私の近況2016

1月1日 明けましておめでとうございます   今年もよろしくお願い致します          

 

1月10日 冬の庭

 今年は暖冬で助かっています。例年だと、最低気温が-10にはなるこの時期ですが、今年はまだ-3くらいまでしか下がりません。床暖も含めて、オール電化の我が家ですので、今のところ電気代が節約できて助かっています。    日中も日が出ると暖かいので、庭仕事が捗ります。この時期は、バラの選定や植木の刈込など、けっこうやる仕事が多くあります。暖かい日を選んでは、すこしづつ進めています。    植木やバラが選定され、ツルバラの枝が整枝され誘引された冬の庭もいいものです。春が来て再び植物たちが芽生えるのが楽しみです。      
 

1月17日  遂に腰を痛める

 阪神大震災から21年  もう21年経ちました。この日から二日後に私の父が亡くなりましたので、この1月17日は、二重の意味で、私の記憶に刻まれる日となりました。
 
 冬といえども、暖かい日には庭仕事をしたくなります。植物が枯れているので、夏の花の咲いている時期にはとても出来ないような思い切ったことが出来ます。
   バラの何本かは、素焼きの鉢に植えていますが、素焼きの鉢は冬の寒さで凍り付いて、数年たつと割れてしまいます。そこで、鉢に代わるバラ用花壇を作ることにしました。
   以前にブロックで作った花壇がありますが、今回は、煉瓦にしようかブロックにしようか迷ったのですが、石を拾ってきて作ることにしました。欲張って、見栄えのする大きな石を運び、中腰の姿勢で作業をしているうちに、腰にピリリとくる違和感を感じました。動けなくなるような腰痛を起こす前兆です。過去に何度も痛い経験しているので、すぐ分かります。幸いなことに、ほぼ完成したところでした。こうして出来上がったのがこの写真です。
   春になったら土を入れて、この鉢植えのバラを移そうと思っています。これから二三日は、何もせずのんびりして、腰を直そうと思います。
 

1月22日 最高の音楽 ヴェルディのレクイエム

 年末に注文したヴェルディのレクイエムのSACDが届いたので、父の命日(1月19日)に折りよく聴くことができました。リッカルド・ムーティ指揮、シカゴ交響楽団による演奏です。    冒頭から衝撃を受けました。「こんなに美しい音楽があったのだ」と。もちろん、今までもモーツァルトのレクイエムは幾度も聴いており、その都度、心に染み透るような美しい音楽に深い感銘を受けてきました。でも今回は、それらとは異なる、深く深く心に響く神秘的な体験でした。    レクイエムのような宗教音楽は、どちらかというと敬遠していて、そうだびたび聴くことはありません。思い出したようにモーツァルトのレクイエムやミサ曲を聴くくらいで、フォーレのレクイエムは一二度聴いたことがあるだけです。特にヴェルディのレクイエムは、不覚なことに、積極的に聴こうと思ったことは一度もありませんでした。
  でも今は確信します。ヴェルディのレクイエムは、彼の最高傑作であるばかりでなく、あらゆる音楽のなかでも最高の曲の一つであると。この劇的でしかも美しい声楽曲は、オペラの大家にして初めて成し遂げることができた作品だと思います。ムーティ/シカゴの演奏は、この曲の深い精神性と極上の美しさを、最大限に表現することに成功しています。
  このSACDは、今年の、少し大袈裟に言えば、私の人生への最高の贈り物となりました。
    ヴェルディ:レクィエム  バルバラ・フリットリ(ソプラノ)  オリガ・ボロディナ(メゾ・ソプラノ)  マリオ・ゼッフィリ(テノール)  イリダール・アブドラザーコフ(バス)  シカゴ交響合唱団(合唱指揮:デュアイン・ウルフ)  シカゴ交響楽団  リッカルド・ムーティ(指揮)    録音時期:2009115,16,17  録音場所:シカゴ、シンフォニーセンター、オーケストラ・ホール  録音方式:DSDレコーディング(ライヴ)  プロデューサー:クリストファー・オルダー  エンジニア:クリストファー・ウィリス  
 

2月5日 私のRoutine

 五郎丸選手のルーチンが注目されましたが、日常生活でもルーチンは重要です。スポーツのように、一発勝負で失敗しないためではなく、規則的で健康な生活を続けるためです。    
 私のルーチンを上げてみると、
・床のモップ掛け。朝起きて真っ先にすることに意味があります。夜の間に、床に沈着した埃を取り除きます。歩き回って、埃が舞いあがる前にすることで、効果が上がります。効果はてきめんで、棚などに溜まる埃が激減します。
・ラジオ体操。2Kgのダンベルを持って、ラジオ体操をします。ラジオ体操の効果と、筋肉の鍛錬を同時に狙っています。
・グリーン・スムージーを作る。朝食に欠かしません。材料は、バナナ、レモン、人参、リンゴ、野菜(ケールなどの葉)など。夏は畑のトマトとケールが中心になります。
・10年日記を付ける。今年で5年目になります。92歳の母には、5年日記を買ってやりました。
・『1日1話 菜根譚講和』を、その日の分だけ読む。明の時代に、洪自誠によって著わされた人生訓で、儒教、道教、仏教の思想が散りばめられています。釈宗演老師の注釈付きです。 とても実行できない内容が多いのですが、現代人が失いつつある、時代を越えて普遍的で大切な事柄が書かれています。  
 一例を上げると    
真味只是淡 至人只是常(真味ただこれ 至人ただこれ常)    
交友須帯三分侠気(交友はすべからく三分の侠気をおびるべし)    
利人実利私的根基(人を利するは実に私を利する的の根基)    
処世不必求功 無過便是功 与人不求感徳  無怨便是徳 (世に処するに必ずしも功を求めず 過なければすなわちこれ功 人に与えるに感徳を求めず 怨なければすなわちこれ徳)    
 漢文の勉強にもなっています。  
その他、ルーチンとは少し違うかも知れませんが、
・体を動かす。  畑仕事、庭仕事、ジョギング(6~7Km)、散歩(2時間前後、7~12km)、テレビを見ながらの台踏み(スローステップとも言い、20cmの台を上り下りする)  これらのどれかは、毎日必ずすることに決めています。
・食後の後片付け。食事は料理上手の家内が作りますが、食後の片づけや皿洗いは、私の仕事です。    
 

2月12日 『アイーダ』のベストCD    

 ヴェルディの『レクイエム』に、衝撃的な感銘を受けて以来、ヴェルディにすっかりはまってしまいました。    
 今日も、買いたてのソニーのウォークマンで『アイーダ』を、雪がたっぷり残り、気温はマイナスのなかを歩き回り、全曲を聴き終えて帰ってきました。ナイルの河畔の物語を、雪原と真っ白な雪山を眺めながら聴くのも変ですが、繊細なこの曲にじっくりと聴き入るためには、案外と適しています。    
 『アイーダ』というと、第二幕の凱旋の場面があまりにも有名ですが、よく聴くと、この場面が無くてもと思うほど、心理描写に優れた繊細で深い味わいのある曲です。それにプラスしての、グランドオペラ的な大衆性を併せ持っています。真に優れた芸術とは、大衆性の中に花開くものではないでしょうか。    
 『アイーダ』の第4幕最後のアイーダとラダメスとアムネリスの三重唱は、まさに『レクイエム』の世界に昇華されて行きます。人間の感情や心理を、こんなに見事に表現しえた作曲家は、モーツァルト以降にはヴェルディ以外にはいないでしょう。    
 ヴェルディの最高傑作オペラの『アイーダ』ですが、演奏と録音ともに最高のCDを見つけました。アントニオ・パッパーノ指揮、ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団と合唱団による演奏です。歌手陣もカウフマンなど、現在の最高の歌い手を揃えています。    
 オペラの全曲盤には、演奏は良くても、録音の良いものが少ないのですが、このCDはどちらも最高の出来です。演奏会形式による演奏で、セッション録音であることがこの結果に寄与していると思います。  
 
ヴェルディ:歌劇『アイーダ』全曲    アイーダ:アニャ・ハルテロス(ソプラノ)  ラダメス:ヨナス・カウフマン(テノール)  アムネリス:エカテリーナ・セメンチュク(メゾ・ソプラ ノ)  アモナズロ:リュドヴィク・テジエ(バリトン)  ランフィス:アーウィン・シュロット(バス・バリトン)  エジプト国王:マルコ・スポッティ(バス)  使者:パオロ・ファナーレ(テノール)  巫女の長:エレオノーレ・ブラット(ソプラノ)  ローマ聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団&合唱団  アントニオ・パッパーノ(指揮)    録音時期:20152  録音場所:ローマ、Sala Santa Cecilia, Auditorium   Parco della Musica  録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)  
p.s.ハイレゾ対応のウォークマンは大変良い音がします。この音には満足しています。      
 

2月25日 『ドン・カルロ』  

 ヴェルディのオペラをこのところ聴き直していて、最初はつまらないと思った『ドン・カルロ』の素晴らしさが分かってきました。この『ドン・カルロ』と、これに続く『アイーダ』によって、ヴェルディはオペラの頂点に達したと思います。    
 『ドン・カルロ』は、『椿姫』までの親しみやすいアリアが中心のオペラから、心理描写を深めたオペラに移行した本格的オペラです。第一幕のフォンテンブローの森の場面、第三幕の合唱、第四幕の王のモノローグや、ロドリゲスの死の場面、第五幕のエリザベッタの詠唱とカルロとの二重唱など、数々の美しく豊かな音楽で満ちています。    
 最初聴いてつまらないと思ったのは、一つにはストーリーが古臭く感じられなかったからです。しかし、じっくりと聴き直してみると、優れた芸術の持つ普遍的な価値に気が付きました。    
 先ず、教会の絶対的権威を振りかざす大審問官が登場します。原理主義的で、頑迷で、冷酷で妥協を許しません。王とても逆らうことは許されません。  
 「王も祭壇に屈するのか」と王に独白させます。王はロドリゲスに「大審問官には気を付けろ」と二度、語気を強めて忠告しますが、王は大審問官の圧力で、息子のカルロを処刑することになり、またロドリゲスも王によって殺されてしまいます。    
 次に絶対君主の王が登場します。国家秩序と宗教を維持するために、非人間的で冷酷にならざるをえません。権力はあっても、孤独な存在です。    
 そして、自由と正義と平和を求める民衆が登場します。フォンテンブローのフランスの民衆、カトリック教を押し付けられ、スペインの圧政に苦しむフランドルの民たちです。  
 主役の王子カルロ、カルロの許嫁でありながら政略的に王の妃にさせられたエリザベッタ、カルロの親友で王の側近となったロドリゲスは、こちら側に属する人たちです。 彼らは全て、政治の側である王と、教条主義的な宗教の犠牲者です。    
 カルロとエリザベッタの悲恋、ロドリゲスとカルロの政治的な犠牲、王フィリッポの権力者の孤独と教会の権威への屈服、エボリ公女のカルロに対する片思いが、複雑に絡み合い、ストーリーが展開します。そこに豊かで美しい音楽が付けられています。ヴェルディのオペラの傑作の一つとなっています。    
 この構図は、特定のイデオロギーや宗教が最高権威となり、これが政治を縛り、国民の人権や言論の自由を制限しているどこかの国々と似ています。これらの国々では、現在でも『ドン・カルロ』的な悲劇が起こっているに違いありません     3月3日 『ドン・カルロ』にはまる   往年の名歌手を揃えたショルティの『ドン・カルロ』    
 このところ、ヴェルディにはまり込み、ウォークマンで『ドン・カルロ』を聴きながら、2時間ほどの散歩をしています。    
 調べてみると、『ドン・カルロ』の初演は、1867年3月13日にパリで行われていますが、ビゼーなども聴いていて、「あの『リゴレット』や『椿姫』を作曲したヴェルディの曲とは思えない」と、酷評だったようです。    ヴェルディ自身も気に入らなかったようで、1882年から1883年にかけて、半分以上を作りかえるという、ほとんど作り直しに近い大改訂を行っています。1874年に『レクイエム』を初演して以来、1886年の『オテロ』完成までの空白の12年間の間に作曲されました。『シモン・ボッカネグラ』もこの間に改訂されています。    
 従って、『ドン・カルロ』は実質的には晩年の『オテロ』と同時期に作曲されたオペラと言いうことになります。このオペラが、聴けば聴くほど味わいがあり、音楽の豊かさではヴェルディの作品の中でも最高峰に位置する理由が、納得いきました。    
 ヴェルディは1871年に、『アイーダ』が完成する頃、ボローニャでワーグナーの『ローエングリン』を聴いています。大変な衝撃を受けたようです。それ以来、ワーグナーを凌ぐ音楽づくりに心を砕くことになります。    
 ヴェルディにあってワーグナーにはないものは、イタリア的な歌心と、モーツァルト的な繊細な美意識です。『ドン・カルロ』はゲルマン的ワーグナーの圧倒的な力に負けないだけでなく、それを芸術的に凌ぐ、イタリア的で美しく豊かなオペラとなりました。    
 現在演奏されるのは、1884年初演の「スカラザ版」4幕ものか、1886年に初演された「モデナ版」の五幕ものです。  
 このショルティの名演奏は、五幕版です。   歌劇『ドン・カルロ』全5幕(イタリア語)  カルロ・ベルゴンツィ(テノール:ドン・カルロ)  レナータ・テバルディ(ソプラノ:エリザベッタ)  ニコライ・ギャウロフ(バス:フィリッポ2世)  ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ            (バリトン:ロドリーゴ)  グレース・バンブリー(アルト:エボリ公女)、他  コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団&合唱団  サー・ゲオルグ・ショルティ(指揮)    録音:1965619日~715日、     ロンドン・オペラ・センター(ステレオ)    
 もう一つ、ザルツブルク音楽祭2013年のパッパーノ/ウィーンフィルがありますが、これは五幕物でも一幕と三幕に追加場面があります。BSプレミアムシアターで放映されましので録画したのを見ています。これも名演奏です。  
 ザルツブルク音楽祭2013 ヴェルディ:『ドン・カルロ』イタリア語5幕版全曲 ヨナス・カウフマン、アニヤ・ハルテロス、トーマス・ハンプソン、マッティ・サルミネン パッパーノ&ウィーン・フィル   3月15日 ヴェルディを一通り聴いてみて  ヴェルディの主だったオペラを一通り聴いてみて、さて、最後の『オテロ』と『ファルスタッフ』をどう位置付けていいのか分からないでいます。  
 「ヴェルディは『アイーダ』で終わった」というのが、昔からの一般聴衆の正直な感想です。ヴェルディの本領は、歌と旋律にあるということです。「歌と旋律がたえず中心とならなければならない」というのが、イタリア人ヴェルディの持論でした。  
 ヴェルディも、期限に追われながら、聴衆に受け入れられるべく、注文に応じて次々と作曲してきました。そして『リゴレット』以降の、不朽の名作を世に送り出しました。『アイーダ』が、このようにして生み出された最後の作品で、私の好きな『ドン・カルロ』は、その後で大幅に改定されたものです。実質的には、『ドン・カルロ』が最後といえます。  
 ではその後、長期の休止期間を置いて作曲された最後の『オテロ』と『ファルスタッフ』はどうでしょうか。確かにすごい曲であり、聴けば聴くほど味わいのあるオペラですが、聴くのに集中と努力を要求する曲です。  
 この二曲は、オペラ通や音楽専門家からは絶賛されてます。ヴェルディの最高傑作であるばかりでなく、ヴェルディの名を不朽ならしめた作品であり、芸術的にワーグナーと完全に対峙、あるいは凌駕する所まで上り詰めたということです。解説書などを見ると、このオペラの凄さを説明するのに、必ずと言ってよいほどスコアが出てきます。私のように、スコアなど全く分からない者には、その良さは理解できませんよと言ってくれているようなものです。  
 なぜこのような一般受けしないオペラをヴェルディは最後に残したのでしょうか。ヴェルディ自身も、これらのオペラは、もはや聴衆や劇場を気にせずに、全く自分自身の楽しみのために書いたと言っています。二曲とも台本は、ヴェルディが生涯にわたり敬愛していたシェイクスピアから取られています。台本作家のアリゴ・ボーイトとの幸運な出会いから生み出されました。  
 昔、モーツァルトのオペラを聴き始めた頃、率直な疑問として、なぜもっと優れた文学作品をオペラにしないのだろうかと思っていました。今はその理由がよく分かります。モーツァルトが手紙に書いているように「詩は音楽の忠実な乙女」でなくてはならないということです。文学作品としてそれ自身で完結しているものは、オペラ化することは不可能であるということです。  
 ヴェルディは、シェイクスピアをオペラにしようとして挑戦し、諦めていました。そして最晩年になってから、ボーイトとの出会いにより、ボーイトの優れたオペラ台本化に触発されて、ようやくシェイクスピアをオペラにする決心がつきました。 
 ではなぜ、歌と旋律を止めてしまったのでしょう。理由はいくつか考えられます。
・自分の楽しみで作るから、聴衆を喜ばす必要はない。売り上げも気にしない。 ・年を取り、美しいアリアを作りだす泉が枯渇した。それに、歌と旋律のオペラにはもう飽きた。
・シェイクスピアが台本だと、スケッチがしっかり出来上がっているから、色を付けるくらいしかできない。つまり、歌は朗誦となり、オーケストラは彩色とならざるを得ない。
・ワーグナーを意識した。
・新しいオペラ形式を樹立しようとした。  
 いろいろと推測する楽しみができました。    
 

326日 ヴェルディと北斎  

 ヴェルディを聴いていて、北斎を思い出しました。イタリヤ人と日本人、作曲家と画家、時代も半世紀違いますが、芸術家としての共通性を感じたからです。    ヴェルディは明治期に活躍したオペラ作曲家で、北斎は江戸末期に活躍した画家です。ヴェルディは88歳、北斎は90歳まで生きましたから、当時の芸術家としては異例なほど長寿を全うしました。    
 二人とも長寿であっただけではなく、最晩年まで創作意欲を衰えさせることなく、自己の芸術を追求し続けました。晩年になって、それまでの作風から脱皮して、新たな境地に到達したことも共通しています。    
 ヴェルディは、それまでの歌と旋律のオペラから離れて、音楽と演劇を統合した音楽劇のような様式の『オテロ』を完成させたのは73歳の時です。さらに、最後のオペラで、唯一ともいえる喜劇オペラ『ファルスタッフ』を完成したのは79歳です。    
 北斎が『富嶽三十六景』を完成させたのは73歳のときで、小布施の岩松院の天井絵『八方睨み鳳凰図』は89歳の作と言われています。浮世絵とは全く異なる、極彩色の肉筆画です。    
 75歳の葛飾北斎が残した『富嶽百景』の有名な後書があります。ヴェルディにも同じ思いがあったのではないでしょうか。    
 「己 六歳より物の形状を写の癖ありて  半百の此より数々画図を顕すといえども  七十年前画く所は実に取るに足るものなし 七十三歳にしてやや禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり 故に八十六歳にしては益々進み  九十歳にして猶其奥義を極め 一百歳にして正に神妙ならんか  百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん 願わくば長寿の君子予言の妄ならざるを見たまふべし」    
 

4月4日 見直したウォークマンの音  

 事情があって、乗り物での移動やホテルでの宿泊が続いたため、退屈しないようにウォークマンを購入しました。機種はハイレゾ対応の普及版であるNW-A25です。ハイレゾを聴くのが目的ではなく、手持ちのCDを転送して使うためなので、ハイレゾ仕様である必要はなかったのですが、音が良さそうな気がしたからです。    
 インターネット通販の最安値で購入し、早速聴いてみましたが、その音の良さに驚きました。付属のイヤホーンでもなかなかの音がします。これは、外部ノイズをキャンセルする機能があり、バスや電車の中でも、騒音を気にせずに気持ちよく聴くことができます。これならば飛行機の中でも快適に音楽を聴けそうです。    ただ問題があって、イヤーホーンの付属のイヤーパッドが大きすぎて耳に入りません。すぐに外れてしまいます。この不快さに業を煮やし、少し奮発して、ハイレゾ対応のヘッドフォーンMDR-1Aを購入しました。音は、素晴らしいの一言に尽きます。    
 このヘッドフォーンで聴くと、ゴトーユニットの大型スピーカで聴くよりも良い音がします。これにはショックでした。しばらくスピーカの音を聴かなくなったくらいです。原因は、音のバランスにあるようです。気を取り直して、中高音のバランス調整に挑戦しようと思います。今のアンプでは、改造した時に各帯域のゲインを固定にしていまったからです。これは少々無謀でした。    
 MDR-1Aで聴くと、不思議なことにどんなソースでも良い音で聴けます。私の装置では、CDの録音の粗が目立ち、録音の悪いCDは聴けません。CDとSACDの音の違いも明瞭に判別できます。ところが、ヘッドフォーンだと録音の良くないCDでもそれなりに良い音で聴けます。これはいかなる理由によるものか、理由を突き止めたいと思っています。    
 寒い時期は、毎朝2時間くらいのウォーキングをしますが、ヘッドフォーンを着けてウォークマンを聴きながら歩いています。先日は、春らしい陽気の田園地帯を、ブラームスのクラリネットソナタを聴きながら歩きました。少し輪郭のぼやけた、ボーとしたクラリネットの音が、春の陽気に包まれた野山の風景にぴったりでした。    
 

4月22日 良さが分かるのに時間のかかった『オテロ』と『ファルスタッフ』  

 ヴェルディにすっかりはまってしまい、このところずっとヴェルディのオペラを聴いています。しかし、『オテロ』と『ファルスタッフ』に関しては、その良さが分からないままでした。    
 まず『オテロ』ですが、音楽は深みと凄みがあって素晴らしいのですが、登場人物が単純すぎて、好きになれませんでした。オテロは懐疑心の塊、イアーゴは悪の権化、デズデモナは単純なおバカさんといったところです。    
 そこで、シェイクスピアの原作を読んでみました。原作を読むと、オテロは黒人であるゆえに異常な嫉妬心にかられること、イアーゴはそこを好みについて、オテロを罠にはめ込むこと、イアーゴは昇進が叶わぬことでオテロを恨んでいること、デズデモナは単なるおぼこではないことが分かります。    
 ボイトの台本は良くできていると思いますが、なんといってもかなりの部分を省いたダイジェスト版ですから、単純化は免れません。オペラとしての劇的な側面が強調されて、複雑な人間像まで描くことはある程度犠牲にされています。このことが、登場人物を単純なものにしているように思います。    
 もう一つ、オテロを嫉妬をテーマにしたものという思い込みが、このオペラの理解を妨げていました。『オテロ』は、ムーア人のオテロの猜疑心と嫉妬心を利用した、イアーゴの復讐劇と考えたほうが納得できます。    
 『ファルスタッフ』の良さが分かるようになるのには随分と時間を要しました。最大の理由は、言葉の問題です。結局、イタリア語が分からなければ、このオペラの良さは理解できないということです。したがって、本当には分からないにしても、対訳を頼りに幾度も聴いていると、ある程度は面白さが分かるようになります。それほどに、言葉と音楽が一体となっています。    
 伝統的なレティタティーボとアリアから脱して、セリフを音楽化するという、新しいオペラです。その後の作曲家に多大な影響を与えました。当時としては斬新なオペラを、70歳を超える人生の最後に生み出したヴェルディの才能には驚嘆するばかりです。  
 

5月2日 シミシフガとリグラリア  

 富士見もこのところ日中の気温が20近くになり、庭の植物がどんどん成長してきました。多年草がいつもの場所から芽を出し、ぐんぐん背丈を伸ばしています。年々、大株になってきます。    
 多年草の間にはチュリップが、所狭しと咲き誇っています。また、多年草の間からは、こぼれ種から芽を出した一年草が、雑草のごとく蔓延っています。年とともに庭は充実し、もともと植物がそこにあったように、自然な感じがでてきました。長い時間を経ての結果です。庭は一朝にして出来ずです。    
 日当たりの良い場所は、草花でほぼ埋め尽くされ、残るのは、日当たりの悪い庭の隅だけとなりました。今年は、この残された日の当たらない場所を、美しくしようとしています。    
 この春は、なかなか手に入れにくい、シミシフガ(キミキフーガ)Cimicifuga と リグラリア Ligularia を探し回りました。ソミシフガがサラシナショウマのことで、葉が銅葉色をしているのが特徴です。リグラリアはツワブキの園芸品種で、これも銅葉色の葉が特徴です。ギボウシ、矢車草、クジャクシダ、白のヤマブキ、クリスマスローズなどのなかに、葉色のコントラストを得ることができます。まだ株が小さく見ごたえがしませんが、来年が今から楽しみです。庭作りは、最低でも1年仕事です。      
 

5月9日 ヴェルディの『オテロ』再考  

 このところ音楽を聴くといえばベルディのオペラです。これほど、ヴェルディにすっかりはまり込んで、4か月ほどが経ちます。    
 ヴェルディ晩年の傑作『オテロ』ですが、『アイーダ』や『ドン・カルロ』を聴いた後、このオペラを見て、とても面白いとは思えませんでした。その音楽の良さも分かりませんでした。    
 ムーティ指揮、ドミンゴ主演のDVDで見ましたが、オテロの直情的で異常なまでの懐疑心と嫉妬心、イヤーゴの悪魔的な復讐心と行動、デズデモナのおバカさんほどの純真さばかりが目について、あまりにも単純化された不自然さを感じました。繰り返し見る気にはなれません。シェークスピアの原作を読んでみると、人物はもっと複雑な心理をもっており、オペラのような不自然さは緩和されています。    
 ムーティ指揮、シカゴ交響楽団のSACDで改めて聴いてみました。音楽だけで聴くと、演技の過不足、演出への不満などがないので、音楽そのものの価値を正当に受け取ることができます。そして、『オテロ』は素晴らしい音楽であることがようやく理解できました。音楽として聴けば、ドラマの不自然さや違和感から解放させてくれます。嵐の場面の激烈さ、バッカスの歌の神秘的なたき火の合唱、オテロとデズデモナの愛の二重唱、イアーゴの悪魔の信条吐露、などなど、実にドラマチックで深みと奥行きと厚みのある音楽が続きます。    
 とりわけ、オテロとデズデモナの愛の二重唱は、ワーグナーの『トリスタンの愛と死』を思い起こさせますが、ワーグナーのような濃厚で粘着質の官能性ではなく、あくまで純粋で簡潔で精神性の高い高尚な音楽になっています。この音楽が純真で美しいだけに、これに続くイアーゴの陰謀と、これにまんまと引っかかるオテロの直情的な単純さが際立ち、最高にドラマチックなオペラになっています。    
 ヴェルディの傑作オペラは、見るよりも聴くものであると強く感じました。音楽だけなら、何度聴いても飽きることがありません。  
 

519日 ヴェルディのオペラの悲劇性番付  

 ヴェルディは最後のオペラ『ファルスタッフ』を除いて、全てが悲劇です。どのオペラが最も悲劇性が強いのか、個人的な感想を述べてみます。これは人によって異なると思いますから、全くの個人的なものです。    
 まずドラマとしての悲劇性では『リゴレット』です。屈折した父親の異常な愛情が、唯一の愛する娘を殺してしまうという悲劇で、残されたリゴレットは恐らくは生きていくことができないでしょう。『オテロ』もやり切れなさの残る悲劇で、猜疑心と嫉妬心を利用した悪魔的人間の復讐劇です。    
 死者の数が多く、ストーリとしての悲劇性からは、まず『トロバトーレ』でしょう。これはどす黒い情念の悲劇です。次に『運命の力』は、過酷な運命のもたらす悲劇で、「罪を犯した者が罰せられずに生き残る」という、悲劇の中の悲劇です。『マクベス』も野心のもたらす人間の悲劇です。    
 最後に、同じ悲劇でも、浄化された死、救いのある死、美しい死、気高い死を描いたのが、『ドン・カルロ』、『シモン・ボッカネグラ』、『アイーダ』、『椿姫』、『仮面舞踏会』そして、『ルイザ・ミラー』です。    一口で言えば、『ドン・カルロ』は最も豊かなオペラ、『シモン・ボッカネグラ』はいぶし銀のような味わいのある気高いオペラ、『アイーダ』は最も美しいオペラと言えるでしょう。    
 『椿姫』は言わずと知れた人気オペラ、『仮面舞踏会』は忠実な部下の妻との恋愛ですが、友情に包まれた高貴な死で終わります。これも、中期の傑作オペラです。『ルイザ・ミラー』は、親に認められない若い男女の愛の死という、定番的なストーリーです。    
 それにしても、よくも悲劇を作曲し続けたものだと思います。悲劇は聴衆受けし易いが、喜劇は難しいという理由も多少はあったようです。人生の最後に『ファルスタッフ』という念願の喜劇オペラを作曲し、これが最高傑作になったというのは、何かヴェルディの人生を物語っているようです。  
 

5月20日 才はあるが徳のない人  

 一日一話 『菜根譚講話』を毎日読んでいます。奇しきも518日に    
徳は才の主、才は徳の奴なり。  
才ありて徳無きは、家に主なくして奴事を用いるが 如し。  
幾何か朦朧にして猩狂せざらん。  
という講話がありました。徳は才の主人であって、徳のない才は、主人のいない家で下僕が取り仕切っているようなものであり、どうして怪物のような悪人が猛り狂って勝手な真似をしないようにできようか。    
 今、政治資金で窮地に立たされている舛添さんは、自分の能力に自信満々で、自己に甘く他人に厳しい印象を持っていました。金銭面でもそうであったのでしょう。まさに才はあるが、徳のない人のよいサンプルではないか。    このような人がトップに立つことは、日本にとって不幸なことである。    
 

530日 オバマ大統領の広島訪問  

 感動的な瞬間でした。ずっとテレビに釘付けでした。こんなことは近年なかったことです。アメリカは原爆投下の正当性を当面は主張し続けるでしょうが、もう半世紀もすれば、原爆投下は誤りであったと大半のアメリカ人が考えるようになると思います。オバマ大統領の広島訪問は、その第一歩になるでしょう。    
 喧嘩をした者同士が仲直りをし、その後に親友になることはよくあることです。日米の関係はこれと似ています。本気で戦った者同士の真の仲直りを、オバマ大統領の広島訪問は、全世界に印象付けました。    
 韓国と中国だけは、複雑だったようです。韓国は、日本が被害者になることを恐れました。中国は、筋違いの「南京事件」事件を持ち出して、日米の親密さに水を差そうとしました。    
 米国に謝罪を求めない成熟した日本と、永遠に謝罪を求め続ける韓国と中国の違いが対比されます。そこには戦争をした国と、攻め込まれた国との違いがあるとはいえ、近親の憎悪のようなものを感じます。    
 アジア人と欧米人は容易に和解できるけれども、同じアジア民族同士は、似ているだけにライバル意識が強く、憎しみは自分たちが優位になるまでは消えないということなのでしょうか。  
 

6月13日 舛添知事に贈る言葉  

 今日集中審議が行われます。権力にしがみつき、見苦しい姿をさらし続けるとは、気の毒な人です。    
 毎日一話づつ、『菜根譚』を読んでいますが、この中には舛添知事に読ませたい言葉にしばいば出会います。古人も、地位にある人の人徳のなさを嘆いていたのでしょう。戒めの言葉の一例です。    
「徳を慎むは、すべからく至微の事に慎むべし。」    
「徳は事業の基なり。未だ基固からずして、棟宇の堅なるものは有らず。」    「悪を為せども其の損を見ざるは、庭前の春雪の如し。まさに必ずひそかに消ゆべし。」    
 こうなったら、日本のため本人のために、一日も早く辞任することです。辞めるにあたっては、こう教えています。 「事を謝する(辞める)は、まさに正盛の時に謝すべし。身を居くは、宜しく独後(ひとから羨まれない)の地に居くべし」と。      
 

6月13日 最近の気になる言葉  

 説明責任 政治家が不正を行ったときに、誤魔化し通す時に使う都合のよい言葉。   丁寧な説明 これは自民党が政策を押し通す時に使う常套句。内容のない説明を繰り返し行うこと。    
 生命には別状ない NHKニュースでアナウンサーがよく使うフレーズ。 命には別状なくても、一生に係わるような大きな怪我もあれば、軽い傷程度のこともある。こんな曖昧な表現は無い。
 躾として山中に置き去りにされた7歳の小学生が、7日振りに発見された時、医師の記者会見でこれを真似て、「生命に係わるような外傷はない」と。実際にはかすり傷であった。  
 

619日 頭はよくても心を失った人間  

 99%の人にノーと言われた政治家は、今までいなかったのではないでしょうか。数%いや数十%くらいの人は、支持を表明するのが普通です。罪を憎んで人を憎まずだからです。    
 今回の東京都知事不信任の理由は、単に不正に対するノーではなく、人間性に対するノーであったからでしょう。罪ではなく、人そのものが憎まれたのです。   頭ばかりよくて、人を理屈で論破するけれど、そこに人徳、暖かく誠実な心や、思いやりや、正義心がなければ、周りの人に害を与えるだけの人になってしまいます。    
 

7月4日 オープンガーデン  

長野県や山梨県には、庭好きの人たちが別荘地に広いガーデンを作って楽しんでいます。そのいくつかで、オープンガーデンが開かれます。    
このあたりの冷涼な気候では、6月がもっとも花が咲き見ごろとなります。バラが咲くのもこの時期です。チャリティーを兼ねたオープンガーデンも開かれており、500円の寄付で、庭を楽しみお茶のサービスなどがあり、数百人くらいの庭好きな人たちが見に来ます。    
 そんな中で、富士見町のグリーン・コッテッジ・ガーデンと、山中湖にある塚原邸を見にいきました。前者は多年草に混じった一年草のやさしさに特徴があり、後者は400坪の庭に多年草と250株のバラが特徴です。多年草や灌木の取り合わせや配置が絶妙で、大変刺激を受け参考になりました。    
 それに比べると、小さな我が家の庭はとてもそんなレベルにはなく、世の中には凄い人たちがいるものだと、いつも感心させられます。
 

7月14日 孫との生活    

 米国在住の息子の家族、母親と孫二人が、夏休みで帰国し、7月初めからこちらの小学校に体験入学しています。富士見の小学校には、海外で生活している子供の一時帰国の間、日本の学校に慣れるためにの体験入学制度があります。とても良い制度です。    
 小学校二年生の女の子ですが、すぐに学校に溶け込み、近所の子供と友達になり、それぞれの家に遊びに行っています。田舎の学校の素朴さが、いい面で作用しているようです。海外体験で、物怖じしなくなったことも大いに働いているようです。 日本の小学校とアメリカの小学校を比べると、アメリカの方が楽しいといいます。学校での行動で、何かと束縛の多い日本の学校よりも、自由な雰囲気のアメリカの方が楽しいようです。    
 下の子は3歳になったばかりで、毎日電車遊びに付き合いさせられて大変ですが、贅沢な悩みというべきでしょう。この貴重な時間を大切にしないといけないと思っています。  
 

7月24日 ようやくガラケイからの脱出    

 スマホの普及率が50%を超えたところで、ようやく我が家にもiphoneが入りました。きっかけは、家内がうっかり携帯を洗濯してしまい、使えなくなったのがきっかけです。日常生活で、スマホの必要性は感じていなかったのですが、息子の強い勧めがあり、iphoneに切り替えることにしました。    
 最初は戸惑いの連続でした。まず使い方が分からない。字が小さくて、少しやっただけで目がしょぼしょぼする。指に位置がちょっとずれただけで、違う文字が入力されてしまう。指をちょっと触れただけで、画面が飛ぶ。元の画面に戻すのが一苦労、といったところです。    
 最初は使いこなせないのではないかと落ち込みましたが、パソコンでiphone使い方を検索し、先ず指紋認証をクリヤーし、PCのメールを使えるように設定し、アプリのダウンロードの仕方を覚え、Google mapでカーナビの使い方を知り、ようやく昨日ジョギングでランニングアプリを使ってみました。    
 なるほど、無くてもいいものの、あればあったで便利です。数日かけて、使い方に慣れるに従い、少しづつ手に馴染んできました。登山のナビなどもあり、これからは手放せない様になりそうです。不思議なことに、携帯電話はほとんど使わなかったのですが、スマホは常に携帯することになりそうです。携帯電話とスマホは、全く別物であることを、今頃になって実感しました。  
 

8月1日 東京都知事選に思う    

 都知事選は予想通り、小池百合子氏の圧勝に終わりました。小池氏が勝つと予想したのは、人物の魅力度で他を圧倒していたからです。やはり世間は今までとは違う何かやってくれそうな、面白い人を求めています。    
 増田氏は、行政手腕はあるかもしれませんが、まともすぎて面白味がありません。やはり、首都のトップとしては、華がなさすぎます。自民党都連推薦も、力になるどころか足を引っ張ったようです。おまけに石原慎太郎の「厚化粧失言」が致命傷になったようです。    
 鳥越氏は、知名度は抜群ですが、ジャーナリスト臭さが鼻につき、線の細さが感じられ、左翼に傾きすぎました。    
 小池さんは、アイデア力に富む人ですから、これからの実行力に期待します。  
 

8月9日 立秋    

 日本全国猛暑に見舞われている最中の立秋(今年は87日とのこと)です。何が秋だと思われることでしょう。    
 海抜1000m近い我が家では、日中の日差しは強烈ですが、日蔭は涼しく、朝夕は肌寒いくらいです。昨日、涼しくなったデッキで夕食をしました。南アルプスの鋸岳がくっきりと見え、空は澄んでいます。突然、風が吹き、近くの松の木立がざわめき始めました。    
 あききぬと めにはさやかに見えねども  風のをとにぞ おどろかれぬる    
 まさしく、この歌そのものだと感じました。古今和歌集の169番目にある、藤原敏行朝臣の「秋立つ日よめる」とある歌です。昔の日本人の季節感は素晴らしと改めて思いました。猛暑日の最中の立秋です。残暑がまだまだ続きますが、季節は確実に秋に向かっています。  
 

827日 70歳を目前にしてイタリア語    

 モーツァルトのオペラに夢中になっていたころ、イタリア語が解ったらどんなにオペラが楽しめることかと、つくづく思ったものです。イタリア人が心底から羨ましくなりました。イタリア人は得をしていると。    
 最近、ヴェルディに心を惹かれるようになり、ヴェルディの主だったオペラを繰り返し聴いています。モーツァルトとは違った良さがあります。    
 モーツァルトの音楽は、あからさまな感情表現はしていませんが、人間の性格や喜び悲しみを、実に見事に描き出しています。一方ヴェルディは、感情の直接表現の名人です。特に女性の性格描写は傑出しています。人間の感情をヴェルディほど美しい音楽で表現できた人はいないのではないでしょうか。    
 ヴェルディの音楽は、イタリア語と密接に結びついています。モーツァルトの場合は、音楽の力がとてつもなく大きく、必ずしもイタリア語との結びつきが絶対的ではないように思いますが、ヴェルディの場合は、イタリア語でなければ音楽にならないように思います。ということは、イタリア語が解らないと、ヴェルディのオペラの本当の面白さが解らないということになります。    
 ということで、遂にイタリア語を勉強する決意をしました。今のところ三日坊主にもならず、カタツムリのような歩みですが、少しづつ前進しています。オペラの対訳を見ても、全く解らなかったイタリア語も、少しづつ見当が付くようになってきました。  
 

918日 ヨセミテ 写真     

 二週間ほど、息子家族の住むBurlingame 行ってきました。Burlingameは、サンフランシスコ空港から20分位のところに位置する美し町です。    
 ちょうど米国は三連休があり、息子家族とヨセミテに二泊三日で出かけました。時期的には雪解け水が無くなり、滝が枯れていましたが、雄大な自然と、自然が作り出した壮大な景色を満喫してきました。    
 ヨセミテは、日本で言えば上高地を思い起こさせる上品な雰囲気を持っています。日本の渓谷美とは違った、スケールの大きな大自然は、アメリカならではのものです。今度は滝の見れる時期に行ってみたいものです。  
 

10月10日 この夏の思い出  

 今日は体育の日で、天気は今一つでしたが、八ヶ岳の天女さんから三ツ頭へ登ってきました。山頂で雲が晴れ、雲海の上に浮かぶ富士山、南アルプス、北アルプスを見ることができ、幸運でした。    
 山を歩きながら、この夏の心温まる出来事を思い返していました。 雨具、を  家内の高校時代の友人たちと北八ツに登る機会がありました。白駒池から高見石、中山、ニュウを廻り白駒池に戻るコースです。あいにくの雨で、1日中雨の中を歩きましたが、愉快な仲間との楽しい登山でした。    
 登山も終わり、麦草ヒュッテ近くの駐車場から車に荷物を詰め込み帰るときに、うっかり脱いだ雨具を公衆トイレの前の手すりに置き忘れてしまいました。家に帰ってから気が付き、もしやと思い、麦草ヒュッテに電話をして事情を話し、もし届があったらお願いしますと、電話番号と名前を伝えて、戻ってくることに淡い期待を抱いていました。    
 ところがすぐに電話があり、麦草ヒュッテの人が、わざわざ探しに行ってくれて、無事見つけてくれたとのことです。半ば諦めていた雨具が戻り、大変感激しました。翌日、さっそく心ばかりのお礼の品を持って、麦草ヒュッテまで取りに行きました。人から厚意を受けるということは、本当にうれしいものです。  
 

10月17日 人間の脳と景色    

 今年も紅葉の季節になりました。先陣を切って今ウワミズザクラ(上未見桜)の紅葉が始まりました。二階のオーディオルーム兼書斎の付く手の机に座ると、目の前の上未見桜が美しく紅葉しています。    
 その美しさにしばらく見とれていましたが、なんとなく眺めていると疲れてきます。恐らく一分とは凝視していられません。何か目的をもって、花とか鳥とか昆虫とかを観察するのであれば、長い間見ていられますが、ただ漫然と眺めるだけだと、疲れてきて長続きしません。すぐに、他のものに目を移したくなります。実際に景色などを眺めるときも、視線は絶えず動いています。つまりあちこちと見渡すわけです。    
 コンピュータでも、画像処理になるとCPUやメモリーを酷使します。人間の脳も同じで、画像を見るということは脳にとって負担になるのでしょう。ですから、人間の脳は目的もなく物を凝視することを許さないのかもしれません。    
 

10月28日 小さなボートの大き幸せ    

 この夏、ヨセミテに息子夫婦と行き、テナヤ湖で車に積んでいったゴムボートで遊びました。素晴らしい雄大な自然に囲まれ、実に楽しい時を過ごすことができました。。サンフランシスコ郊外に住む息子たちのお陰で、この上ない幸福な時間を持てました。    
 近くにいたアメリカ人親子が、羨ましそうに見ていたので、ボートと救命胴着を貸してあげたら、本当に嬉しそうでした。    
 10月23日放映のNHKスペチシャル『巨大格差その果てに』の最後に登場した、何兆円もの資産を持つ大富豪の一言が印象的でした。超豪華なクルーザーに乗って休暇を過ごしている富豪様子が紹介されていました。周りにはいくつもの余暇を楽しむ大小様々なクルーザーが浮かんでいました。それらを見ながらこの富豪が言った言葉です。    
 「周りには大きな船も、中ぐらいの船も、小さな船も浮かんでる。小さな船に乗っている人の方が幸せかもしれない」と。    
 何兆円もの資産を持つ大富豪が、わずかな年金で暮らす者よりも幸せだとは限りません。日々の節約した資金でアメリカへ旅行をして、息子夫婦や孫たちと一緒に小さなボートで遊ぶ喜びは、大富豪の豪華船の喜びよりもはるかに大きいだろうと確信しました。  
 

11月10日 トランプ氏次期大統領に  インテリ、有識者、マスコミの敗北    

 大統領選に負けたのはヒラリー・クリントンだけではありません。FTNTを始めとする知的メディア、有識者、評論家は皆負けました。多くのアメリカ人の本音や不満を感じ取ることができなかったからです。    
トランプ氏の勝利は、既成政治の怠慢と行き詰りへの反乱であり、行き過ぎたグローバル化への抗議であり、過去の欧米の植民地支配や帝国主義支配の結果として生まれてきているテロや難民問題への嫌気であり、地球規模の格差が生む不法移民への反感、などなどが、マグマの噴出のように地表に現れてきた結果だと考えます。    
 私個人としては、クリントン嫌いで、トランプ氏の方に好感を感じていたので、ひょっとするとトランプ氏が勝つのでは思っていました。投票日の前日には、その夜に見たテレビ番組『プライムニュース』の影響もあり、トランプ氏が当選する夢を見ました。まさに正夢となりました。    
 少なからずの人たちが指摘しているように、トランプ氏は選挙キャンペーン中の過激な発言とは異なり、まっとうな政策を推進すると確信しています。素人政治家ゆえに、既成の政治家のできなかったことを、きっとやってくれることでしょう。不確実だとかリスクとかばかり言っていると、またマスコミや有識者の負けになりますよ。    
 

11月24日 幸運な巡り合い    

 モーツァルトの『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ』は、私のお気に入りの曲ですが、本当に良いと思う演奏になかなか行き会えません。そんな中で、グルミオーとリリークラウスの名手による組み合わせによる最高の演奏、ツィンマーマンとロンクィヒの若々しく外連味のない演奏が好きです。同じグルミオーでもワリター・クリーンとの演奏は、ヴァイオリンの音色は素晴らしくてもピアノが伴奏になっていて、面白くありません。    
 モーツァルトの『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ』は、初期のころは「ヴァイオリン付のピアノソナタ」と呼ばれていて、ピアノが主でしたが、中期頃の作品からヴァイオリンの役割が大きくなり、ピアノとヴァイオリンが対等に語り合うようになってきました。この成り立ちからも言えるように、ピアノが非常に重要で、ピアノの名手がピアノソナタを弾くように弾かないと、どんなにヴァイオリンが良くてもいい演奏とは言えません。    
 モーツァルトのピアノ曲では、内田光子が好きでよく聴いています。かねがね内田光子が『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ』の全集を出したらいいのにと思ていました。1枚だけCDを出していることは知っていましたが、どういうわけか買う機会を逸していました。    
 このたびどうしても聴きたくなり、インターネットで検索していたら、中古品のSACDが見つかりました。早速購入し聴いてみると、期待に違わず素晴らしい演奏です。というより、今まで聴いた中での極上の演奏でいた。なによりピアノが素晴らしく、それにシュタインバークのヴァイオリンもピアノにうまく乗っかっています。モーツァルトの『ピアノとヴァイオリンのためのソナタ』の理想的な演奏だと思います。繰り返し何度も何度も聴いています。    
 それにしても、このSACDを手放した人は、この演奏が気に入らなかったのでしょうか。人の感じ方はそれぞれですから、この演奏を良いと思わない人もいるかもしれません。なかにはピアノが出すぎていると感じたり、もっとリラックスした演奏がよいと言う人もいるようです。私にとっては、このSACDに巡り合えたことは幸運でした。「捨てる神あれば拾う神あり」ではありませんが、捨てられたSACDにとっても幸運なことでした。    
 

12月11日 内田光子のモーツァルト    

 今年発売された内田光子とクリーブランド・オーケストラによるモーツァルトのピアノ協奏曲17番と25番で、グラミー賞を受賞したこのシリーズが完結しました。このCDの裏表紙に、The Independent,London の評がかいてありました。"No pianist conveys the rapture of Mozart quite like Mitsuko Uchida does."
 本当にその通りだと思いました。モーツァルトのピアノ協奏曲には、多くの名演奏があります。私が好きでよく聴くのは、アシュケナージ、ピリシュとアバド、アルゲリッチとアバド、ホロビッツとジュリーニ、カサドシュとセル、ペライア、それに今は聴かなくなりましたがLP時代のバレンボイムなどです。しかし、内田光子ほど繊細で、透明で、真実を追求した演奏はないように思います。モーツァルトの音楽の喜びと美しさがストレートに伝わってきます。    
 内田光子による5枚のCDは、私の宝物となるでしょう。  
 

12月18日 安部・プーチン会談 嘘を言っているのでなければ3段論法で島は返還される    

 15,16日の二日間、安倍首相とプーチン大統領との首脳会談が行われました。主な合意点は、8項目の経済協力と特別な制度の下での北方領土における共同経済活動を行うという内容でした。    
 北方領土返還に対するロシアの頑なな姿勢に対して、正面から挑むのではなく、経済というからめ手から攻めることで、ロシアの姿勢を崩していこうという戦術です。私は、現実的な良い方法だと思います。    
 この首脳会談の結果を一部の人は高く評価し、一部の人は貶し、一部の人は失望しています。貶している人たちの中には、一部マスコミ、評論家的な人たちや相変わらず反対しかしない民進党や共産党などの野党が含まれています。    
 私が評価する根拠は、次の三段論法により、島の少なくとも一部は何れ日本に返還されるはずであるということです。
 プーチン大統領は、日ソ平和条約を結ぶと言っています。    
 一方、日本が平和条約を結ぶための絶対条件は、北方領土の返還と四島の帰属を明らかにするということです。これは絶対に譲れません。    
 それならば、三段論法から プーチン=平和条約 日本=平和条約=北方領土の返還と帰属 。故に プーチン=北方領土の返還と帰属 となります。乃ち、何時かは返すということです。    
 返すたにはロシア内の雰囲気作りが必要で、そのためには経済協力が効果的だということです。ただ一つ気になるのが、プーチン大統領の「1956年の日ソ共同宣言は平和条約の締結後の色丹島と歯舞群島の日本への引き渡しを明記しているものの『主権を返すとは書いてない』という発言です。島が帰るにしても、まだ紆余曲折はありそうです。  
 

12月27日 安部首相の真珠湾訪問    

 今年の最後を締めくくる歴史的な出来事でした。二つの国が、友好と和解で固く結ばれるということは素晴らしいことです。安部首相とオバマ大統領は、印象深いよい言葉を残しました。    
 「寛容の心、和解の力を、世界はいま、いまこそ必要としています。憎悪を消し去り、共通の価値のもと、友情と信頼を育てた日米は、いま、いまこそ寛容の大切さと、和解の力を世界に向かって訴え続けていく任務を帯びています。日本と米国の同盟は、だからこそ「希望の同盟」なのです。」    
 「戦争よりも平和からこそ勝ち取れるものがあるのだということ、報復よりも和解からこそ、恩恵を受けられるというメッセージを世界中に送りたい。」    地球上では、未だに戦争や紛争が絶えません。紛争の当事者たちは、今こそこの「真珠湾の教訓」を学時でしょう。    
 今回の安倍首相の真珠湾慰霊にたいして、欧米各国のメディアは好意的に伝えていました。何時ものように、中国と韓国は批判的であり、良くても無関心を装っています。    
 中国は「中国にも慰霊の場所がある」と言っているのは真実です。ですが、史実を曲げた歴史認識や、過去ばかりにいつまでも目を向けて、未来を見ようとしない頑なな姿勢が無くならない限り、中国での慰霊は実現されないでしょう。かの国には「寛容の心」を望みたいものです。  
 

12月28日 2016年の締めくくり  

 最近、ずっと続けていたスロージョギングから、速足歩きに替えました。理由は、スロージョギングと速歩とで、スピードがあまり変わらず、歩く方が距離が長くなるので、運動量はむしろ多くなることが分かったからです。    
 走るときや歩くときはiphoneを携帯し、Nike+runアプリをダウンロードして使っています。歩いたルートが地図上に保存され、距離、平均ペース、消費カロリーなどを計測してくれるので、もう手放せなくなりました。スロージョギングでは5~7Kmくらい、ウオーキングでは10~15Kmくらいを、その日の気分で幾つかのコースの中から選択して行っています。       
 Nike+によれば、スロージョギングでの平均ペースは1Kmを9~10分、ウオーキングの平均ペースは約10分/Kmです。スピードにあまり差がないことに驚きました。消費カロリーは、スロージョギングでは300^350Kcalに対して、ウオーキングでは約600Kcalと、2倍近く多くなります。これは歩く距離が長いためです。    
 こうした理由から、最近は専ら速足で歩くことが習慣になりつつあります。冬の凍てついた大地を踏みながら、白く覆われた北アルプス、南アルプス、富士山、八ヶ岳などの美しさに励まされて、毎日歩いています。  
 

12月31日 へそ曲がりの大晦日    

 個人的な話ですが、大晦日で私の嫌いな物、紅白歌合戦と第九の年末恒例演奏会。どちらもお祭り騒ぎで、前者は少々低俗で、後者は高尚なお祭りです。    
 今年は、第九ではなく第十にしました。すなわち、ブラームスの第一番です。選んだのは、小澤征爾指揮、サイトウ・キネンのブラームスです。      
 一枚目は、サイトウ・キネンの1990年第3回ヨーロッパ・ツアーで録音されたもの、 二枚目は、20110年に病気療養から復帰して、カーネギー・ホールで行われたライブ録音です。これは、「奇跡のライブ」と呼ばれている演奏です。    
 一枚目はまだ若々しく、燃え立つような情熱と躍動感に満ちた名演奏です。サイトウ・キネンはブラームスがよく合っていると思います。気の合った同級生が久しぶりに会い、思いっきり自分たちの技量を出し合って楽しんでいるといった感じがします。    
 二枚目の「奇跡のライブ」は、団員の気迫が違います。何か鬼気迫るようなものを感じさせます。冒頭から1990年とは違ったものを感じさせます。クライマックスの盛り上がりは、いつ聴いても小澤征爾一流のものです。    サイトウ・キネンのような七夕オーケストラには、ウィーンフィルやベルリンフィルやボストンなどにはない、生気と情熱に満ちた生き生きした音楽を作り出せる力があるように思います