を断固として推し進め流ことでしょう。派閥を無くそうとしても、なくならないように思います。本来の政策集団に戻すには、派閥が金を集め、自由に使うことができないようにすることが肝要です。企業・団体献金を禁止する。政治資金の出入りを透明化し、手続きはデジタル化する。連座制を適用し、会計担当者の責任が政治家個人にも及ぶようにする。不透明な製作活動費は廃止するか、使途を明確にさせる。全ての政治資金の使い道には領収書を残す、等等。このくらいのことを、岸田首相がやると宣言すれば、国民は喝采し、岸田政権は浮上するのではないでしょうか。今のままではジリ貧内閣です。
 

2023.12.31 遠ざかる昭和 今年は昭和99年  

 今年は喜寿を迎えました。やはり大晦日になると、翌年への希望を抱くと同時に、また一年、年が足早に去っていくことに一抹の寂しさを感じます。
 
 小津安二郎の遺作である『秋刀魚の味』を見ました。公開翌年の1963年に小津安二郎はなくなりました。小津映画は特に好きといわけでもないのですが、『東京物語』は見たことがあり、特に面白いとも、感動的したというのでもないのですが、妙に記憶に残っていて、映画の一小間、一小間が思い出されます。ワンパターンとも言える、決まったアングルが繰り返される手法や、早口の短いセリフが、深く記憶に刻まれ、いつまでも思い出させるのかもしれません。また、昭和という時代背景や、茶の間の日常生活が、ちょうど子供時代と重なり、懐かしさを誘うからかもしれません。昭和という時代の雰囲気が、簡潔に静かな力で表されています。
 
 小津の映画は、ハリウッド映画に代表される、物量を投入し、斬新なアイデアと最新のテクノロジーを駆使したものとは対極にあります。伝統的日本建築のように、簡素で素材を生かした無駄のない美しさがあります。ごちゃごちゃした茶の間や、バラック建の町並みや、工場の煙突ですら、映画のバックグラウンドとして生きており、醜悪さを感じさせずに、むしろ郷愁を感じさせます。
 
 『秋刀魚の味』では、料理屋やバーで仲間と飲む場面が繰り返されます。酒を飲むことが当たり前で、そうすることが男社会でうまく生き抜く伝統的因習でした。仲間が集まれば、飲みに行こうということで、今とは違い、飲めないことを負い目に感じる時代でした。妻に先立たれた男が、何もできすに、娘にいつまでも頼っている姿も、昭和の時代そのものです。現在の価値観から見れば、理解されないことですが、我々の親の時代はまだそういう旧習が生きていました。男は家のことを何もせず、妻は家事に専念するものとされていました。私が結婚した頃も共稼ぎはまだ珍しく、専業主婦が当たり前でした。
 
 令和5年も終わりになりました。中村草田男の「降る雪や 明治は遠く なりにけり」という句がありますが、昭和、平成、令和と時代は進み、昭和は随分と遠くになったと、しみじみ感じます。小津安二郎の映画は、その昭和をリアルに思い出させてくれます。今年で102歳になる母は、昭和が一番よかったと言っていますが、その意味が分かるような気がします。