2009年、4月12日 一日目、洗馬宿から松本宿まで、松本の実家に泊まる
中山道の追分宿から別れて善光寺に通じているのが北国街道である。これに対して、中山道の洗馬宿から善光寺に向かう街道を、北国街道の西にあることから、北国西往還という。またの名を北国脇往還とも善光寺街道ともいう。北国西往還は、洗馬宿から善光寺まで、長野県の中心部をほぼ一直線に縦貫している。山岳地帯をよくも最短距離で結んだものである。そのために、幾つかの峠越えを余儀なくされる。電車や車でなく、人が歩くわけであるから、直線距離で結ぶのは当然である。人間の足ならば、少々の坂道など平気というわけである。
洗馬宿
9時、塩尻から中山道を歩いて洗馬宿の追分に到着。「右中山道 左北国脇往還善光寺道」の道標が立っている。この道標は、新道が開けたため現在位置に移されたが、本来の追分は現在位置より少し北側の、常夜灯のあるところである。
街道沿いのどの家の庭にも、信州の春を彩る水仙、ムスカリ、ヒヤシンスが咲いている。梅と桜も同時に咲いていて、北国の信州ならではの春の風景だ。
中原の集落を通る。子供の頃、松本から上諏訪までバスが走っていた。経路が二つあり、一つは国道経由、もう一つが旧道経由で中原回りと呼んでいた。中原回りの経路は北国西往還を通り、中原から塩尻駅に抜けていた。こちらは大回りで時間がかかるので、中原回りが来るとがっかりしたものである。
やがて街道は、新しくできた「サラダ街道」と交差する。この道は、俵万智の『サラダ記念日』が評判のころ出来たので「サラダ街道」と名付けられた。「サラダ街道」の周辺にはその名とおりレタス畑が広がっている。交差点の先は塩尻アルプス王業団地となり、ぶどう園へと続く。この辺りは「桔梗ヶ原のぶどう」として、昔から有名である。
ぶどう畑の真中に、送電線が林立する巨大な施設が見えてくる。中部電力の塩尻電力所と東京電力の塩尻送電所が隣接している。中部電力と東京電力の間で、電力をやりとりしているのだろうか。中部電力は60Hz,東京電力は50Hzであるから、ややこしい。この電力施設を通り越すと、郷原宿となる。
郷原宿
10時15分、塩尻から15,395歩で郷原宿に着く。入り口近くに諏訪稲荷神社がある。ここから郷福寺までの南北に伸びる約500mが郷原宿である。郷原宿には鍵の手がないことと、ゆったりとした区画割に特徴がある。
各戸は、間口6間(約11m)以上で、居住区は奥行き40間(73m)、裏道りを経てさらにその奥に奥行き60間(109m)の耕作地を持つ。一戸当たりの敷地は約500坪もあることになる。居住区の中央を「ナカセンゲ」と呼ばれる用水路が通り、耕作地にも用水路が引かれている。道路の中央と両側にも用水路が流れていた。ナカセンゲは郷福寺の境内でも見ることができる。さらに、建物は街道より少し引っ込んで建てられ、街道と家の間には前庭を持っている。この前庭のおかげで、この宿は他の宿とは一味違う、落ち着いた佇まいと豊かな雰囲気を醸し出している。
19世紀に二度の大火に遭い全焼しているが、安政5年(1858年)の大火後に建てられた「本棟造り」と「横屋造り」の家が数多く残されている。「本棟造り」とはこの地方ではよく見られる建築様式で、切妻が街道に面し、「雀返し」という装飾が屋根に取り付けられていて、堂々とした外観をしている。惜しむらくは、宿場の保存活動が成功したとは言えないことである。ある程度の努力は払われているが、宿場の原型はだいぶ損なわれてしまった。さらに致命的なのは、用水路が潰され車道となったことである。地元の人の生活道路としてだけではなく、抜け道としても使われていて車が頻繁に通るため、せっかくの宿場の雰囲気を台無しにしている。
昭和25年に、民藝研究家の柳宗悦がこの地を訪れ、郷原の宿に文化財としての価値を見出した。「宿場全体が誠に見事な一個の作品だといってよい」とまで激賞した当時の面影は、もはや失われてしまった。
母の実家は塩尻宿の中野屋で、伯母が一人で住んでいた。私は子供の頃、郷原を経由する上諏訪行きのバスに乗ってよくそこに遊びに行った。その当時はまだ通りに用水路が流れ、子供心にも他の集落とは違った雰囲気を持っていたことを記憶している。現在の郷原宿は、そのときの印象とは程遠い。
幕末には家数73軒、旅籠や木賃宿は10数軒あり、善光寺参りなどの旅人で賑わい、多い時には一戸に200人以上が宿泊したという。旅籠屋や商店などは農家と兼業していて、多くの家は伝馬役に携わった。さらに、中山道の洗馬宿や本山宿の助郷村とされたため、その負担も強いられた。
宿のほぼ中央、本陣の向かいの問屋跡付近に古井戸がある。他にも郷福寺入り口など三箇所に共同井戸が設けられていた。深井戸で、維持管理には大変な苦労を強いられたという。
宿の外れの郷福寺に立ち寄る。入り口に、「善光寺街道」と刻まれた石碑と、「市史跡 郷原の区画割と古井戸」の標柱が立っている。郷福寺は真言宗の寺で、17世紀に智積院によって中興されたが、現在は高野山金剛峰寺の末寺となっている。郷原宿にふさわしい風格のある寺である。境内には、芭蕉の『奥の細道』の句
野を横に馬牽きむけよほととぎす
の句碑がある。安永4年(1775年)に建てられたもので、芭蕉愛好家が郷原宿にもいたのであろう。この辺りは桔梗ヶ原というから、いかにもそのイメージかもしれない。
芭蕉は『更科紀行』で北国西往還(善光寺街道)を歩いているから、郷原宿を通っているはずである。
広岡駅を右手に見て、原新田の集落に入る。明治天皇が小憩された、本棟造りの旧家平林家があり、そのすぐ先には、当地で活躍した歌人太田水穂の生家がある。その斜め前には、アララギ派の歌人島木赤彦が広岡小学校教諭時代に下宿をした家が残っている。太田水穂の生家の前の道を左折して数百メートルの所に、塩尻短歌館がある。本棟造りの民家が短歌の資料館になっている。松本市和田生まれの窪田空穂も、和田小学校教諭時代の同僚であった太田水穂の影響で歌人になった。この地に短歌館があるのは、これらの歌人によるものである。
やがて旧道は国道と合流する。12時、国道沿いのマクドナルドで昼食とする。国道を進み、中央高速を過ぎて旧道に入ると村井宿だ。
村井宿
12時30分、24,756歩で村井宿に着く。村井宿の入り口にある神明宮前に番所跡と高札場がある。享保11年(1726年)、松本藩の水野氏が改易になり、塩尻、会田、麻績が幕府領となったため、今まで塩尻宿、本山宿、保福寺に置かれていた番所に替わり、村井宿、井川宿、岡田宿に番所が設けられた。その時の村井番所跡である。この番所は17年間続いただけで、再び元に戻された。番初では米、塩、木材の出入りと馬や女の通行を取り締まった。
村井宿の中央部には、脇本陣兼問屋の山村家、本陣兼問屋の中村家が残されている。いずれも本棟造りの立派な構えをしている。村井宿には土蔵作りの家や、格子造りの旅籠などもまだ残されている。村井宿の北にある鍵の手を出ると国道に合流する。そこに芭蕉の句碑と、その先に一理塚跡がある。
平田で旧道に入る。多賀神社で休憩し、2時、出川(いでがわ)に着く。ここは湧き水が多く、小川が多かったことから出川の名前が付いた。出川には、名主を務めた中田家の住宅と庭園が残っている。住宅の母屋は明治に新築された本棟造りであるが、書院は元禄時代の様式を残している。池泉回遊式庭園は江戸前期の築庭とされている。家の裏に回ったらたまたま家の人がいたので、庭園を見学させてもらうことができた。奥行きのある、見事な庭園である。住宅も庭園も、江戸時代の上級民家を代表するものである。
松本宿
田川に架かる豊田橋の手前に一里塚跡がある。薄川を渡れば博労町で、これより松本宿である。2時30分、35,852歩で松本宿、本町に到着する。
北国脇往還は、博労町から本町を通り、右へ曲がって中町へ入り、次に左へ曲がって東町へと続く。本陣のあった本町、商家の連なる中町は、すっかり近代風に様代わりした。松本駅周辺の市街地開発が進んだため、かつてのメイン商店街としての本町はやや勢いを失ったがまだ健在である。中町は、土蔵造りの老舗や個性的な民芸品店などが並び、観光客に人気がある。旅籠のあった東町まで来ると、さすがに開発の手は伸びていないが、かといって宿場の名残を留めているわけでもない。
街道は松本城を迂回するように通っている。中町へ曲がらずに本町を直進すると、大名町となり、その先に松本城がある。北国西往還から松本城へ行くには、東町から片端町へと右折し、城の裏側に出てもよい。
折しも松本城は桜が満開で、とりわけお堀の桜が見事である。枝がお掘りの水の上に垂れ下がるように咲いている。散りかけた桜の花びらが、お堀の水面に浮いている。
城の西側の公園へ回る。ベンチに腰掛け城を見上げると、柳の芽吹きと桜の花を透かして見る黒い天守閣が美しい。城の背景となる城山は桜の名所であり、桜色に染まっている。城山の向こうには残雪の北アルプスが白く連なる。どこを見ても春爛漫だ。城を一回りして、元の地点に戻る。
東町を過ぎ、鍵の手に曲がり萩町まで来ると、昔の商店はほとんど廃業して、街は寂れつつある。子供の頃よく買い物に来た、文房具店、衣料品店、床屋、八百屋などはもう無い。萩町には武家の屋敷があった。萩を植えて街道からの目隠しにしたことから萩町の名がある。
萩町を過ぎ元原となる。街道は信大付属中学校、小学校、幼稚園の横を進む。4時30分、幼稚園の角から、信州大学教養部を突き抜けて実家に向かう。
思い出
信大付属小学校と中学校は私の母校である。当時は木造校舎で、小学校、中学校、教育学部の順に校舎が連なっていた。小学校から教育学部まで、渡り廊下でつながり行き来ができた。小学生の頃、中学校の廊下を通ると、なにか大人の匂いを感じた。
小学校には講堂と体育館があった。冬になると、体育館の横の校庭に水を張って凍らせてスケートをした。講堂に続いて低学年の校舎が東西に伸び、その南側には花壇があって、学級毎に花を育てた。校庭の北には高学年の校舎があり、その東には田圃があって、5,6年のころ、授業で稲を育てて収穫まで行った。
年二回の運動会があり、秋の運動会は小中合同であった。年に2回、教生と呼ばれる教育実習生が数人やって来た。下手な授業だったかもしれないが、子供には新しい教生が楽しみの一つだった。当時は、小学校、中学校、大学が一体となっており、絶えず先輩に触れる機会があった。今思えば、大変恵まれた教育環境にあったと思う。
私の父は教員で、小学生の時、中学で国語を教えていた。授業参観で父が観にきた時は、本当に嫌だったことを覚えている。現在の付属小中学校は、それぞれ独立した鉄筋コンクリートの校舎になり、普通の学校になってしまったように感じる。
私は塩尻宿の東にある長畝という集落で生まれた。その後、母の実家の塩尻宿中町の中野屋に移った。母屋ではなく、用水路を隔てた畑に建てられた離れに住んだ。
父が塩尻中学校から松本付属中学校に赴任したので、一家は松本の埋橋の借家に移った。隣はキッセイ薬品という会社であったが、今は駐車場となっている。 埋橋は清水が湧き出るところで、借家にも清水が湧き出る井戸があった。当時通った幼稚園は今も残っている。
5歳の時、女鳥羽川沿いの今の家に移った。当時は市営住宅で、2軒長屋で、風呂も無かった。家族揃って浅間温泉まで風呂に入りにいったものである。冬など、手ぬぐいがカチカチに凍り、棒のようになった。その後、2軒分を買い取り、家を改造した。
私が富士見に住むようになると、妹夫婦が両親と暮らすことになり、家を取り壊して新築した。新居に移りしばらくして父が亡くなった。1995年、阪神淡路大震災があった時である。今は母が、妹夫婦と住んでいる。
松本雑感
城下町としてまた宿場町として繁栄した松本は、近年の松本駅を中心とした再開発により、町の姿がすっかり変わってしまった。かつては老舗が連なり繁盛していた六九商店街のように、すっかり寂れてしまった街がある。出店で有名な女鳥羽川沿いの縄手通りは、庶民的で情緒があったが、出店の模様替えをして新しくなたものの、買い物客で賑わったかつての勢いはもう無い。
再開発により、東京の小型版のような綺麗な市街地になりつつあるが、それでも松本は依然としてコンパクトで美しく、文化的で、少しばかりセンスの良さを感じさせる街である。松本は城下町であったから、町全体に落ち着きがある。信州大学(松本高校)があるから、文化的な香りもする。最近では、夏の音楽祭サイトーキネン・フェスティバルがすっかり定着した。学生や観光客が多いから、街に活気がある。
地勢的には、西は城山、北は馬飼峠、刈谷原峠、稲倉峠、東は東山と呼ばれる三才山、袴越山、美ヶ原高原に囲まれ、南は平らが広がる。城山の向こうには、西山と呼ばれる常念岳を始めとする北アルプスが連なる。中国の地勢学ともいえる風水の話を聞いたことがあるが、風水でいうところの繁栄する町の条件を揃えている。地勢的には京都と似たところがある。住みやすい地方都市だと思う。
昔の松本の町名は面白かった。博労町、鍛冶町、鷹匠町、御徒士町、餌差町、片端町、上土町、源池、蟻ヶ崎、六九など、城下町の名残の町名が使われていた。六九とは、厩が並び54疋の馬がつながれていたことによる。
それがいつ頃か、住居表示としてわかりにくく郵便配達に不便だということで、面白くも無い一般名に変えられてしまった。合理的かもしれないが、貴重な文化を失ってしまった。通り毎に町名があったのでは行政的には不便はあるかもしれないが、市民はその名前に馴染んでいたので何の不便も無かった。今でも市民の多くは昔の町名を使っている。
松本には、破壊寸前の松本城を守った偉人もいれば、由緒ある町名を切り捨てた合理主義者もいたのである。例えれば、京都がその町名を捨て去るようなものである。郵便番号がもっと早く制定されていれば、このような愚挙は避けられたかもしれない。当時の町名に愛着を覚える人は今も多い。街角に、旧名とその由来の碑が建てられてはいるが、元に戻す手立ては無いものか。
2009年、4月13日 二日目、松本宿から西条宿まで
母に弁当を作ってもらい、6時35分出発。信州大学を抜け、昨日の最終点に向かう。信大付属の幼稚園角に江間理髪店がある。高校時代よく通った店である。今は子供が継いでいるのだろうか。
その角の五叉路から旧道を進む。少年刑務所の所で、国道143号線を突っ切る。少年刑務所はコンクリートの塀を取り壊し、随分と明るい雰囲気に変わっていた。旧道を歩いていくと、土蔵造りの家をガレージにした、お洒落な家がある。古い町並みには土蔵造りがよく似合う。
岡田小学校を過ぎると、岡田神社参道入り口の交差点に出る。二本の大きなケヤキと鳥居だけがあり、その両脇が車道となりひっきりなしに通勤の車が通る。岡田神社はずっと先の山の裾にある。
岡田宿
7時10分、岡田宿に着く。岡田宿は岡田神社の参道から北の鍵の手まで、真っ直ぐに伸びている。かつては道の真中に用水路が流れ、両脇には松やケヤキが植えられていたというが、今は車と歩行の為に家並みいっぱいに道路が拡張された。所々に、本棟造りや格子のある古い家が残されてはいるが、ほとんどの家は改築されている。
享保11年(1726年)、村井宿と同時に、鍵の手の所に番所が一時的に設けられた。ここで道は二つに分かれ、「右江戸海道、左善光寺」と刻まれた道標が建っている。右へ進めば、稲蔵峠と保福寺峠を越えて上田に通じる街道である。左が刈谷原峠への道で、「2.9Km刈谷原峠」と指導標に記されている。この先、この指導標が要所要所にあるので迷うことはない。
254号線の下を潜り、刈谷原峠へ向かう。蓮台場というのがある。かつて北国西往還を行き来した旅人の無縁墓地である。行き倒れする人が少なくなかったのであろう。当時の旅は、今の登山やハイキングのようなものだから、天候や体調が悪ければ倒れる人もいたであろう。
生垣の美しい静かな集落をしばらく進むと、峠の登り道に差しかかる。途中に馬飼峠、刈谷原峠の分岐点がある。馬飼峠を経由しても刈谷原宿へ行くことができる。峠の中腹まで畑が開墾されているので、そこまでは舗装されている。舗装が切れると、なだらかな峠への登りが続く。道は次第に傾斜を増してゆくが、急というほどではなくやがて峠に達する。「仇坂」と言われたそうだが、荷物を運搬するには難儀であったであろう。
刈谷原峠
8時25分、9,619歩で刈谷原峠に着く。展望はないが、唐松や雑木、桧、松の木に囲まれた平地が開けている。 まだ芽吹き前なので、峠は明るく気持ちが良い。茶屋跡の碑があり、休憩のためのベンチが設置されている。静かで小鳥の鳴き声だけが聞こえる。
峠を越えるとゆるい下り坂が続く。岡田側よりも傾斜が緩い。途中からひんやりとした杉林になるが、古道らしい雰囲気を醸し出してくれる。やがて山の中の集落が見えてくる。刈谷原宿である。
刈谷原宿
9時10分、13,799歩で刈谷原宿に着く。刈谷原宿は坂の集落である。中ほどでわずかにカーブを描く道沿いに家並みが続く。坂のため、各家は坂に沿って三角形に石垣を組み、水平を保っている。その石垣の並びが宿全体を貫き、宿場全体の統一感を生み出し、調和の取れた美しい景観を造っている。
宿場の入り口は峠に続いているから、車の往来はない。人気もなく、山間の静かで美しい宿である。家の多くは新しく立て替えられてはいるが、宿場の雰囲気と調和して、宿場の佇まいをうまく残している。現在と過去がうまく調和した好例であろう。宿の出口は鍵の手となり、そこには大きな屋敷が建っている。
刈谷原宿を出て143号線を横切る。ここを右に行けば、保福寺峠あるいは青木峠を経て上田に達する保福寺道へと通じる。刈谷原は古代より交通の要衝でもあった。鎌倉時代には刈谷氏の居館があり、戦国時代には太田氏の刈谷原城があった。
旧道をさらに進み、洞光寺に立ち寄る。寺は城山の山麓にある。山麓の傾斜地は街道に沿って、反町、板場へとゆったりと続いている。春の日差しを浴び、明るく広がっている。住みやすそうな地形である。奈良時代から平安時代にかけての古窯跡があるということだが、古代から人が生活していたのは住み易かった証であろう。
県道をしばらく進み、板場で旧道へと右折し保福寺川に架かる保福寺橋を渡ると、取出の集落となる。会田宿の背後に聳える虚空蔵山(こくぞうざん)の特徴的な山の形が印象的だ。右手に浄雲寺があり、威容を誇る二階建ての山門が見えてくる。二階中央の開かれた部屋の奥には、金色の仏像が安置されているのが見える。アーチ型の屋根をした庫裏の建物も印象的である。このような立派な寺があるということが、会田宿のある四賀村の豊かさを感じさせる。
私が小学校高学年の時、父は松本付属中学から会田中学校へ転勤になった。今なら車で簡単に通えるが、当時は日に数本のバスしかなかったから、祖母とともに農家に間借りしていた。休みになるとそこへ遊びにいくのが楽しみだった。秋には裏山へ祖母に連れられて、松茸や初茸や栗茸などの茸や山栗を採りに行った。夏には家の横を流れる沢で、沢蟹を捕ったり、裏山で昆虫採集をした。いずれも楽しい思い出ばかりである。
行く手に見える会田の集落には、茶色のモダンな大学の様な建物が見える。山の中の農村にあって、この建物だけが周囲と不調和なくらい突出してモダンである。四賀村役場である。その役場を過ぎ、会田川を渡ると新町(立町)となり、ここからが会田宿である。
会田宿
10時15分、20,439歩、会田宿立町に着く。会田は、鎌倉時代に地頭としてこの地に入所した海野氏や岩下氏が会田氏を称え、浄雲寺のある取手に城館を構えたことから発達した。城は虚空蔵山の中腹にあった。
新町に足を踏み入れた瞬間から宿場の雰囲気を感じる。出格子の横屋造りの家や、土蔵造りの家が数多く残っている。布屋、吉野屋、布袋屋、信濃屋といった屋号が、どこの宿場にもあるような木札ではなく、提灯のように明かりを灯せる屋根の付いた木製の箱に書かれている。実に趣があり、このこだわりを見れば、会田宿の保存活動が並みのものではないことがわかる。
直角に左折すると中町になる。その角に道標が立っている。中町も宿場の佇まいを色濃く残している。特に、萬屋、大阪屋、溝口屋などの土蔵造りは印象的である。会田小学校の入り口付近に、横内氏本陣跡の碑がある。これは初期の本陣で、後には本町の上問屋堀内家が本陣を兼ねた。
その先を右折すると本町となる。会田宿は立町、中町、本町と鍵の手に構成されていて、整然とした町並みが印象的である。全体に保存活動が行き届いていて、気持ちが良い。宿場の中を国道が通ることもなく、鉄道が近くにない不便さが幸いして、会田宿は中途半端な開発で破壊されることがなかった。一方、山の中の小さな盆地とはいえ、農業を営むだけの耕作地には恵まれていたから、会田宿を豊かな状態で保つ事ができたのだろう。
本町に曲がる角には、頭の欠けた、「・・いせ道、・・善光寺道」と刻まれた道標が立っている。本町は立峠のある山に向かって坂を登りながら真っ直ぐに伸びている。空に上っていくような開放感と明るさを感じさせる。宿場の雰囲気が存分に残されていて、何とも言えずに美しい。会田宿が他の宿とは異なるとすれば、この本町の存在による。本町に入ってすぐの左側には、本陣堀内家がその面影を残している。
本町も坂の通りなので、刈谷原宿と同様に全体が三角形となる石垣が建物の水平を造り出している。その石垣の並びが美しい。本町の出口には、安政2年(1855年)に建てられた二基の善光寺常夜灯が残っている。街道随一の見事な常夜灯である。
常夜灯を過ぎると、道はそのまま立峠への登りとなる。途中に、松沢家の長屋門がある。茅葺と白壁の窓のない細長い建物で、中央がぽっかりと空いて門になっている。いかにも地方豪族の構えといった趣がある。
いよいよ立峠の登りに取りかかる所で、無量寺に寄リ道をする。石垣の上に立派な伽藍が並んでいる。中央の山門の左手には桜が咲き、右手には形の良い松が植えられている。山門を入ると、その右後ろに古い鐘楼が建っている。寺からは、会田宿のある四賀村の盆地が見渡せる。山にすっぽりと囲まれた村である。
舗装された林道を立峠に向かう。途中の岩山の上に岩井堂の千手観音堂が、その先に一里塚跡と「水留め石」がある。この峠道から虚空蔵山への登山道が分かれているが、その分かれ道付近に「うつつの泉」という名泉の源泉がある。そこから竹筒でこの「水留め石」まで水が引かれ、さらにその下の岩井堂観音堂まで引かれていたという。
虚空蔵山への分岐点を過ぎ、ゆるやかな林道を登っていくと、馬頭観音像がある。この観音像は三面の顔と八本の手を持ち、右側は破損しているが見事な石仏である。ここから突然に急な山道になる。街道と言うよりは、登山道といったほうが適当である。急坂を息を切らせて登る。
芭蕉の『更級紀行』には、「桟はし・寝覚など過ぎ、猿がばば・立峠などは四十八曲りとかや、九折重りて、雲路にたどる心地せらる。徒歩より行ものさえ、眼くるめき、たましひしぼみて、足さだまらざりけるに、かのつれたる奴僕、いともおそるるけしき見えず、馬のうへにて只ねぶりにねぶりて、落ぬべき事あまたたびなりけるを、あとより見あげて、あやうき事かぎりなし。」と、峠道の険しい様子が描かれている。
11時55分、26,454歩で立峠に到着する。立峠からは、聖高原や東築摩郡の村々が見える。登ってきた会田の集落も見える。初めて目にする麻績方面の景色を楽しみながら、母の手作り弁当を食べる。立峠には「みたらしや」他三軒の茶屋があったという。戦国時代には、乱橋に拠点を置く藤沢氏の唐鳥屋城という山城があったが、小笠原氏によって滅ぼされた。
下りは登りとは打って変わってなだらかな道である。刈屋原峠もこの立峠も、南側が急で、北側はなだらかである。途中から「芭蕉の小道」と名付けられた石畳になる。かなりの距離に渡り、道幅も広く、丸石がびっしりと敷かれている。大変な工事であっただろうと想像される。ここにだけ、どうしてこれだけの石畳を造る必要があったのか、実に不思議だ。甲州街道にもこんな石畳はなかった。中山道の鳥居峠の石畳も、わずかにあるだけである。本城村の乱橋、西条、東条、大沢新田の四か村で、乱橋宿から立峠までの道普請を担当したという。純朴な村人が、幕府の巡見使の対応に過剰反応した結果であろうか。それとも悪い代官でもいたのだろうか。
乱橋の間の宿
12時55分、乱橋の間の宿に着く。乱橋の集落は峠を降りた所の坂道に沿って、上町、中町、本町と続く。最も山の中にある集落であり、家並みもいかにも山間の集落といった風である。正岡子規が泊まった「こく屋」というのはどの家なのだろう。
北国西往還てくてくある記 二日目続き 乱橋間の宿から麻績宿まで
乱橋の集落を抜けると再び登りになるが、わずかな登りで中の峠となる。峠には有名な物種太郎伝説の「物種太郎塚」がある。
中の峠から緩い坂道を下っていくと、かつての炭鉱の事務所跡があり、やがて篠ノ井線にぶつかる。線路の下を潜って人家を抜ければ国道403号線に出る。西条までは国道を進む。
1時45分、33,666歩で西条に着く。聖高原が正面に見える。西条はかつて西条炭鉱で栄えたが、今はその片鱗すらうかがえない。現在の西条はこれと言って見所のない町である。地方都市によくあるように、古き良きものは捨てられ、安直な新しさがこれに替わり、中途半端な発展をしている。
炭鉱があったから篠ノ井線が早くから通じた。私の母方の祖母は塩尻宿に住んでいたが、長野の女学校に行くために、塩尻から会田宿で一泊して西条まで歩き、西条からは篠ノ井線で長野まで行ったということだ。入学の時は、西条まで鉄道が来ていなかったので、篠ノ井まで行ってから汽車に乗った。この北国西往還が利用されていたのは、そんなに昔のことではないのだ。
東条川を渡り、道は東条川と篠ノ井線の間の田園地帯を進む。線路を渡ると中村の集落となる。鎌倉時代には青柳氏が居館を構えたところである。土蔵造りの立派な酒屋がある。
青柳宿
2時40分、39,354歩、青柳宿に着く。青柳宿は坂北駅の東にあり、東西に伸びた上町と、鍵の手に折れて南北に短い横町とからなる。
上町の正面には、青柳城址のある城山がそびえている。城山の頂上には、恰も城があるかのように、枝ぶりの良い松の木が一本立っているのが見える。上町は坂にあるので、刈谷原宿、会田宿本町、乱橋宿と同様に石垣が組まれ、その上に家が建てられている。敷地が狭いため、用水路は道ではなく、「石組み水路」と呼ばれる石垣の中を流れるようになっている。これが青柳宿独特の極めて特徴的な味わいのある景観を作っている。「石組み水路」は今も残っているが、その実用的な役割は終わってしまったためか、半ば荒れ果てつつあるのは残念である。上町はこの石垣があるために、家が建て替えられても全体に統一感のある街の景観が保たれている。城山を正面にして伸びる上町は美しい。上町の鍵の手の手前に、本陣兼問屋の青柳家がある。
横町に入ると、上町とは異なり寂れた感じがする。横町の途中から清長寺に登ってみる。清長寺は青柳頼長が天正元年(1573年)に父清長の菩提を弔うために開いた寺である。清長寺の周辺には青柳氏の居館があった。寺の前の梅畑に青柳館跡の石碑が立っている。清長寺はしゃれた山門のある小さくはない寺であるが、現在は無人の荒れ寺である。城山の麓の、北アルプスの五竜岳と鹿島槍ヶ岳が見える良い場所にあるにもかかわらず、なぜ後継者がいないのであろうか。
横町には廃屋が目立つ。風雨にさらされて朽ちかけた民家が数軒はある。すぐ近くに坂北駅があり、他の宿と比べれば圧倒的に便利な場所にある。もっと不便な所にある宿場でも、このような廃屋を目にすることはなかった。
横町から少し西に折れた道を進むと、「青柳の切通し」に出る。天正8年(1580年)青柳頼長によって切り開かれ、その後1809年まで三回にわたって、長さ27m、幅3.3m、高さ6mの岩を切り崩した。岩を刳る作業はどれほどの時間と労力を必要とするか、想像を絶するものがある。けっして迂回ができない地形ではなさそうである。迂回路を造るのが普通であろうが、それをせず、とにかく道を直線に通す事を優先した執念と情熱に脱帽する。立峠の石畳にしても、この「青柳の切通し」にしても、いったん決めた事を貫徹しようとする強い意志と執念が感じられる。
「青柳の切通し」を抜け、山の中の旧道を下ると高速道路に突き当たるが、その手前に、もう一つ小さな切通し「小切通し」がある。切通しが完成したとき、村人や旅人が百体の石の観音像を寄進した。切通しがどれだけ多くに人を楽にしたことであるか。「小切通し」を過ぎると麻績村である。
麻績川の麻績大橋を渡ると、麻績の集落に入る。麻績大橋には善光寺街道の道標が懸かっている。旧道が所々あるものの、ほとんど国道403号線を進む。案内板があるのでそれに従って進む。国道沿いには、高札場跡、飢饉に備えて穀物を貯蔵した郷倉跡、一理塚跡などがある。「一口坂」から古道となる。この辺りは、木曽義仲にまつわる故事が多い。
『平家物語』巻第八鼓判官に、後白川法王が木曽義仲追討を企てた時、源氏の武将も法王方に付いたので、今井四郎は義仲に降伏するよう進言する場面がある。これに怒った義仲は「われ信濃を出でし時、をみ(麻績)・あひだ(会田)のいくさよりはじめて、北国には、砺波山・黒坂・・・・を責めしかども、いまだ敵にうしろを見せず、・・・・今度は義仲が最期の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰きかむ処もあり、軍ようせよ。者ども」と最期の軍をしかけた。麻績は義仲が兵を挙げた最初の地である。
「一口坂」というのは、麻績合戦に向かう義仲軍の兵馬が、この坂で笹の葉を一口食べたところ元気を取り戻したという故事による。麻績と会田で合戦があったということは、ここには御厨があったから、平家の勢力が及んでいたのであろう。
「一口坂」の古道を登っていくと、古墳群がある。ここには弥生時代から集落があった。古墳は朝鮮渡来人や御厨の役人のものであったようだ。渡来人は麻を積む技術を伝えた。麻績の名の起源である。
「ガッタリ」という面白い名前の付いた所に出る。これも義仲の軍馬が疲れてガックリしたことによるという。
「ガッタリ」の古道が国道と合流する所に、「姨捨山冠着宮遥拝所」の碑がある。碑の前には無遠慮にも家が建てられて、遥拝所から姥捨山を見ることはできない。この碑は明治になって、麻績を月の名所として復権させようという運動が起こり、その時に建てられた。
『古今和歌集』の歌
わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて
により、姨捨山が月の名所としての歌枕になったことはあまりにも有名である。この歌は麻績で詠まれたというのである。麻績は現在東築摩郡であるが、古代は更級郡であった。麻績には伊勢神宮の御厨があった。その鎮護の神として麻績神明宮がある。そんな関係から、麻績を訪れる都人がいて、旅心を詠んだとしても不思議ではない。
しかし、更科や姨捨山の歌枕といえば、八幡の長楽寺一帯ということになっている。芭蕉の『更科紀行』でも、さらしなの里は麻績ではなく八幡である。「信濃の国に更級といふところに、男すみけり。」で始まる『大和物語』の姨捨山の話も、「高き山の麓に住みければ」とあるから、地理的に見ても八幡であろう。中世以降には、段々畑に映る「田毎の月」としても知られるようになった。
麻績宿
4時30分、47,100歩、本日の目的地である麻績宿に到着する。
麻績宿は上町、中町、本町からなる。上町には共同洗い場があり、その先に幕末に本陣を名乗った瀬戸屋・臼井孫右衛門家跡があり、わずかに遺構を留めている。瀬戸屋の先の左裏手には、麻績氏の居館跡がある。麻績氏は鎌倉時代に地頭としてこの地に入った。それ以降、麻績は城下町として発展した。
麻績城址は、麻績宿の背後にある城山にある。戦国時代、武田、上杉、小笠原の攻防が麻績城であった。
中町のT字路手前左には、代々本陣を世襲した臼井忠兵衛家跡がある。T字路の先には、上問屋跡、下問屋跡、高札場跡があり、標識だけが立てられている。麻績宿は保存状態が良いとはいえないが、宿場の雰囲気は残されている。本陣跡の向かいには花屋の屋敷が残っている。土塀からは形の良い松が伸びている。花屋の前には、芭蕉の『更級紀行』の句碑が建っている。
ひょろひょろと尚露けしやをみなへし
身にしみて大根からし秋の風
芭蕉は貞亨5年(1688年)45歳の時、名古屋蕉門の越人を伴い、奴僕を連れて姥捨山の月を見るための『更科紀行』の旅をした。中山道から北国西往還を歩き、猿ヶ馬場峠を越え、更級の里で月を見てから善光寺に向かった。宿では、壁の破れから月影が差し込んでくる。宿に酒をたのむと、一回りも大きな無風流な蒔絵の杯が出てきた。都人なら手も触れないような代物であるが、場所柄か玉杯の心地がすると書いている。
あの中に蒔絵書たし宿の月
『更科姨捨月之辨』には
「あるひはしらら・吹上ときくにうちさそはれて、ことし姥捨の月みむことしきりなりければ、八月十一日みのの国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。」とあり、8月15日に更級に着いたとすれば、美濃から更級まで5日で歩いたことになる。一日に十里以上を歩いたとして、11日は馬篭宿、12日は上松宿、13日は本山宿、14日は会田宿、ということになろうか。
さらに続けて
「山は八幡といふさとより一理ばかり南に、西南によこをりふして、冷じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。なぐさめかねしと云けむも理りしられて、そぞろにかなしきに、何ゆへにか老たる人をすてたらんとおもふに、いとど涙落そひければ、
俤は姨ひとりなく月の友
いさよひもまださらしなの郡哉」
と、更級に二泊していることになる。それから善光寺に向かった。
月影や四門四宗も只一つ
2009年、4月14日 三日目、麻績宿から善光寺まで
5時、麻績駅近くの旅館「小松屋」を立つ。番所跡を左折し、海善寺の横を通り猿ヶ馬場峠に向かう。要所要所に指導標が立てられているので、旧道を辿ることが出来る。
5時35分、市野川集落に着く。ここには高札場跡がある。国道と交差しながら旧道を登ると、「お仙の茶屋跡」に出る。
お仙といえば、鈴木春信の美人画に描かれた、谷中の水茶屋鍵屋の娘笠森お仙が有名であるが、猿ヶ馬場峠のお仙も美人であった。旅の武士を密かに慕い、悲恋の一生を終わったという伝説が残る。またここには、弘法大師が訪れたので「弘法清水」と言われるようになったと伝えられる清水がある。その清水によってか、ここに芭蕉の句碑がある。
さざれ蟹足はひのぼる清水哉
この句は、『更級紀行』の前年の作であるから、この場所とは直接の関係はない。
地元の俳句愛好家の句であろうか、お仙の茶屋跡の道沿いには句碑が並べられている。旧道を上り詰めると国道と合流し、聖湖に出る。
6時15分、6,448歩、聖湖に到着。聖湖は蓼科の白樺湖を連想させるが、ずっと小さく鄙びた感じである。聖湖の北岸が猿ヶ馬場峠である。峠からは指導標があるので、旧道を辿ることができる。ここまでが松本藩領で、猿ヶ馬場峠を越えると松代藩領であった。
旧道は、国道の右側の林道に並行して、時には林道と合流して、桑原宿まで続いている。「念仏石」というのがある。現在は杉林となり視界はきかないが、猿ヶ馬場峠を越えると善光寺平であるから、ここから善光寺が遥拝でききたのであろう。この「念仏石」から念仏を唱えたのであろう。
「馬塚」というのがあり、峠を越してここまでが麻績三ヶ村の土地で、畑があった。八幡村とは境界争いがあり、幕府に訴えた麻績村側が勝訴したとある。
「猿飛池」を通り、「火打石茶屋跡」に出る。松代藩は旅人の便宜を図るために、領内の百姓三名にそれぞれ千坪の山林を与え、茶屋を開かせた。この茶屋は「名月屋」といい、また火打石を利用して家が建てられていたので「火打石茶屋」とも呼ばれた。松代藩主も利用する、格式高い茶屋であった。その下に、「松崎茶屋跡」がある。三軒の茶屋の一つで、もう一軒は姨捨に通じる近道にある「日の出屋」である。山林を切り開き、田や畑を耕しながら茶屋を経営した。
火打石の一里塚を過ぎ、「のぞき」に出る。峠の中腹にあり、善光寺平を眺望できるのでこの名がある。当時は、望遠鏡が備えられ、善光寺の本堂が見えるようになっていたという。展望台の望遠鏡の走りである。ここからは姨捨の長楽寺へ通じる近道が分かれている。芭蕉はこの道を通って更級の里へ降りたのであろう。さらに下ると「くつ打ち場」がある。ここで馬の草鞋を履き替えさえたという。ここからは約2Kmで中原である。
峠道を下り、高速道路を横切る所まで来ると、眼下に中原から桑原にかけての集落があり、その先には善光寺平が広がる。
中原の集落に入りJRの踏切を渡ると、和田家がある。有名な老松「七曲の松」が残っている。幹の一部は枯れたのか切られているが、依然として見事な枝振りである。屈曲した幹が垂直に立ち、その幹の下方から地面に並行して大枝が水平に伸びている。
和田家はこの地方の豪族和田氏の末裔で、江戸時代には松代藩屈指の豪農であり造り酒屋であった。苗字帯刀が許され、大層な繁栄振りであった。明治になっても、銀行、小学校の設立や信州りんごの導入など、この地の近代化と殖産に貢献した。しかし、その広大な屋敷も今は半壊状態にある。塀は崩れ、シートで覆われている。保存の工事が始まっているようであった。
桑原宿
番所跡と天満宮のある鍵の手を曲がると桑原宿となる。7時45分、14,708歩、桑原宿に着く。桑原宿は松代藩下にあり、松代藩の宿泊や伝馬に利用された。桑原宿には、出格子の横屋造りや白壁の土蔵造りの立派な家が残っている。宿の中心部には、佐久間象山も泊まったという、茶色の土壁と塀で囲まれた関家が、当時のままの姿で残っている。その向かいが本陣跡である。案内によれば、平成13年に取り壊されてしまったとある。
桑原宿を出ると、佐野川沿いに国道を進む。姨捨山の丸みを帯びた姿が目を引く。一里塚跡を通過し、バイパス道路を越えて、人家が多くなってきた道を進むと、三叉路となる。角に「右西京街道、左八幡宮道」の道標が立っている。ここにベンチがあり、しばし休憩を取る。この三叉路を左に進めば稲荷山宿である。
稲荷山宿
8時30分、18,809歩、稲荷山宿に着く。ここからは稲荷山の市街地となり本八日町になる。市街地といっても、今までの山の中の集落と比べての事ではあるが、いかにも善光寺平になったことを実感する。
本八日町には土蔵造りの家が目に付く。ここは上田藩領であり、かつては上田藩の番屋があった。問屋小路というのを曲がると、突き当たりに稲荷山宿の本陣松木家がある。冠木門が残っていて、本陣の俤を残している。大きな横屋造りの旧家が並ぶ鍵の手を曲がると、中町となる。当時の繁栄を物語るように、土蔵造りの豪壮な商家の建物が所々に残され、昔の街並みを髣髴とさせる。
稲荷山宿は南北に走る。振り返ると、通りの正面に姨捨山が見える。偶然そうなったのか、あるいは意図してそうしたのか興味が沸く。
稲荷山宿は天正10年(1582年)、上杉景勝が川中島を領有したとき、稲荷山城を築き町割をした。縄張りをしていると白狐が飛び込んできたので、稲荷山郷を号するようになったという。桑原郷11ヶ村から百姓をこの稲荷山郷に移住させ、伝馬役を申し付けたとある。
「左ぜんこうじ道」と書かれた道標を見て稲荷山宿を過ぎると、旧道はのどかな田園地帯の中を行くようになる。街道の西側は畑が広がるが、東側は桃園が多く、ちょうど花が満開で、一面桃色で美しい。
街道は鍵の手に曲がり、塩崎の集落に入る。鍵の手に天用寺の立派な伽藍が見える。本堂の前には桜が美しく咲いている。塩崎は、大きな屋敷門のある土蔵造りの旧家など、古い家並みが残り、落ち着いた雰囲気のする集落である。
稲荷山駅への道筋に康楽寺という寺がある。康楽寺はその縁起によれば、開祖である西仏坊は、信濃守海野小太郎幸親の子として海野庄に生まれ、奈良で学び、興福寺勧学院の文章博士となり、名文家として知られた。木曽義仲の挙兵では、祐筆としてまた軍師として智謀を発揮している。義仲の死後は、比叡山で親鸞と共に法然の弟子となる。親鸞が越後流罪となった時は、親鸞と行動を共にした。親鸞の東国への布教の旅にも同道している。途中、法然上人の往生を知り、建暦2年(1212年) 、西仏坊の生地である海野庄に親鸞の命名による「報恩院」を開いたのが、康楽寺の草創である。その後は、浄土真宗布教の中枢となって栄えた。現在の地に移されたのは何時か不明であるが、本堂は新しい建築である。
この西仏坊は、『平家物語』願書に、「・・・・あっぱれ文武二道の達者かなとぞみえたりける・・・・・・此覚明はもと儒家の者也。蔵人道広とて、勧学院にありけるが、出家して最登房信救(しんぎょう)とぞ名のりける。つねは南都へも通ひけり。高倉宮の園城寺に入らせ給ひし時、牒状を山・奈良へつかはしたるけるに、南都の大衆返牒をば此信救にぞかかせたりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」とかいたりけるを、太政入道(平清盛)大にいかって「其信救法師めが、浄海(清盛の法名)を平氏のぬかかす、武家のちりあくたとかくべき様はいかに。其法師めをからめとって死罪におこなへ」との給ふ間、南都をば逃て、北国へ落下、木曽殿の手書して、大夫房覚明とぞ名のりける。」と、義仲の手書き(書記)の覚明として登場する。
この西仏坊は幸長とも呼ばれ、『徒然草』で『平家物語』の作者とされる信濃前司行長はこの人であるという説もある。
塩崎一里塚跡を過ぎ、八代渡からの北国街道との分岐点となる。この辺りが、間宿の追分宿のあった所である。天保年間には水茶屋9軒、茶店10軒があり、賑わった。宿泊は禁止されていたが、闇の宿泊営業があり、稲荷山宿との間で訴訟が起きたようだ。このような事例は、他の宿でもよく見られたようである。
信越線を渡る。見六橋で右に曲がり御幣川の旧道を進むと、左に篠ノ井駅が見える。
旧道(現在の丹波島・篠ノ井線)をひたすら北進する。布施高田、川中島、橋場と続く。途中、共同井戸の跡や、明治天皇の立ち寄った旧家などが残っている。橋場から旧道は東北に進むようになり、上氷鉋(かみひがの)を過ぎるとやがて丹波島の交差点に出る。ここを直進すれば、丹波島宿の鍵の手である。
丹波島宿
11時30分、35,502歩、丹波島宿に着く。鍵の手を曲がると、東に一直線に伸びる整然とした町並みが現れる。美しく保存された町並みである。鍵の手にある於佐加神社で、正面に丹波島宿の町並みを見ながら休憩する。
丹波島宿の中央部には、明治天皇御膳水の碑の立つ冠木門が残る問屋跡の建物が当時を偲ばせる。その左に本陣跡があり、向かいには旧家も残るが、ほとんどの家が新築されている。しかし、宿場としての風景は、新しく改装された町並みの中にうまく保存されている。
宿の東端で北に折れ、犀川の土手に出る。ここに丹波島の渡しがあった。綱を張り、船頭が綱を手繰って舟を渡していた。明治6年に舟橋となり、明治23年に木橋となり、昭和7年に鉄橋となった。現在の丹波島橋である。丹波島橋からの犀川の中洲に生える柳の芽吹きが美しい。橋の北詰で橋の下を潜り、国道の東側に渡って旧道へと入る。
長野駅横を通り、中央通りを善光寺に向かう。善光寺は、商店が建ち並ぶ中央通を真っ直ぐに登って行った先にある。この中央通は、長野県下第一の規模を誇る商店街である。単に賑やかな商店街というのではなく、歴史の中に深く根を張った、門前町あるいは宿場町としての風格と落ち着きを伴った賑わいである。この独特の雰囲気が、善光寺に来たことを実感させる。
善光寺宿
上り坂となるあたりから大門町で、かつての善光寺宿であった所だ。明治以降の古い建物や、土蔵造りの商店などが歴史を伝える。善光寺宿は大門町、東町、西町の三町からなり、それぞれに伝馬役とその負担の代償として市を立てることが許された。善光寺宿は、門前町としてだけでなく、宿場町としてまた市場町としても繁栄した。
善光寺
1時4分、44,716歩、善光寺に到着する。今年は、七年に一度の御開帳である。善光寺の本尊は絶対の秘仏で姿を現さない。本尊の分身としての前立本尊が本堂に姿を現すのが、善光寺前立本尊御開帳である。大変な人出であるが、今日は平日であいにく小雨が降るので、人出はそれほどでもない。
長蛇の列ができる回向柱にも、すぐ触ることができた。回向柱は前立本尊の右手と綱で結ばれているので、この柱に触れることで前立本尊との縁が結ばれるのである。回向柱には梵字で宇宙の構成要素である五大、すなわち空、風、火、水、地と書かれている。宇宙に偏在する仏の命を表しているとされる。宇宙があり、そこに地球があり、生命が存在する、その真理を説く仏教観を凝縮したスケールの大きな言葉である。
入場券を買って、内陣に参拝する。金色に輝く前立本尊を拝む。小さい仏像で、距離もあるので、細部はわからないが、美しい仏様である。御先祖の冥福と一族、家族全員の幸福を祈念する。
土産の紙袋を両手一杯に下げた参拝者に混じって帰途に着く。