私の近況2013
1.1 ミラノ・スカラ座の『ローエングリン』 |
ミラノ・スカラ座の2012年、20013年シリーズの開幕公演『ローエングリン』、バレンボイム指揮を、NHK BSプレミアムの録画で見ました。優れた歌手を集めた、素晴らしい公演でした。新しさを強調しすぎるような演出ではなく、それほど違和感を抱かずに素直に入っていけました。伝統と新しさをミックスさせた、スカラ座らしい演出だったと思います。バレンボイムの音楽は力があり、良かったと思います。
実を言うと、私はワーグナーが好きではありません。どのオペラもほとんどの場面が退屈です。情感に訴える大げさな序曲は立派で、聞きごたえがしますが、オペラの進行は退屈の限りです。筋も時代がかっていて、温かい血が流れていないように感じられます。『ローエングリン』もこの調子で、序曲と第三幕だけを見れば十分といった感じさえします。東欧、特にハンガリーを敵に回して、ドイツ、ドイツと叫ぶところなど、いかにもワーグナーといったところです。
ワーグナーの音楽がどうも苦手なのは、どこか正常な感性に欠けているように感じられるからです。病的という表現も当てはまるかもしれません。ワーグナーが好きな人には、その所が魅力的なのでしょう。分からないでもないのですが、違う世界という感じです。
『一万年の旅路』 The walking people ポーラ・アンダーウッド著
年末に読んだ本が、図らずもこの一年で最も印象的な本となりました。
『一万年の旅路』は、一万年以上にわたって一族に語り伝えられてきた口承を引き継いだ著者が、英語に翻訳したものです。東アジア(現在の朝鮮半島の付け根あたり)にいた一民族が、地震と津波に襲われ、安住の地を求めてシベリアを北上し、ベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸に移り住むまでの、一万年にわたる大移動の歴史が綴られています。一万年も、絶えることなく語り継がれてきたこと自体が奇跡とも言えるでしょう。おそらく、多くの民族にもこのような口承が伝えられていたのでしょうが、多くは民族とともに滅んだり、ある時に忘れ去られてしまったりしたのでしょう。
この壮大な物語は、冒険話として面白いだけでなく、随所に体験から得られた深い知恵に満ちています。豊かな知恵の書と言ってもいいと思います。なんといっても、波の押し寄せる冷たいベーリング陸橋を長い綱を体につないで渡るところや、ロッキー山脈を数千年かけて南に下るところは、息をのむような面白さと緊迫感があります。当時は氷河期の最後で、ベーリング海峡は陸続きでしたが、この一族が渡るころには海面が上昇し始めていて、所々が海になっていたようです。なんとしても新しい東の海辺に行きたいという、一族の強烈な目的意識が、決死の覚悟での海の渡りを敢行させたのです。その後のいく度かの苦難に直面しても、最初の志である東の海辺に行くという目的は、一族の間から消え去ることはなかったのです。
この民族は傑出した知恵を備えていたようです。いつも優れた指導者に恵まれるという訳にはいきません。そのようなときには、何事も皆で協議して結論を出すという知恵を持っていました。常に一族全員が一致団結して事に当たる。男女平等。狩猟だけでなく食物の栽培もおこなう。戦闘を好まず、平和的な解決を目指すなど。今日の民主主義に通じる共同体を実現していました。他の民族から新しいことを学ぶことにも熱心でした。
当時のアメリカ大陸はどこでも自由に住む場所があっただろうと思われますが、意外なことにそうでもなかったようです。住み心地の良い所には既に先住民が住み付いていました。当時は狩猟生活でしたから、何日も歩くほどの広大な面積がテリトリーとして必要でした。野生動物の縄張りと似たようなものだったと思います。新参の一族が、すでに居住している他の部族の近くに住むことは、容易ではなかったようです。それに大抵の部族は、新参の部族に対しては敵対的でした。また、他部族に自分たちの生活の秘密を知られることを、ことのほか嫌いました。自分たちとは異なる生活スタイルを持つ部族には、特に警戒心を持ったようです。
しかし、この一族は好奇心が強く、新しいものを受け入れる気質に富み、常に他部族から新しいものを吸収しようとしました。平和的な一族は、他部族との争いを好まず、その結果、定住する場所を求めてアメリカ大陸を西から東へ、民族の最終目標である東の海をめざして移動を続けることになります。そして今から三千年ほど前に、最終地となるオンタリオ湖南岸にようやく定住の地を見出します。しかし、ここにも近くに先住民がいて、争いが絶えないのですが、もはや行く場所もなく、ここで知恵を出し合いながら生きて行くことになります。
この口承を伝えた一族は、現在のイロコイ連邦の五種族のどれかに繋がっているいるとのことですが、正確なことはわからないようです。この口承を受け継いだ著者のアンダーウッドは、祖父の祖母であるオナイダ族出身のツィリコマーから口承を受け継いだと語っています。イロコイ連邦は1000年以上も前から、民主主義による合議制の共同体を営んできました。この自由で平等な社会は、ヨーロッパの著名な思想家に、多大の影響を与えています。清教徒革命のロジャー・ウイリアム、名誉革命のジョン・ロック、啓蒙思想家のジャン・ジャク・ルソー、そしてあのマルクス、エンゲルスにまでも。アメリカの建国や合衆国憲法の制定においては、イロコイ族と親密な交流のあったフランクリンやジェファーソンを介して、イロコイ連邦の精神や民主主義が手本にされたことは、疑いようのない事実です。西洋社会に先だって実現されていたイロコイ連邦の民主主義の源流は、この民族の口承のなかにはっきりと読み取ることが出来ます。
この口承の歴史のなかには、もっと驚かされることが伝えられています。それは十万年前からの一族の歴史が語り伝えられていることです。これによると、アフリカで樹上生活をしていたが、森の砂漠化によりアフリカから北に移動して、今のパレスチナからシリア辺りに移り住みました。この恵まれた土地で人口が増えすぎたため、一族の一部は東に移動します。後のシルクロードに当たるルートに沿って、チベットを通り黄河をたどって移動したようです。そして朝鮮半島の付け根付近に落ち着きます。シルクロードの辺りでは、寒さで子供が死んでしまうので、ようやく動物の毛皮をなめして身にまとうことを覚えたと伝えています。人口が増えすぎるため、人間が生まれてくる原因を探ろうとするとても面白い実験をするなど、興味あるエピソードが生き生きと伝えられていることに驚きます。
朝鮮半島の付け根辺りから、ベーリング海峡(当時はベーリング陸橋)を渡って、北米大陸に移るきっかけは、大地震と津波でした。海の水が引いて、次には山のような海が押し寄せてくる津波の生々しい描写があります。3.11の東日本大震災を思い起こさせます。地震と津波の恐怖から、一族の一部は南に、一部は北へと、住み慣れた故郷を捨ててしまいます。ここから、新たな東の海を求める一万年の大ロマンが始まるのです。
日本語への訳者が『一万年の旅路』という題名にしましたが、むしろ『十万年の旅路』としたほうが正確だったかもしれません。
1.9 2013年ニューイヤー・コンサート
新年恒例のニューイヤー・コンサートを,
今年もNHKの放送で楽しみました。
今回は、ウィーン国立歌劇場の音楽総監督、フランツ・ウェルザー・メストの指揮です。メストの指揮は外連味がなく、それでいてウイーンの香りのする端正な音楽を醸し出してくれます。冷たそうな表情の顔つきですが、音楽はそうでもないようですです。
今年の曲目は、初めて聴く曲が多く、ポピュラーな曲の少ないプログラムでした。2013年はワーグナーとヴェルディのメモリアル・イヤーに当たるため、珍しくこの二人の曲も演奏されました。私個人としては、ワーグナーはニューイヤーには相応しくないように思われました。
最近は大物指揮者がいなくなったためか、ニューイヤー・コンサートも以前ほどは魅力を失ったように思われます。マンネリ化というのもあるのかもしれません。 しかし、常に変わらないということも大切です。アンコールの『美しき青きドナウ』のヴァイオリンの出だしに続く拍手と、団員による新年の挨拶、『ラデツキー行進曲』の手拍子は、毎回のことながら楽しいものです。たまには行進曲の傑作である『ラデツキー行進曲』を、オーケストラだけで聴いてみたいものです。
続『一万年の旅路』 ポーラ・アンダーウッド著
『一万年の旅路』は、体験から得られた深い知恵に満ちてる豊かな知恵の書でもありますが、今回はその一端を紹介します。我が国の低迷する政治を打開するために、日本の政治家の諸君に、この一万年前の民の爪の垢でも煎じてあげたいものです。
一つ目の知恵
われらの中にじゅうぶん知恵のある者がいないときは、多くの者が心を一つにすれば、確かな道を見いだせるかもしれない。
⇒リーダー不在の日本、与野党が足の引っ張り合いに夢中になるのではなく、心を一つに合わせよ。
二つ目の知恵
つねに人に従う者が学ぶのは、他人の背中の形だけである。
⇒率先垂範。政治家たるもの、国民に範を垂れよ。
三つ目の知恵
選び方はたくさんあるが、多くの場合すばやく選ぶことが最善で、さもないと選んでも手遅れになりかねない。
⇒遅い決断が経済をいつまでも低迷させている。決断できない政治で、国は前に進めない。
四つ目の知恵
一つの道でもなく、またもう一つの別な道でもなく、その二つの釣り合いが確かな道を照らし出す。
⇒与野党はよく協議して、第三の道を見つけ出せ。
最後の知恵
互いに耳を傾け、ともに話し合い、知恵への節度ある道をたどる民を、われらはこの目でみた。
⇒日本も、知恵のある節度ある道をたどってほしい。
1.14 ミラノスカラ座の『カヴァレリア・ルスチカーナ』と『道化師』
テレビ録画のハードデスクがいっぱいになってきたので、不要な録画を整理していたら、2011年の暮れに、NHKのBSで放映されたミラノ・スカラ座の幾つかのオペラ公演が出てきました。いつか見ようとして、そのままになっていたものです。その中に、昨年の11月10日の近況「おもしろかった二期会のオペラ公演」で報告した二期会と同じ演目の『カヴァレリア・ルスチカーナ』と『道化師』がありました。スカラ座はどんな公演をしたのかという興味と、二期会と比較する意味もあり、さっそく見てみました。
先ず『カヴァレリア・ルスチカーナ』ですが、二期会も悪くなかったけれど、やはりミラノ・スカラ座は格が違うと改めて思いました。相撲で言えば横綱と関脇の違いと言ったところです。なんといっても歌手の力量と演出が違います。これは『道化師』でも同様です。
演出ですが、一幕仕立てで、舞台装置なしの椅子と群衆だけの簡素な演出でした。シンプルで流れるような舞台展開は、このオペラに相応しいと思いました。群衆の動きと、象徴的な人物の登場だけで、酒場が復活祭の教会にも、教会の前の街の広場にもなります。流れるように変化するこの場面転換が、オペラの音楽と一体となり、見事としか言いようがありません。一連の流れの中で奏でられるあの有名な間奏曲が、このオペラに最大の効果を与えていました。
『カヴァレリア・ルスチカーナ』は通俗的なオペラと言えなくはないのですが、このような優れた歌手とオーケストラと演出で演奏されると、素晴らしいと納得させられます。やはり、ミラノ・スカラ座には脱帽しました。
次に『道化師』ですが、こちらは一変してグランド・オペラ風の演出でした。歩道橋のような所に、群衆が溢れ、舞台には車やトラックが登場し、サーカスまで出てくる賑やかさです。旅回りの一座の到着という賑やかな気分を、うまく表していました。歌手も実力派をそろえ、皆が昔風のいかにも歌手らしい太っちょで、美人と美男をそろえた舞台とは一味違います。これぞオペラといったところです。『道化師』は、オペラでの心理描写が少し軽薄で、ドタバタ悲劇風のところもありますが、このような本格派の歌手で聴くと、イタリア・オペラの醍醐味を感じます。
演出は、どちらのオペラもマリオ・マルトーネによるものです。この二つのオペラは、似たような筋立てですが、 『カヴァレリア・ルスチカーナ』は妻の浮気に対する素朴な怒り、一方『道化師』は、同じ妻の浮気にたいする激しい憎悪と、心理的な内容は異なります。そのあたりの心理的な背景が、この二つの演出に現れているようです。このあたりも、二期会のオペラでは、少々物足りなさを感じます。
配役ですが、指揮は何れもダニエル・ハーディング。
『カヴァレリア・ルスチカーナ』は、
ローラ/ジュゼッピーナ・ピウンティ
その夫アルフィオ/クラウディオ・スグーラ
ローラの元恋人トゥリッドゥ/サルバトーレ・リチートラ
トゥリッドゥの妻/ルチアーナ・ディンティーノ 実によかった。このオペラの中では重要な役柄
トゥリッドゥの母/エレナ・ジーリオ
『道化師』
カニオ/座頭(劇中劇では道化師)/ホセ・クーラ
ネッダ/カニオの妻で女優(劇中劇ではコンビーナ)/オクサナ・ディッカ
トニオ/喜劇役者(劇中劇ではダデオ)/アンブロジオ・マエストソ
シルヴィオ/村の若者でネッダの浮気の相手/マリオ・カッシ
ペッペ/喜劇役者(劇中劇ではアルレッキーノ)/セルソ・アルベロ
カニオ役のホセ・クーラとトニオ役のアンブロジオ・マエストソが素晴らしかった。ネッダ役のオクサナ・ディッカも素晴らしい声の持ち主。
再びグレン・グールドのモーツァルト・ピアノソナタ
聴けば聴くほど、グールドのモーツァルとは素晴らしいです。最初はおやっと思うところもありますが、聴くほどにその良さがわかってきます。誰とも違うけれども、それも際立って異なるけれど、誰よりも説得力があります。聴くたびに新しい発見があります。こういう演奏こそ、空前絶後というのでしょう。
K310とK330からK333の四曲を合わせてパリ・ソナタと俗称されますが、パリで作曲されたのはK310のイ短調ソナタだけです。この曲は、母の死への深い悲しみを感じさせます。グールドの演奏は、「悲しみを走り抜けてすっ飛ばす」といった感じがします。モーツァルも、音楽上では悲しみをいつまでも引きずっていません。おそらく、実生活でも切り替えは早かっただろうと推測します。
K330からK333までは、パリ旅行から帰ってから、ザルツブルクあるいはウィーンで作曲されたとされています。有名なイ長調ソナタK331は、ウィーンに出てからではないかと、個人的には思います。
K331では、出だしは誰よりも遅く、最後の変奏は誰よりも早く弾いています。このテンポ感は、グールドにしかない絶妙なものです。独特のテンポ感と独特のリズム感は、一楽章から三楽章まで共通したもので、全曲を通じて一本筋が通っています。タッチは時の刻みのように揺るぎなく、そして心地良く、一音一音区切ってはっきりと演奏します。特に、左手の低音が時々主役に躍り出て、左手がこんなに大切であったと改めて教えてくれます。通常は、左手の控えめな演奏が多いのですが、グールドは左手の刻みがどんなに大切かを気づかしてくれます。聞こえなかった音が聞こえてきます。
どんなにテンポが速くなっても、遅くなっても、一音たりとも崩れないし、つぶれません。完璧に粒のそろった真珠の首飾りのような音です。そういう演奏が、モーツァルトには、一音たりとも無駄な音や余分な音がないことを感じさせてくれます。曲の流れに埋没しまいがちな音楽の骨格を、はっきりと意識させてくれます。時には静かに弱々しくしく話しかけてくるけれども、際立った主張が感じられるのがグールドの演奏です。
K333では、第一楽章はとにかく早く、二、三楽章は中庸ですが、際立った鋭さでテーマを美しく奏でます。この曲も、グールドの演奏を聴いてから、今まで以上に好きになりました。
1.27 グノーのオペラ『ロミオとジュリエット』
今年はよく雪が降ります。冬の間は、庭仕事も畑仕事もできないので、日の射す午後は、太陽でほどよく暖まったオーディオルームで、ハードディスクにため込んでおいたオペラを見たりしています。今日は、グノーの『ロミオとジュリエット』を見ました。2011年8月24日と27日に、アリーナ・ディ・ヴェローナで行われた野外オペラ公演です。まさにヴェローナは、『ロミオとジュリエット』の舞台となった町です。
舞台は、フェンスにキャプレットとモンタギューと書かれた半円です。ここに、現代美術のような、あるいは工事現場のような、あるいはジャングルジムのような鉄骨が置かれています。これが、キャプレット家を象徴するもので、舞台展開とともに自由に動くようになっています。色彩は赤を基調とし、白と黒の配色から成り立っていて、このへんの色彩感覚はさすがイタリアらしく見事なものです。
キャプレットは鳥かごのような物のてっぺんに乗って現れます。その鳥かごの中から、ジュリエットが出てきます。今日は、ジュリエットの誕生日パーティーです。そこに忍び込んだロミオがジュリエットに一目惚れをするというわけです。美しいけれどちょっと食べ過ぎのジュリエットと、メタボ気味のロミオです。オペラ歌手だから、そこは目をつぶりましょう。声が命ですから。それにしても、オーケストラと全く合わないキャプレットの歌はご愛嬌でした。三幕の結婚式の場面は、何となく学芸会の演技を見ているようでもありました。
グノーの音楽は美しく、見ていて退屈しません。登場人物の心理描写をするような深みはないのですが、聞きやすい音楽が楽しいオペラに仕上げています。原作は言わずと知れたシェークスピアですが、オペラ化にあたり、換骨奪胎されていますから、原作とは随分と違ったメロドラマになっています。モーツァルトだったら、かりにチャンスがあったとしても、シェークスピアをオペラの題材には選ばなかったろうなと思います。オペラは音楽が主ですから、詩が主役の戯曲では、原作の劇的効果をそのままに音楽を主役に持っていくことは不可能だろうからです。
オペラの最後の場面は、原作とは離れ、ロミオとジュリエットが手をつないで客席の通路を通って天国に登っていきます。残念ながらオペラ劇場には花道がありませんから、主人公たちは通路を歩いて退場することになります。オペラも、歌舞伎の花道を取り入れたらいいのにと思いました。
演奏は、アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団と合唱団、指揮はファビオ・マストランジェロ、演出はフランチェスコ・ミケーリ。
ジュリエット役はニーノ・マチャイッゼ、ロミオ役はステファノ・セッコ。
野外オペラですが、録音のよいのには驚きました。
2.3 ヴェルディの『ファルスタッフ』
今回取り上げるのは、チューリッヒ歌劇場の『ファルスタッフ』と『道化師』です。どういう偶然か『道化師』は三回も見ることになりました。
先ずはヴェルディ最後のオペラ『ファルスタッフ』です。このオペラは、シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』を題材にしています。このオペラは、ヴェルディの有名な『椿姫』や『リゴレット』や『アイーダ』などと比べると、随分と違った印象をうけます。心地良いアリアがあるわけでもなく、台詞と歌が一体となった、新しい時代のオペラの先駆けといった印象をうけます。ヴェルディの他のオペラが古典的にさえ感じられます。
さてこのオペラは、二人の女房に言い寄った飲兵衛で肥満の老騎士ファルスタッフを、女房達が計略をめぐらして懲らしめると同時に、娘を無理やり医者に嫁がせようとする夫をやり込めて、娘を恋人と結婚させようとする女房達の仕返し劇です。愛と浮気と結婚と、抵抗と、風刺と、変装とが入り混じった喜劇です。筋立てがどことなく『フィガロの結婚』と似ています。特に、第三幕の夜の森の場面などは、『フィガロの結婚』の第四幕を思わせます。このような話は、十七世紀から十八世紀にかけてのヨーロッパに広く流布していたのでしょう。登場人物を比較すると、ファルスタッフが伯爵に、女房たちが伯爵夫人とスザンナとマルチェリーナに、フォードがフィガロに、娘と恋人がバルバリーナとケルビーノに、医者がバルトロに対比されます。ヴェルディの『ファルスタッフ』が、最後のオペラ・ブッファと言われるのも成程とおもいます。
『ファルスタッフ』あるいは『ウィンザーの陽気な女房たち』と、『フィガロの結婚』を比べると、話の面白さ、入り組んだ筋、登場人物の魅力、社会性と風刺のどれをとっても、『フィガロの結婚』に軍配が上がります。さすがのシェイクスピアもちょっと精彩を欠いているようです。音楽の比較はするのが野暮というもの。モーツァルトは神業としか言いようがありません。
演奏は、ダニエル・ガッティ指揮、チューリッヒ歌劇場管弦楽団と合唱団、演出はスヴェン・エリック・ベヒトル。主な配役は、ファススタッフがアンブロージョ・マエストリ。フォード夫人がバルバラ・フリットリ、メグ・ページ夫人がユディット・シュミット、クイックリ夫人がイヴォンヌ・ネフ、フォードがマッシモ・カヴァルレッティ。
空色の背景に、現代風のメタル調の骨組みが明るく斬新で、オペラ・ブッファの雰囲気をよく出していました。
『道化師』は2009年、6月19,21日の公演です。ドラマの進め方、舞台作りの美しさでは、今まで見た中でもっとも良くできていました。指揮はステファノ・ランザーニ、演出はグリシャ・アサガロフ、道化師役はホセ・クーラ、ネッダ役は、彫が深く、鼻が高く、目の大きな、極端なほどに西洋的な顔立ちのフィオレンジャ・チュドリンス、トニオ役はカルロ・ギュルフィです。
2.12 ヴェルディの『アイーダ』
ヴェローナ野外オペラ・フェスティバル2012の公演、ヴェルディの『アイーダ』を、NHK BSのプレミアム劇場で見ました。2012年6月23日に、ヴェルディ生誕200年を記念して行われた公演です。会場であるヴェローナの古代円形劇場は、この壮大なオペラを興行するのには最適な舞台だと思います。ヴェローナ野外オペラ・フェスティバルは1913年に始まりますが、この第一回公演の演目はまさにこの『アイーダ』でした。今回の公演は、この第一回の舞台を再現して行われました。
『アイーダ』はスエズ運河の開通を記念して、カイロのオペラ劇場のために作曲されたとされていますが、これは誤りのようです。この記念公演のために、エジプトの総督イスマーイール・パシャからヴェルディに作曲依頼があったのは事実ですが、このときはヴェルディが断ったため、『リゴレット』が代わりに演奏されました。イスマーイール・パシャは常々、自分が統治するカイロのオペラハウスで、大作曲家によるエジプトを舞台とした荘厳なオペラ作品を上演したいという夢を持っていましたので、その後に改めてヴェルディに作曲の依頼をしたのが『アイーダ』です。台本の原作は、フランスの考古学者オギュスト・マリエットによるものです。
『アイーダ』は注文主の希望通り、エジプトを舞台とした壮麗なオペラです。祝祭的な雰囲気を持ち、なんと言っても第二幕、第二場の凱旋の場面が見どころ聴きどころです。この円形劇場の広い舞台は、凱旋の場面にはうってつけです。演出も人と物を惜しまずに投入して、オリンピックの開幕式を見ているような気分になります。
このオペラは、凱旋の場面が際立ってしまいますが、ラダメスやアイーダやアムネリスの歌うアリアには、幾つかの聴きどころが隠されています。役柄では、なんといってもアイーダ役のヘー・ホイが抜群です。内面を深く表現する歌唱力と演技は、聴衆を捉えて離さない魅力があります。ラダメス役のマルコ・ベルティもよかったです。指揮はダニエル・オーレン、演出はジャンフランコ・デ・ボジオです。
主な配役は、
エジプト王:ロベルト・タリアヴィーニ
アムネリス(エジプトの王女):アンドレア・ウルブリヒ
アイーダ(エジプトの奴隷にされたエチオピアの王女):ヘー・ホイ
ラダメス(将軍):マルコ・ベルティ
ランフィス(祭司長):フランチェスコ・エルレロ・ダルテーニャ
アモナズロ(エチオピア王で アイーダの父):アンブロージョ・マエストリ
エジプト王の使者:アントネルロ・チェロン
2.21 歴史認識について
昨年のNHK大河ドラマは『平清盛』でした。人気がなく、視聴率は低かったようですが、私は大いに興味を持って見ました。ドラマとして評価すれば、難点もあったでしょうが、歴史認識という点からは、大変有意義でした。今までの一般的な清盛像は、『平家物語』の影響もあり、「悪行をなした悪役」のイメージが強いものでした。権力の頂点に登りつめ、一門の独占的な繁栄を築いたことと、武士でありながら貴族化してしまい、一代で滅んでしまったことなどにその理由があるのでしょう。しかし、見方を変えれば、いままで貴族社会の家来に甘んじていた武士階級が初めて実権を握り、武士の時代を切り開いた英雄であり、宋との交易を通じて貨幣経済を持ち込み経済改革をなしとげた偉大な国家経営者でもあったのです。清盛は、歴史上でも稀有の人物であったと言えます。残念ながら、時代が熟していませんでしたから、貴族政治の枠組みの中で実権を握ることしかできず、真の武士政権を樹立するには至りませんでした。武士政権の実現は、次の世代の源頼朝まで待つことになります。清盛あっての頼朝です。
『平家物語』は、平氏一門の消滅という人間の哀れさや空しさといった「無常」を描いた物語です。源氏の立場からから書かれているので、平氏や清盛の歴史的な評価は、決してよいものではありません。こういった作られたイメージを再考させてくれるのが、歴史小説の面白さだといえます。歴史学者の書いた歴史書は、学問的な実証にしばられて、単に事実を並べただけの無味乾燥なものになりがちです。「正確」かもしれませんが、歴史の真実は伝わってこないような気がします。今年のドラマ『八重の桜』も、時代に逆行して滅びつつある幕府と運命を共にした会津藩について、今までとは違った見方を与えてくれるかもしれないと、期待しています。
歴史認識で大きな問題となるのは、「太平洋戦争」をどう評価するのかという問いかけです。国際関係や、日本人そのものの在り方に、今もおそらくそれからもずっと、関わっていく大切な問題だと思います。中国や韓国がいつまでも日本に謝罪を求めるのは正当なのか、日本はこれからも謝罪すべきなのか、日本と中国、韓国の歴史教科書問題をどう解決するのか、日本人の歴史認識はどうあるべきなのか、本当に日本だけに責任があったのか、戦争に負けただけで罪を受けなければならなかったのか、欧米に正義はあったのか、といった様々な疑問です。
これに関して、最近とても感銘した本を見つけました。ヘレン・ミアーズというアメリカ人が、戦争直後の1848年に書いた『アメリカの鏡・日本』という本です。ミアーズ女史は東洋学を専門とし、GHQの一員として来日して労働基本法の策定に携わっています。
内容を要約すれば、日本は欧米のやり方に従って行動しただけである。欧米が進めてきた「植民地主義」や「帝国主義」を、日本が学んで忠実に実行してきただけである。この意味では、日本はアメリカのやり方を映し出す鏡ではないか。また、日本の満州事変からの行動は、欧米列強の経済封鎖に対する日本の自衛であった。日本への戦争は人種差別によるものでもある。日本は既に負けており、物資の補給を断つだけで十分で、原爆投下や都市の空襲は必要なかった。アメリカが日本を罰し、占領し、再教育することは正当なのか。
この様に、公正な立場から書かれた本です。日本語版の出版は、マッカーサーによって禁止されました。そのために、長い間日の目を見ずにいたのですが、1995年になってようやく見つけ出されて出版されました。アメリカにとっては不都合な本でしょうが、日本人にとっては涙が出るほどありがたい本です。私見ですが、マッカーサーは立場上、プロガンダであるとして本書を発禁しましたが、内心では感じるところがあったのではないでしょうか。マッカーサー自身も後になってから、日本の戦争は自衛のためであったと証言していますから。
最近読んだ本の中から、歴史認識を再検討するのに役立った本を幾つか紹介します。
『昭和史』半藤一利著: 中立的な立場の本です。日本人自身の戦争責任を考えるのにとても役立ちます。
『昭和天皇独白録』:おそらく戦争当時、一番広く情報を知る立場にあったのは天皇陛下でしょう。陛下の国際主義と平和主義に基づく的確なお考えに感動します。軍部がいかに天皇陛下をだまし利用したことか。天皇陛下も「私は幾度もだまされた」と告白しています。
『真珠湾』ジョージ・モーゲンシュターン著:1947年戦後まもなく、ルーズベルト大統領の陰謀を暴いた本です。日本はほとんどの通信が傍受され、暗号は解読されていました。「ワシントンは、あたかも東京の戦争会議に列席しているかのように、日本の計画と目的について十分な知識を持っていた」のです。ルーズベルトは全てを知った上で、アメリカをヨーロッパ戦線に参戦させるために、真珠湾攻撃をさせ日本を利用しました。この本を読むと、アメリカの為政者に憤りを覚えると同時に、当時の日本が哀れでならなくなります。
『日本はもう中国に謝罪しなくていい』馬立誠:著者は人民日報の元高級論評委員です。中国に批判的な国外の論客ではありません。この本は、中国の良識ある人々の考え方を代表していると思います。「実情に即して言えば、日本はアジアの誇りである」と言ってくれています。しかし、一方では「日本が戦争で「英国の帝国主義を追い払った」のだとしても、実際は一つの植民地主義が別の植民地主義に取って代わっただけであり、「他国を奴隷的に酷使する」という本質には何の変りもない」と言うことも忘れていません。
『国民の歴史』西尾幹二著 編/新しい教科書を作る会:戦後教育の歴史観を正すための本ですから、そちらから見れば右寄りということになります。でも、この本を読めば、日本人としての誇りと自信を持てるようになります。だからといって、民族主義に固まった歴史観ではありません。このような内容の歴史教育をしてもらいたいものだと思います。
日本文明をヨーロッパ文明に匹敵するものと捉えています。最初はエッと思いましたが、言われてみるとなるほどと思います。東洋の古代中国文明は、西洋のギリシャ・ローマ文明に当たります。古代中国文明の影響を受けながら、日本民族が独自の文明を発展させたのが日本文明です。古代ギリシャ・ローマ文明を取り入れて、ゲルマン民族が作りだしたのがヨーロッパ文明です。歴史的成り立ちや文明の深さを見れば、世界史の中で日本文明とヨーロッパ文明は、ユーラシア大陸の西と東で生まれた二大文明だと言えます。この二大文明の対立が、太平洋戦争であったという見方もできます。
3.1 『ナクソス島のアリアドネ』
NHK BSプレミアム劇場で、リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』
をいつものように録画して見ました。ザルツブルク音楽祭2012、7月から8月にモーツァルと劇場で演奏されたものです。演奏は、ダニエル・ハーディング指揮ウィーン・フィル、演出はスヴェン・エリック・ベヒトルフで、第一幕はホフマン・スタールがモリエールの原作『町人貴族』を脚色したものが使われています。もともとこのオペラは、『町人貴族』の劇中劇として作曲されたものです。初演から不評だったようです。
さもありなん。このオペラはなかなかの難物です。オペラ通の玄人筋には好まれるかもしれませんが、私には苦手な部類に入ります。
私は、全くの予備知識なしにこのオペラを見たのですが、筋が入り組んでしてよく分からず、我慢しながらも最後まで見ましたが、消化不良のままで終わりました。少なくともこのオペラを見るためには、モリエールの『町人貴族』の粗筋と、ギリシャ神話のアリアドネに関する知識くらいは必要です。要するに、ヨーロッパ文化の基礎知識が必要だということです。
第一幕は、二人の登場人物で始まります。未亡人の伯爵夫人オットニ―・ドリメーヌ 伯爵夫人に好意を寄せるホフマンスタールです。ホフマンスタールがオットニ―に自作の物語を披露するという設定です。この物語が『町人貴族』です。町人貴族の夜の祝宴にオペラ・セリアの『アリアドネ』が演奏される予定でしたが、町人貴族は突然、堅苦しいオペラと茶番劇を同時に演奏するように作曲家に命令します。こうして生まれたのが『ナクソス島のアリアドネ』です。ナクソス島に置き去りにされたアリアドネの悲劇と、ツェルビネッタと道化達による喜劇が同時進行します。最後には、アリアドネとバッカス、伯爵夫人とホフマンスタール、町人貴族の娘と恋人、の三組の愛が成就するという落ちがついています。予備知識があれば、ドラマとしては面白いのですが、音楽の方は美しいけれども、聴き通すには忍耐が要求されます。
オペラですが、まず舞台と衣装の美しさにびっくりしました。演奏も飛び切り上等で、ウイーン・フィルの小規模なアンサンブルは、リヒャルト・シュトラウスの洒落た音楽を余すところなく奏でます。歌手たちも絶品で、アリアドネのエミリー・マギー、 ツェルビネッタの、バッカスのヨナス・カウフマンが見事な歌を聞かせてくれます。特に、エレーナ・モシュクのコロラトーラの声は印象的でした。
配役は
プリマドンナ・アリアドネ Emily Magee
ツェルビネッタ Elena Moşuc
テノール・バッカス Jonas Kaufmann
妖精とエコー Eva Liebau, Marie-Claude Chappuis, Eleonora Buratto
ハーレキン Gabriel Bermúdez
スカラムーチョ Michael Laurenz
トラファルディン Tobias Kehrer
ブリゲッタ Martin Mitterrutzner
侍従長 Peter Matić
ジュルダン Cornelius Obonya
作曲家 Thomas Frank
ホフマンスタールMichael Rotschopf
オットニ―・ドリメーヌ Regina Fritsch
ニコリーヌ Stefanie Dvorak
従僕 Johannes Lange
3.11 ヘンデルの歌劇『ジュリアス・シーザ』
ヘンデルの歌劇『ジュリアス・シーザー』を観ました。1724年2月20日、ロンドンのヘイマーキットのキングス・シアターで初演された古典オペラです。台本はニコラ・フランチェスコ・ハイムによります。ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭2012、5月25日と27日、モーツァルト劇場での公演で、NHKのBSプレミアム劇場で放送されたものです。
退屈なオペラだと思っていましたが、四時間近くもの長い三幕オペラを、最後まで面白く見ることが出来ました。オペラ全体の進行はゆっくりして、アリアも多く、貴族がたっぷりと時間を楽しむ時代の音楽です。現代のわれわれには、ちょっと長すぎて退屈するところもあります。それでも最後まで飽きずに観られるのは、ヘンデルの音楽の美しさです。上品で格調があり、テンポ感と歯切れの良いヘンデルの音楽は、時に力強く、激しく、また悲しく、バロック音楽の単調さを補ってくれます。
幕開けからびっくりさせます。赤く燃える、まるでヨーロッパの第二次大戦の悲惨な戦場を思わせるような、戦闘場面がいきなり現れます。ユーモアあふれる現代風演出で、生首が出たり、骨を焼いた灰を体にぬたくったり、血をぬたくったり、性的描写がいたるところにあったりしますが、適度に様式化されているので、生臭さを感じさせません。古典オペラに現代風の解釈を施すことで、新鮮な息吹を吹き込んでいます。この演出は、成功だと思います。第二幕では、空飛ぶミサイルに乗ってリディア(クレオパトラの変装)が現れたりもします。
聴きどころはなんといっても歌姫チェチーリア・バルトリによるクレオパトラの熱演でしょう。そして、これと対照的な、コルネリア役のアンネ・ソフィー・フォン・オッターの渋い演技と歌も見どころです。シーザー、セスト、トロメーオはそれぞれカウンター・テナーが歌いますが、これを演じるアンドレアス・ミョル、フィリップ・ジャルスキーそしてクリストフ・デュモーの声とアリアも聴きどころです。コルネリアとセストの別れのアリアなどは、涙を誘います。ジョヴァンニ・アントニーニ指揮のイル・ジャルディーノ・アルモニコ管弦楽も、テンポ感が良く、小気味の良い演奏を最後まで聴かせてくれました。
古典オペラを現代に甦らせた、とてもよい公演だったと思います。次は、古典様式で見てみたいものです。
配役は、
シーザ/ アンドレアス・ショル
クレオパトラ/ チェチーリア・バルトリ
コルネリア/ アンネ・ソフィー・フォン・オッター
セスト/ フィリップ・ジャルスキー
トロメーオ/ クリストフ・デュモー
アキラ/ ルーベン・ドローレ
ニレーナ/ ヨッヘン・コヴァルスキー
クリオ/ ペーター・カールマーン
管弦楽/イル・ジャルディーノ・アルモニコ
指揮/ジョヴァンニ・アントニーニ
演出/モーシュ・レゼール、パトリス・コーリエ
3.18 ブルーレイ・ディスクへのダビング
BSプレミアム劇場をテレビのHDDに録画して見ていましたが、HDDでは編集ができないので、いつも最初のテーマ音楽から聞き始めることになります。不便なだけでなく、テーマ音楽が耳についてきて仕方ありません。そこで、とうとうブルーレイ・レコーダを購入しました。テレビが東芝製なので、HDDからダビングできるのは同じ東芝製のレコーダに限られます。残念ながら選択の余地はありません。
テレビとレコーダをLANケーブルで接続するだけですが、このときにポート番号の設定が必要になります。ところが、これに関して説明書には一切書いてありません。仕方なくメーカに問い合わせてようやく解決しました。簡単なことですが、不親切この上なしです。おかげで半日以上を無駄にしました。
おもにオペラを編集してダビングしました。編集の操作じたいは簡単ですが、不要な部分をカットしたり、幕ごとにチャプターを付けたりする作業は、位置合わせに時間を取られます。またテレビのHDDからレコーダのHDDへのダビングは等速のため、プレミアム劇場の4時間番組一本をダビングするには4時間かかります。そこで寝ている間に何本もまとめてします。
問題は、1枚のブルーレイ・ディスクに録画できる時間です。一応BSのHD番組は、25GBのディスクに2時間10分録画できることになっています。ところが、大抵のオペラの演奏時間は、2時間20分から2時間40分です。圧縮すれば収まりますが、画質や音質を落としたくありません。かといって、50GBの二層ディスクを使うのは癪にさわります。そこで、後ろが切れることを覚悟して試しに録画してみたところ、25GBの単層ディスクでも、BSのオペラ番組が2時間33分まで録画できることがわかりました。どうも番組全体が24Mbpsで放送されているのではないようです。これならば、大抵のオペラが片面一層のBD-Rに収まります。
こんな具合に、『椿姫』、『ボエーム』、『フィガロ』、『魔笛』、『道化師』、『カバレリア・ルスチカーナ』、『ルサルカ』、『愛の妙薬』、『トスカ』、『ファルスタッフ』、『オルフェオ』、『アイーダ』、『ジュリアス・シーザ』、『ナクソス島のアリアドネ』、『ペレアスとメリザンド』、とライブラリーが増えてきました。これからたまる一方で、見ることがあるかどうかが問題です。
3.23 ハイドンのシンフォニー
過去の名演のCDがBOXセットという形で、全集物が格安の値段で買えます。最近買った中に、レナード・バーンシュタイン指揮、ニューヨーク・フィルのハイドン交響曲集があります。全体にゆったりとしたテンポの味わいのあるとても良い演奏でした。ハイドンもそうですが、交響曲はある時から突然それまでとは全く違った、別次元の作品が現れるようです。ハイドンでいうと、ロンドン・シンフォニーの「驚愕」、モーツァルトだと「リンツ」あたりから、ベートーベンでは「英雄」というように。
ハイドンの曲は、品の良さと趣味の良さをいつも感じます。円満な人柄が音楽にも表れているのでしょう。モーツァルトのような天才的な自由奔放さとは違った、気品のあるきらめきというようなものを感じます。ハイドンの音楽を聴いていると、心が和んできます。そのせいでしょうか、ハイドンを聴いてみたいなという気持ちに時として襲われることがあります。バーンシュタインのハイドンは、そんな時の気持ちを満足させてくれます。
演奏は1970年代のもので、当然アナログ録音ですが、最近のADDのCDは音の処理がうまくなったのか、なかなかいい音でCD化されているようです。このBOXセットのCDも、不満のない音で再生できます。BOXセットは非常に安価で過去の名演奏が聴けるのは大変ありがたいのですが、紙のジャケットからCDを取り出すのに一苦労します。紙袋の寸法がCDとぴったりだからです。仕方なく、ハサミで切り込みを入れています。なんとかしてもらいたいものです。
4.7 3月31日から6泊7日で、日本橋から日光まで、日光街道を歩いてきました。
日光街道を歩いた記録をまとめました。
日光街道てくてくある記
写真です。
日光街道の桜の名所の写真です。
4.14 季節と音楽
春になり桜の咲くころになると、不思議とマーラーが聴きたくなります。春のうきうきした気分の時、オーディオルームから桜を見ながら聴くのにぴったりするのはいつもマーラーです。華やかで色彩的な音色、大きな曲作り、途中でうとうとしてもまだ続いている曲の長さ、それほど深刻ではなく適度にある軽さ、聴いていて肩の凝らない歌謡的なメロディーなどのマーラーの特徴が、春の陽気に合うようです。
今回は、CDのBox-setの"The art of Seiji Ozawa"の中から、1番と5番を聴きました。ボストン・シンフォニーの演奏です。小澤征爾は曲作りがうまく、盛り上げ方が上手だと思います。
日曜日の深夜に放映されるNHKのプレミアム・シアターで、リッカルド・シャイー指揮ゲヴァントハウス管弦楽団のマーラーの5番が放送されました。録画しておいて早速聴きました。ゲヴァントハウスの演奏は、ボストンに比べると重厚で硬派な感じです。小澤征爾の方は、やわらかでしなやかな感じがします。
録画を見ながら思ったのですが、マーラーの曲は演奏を見るよりは、外の桜でも眺めながら聴くのが適しているようです。マーラーの「軽さ」と、演奏者の必死の形相とがちぐはぐな感じです。
4.24 リヒテルのモーツァルト
リヒテルのEMIに残した全録音をボックス・セットで購入しました。CD14枚もので、一枚当たりなんと260円という価格です。昔のCDの十分の一の値段です。スターバックスのコーヒー一杯分で、名演奏が聴けるわけです。この全集には、モーツァルトの「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」が3曲と、ピアノ協奏曲が一曲収められています。今までリヒテルのモーツァルトを聴いたことがなかったので、早速聴いてみました。
ところで、洋の東西を問わず「ヴァイオリン・ソナタ」と記されることが多いのですが、これは適切ではないと常々思っています。やはり長たらしくても「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ」と呼ぶべきでしょう。モーツァルト書簡集では、レオポルトはいつも「ヴァイオリン付きピアノソナタ」と書いています。ヴァイオリン・ソナタどころか、ヴァイオリンがピアノの伴奏ということです。
K306、K378、K379の三曲ですが、どれも非の打ちどころのない完璧な演奏です。ヴァイオリンはオレグ・カガンです。カガンはオイストラッフの愛弟子で、43歳という若さで亡くなったので名前が知られていませんが、リヒテルとコンビを組んで、幾つもの室内楽を残しています。私は今回このCDで初めて聴きましたが、すごいヴァイオリニストです。K378は、若さにあふれたロンキッヒ/ツィンマーマン版と優美なハスキル/グリュミオー版を愛聴していますが、リヒテル/カガン版は文句の付けようのない完成度に達しています。
ピアノ協奏曲は第22番が収められています。指揮はリッカルド・ムーティ、オケはフィルハーモニア管弦楽団です。これも名演です。機械のように正確なリヒテルのピアノが、のびのびと歌うムーティのオーケストラに乗って、天国にいるような音楽を奏でます。生真面目で感情表現を抑えた内向的なリヒテルの音楽と、伸びやかで表現を表に出す外向的なムーティの音楽との、ある意味では異質な組み合わせが、ここでは見事に融和しています。ロシア的なものとイタリア的なものがうまく一体化して、今までと違った異次元の音楽を作り出したとも言えそうです。大げさですがその位に見事な演奏です。
カンデンツァはあのブリテンによるものです。一瞬モーツァルトの世界から抜け出る感じですが、けっして違和感はありません。あたかも、歴史的建造物の町並みの中で、それらとうまく調和したモダンな現代建築を見るような感じです。古典と現代がうまく調和していて、木に竹を接いだような不自然さがないのは、さすがにブリテンの力量でしょう。よくあるモーツァルトを真似たようなカデンツァよりも面白いと思いました。
22番のピアノ協奏曲は私の好きな曲です。第一楽章の「ジュピター・シンフォニー」を思わせるような堂々とした出だし、管楽器が色彩豊かに活躍する第二楽章、第三楽章の軽快なテーマと「フィガロの結婚」の第四幕のフィナーレを感じさせるような中間部が印象的です。
p.s. 最近のEMIは音が良くなったような気がします。何かが変わったのでしょうか。昔のEMIの録音はひどいありました。アルバン・ベルク四重奏団のCDなどは、音がきつくてがっかりしたものです。
5.1 季節と音楽(その二) シューベルトの『ます』
私の住んでいる富士見では、桜と梅の花がほぼ同時に終わると、リンゴとプルーンの花が咲き始めます。この花のリレーは毎年狂うことはありません。そして、いよいよ一年でもっとも気持ちの良い新緑の季節となります。
この頃になるときまって聴きたくなるのが、シューベルトのピアノ五重奏曲『ます』です。『ます』のCDは数多く出ていますが、なんと言ってもリヒテルとボロディン四重奏団による演奏が一推しです。
音楽の三要素は、旋律とリズムと音色といわれますが、なぜこの時期になると『ます』が聴きたくなるのか、ここに理由がありそうです。
旋律に関して言えば、シューベルトはモーツァルトに劣らない旋律の大家だと思います。『ます』に使われている旋律は、どれも美しいものばかりで、かぐわしき五月にぴったりの瑞々しい旋律が絶え間なく現れます。
次にリズムですが、このリズムにこそ、この季節に『ます』が聴きたくなる理由がありそうです。『ます』には、跳ねるような軽快なリズムが繰り返し現れます。しかも、いろんなパターンのリズムが随所に現れて、これが幾度も幾度も繰り返されます。このリズムにこそ、『ます』の生命力あふれる新緑の季節にふさわしい理由がありそうです。
最後の音色ですが、『ます』の魅力の一つは、弦の中に浮き立つピアノのきらびやかな音色にあります。このようにピアノの音色を音楽に積極的に取り入れたのは、シューベルトが最初の作曲家ではないでしょうか。モーツァルトにもベートーベンにも、部分的にはあったにしても、全曲に徹底してピアノの音色を生かそうとはしていません。その意味では、シューベルトはピアノの使い方に革新をもたらしたといえます。このピアノの音色の美しさにかんしては、リヒテルの右に出る人はいないのではないでしょうか。
『ます』の演奏において、旋律の歌い方、軽快な生命力あふれるリズム感、そして弦の音色の中に浮き立つようなきらびやかなピアノの音色、これらを全て満たしてくれるのが、リヒテルとボロディン四重奏団によるCDです。このCDはEMIのボックス・セットにも収められています。EMIの旧盤をすでに持っていますが、この旧盤は音が悪いのが難点でした。1980年の初期におけるディジタル録音ですが、信号レベルが低く、全体にぼやけて精彩に欠ける音です。ピアノは小さく霞んで、遠くから聞こえてくる感じです。せっかくの名演奏も台無しです。ところが今回のボックス・セットでは驚くほど音が良くなっていて、これらの欠点が全て解消されています。同じ音源であるのが信じられないくらいです。CDが出てから30年以上経ちますから、この間の技術の進歩があったということでしょうか。こんなにありがたいことはありません。
5.10 8ミリビデオのダビング
昔の旅行や両親や子供などを撮った8ミリビデオのHi8カセットが20巻ほどあります。8ミリビデオが使えるうちは見れますが、故障したらただの資源ごみとなってしまう運命です。ハイテクは便利ですが、機械が壊れたら全てが無に帰すという危うさがあります。ビデオが使えるうちに、BDにダビングしておかなければと思いつつ、時間もかかり面倒な作業なのでつい放っておいたのですが、意を決して決行しました。
ブルーレイデコーダに接続し、先ず内蔵のHDDにダビングしてから、不要な部分を削除したり、チャプターを打ったりしたりの編集をします。20時間余りのテープを、数日かけて全てのダビングと編集を終えました。最後に、二枚のBDに収めて完了しました。
今から二十数年前のビデオで、自分自身で撮ったものですが、映像を見ながらほとんど完璧に忘れてしまっていることに愕然としました。まるで、今初めて見ているといった感じです。要するに、ビデオを撮ったことも、撮った内容も、ほとんど覚えていないということです。私の貧弱な記憶容量は、膨大な人生の体験を記憶に留めておくためには全く容量不足のようです。それでも不思議なのは、全く忘れてしまったと思っていたことも、ビデオを見ていると、次第にこんなこともあったなと、記憶が呼び戻されてくることです。普段は思い出すことが出来なくても、体験したことは脳のどこかに記憶として保存されているようです。
私の父も含め、既に亡くなった人たちが出てきますが、まるでまだ生きていて、今目の前にいるような感じがします。この懐かしい貴重な記録を大切にしたいと思います。友人や親戚も写っていますので、その部分をDVDにして贈ろうと思っています。
5.17 カルロス・クライバーの魔術
今週のBSプレミアム・シアターは、コンセルトヘボウ125周年記念ガラコンサートでしたが、これよりも後半のカルロス・クライバーに関するドキュメンタリー「カルロス・クライバー~ロスト・トゥー・ザ・ワールド」と「目的地なきシュプール~指揮者カルロス・クライバー」に、とても興味をひかれました。カルロス・クライバーは私の好きな指揮者の一人で、『魔弾の射手』、『椿姫』、『カルメン』、ベートーベンの5番と7番、ニューイヤー・コンサートなどを持っていますが、どれも最高の演奏です。特に、オペラやウィーンの音楽では、右に出る人はいないと思っています。ポピュラーな名曲を、カルロス・クライバーほど魅力的に演奏した人はいまだかつていないのではないかと思っています。まさに天才といえる指揮者です。わざわざカルロスと付けるのは、父親が大指揮者のエーリッヒ・クライバーで、その父親と区別するためです。
かねてより、大人数のオーケストラを、カルロス・クライバーはどうしてあのように自由自在に操れるのか不思議でした。ソロ楽器ならともかく、オーケストラに微妙なニュアンスや、絶妙なテンポの揺れや、音の急激な変化を生み出せるのか、全く不思議でした。その謎が、これらのドキュメンタリーを見て氷解しました。そこには、オーケストラとの熾烈な戦いがあったのです。
オーケストラを操るカルロス・クライバーの魔術の第一は、自分の中にある音楽のイメージを、楽団員に徹底的に伝え、かつそれを実現させる爆発的なエネルギーとカリスマ性です。どの指揮者も同様のことをしていると思いますが、どこか違うようです。
第二は、音のイメージを伝える方法です。いい声で歌ったり、リズムを口ずさんだり、巧みで的確で独創的な比喩を連発します。さらに、パート譜には彼の指示による書き込みを入れさせたということです。
第三は、彼の身ぶりです。音楽を手の振りで表すことは、どの指揮者でもすることですが、彼の場合は手の動きや身振りが、音楽そのもののようであり、見ているだけでうっとりするくらい美しいのです。まるで踊りのようです。
これらの魔術を繰り出して、彼は徹底的な準備をしたうえでないと演奏しなかったようです。土壇場のキャンセルは有名な逸話ですが、普通の人には些細なことでも、完璧主義の彼はそれが許せなかったようです。この様なカルロス・クライバーにも、父親の影は重かったようです。それはレパートリーに現れていて、彼が演奏する曲は、父親が演奏したか、演奏した楽譜が残っているものに限られていたようです。彼は、自分が完璧に演奏できると思う曲以外には手を出さなかったということのようです。
6.2 人間は挑戦する生き物
三浦雄一郎が80歳でエベレスト登頂を成し遂げました。すごい精神力と実行力です。我々にはとても考えられないことですが、そこまで出来るということは、老いを迎えようとしている私たちに、とてつもない勇気を与えてくれます。
それにしても、挑戦好きの人が多いことに驚かされます。この前は、八ヶ岳山麓のトレッキングコースで、100Kmマラソンがありました。300mの高度差のある山岳コースですが、8時間余りで完走した人がいました。信じられないくらいタフです。
何時だったか、NHKで、日本海から太平洋まで、北アルプスと南アルプスを駆け抜けるレースをレポートしていました。確か、三日くらいで、食料や仮眠する装備を担いでのレースです。苛酷さでは他にひけを取らないでしょう。
各地でマラソンレースがありますが、参加者の多いことにいつも感心します。なぜなら、私などは5Kmのジョギングで丁度いいからです。
伊達公子は42歳になってもテニスの国際トーナメントに挑戦しています。あの年で無理しなくてもとか、もう勝てないのにとか思ったりしますが、本人の挑戦する気持ちは尊いものです。中日の山本昌投手も、47歳で投げ続けており、47歳7か月で最年長勝利投手記録を更新しました。才能に恵まれながら、期待する成績を収めきれずに終わる選手が多い中で、実に立派なことです。
何もしないでいられないのが人間なのでしょう。大それたことでなくても、ほんのささやかなことでも、誰しもその人なりの挑戦があるはずです。挑戦とは、困難なことをやるということもありますが、新しいことをやる、ちょっと面倒と思うことをやるということでもあります。同じことの繰り返しの中に身を置かないということもあるかもしれませんが、年を取れば、続けるということ自体が挑戦と言えるのではないでしょう。
続けることが挑戦
私もそろそろその様な年に近づいてきました。この挑戦の気持ちを忘れない間は、まだ老いていないと言えそうです。
6月下旬からのツェルマットでのハイキングに備え、足慣らしに茅ヶ岳に登ってきました。
その時の写真です。茅ヶ岳
6.13 今年の「六月の奇跡」
六月になり、庭では多年草が咲き始めました。まさにターシャ・チューダの言う「六月の奇跡」の始まりです。庭が一年で最も美しく輝く季節です。
六月も半ばになると、バラがようやく咲き始めます。今年は、雨が降らないせいか、バラが例年よりも美しく咲いてくれています。こちらでは、バラが咲き始める時季と梅雨が重なり、せっかく咲いた花が雨でやられてしまいます。シャクヤクなども、見事に咲いたと思ったら、待っていましたというばかりに雨が降り、雨の重さで花が垂れてしまいます。雨が降らないということは、庭にとっては朗報です。こんな年はめったにありません。イギリスの庭園では、花が密集して見事に咲いている様子を写真などで見ますが、あれは梅雨のないイギリスだからなのだと常々思っていましたが、やはりその様です。我が家の庭も、花が雨でやられてしまうこともなく、美しい姿を保っています。湿度で、株が蒸れることもなく、害虫の発生も少なく、多雨で徒長することもなく、少々水不足の中で植物は理想的な状態を今のところ保ち続けています。
今年は梅雨入りの日に雨が降っただけで、この二週間ほど晴天が続いています。梅雨前線は、太平洋上に停滞しているようです。気象庁は「梅雨入りしたと見られる」と言っていますが、こういう状態を梅雨入りと言うのが適切なのか、疑問を感じます。気象学的な定義からは梅雨なのでしょう。
水不足は心配ですが、庭師としては、花が一番よく咲くこの時期に雨が少ないことは願ってもないことです。高原地帯のこの辺りは、夜の間に夜露が降りますので、どんなにカラカラの日が続いても、水不足で植物が弱ることはありません。もう少し、空梅雨が続くことを願っています。
7.12 ツェルマットの河童橋
ツェルマットに河童橋があるとは初耳でしょう。その訳をお話しします。
二週間ほど、ZermattとSaas Feeのハイキングを楽しんできました。幸い好天に恵まれ、マッターホルンをはじめとするアルプスの景観を堪能してきました。今年は例年よりも雪が多く、また寒かったため、通常ならなんでもないコースも雪で覆われていて、歩けない所もありましたが、まだ山が真っ白で美しかったです。とりわけ花の咲き乱れるアルプと白い峰との対比は、息をのむほどの美しさでした。
ところで、ツェルマットは中高年の団体旅行者で溢れかえています。ここがスイスとは思えないくらいの、日本人の多さでした。私の泊まったホテルはローケーションに恵まれ、ベットに寝たままでマッターホルンを見ることが出来ました。朝は5時ころには明るくなり、目覚めると、マッターホルンの頂上に朝日が射しはじめます。夜は10時過ぎまで明るく、マッターホルンを眺めながら眠りにつきます。なんとも贅沢な体験でした。
ホテルのベランダに出ると、教会からの通りにあるヴィスパ川に架かる橋が見えます。この橋に、朝5時ころになると、日本人の中高年グループが集まってきます。やがて、橋の上は日本人で鈴なりになります。その数は百人近くにもなります。これが、晴れの日も、曇りの日も、雨が降らない限り毎朝きまって繰り返されるのです。実に不思議な光景です。その訳を知りたくて、私も夜明けとともに橋のところに行ってみました。そりて、日本人の中高年の人たちを押し分けて橋の上に立つと、今までの疑問が氷解しました。この橋の上からマッターホルンの眺めがすばらしいのです。日本人の団体旅行者は、ここからの朝日に輝くマッターホルンを眺めるために、夜明けとともに集まって来るのでした。
ツェルマットは深い谷間にあり、マッターホルンを除けば周囲の山を見ることはできません。この地形は、上高地に何となく似ています。標高も、上高地と同じくらいです。上高地から見る穂高岳は、ツェルマットのマッターホルンに対比できます。日本人が集まるこの橋は、まさにツェルマットの「河童橋」だったのです。上高地の河童橋も、シーズンともなれば、穂高岳を眺める観光客でごった返します。これと同じ光景が、ツェルマットでも再現されるのでした。それにしても、朝の5時ころからこの橋に押し寄せるのは、日本人の団体客だけです。皆と同じ行動を取る団体客のちょっと異様な光景が、毎朝繰り返されるのです。
日本人は本当に山が好きなのだと思います。いま、日本の山は、元気な中高年登山者で占められていますが、その登山者がそのままスイスの観光地に押し寄せているのです。日本の山で見られる中高年グループの長い列が、スイスのアルプスの代表的なハイキングコースでそのまま再現されているのです。元気でお金持ちの日本人中高年バンザイ。
7.25 庭園の原点
登山が好きでよく山に登ります。近くにある八ヶ岳、特に北八ヶ岳(北八)は、アプローティが短く手軽に登れます。北八の特徴は苔むしたシラビソの森と湖で、神秘的な風景が特徴です。ちょっと北欧的な雰囲気があります。苔が岩をびっしりと蔽い、苔と岩の間に、樹木が自然の姿で形よく配置されています。これは、自然のバランスで成り立っていますが、実に美しく、見事な造形美を作り出しています。
この自然の芸術品を見るたびに、京都のお寺の日本庭園を思い出します。北八の森の風景と、日本庭園が良く似ているのです。この類似性から、日本庭園は日本の深山の苔むした風景を、身近なところに再現しようとして生まれたのであないかと思うようになりました。青い松林と、波が打ち寄せる白浜、そこから眺める富士山の、典型的な日本の風景を庭園に持ち込むことは、古来から行われてきました。これと同様に、苔むした深山の幽玄な世界を庭園のモデルにしたのではないでしょうか。特に、禅宗の寺にはぴったりしたお手本ではなかったかと思います。
庭園のもう一つの代表が、イングリッシュガーデンに代表される西洋の庭です。この庭の原型はどこにあるのでしょうか。全くの人間の想像力だけから生まれたとは考えられないからです。
今回、スイスの山を歩き、牧草地の草原を見て、ここにこそイングリッシュガーデンの原風景があるのではないかと思うようになりました。スイスの自然は日本のように強靭な雑草が圧倒的に繁茂することはありません。丈の低い牧草の間に、カンパニュラ、シレネ、ゲラニウム、フランスギク等々の、美しい花々が咲き乱れます。これは確かに、イングリッシュガーデンの一つの理想形だと思います。日本では、わざわざ園芸店で買ってくるような花々が、野生で咲いているわけです。しかも自由勝手に咲き乱れながら、自然の秩序とバランスが見事なまでに支配しています。
こんな庭があったらいいと、ガーデニング好きの人はきっと思うに違いありません。
8.4 日本の山も美しい
スイスアルプスをハイキングしてきて、その規模の大きさ高さと美しい景観に圧倒されました。日本にも、こんな山の一部でもあったらと思ったくらいです。今住んでいる富士見町の後ろに、サースフェーからの眺めの一部でも移せたらと思わずにはいられませんでした。
日本に帰ってきて、中央道から南アルプスを眺めると、規模こそ小さくこじんまりとしていますが、日本の山も捨てたものではないと実感しました。
スイスアルプスは、雪と氷と岩壁の世界で、崇高な感じがします。一方で、日本アルプスは、緑が豊かで、多様性に富んだ自然の中に、親しみのあるやさしい姿を現しています。なんといっても、樹木の多様性と緑の深さは、日本の山の宝です。
例えてみれば、西洋の人を威圧するゴチック様式の教会と、優美で繊細な日本の神社建築との違いと言えるかもしれません。いやむしろ逆で、スイスアルプスに影響されて天に聳える教会建築が生まれ、日本の森林と山河に影響を受けて、神秘的な神社建築が生まれたと言った方がいいのかもしれません。
8.16 ウィンパーの悲劇
ウィンパー(Edward Whymper)の『アルプス登攀記』を読んでみました。学生時代に、「百冊の本」というのがあって、これらの本は読まなければならないということで、その中に入っていた『アルプス登攀記』を岩波文庫で読んだ記憶がありますが、内容はすっかり忘れてしまいました。そこで、スイスハイキングを機会に、読み直したわけです。
特に、最後のマッターホルン初登頂のところが圧巻です。確か八度目のトライで、登頂に成功したのですが、それは、緻密な計画と過去の失敗からの教訓によるものです。しかしながら、登頂そのものは偶然による幸運と、同じく偶然による悲運が重なってしまいました。
幸運は、山案内人に裏切られて、計画していた登頂が寸でのところで断念しなければならなくなったところを、運よくイギリス人のパーティーと出会い、登頂が可能になったこと。悲運は、この俄かパーティーにあります。
ワンパーの過去七回の登攀は、イタリア側からなされています。現在の一般ルートがあり、ウィンパー自身も最初の登攀で成功できた東北山稜ルートは、当時は麓から見る限り険しくて、登攀困難と思い込まれていました。ウィンパーもこの思い込みから、イタリア側からのルートに固執し続け、失敗を繰り返したわけです。
この東壁のルートが登攀可能なのではと気が付いたのは、ウィンパー自身でした。理由は、わかってしまえば簡単なことで、東壁は夏でも白く雪が残ります。つまり、雪が残るということは、傾斜が緩いことを意味します。この単純なことに気が付かなかったのは、ツェルマットから見るマッターホルンが、目の錯覚で、極めて急峻に見えるからでした。まさに、心理学のなせるいたずらです。
マッターホルンの初登頂に成功した八人からなる俄かパーティーは、頂上直下の下りで、その中の登山経験が最も少なかったハドウが足を滑らし、先頭にいた登山案内人クローを突き飛ばしてしまします。ザイルで繋がれたパーティーは次々に転落して行きますが、これを必死で止めようとした山案内人の老ペーテルのところでザイルが切れたため、後ろにいたウィンパーと息子の小ペーテルを含め三人だけが助かります。
ウィンパーはその後、アルプス登山をしなくなったようです。
おそらく、当初の計画通りに、入念な計画のもとに、メンバーを厳選して望めば、このような悲劇は起きなかったでしょう。ウィンパーの初登頂を可能にしたのも、また同時に悲劇で終わらせたのも、偶然の悪戯だと言えそうです。
8.29 残暑お見舞い
秋きぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる
これは古今和歌集にある藤原敏行の歌で、日本人の四季の移り変わりにたいする細やかな感性が感じられます。この時季、まだ日中の日差しは強く、夏の名残が続いて秋とは思われませんが、ときおりさっと吹く季節風が木立を渡る音に、秋の到来を予感させます。風で秋を感じるこの感覚は、現代の私たちにも生きています。
私はかつて京都に五年ばかり住んだことがありますが、夏の暑い京都ではこの歌がぴんときました。
というのも、私の住む標高千メートルの富士見高原は、お盆を過ぎると急に秋めいてきます。日中の暑さはそのままですが、先ず、朝夕は肌寒くなります。「風の音におどろかせる」前に、「夕べの涼しさにおどろかされ」ます。そして野原では、ススキの穂が出始め、風景にも秋の到来を感じさせます。
こんなことを言うと、猛暑に苦しむ地方の人には申し訳ない気がしますが、冬が長く寒さの厳しいこの高原地帯では、もう夏も終わりかというのが実感です。高原の短い夏が終わろうとしています。
9.4 ホロヴィッツ生誕110年
畑に行く車中でFMを聞いていると、ホロヴィッツ生誕110年を記念した特集をしていました。聞こえてきたのは、死の四日前に録音したハイドンのピアノソナタ第59番でした。畑に着いたので、スイッチを切りましたが、このCDを持っていたことを思い出し、家に帰ってから改めて聴きなおしてみました。
そして、その演奏の素晴らしさに衝撃を受けました。実を言うと、このCDを買った当時は、ホロヴィッツの真価が理解できず、強い感動を受けることはなかったのです。
それから20年あまり経ち、ホロヴィッツのことは忘れてしまっていた時、偶然FMで聴いた演奏にはっとさせられ、改めて聴きなおしてみると、こんなすごい演奏があったのかという驚きでした。20年の歳月は、私を少しは成長させていたようです。
この "HOROWITZ the last recording" と題するCDには、ハイドンの他に、ショパンとリストの曲が収められています。ディジタル録音で、音が良いのも喜ばしい限りです。この中で、ワーグナー作曲/リスト編曲の『トリスタンとイゾルデより「イゾルデの愛の死」』が印象的でした。とにかく、ピアノでこれほどの表現力が得られるのかと驚嘆しました。オーケストラに劣らない多彩な音色と音量の強弱が、ピアノから聞こえてきます。家内に言わせれば、「自分のピアノはホロヴィッツの1%程度しかピアノの可能性を引き出していない」とのことです。本当に、そんな感じがします。
ホロヴィッツのハイドンを聴いていて、グレン・グールドの同じハイドンのピアノソナタの演奏を思い出しました。グールドとホロヴィッツでは演奏スタイルがまるっきり違いますが、共通しているのはピアノの天才ということです。グールドは曲の解釈の天才、一方ホロヴィッツはピアノ演奏の天才です。ピアノの表現力の豊かさで、ホロヴィッツの右に出る人はいないのではないでしょうか。
二人のハイドンを聴きながら、ハイドンは、200年もの後に、二人のピアノ演奏の天才が現れて、自分の作品をこのように演奏することを想像したでしょうか。
モーツァルト好きの私としては、モーツァルトのピアノソナタをホロヴィッツの演奏で聴いてみたいところです。このCDの解説書の写真には、モーツァルとの楽譜が置かれています。早速HMVで注文して聴いてみたいと思います。幸いにも「ホロヴィッツ ベルリン・コンサート1986(2CD)」 と「ホロヴィッツ/コンプリート・レコーディングス・オン・DG(含:ハンブルク・ライヴ)」には、モーツァルとのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲が収められています。
ホロヴィッツの続き
9月15,16日は台風18号で雨でした。ここ富士見は高い山で周囲を囲まれているためか、台風が上陸しても風雨はそれほどではありませんが、それでも、いつもより強い雨が降り続きました。庭の花が心配になるくらいの雨でした。こちらでは珍しいことです。
台風のため、畑仕事もできないので、終日家に閉じこもって、ホロヴィッツを聴いたり、録画しておいたBSプレミアム・シアターを見たりして過ごしました。
先ずホロヴィッツですが、"HOROWITZ Complete Recordings on Deutsche Grammophon" という、CD7枚組のボックスセットです。晩年のホロヴィッツの名演奏が、ディジタル録音で残されています。ホロヴィッツの録音がディジタルに間に合ったということは、本当に喜ばしい限りです。そのおかげで、最高に美しいピアノの音を今も聴くことができます。
このアルバムの中には、モーツァルトのピアノ協奏曲23番と、ピアノソナタ3曲、K282、K330、K333、それにロンドなどの3曲の小品が収められています。いずれもこんな美しい音のモーツァルトは聴いたことがありません。とにかく最高に美しいピアノの音です。特に、ピアニッシモの美しさは、一度聴いたらもう忘れることはないでしょう。演奏は、ホロヴィッツ独特のロマンチックな演奏スタイルです。シューマンやショパンに近い演奏といえます。ちょっと戸惑いますが、全く手垢のついていないモーツァルトの演奏です。
シューベルトの変ロ長調のピアノソナタD960も素晴らしい演奏です。シューベルトのピアノソナタをこの上なく愛する人間にとっては、宝物のような録音です。その他のシューベルトの小品、「楽興の時」や「軍隊行進曲」も聴くことができます。
晩年のホロヴィッツは、ハイドン、モーツァルト、シューベルトがお気に入りであったということです。ベートーヴェンはモーツァルとでもシューマンでもないと言って、毛嫌いしたというのはよく理解できます。
このアルバムには、ホロヴィッツの十八番の、シューマン、リスト、ショパン、ラフマニノフ、スクリャービンそしてスカルラッティが収められていて、これらについては言うまでもない最高の演奏です。私は。リストはそれほど面白いと思わないのですが、ホロヴィッツの演奏だけは例外です。リストはホロヴィッツ以外には考えられないくらいです。
9.30 ホロヴィッツの続きの続き
ホロヴィッツのモーツァルとに引きつけられ、他の演奏との聴き比べをしてみました。曲は、ピアノソナタK333変ロ長調、1781年から1783年の間に、おそらくウィーンで作曲された曲です。トルコ行進曲付きのK331からの三曲目です。モーツァルトのピアノソナタの中でも、特に魅力的な曲の一つです。
ホロヴィッツ
軽快なテンポで、ロマンチックに、何物にもとらわれない自由自在な演奏。これ以上ない美しいピアノの音色。
アラウ
ゆったりとしたテンポで、暖かく包こむような、風格と品格のある演奏。豊かで美しい音色。
グールド
一楽章などは、口ずさむことすら困難なくらい早い。繰り返しがないので、3分46秒で終わってしまう。ちなみに、ホロヴィッツは10分40秒、アラウは11分20秒、ピレシュは少し速くて9分56秒。内田光子は展開部と再現部の繰り返しがないので7分丁度。
とにかく第一楽章のテンポには度肝を抜かれるが、二楽章と三楽章は特に早くはない。
グールドは今までの既成概念を打ち破る演奏。そして、隠れていた音を引き出してきて、再発見させてくれる。型破りであるけれども、モーツァルトの美しさを全く別の角度から再現してくれる。これには説得力がある。
とりわけ3楽章は、このロンドの魅力を最大限に引き出している。
ピレシュ
細やかで繊細ではあるが、メリハリのきいた鋭角的な演奏。どちらかというと線の細い硬質な音色。
内田光子
今まで慣れ親しんできたモーツァルト。愛らしく、美しく、上品な演奏。
どれも特徴のある名演奏ですが、どれか一枚だけ選べと言われたならば、ホロヴィッツを取ります。
演奏の魅力度順は、ホロヴィッツ、グールド、アラウの順。ピアノの音色では、ホロヴィッツ、アラウ、グールドの順です。
オーソドックスな演奏では、内田光子、ピレシュ、アラウ、ホロヴィッツ、グールドの順となります。
10.6 ホロヴィッツの続きの続きのまた続き
HOROWITZ AT HOMEというタイトルのCDに収められている、モーツァルトのピアノソナタ変ロ長調K281を幾度も聴いています。こんなに美しく愛らしいモーツァルトは聴いたことがありません。本当に素晴らしい演奏です。ホロヴィッツ以外のピアニストは、この曲の魅力を引き出すことに失敗しているようです。この非凡な曲を、平凡にしてしまっているようです。
K281のソナタは、モーツァルトが21歳の時、マンハイム・パリ旅行に出発する前に、ザルツブルクで作曲されたようです。若々しいモーツァルトの魅力あふれる作品です。
マンハイム・パリ旅行の途中、アウグスブルクから父宛ての手紙の中で、「ぼくは当地およびミュンヒェンで、自作の六曲のソナタをほんとうにたびたび暗譜で演奏しました。」と書き送っています。旅の先々で、K281を含む六曲のピアノソナタを頻繁に演奏したようです。父親の束縛から離れ、期待と不安の入りまじる就職活動の旅の解放感の中で、これらの自作の曲を自身の演奏で披露しました。
ホロヴィッツがこの曲を録音したのは1988年、85歳で世を去る一年前です。ホロヴィッツは84歳とは思えない溌剌とした精神で、モーツァルトの青春時代の作品を、考えられないくらいに美しく弾いています。この曲の持つ愛らしさを、最高度に表現しています。これ以上の演奏はもう聴くことはできないのではないかと思われるほどです。モーツァルトもこれを聴いたら仰天したかもしれません。おそらく父親に、「信じられないくらいに美しく、ぼくのソナタを弾きました」と書き送ったことでしょう。
10.15 アダージオ 私なりの小さな発見
台風26号の接近で今日は朝から雨でした。近くの無農薬菜園を経営している人から、毎年、藁を軽トラックに2台分分けてもらっています。今日はその藁を畑に運ぼうと、軽トラックを借りることになっていたのですが、雨のため中止になりました。
こんな日は、読書をしたり、音楽を聴いたりする絶好の機会です。
読書の方は、『法華経入門』です。以前に『法華経』を読んだときは、「能書きばかりで、肝心の中身が書かれていない」と失望したのですが、入門書を読み、「能書きにこそ深い意味があり、中身は仏にしか理解できないのだから書いてはない」ということを理解しました。改めて『法華経』に再挑戦するつもりです。
音楽の方は、以前から気になっていたシューマンの交響曲第二番です。ちっとも面白くない曲だと、聴くこともなく放っておいたのですが、改めて聴きなおしてみました。お気に入りの、リッカルド・ムーティー指揮ウィーンフィルの演奏です。
深みのある第一楽章、シューマンらしい少しガチャガチャとした第二楽章のスケルツオ、そしてこれに続く第三楽章のアダージオが特に印象的でした。とても美しいアダージオです。そして、交響曲の中にこの様なアダージオの楽章を入れたのは、シューマンが最初の人ではないかと思いました。
アダージオ楽章で有名なのは、マーラーの交響曲第五番の第四楽章と、ラフマニノフの交響曲第二番の第三楽章です。いずれも美しく親しみやすいロマンチックな曲で、映画などの背景音楽としても使われたりしています。
このシューマンのアダージオこそ、マーラーとラフマニノフのお手本ではなかったかと思います。シューマンの第二交響曲を聴きながら、そう確信しました。
偉大な芸術家は、オリジナルなものを生み出し、後の人たちに大きな影響を与えるものです。シューマンの交響曲第二番も、またこのような作品なのでしょう。
10.27 『コシ・ファン・トゥッテ』再び
NHKのBSプレミアム・シアターで、新国立劇場公演の『コシ・ファン・トゥッテ』を見ました。去る6月15日に、新国立劇場オペラハウスで行われた公演です。
指揮はイヴ・アベル、演出はダミアーノ・ミキエレットという人です。ドン・アルフォンソの経営するキャンプ場でドラマが展開するという斬新な演出が見どころでした。キャンプという、非日常的な場面で、仮装のドラマが進むという趣向は、作り話的なこのオペラにかえってリアリティーを与えてくれます。大変説得力のある演出で、大いに楽しめました。
ただし、演奏は少し物足りませんでした。このオペラでは、四人の恋人役は勿論として、女中のデスピーナ役が重要で、この役の出来不出来で成否が左右されます。今回の公演では、このデスピーナの演技が下手くそで、見ていられませんでした。その上、東フィルの演奏がかったるく、時に緊張感を欠くところもあり、モーツァルトのオペラ・ブッファの軽快で洒脱なところが表現できていないのは残念でした。
そこで、聴き直しというわけで、私のお気に入りの二つのDVDを見てみました。
一つはムーティ指揮、1983年ザルツブルク音楽祭の録画で、もう一つはポネルの最後の演出となったアーノンクール指揮のもので、こちらは映画です。いずれもウィーンフィルとウィーン国立歌劇場合唱団による演奏です。
どちらも古典的な演出で、それぞれの良さがあって優劣をつけることは困難です。ムーティ版は細やかでかつダイナミックであり、歌心に溢れた演奏です。アーノンクール版は、少し固めでかっちりとした演奏です。歌手はどちらも素晴らしい出来です。
デスピーナ役は、ムーティ版はキャサリン・バトルで、アーノンクール版はテレサ・ストラータスです。前者も大変魅力的ですが、とりわけ後者はポネルの演出が優れている上に、映画だけあって演技がはまっていて、最高の出来といっていいかもしれません。
DVDとしての映像と音は、アーノンクール版の方が格段に良く、特に音はDDDだけあってクリアです。ムーティ版はアナログ録音で録画もよくはありませんが、充分に楽しめるレベルです。
『コシ・ファン・トゥッテ』は見るたびに味わい深いものを感じます。情緒的でない純粋音楽で、人間の心理や感情の変化をリアルに描き出すモーツァルトの力量は、奇跡としか思えません。軽妙な音楽で深刻な場面を表現するなどという芸当は、モーツァルトにしかできないでしょう。
11.6 これぞイタリア・オペラ
スカラ座日本公演『リゴレット』
我が家のヴェランダからの紅葉
BSプレミアムシアターで、去る9月9日、NHKホールで行われたミラノ・スカラ座日本公演の『リゴレット』を見ました。『リゴレット』は遠い昔に、イタリア・オペラが来日した時のテレビ中継で見て以来です。その当時の私の音楽経験では、「女心の歌」の記憶があるだけでした。
ヴェルディの傑作オペラ『リゴレット』は、ミラノ・スカラ座で最も公演回数が多いそうです。歌舞伎ならば『助六』といったところでしょうか。今回、何十年ぶりでこのオペラを見て、その人気の理由がよくわかりました。イタリア・オペラの真髄が全て凝縮されています。実にドラマチックなとてつもない悲劇、分かりやすく簡潔な筋書き、歌手の美声を心行くまで聴かせてくれるアリア、親しみやすいけれど通俗的になりすぎない音楽、美しい舞台と衣装など、オペラの醍醐味がすべてそろっています。ヴェルディは悲劇を表現するのが本当にうまいと思います。
今回の公演は、このオペラの魅力を最大限に伝えてくれる名演でした。スカラ座の十八番だけあって、板についた演奏ぶりでした。歌手とオーケストラの一体感は見事なものです。歌手は思う存分美声を響かせ、オーケストラは歌をきちんと追いかけて行きます。リゴレット役のリオ・ヌッチにいたっては、この役だけで五百回以上も演じているということで、この人抜きのリゴレットは考えられないくらいでした。
ジルダ役のエレーナ・モシュクの第二幕のアリアは極上の美しさでした。こういう女の恋心をドラマチックな歌にする手腕では、ヴェルディの右に出る人はいないのではないでしょうか。このアリアは、『椿姫』のヴィオレッタのアリアと双璧をなす、イタリア・オペラを代表する傑作です。
指揮はグスターボ・ドゥダメル、ミラノ・スカラ座管弦楽団、演出はジルベール・デフロで、正統派的な演出でした。マントヴァ侯爵はフランチェスコ・デムーロで、チェブラーノ伯爵夫人役のエヴィス・ムーラは、なかなかの美人でした
11.18 シリコンバレー
息子家族が、シリコンバレーの中心にある町パロ・アルトに住むことになりました。
パロ・アルトは、私が38年前、初めての海外出張で訪れたところです。サンフランシスコから、会社の同僚とヒューレット・パッカードの研究所を訪問しました。当時の日本の半導体技術のレベルは、アメリカに比べると大人と中学生くらいの差があり、日本のメーカの技術者の訪問を、余裕を持って受け入れてくれました。ミーティングには、論文や教科書で名前だけは知っていた高名な技術者も参加してくれて、感激したのを覚えています。恐る恐る、お会いできて光栄ですというような言葉を交わしたのを、懐かしく思い出します。
ヒューレット・パッカードの研究所は、スタンフォード大学に隣接していて、広い芝生や木立に囲まれたとても環境の良い所でした。こんなところに住めて、仕事ができるなら、どんなに素晴らしいことことかと思ったものです。まだ独身でしたから、将来私の息子がここに住むようになるとは、夢にも思いませんでした。
その後、シリコンバレーには仕事でたびたび行く機会はありましたが、シリコンバレーで仕事をするという夢は叶いませんでした。でも不思議なもので、息子がその夢を実現してくれました。
しばらくして、彼らの生活が落ち着いたら、遊びに行こうと思っています。パロ・アルトの住宅街や、スタンフォード大学の構内をジョギングするのを楽しみにしています。
11.25 宇宙の中に地球のような惑星は無数にある
The Huffington Post の記事で、興味あるコラムを読みました。書いたのはSeth Shostakという天文学者で、シリコンバレーのマウンテンビューにあるSETI(地球外知的生命体探査)研究所の上級研究員です。ですから、この話は信じても良さそうです。
最近の宇宙探査によれば、全宇宙のなかには、生命の存在が可能な地球型の惑星は、5000×10億×10億個もあるということです。興味のある方は、この記事を読んでみてください。
もう一つ面白い説明にこんなのがありました。もし、地球が宇宙の中で極めて稀な、偶然の産物であったとするならば、その偶然の確率は、三回続けて宝くじの一等に当選するようなものだということです。言い換えれば、宝くじの一等に連続して三回も当選することは現実には起こりえないことですから、宇宙に地球が一つしかないということは、現実にはありえないということです。
これからは冬の星座が美しく輝く季節です。ここ富士見では、周囲が暗く、空気も澄んでいるため、満点の星を見ることができます。この星空のかなたには、別の人間たちが生活していると考えるだけでも楽しくなります。
宇宙に果てはあるのか。これは子供のころからの変わらない疑問でした。最近の研究で、宇宙の始まりや、現在の進化の過程が解明されつつあります。それでも、宇宙は私の理解をはるかに超えた神秘です。
12.5 『頭痛肩こり樋口一葉』
木の葉も落ち、霜柱も立つようになり、本格的な冬の到来となりました。庭の草木も冬支度をすませ、土が凍らないうちに、バラの寒肥も施さないといけません。大きくなった木の選定も、比較的まだ日中は暖かいこの時期に終わらせようと思っています。
今までは剪定鋏で行っていましたが、年々大変になってきたので、今年は電動の剪定バリカンを買いました。これで剪定が随分と楽になりました。楽になっただけでなく、平らに刈り込むことが容易で、出来栄えもよくなりました。コニファーなども、今までは成長に任せていましたが、剪定バリカンで刈り込むことで、庭の風景が一変しました。伸び放題の木もいいものですが、狭い庭では、きれいに刈り込むと、手入れが行き届いた感じで、きちんとした感じになります。
先週のNHK・BSのプレミアムシアターで、井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』を見ました。こまつ座第百回記念公演で、演出が栗山民也、出演が小泉今日子、三田和代、熊谷真美、愛華みれ、深谷美歩、若村麻由美で、出演者はすべて女性という女芝居です。
井上ひさしらしい、面白くて悲しい、笑いと涙のお芝居です。樋口一葉の晩年の、晩年といっても19歳から死後2年後の8年間の、御盆の7月16日だけをつなげた、独創的なお話しですが、そこには、一葉の生涯が見事に凝縮されている感じがします。幽霊が出てきたりして、突拍子もないのですが、この幽霊が大切な役割を演じています。私にはこの「花蛍」という幽霊役の若村麻由美がとても印象的でした。
実を言いうと、今まで樋口一葉の小説を読んだことがありませんでした。これを機会の読んでみようと、さっそく図書館から文学全集の『樋口一葉』を借りてきました。先ず『にごりえ』から読み始めましたが、なるほど、うわさ通りの近代の紫式部、清少納言といった評判は当たっているようです。『源氏物語』を思わせるような、宮廷文学調の文体で、最下層に生きる人間の悲しみを見事に描いています。
12.15 樋口一葉と紫式部
樋口一葉をこの歳になって初めて読んで、深い感銘を受けました。そもそも私は、小説というものを理解することが苦手ですが、一葉の小説は、本当に面白いと思いました。
正直に告白するならば、今まで、洋の東西を問わずいくつかの名作といわれる小説を読みましたが、心から面白いと思ったのは、『源氏物語』、夏目漱石と井上ひさしだけでした。その他は、世界の文豪と言われる人たちやノーベル賞作家や現在の超ベストセラー作家を含めて、ちょっと面白いが何だかよく分からないというのが、正直な気持ちです。
今回、樋口一葉を読み、心から面白いと思いました。数年前に、『源氏物語』を読んでいたのがよい下敷きとなっていたのでしょう、一葉の小説がすっと心に浸み込んで来ました。
紫式部と樋口一葉は、約900年の隔たりがありますが、まっすぐ一本の線で結びついていることに気が付きました。
二人の共通点を上げれば、女流作家、天才、物語の面白さ、文章のうまさ、幅広い人間の観察力と洞察力、心理描写と性格描写のみごとさ、季節の移ろいの表現、などなどです。そして、当時の最上流階級から下の階級まで、幅広く知る機会があったことです。着物や容貌の詳細な描写などは、源氏物語の影響でしょうか。一葉は、紫式部の時代の和文の伝統を引き継いだ最後の作家でもありました。
紫式部とはどのような人であったのか、千年も前の人で、まるで想像ができませんでしたが、ひょっとしたら、一葉は紫式部の生まれ変わりではないかという気がします。そう思いながら、こんな感じの人だったのかもしれないと、勝手に想像したりしています。一葉は二十四歳の若さで夭折してしまいました。残念としか言いようがありませんが、またそこに、天才としての輝きがあります。
12.22 小澤征爾のチャイコフスキー
今回は小澤征爾についてです。
冬になると、床暖のないオーディオルームは寒く、足が遠のきます。この冬は、省エネの寒さ対策として、着る毛布と足温器を買ったので、これにくるまって音楽を聴いています。最近は、以前に買っておいた小澤征爾の名演奏を集めたグラモフォンレーベルのボックスセット "The art of SEIJI OZAWA" をよく聴きます。
雪の舞う寒い日は、チャイコフスキーが良く似合います。そして、チャイコフスキーは小澤征爾によく合っているように思います。昔、サイトウキネン・フェスティバルで聴いた『弦楽セレナード』は、今も耳に残っています。
このボックスセットには、チャイコフスキーの三つのバレー組曲と交響曲4番と5番、イタリア奇想曲、祝典序曲「1812年」が収められています。バレー曲はボストン・シンフォニーですが、それ以外は全てベルリン・フィルです。いずれも熱のこもった名演です。今から見るとまだ若々しい小澤征爾の、溢れんばかりのエネルギーとほとばしるような情熱が、演奏に籠められています。彼持ち前の優しさと細やかさがとが、踊るようなそして軽快なリズム感と相まって、チャイコフスキーの音楽の美しさを最高のかたちで引き出しています。曲作りのうまさやクライマックスへ登りつめる凝集力は見事です。
小澤征爾の音楽の魅力は何かなと考えていたら、あの軽快で踊るようなリズム感ではないかと思うようになりました。最初にN響にデビューして、ボイコット事件が起きたころの、指揮台で踊っているような溌剌とした姿を、今でも鮮明に思い出すことができます。
この軽やかなリズム感が、ロマン派の曲にマッチするのだと思います。ウィーンフィルとの『シエラザート』なんかも名演奏だと思います。初期のサンフランシスコ響による『新世界』とか、ボストン響とのフランス物やマーラ、サイトウキネンとのブラームスなど、いずれも大変優れた演奏です。ただ、古典派の音楽になると、この軽快さが時として仇となり、曲に軽さを与えてしまうことがあるようです。だからベートーベンなどは、持ち味を生かさないのかもしれません。