奥州街道てくてくある記

奥州街道てくてくある記 概要とお勧めコース    

 奥州街道は、宇都宮までは日光街道と同じなので、日本橋・宇都宮間は『日光街道てくてくある記』を見ていただきたい。今回は、宇都宮宿から白河宿までの約90Kmを、二泊三日で歩いた。
 地図を見ると分かるように、現在の奥州街道はそのほとんどが国道や県道となっている。昔の旧道は少なく、その点では歩くのにつまらないかもしれない。しかし、ごく一部を除いて歩道はしっかりとしており、地方の風景や風物に触れながらの徒歩の旅は、本来の旅の醍醐味である。奥州街道は二三の見所を除いては、地味な感じがするが、その素朴さがまた魅力でもある。他の五街道と違って、日本の中心部から離れて北の果てに向かっているということが、何とはなしに旅情を感じさせる。

 見所は少ないけれども、喜連川宿や、鍋掛宿から終着の白河宿までの間は面白い。江戸時代に制定された奥州街道からは外れるが、西行や芭蕉に興味のある人には、芦野宿の遊行柳から白河関跡まで歩き、白河の南湖に寄るコースなどは、ハイキングとしても楽しいと思う。あるいは、黒磯の鍋掛宿から白河の関跡まで歩くコースも、ハイキングとしてお勧めである

 

一日目 9月26日、金曜日 自宅から宇都宮まで  宇都宮泊 
宇都宮宿

 富士見から新宿に出て、湘南新宿ラインの快速で宇都宮へ行く。
ちょうど昼飯時なので、宇都宮の餃子を食べることにし、宇都宮駅にあるホテル・アールメッツにある「みんみん」で、水餃子を二人前と焼餃子を一人前を食べる。食事としては三人前が丁度だ。「みんみん」は、インターネットで調べると一番人気ということだが、味付けが濃く、これが一般人に人気の秘密のようだ。やはり市販の味と言おうか、三人前も食べると嫌になる。一度食べればもう充分である。日光街道を歩いた時に食べた「正嗣」の餃子も味が濃かった。醤油などなくていいくらい味がついている。
 
 今夜泊まるホテル・アーバングレイスは、奥州街道沿いにある。ホテルに荷物を置いて、すぐ近くの伝馬町にある追分跡に向かう。宇都宮は戊辰戦争と米軍の空襲による二度の焼失により、昔の町並みは消滅してしまった。辛うじて町名が残っているばかりである。追分も今は大通りになっている。
追分から木戸跡の表示のある枡形に入り、オリオン商店街を抜ける。オリオン商店街を抜けたところから、宇都宮城址公園に寄り道する。宇都宮城は戊辰戦争で焼失し、戦後の復興時にも区画整理されて、今は堀の一部と櫓の一部が再建されているにすぎない。
 
 宇都宮城址から奥州街道に戻り、中河原町の突き当たりで左に折れて、駅前からの大通りを横切って進むと田川に出る。この辺りは、昔は河原であった。田川の幸橋を渡ると、すぐ先の交差点の角に旧篠原家の重厚な建物が見えてくる。ここが奥州街道口で、奥州街道はここから真っ直ぐ白沢宿へと通じている。
旧篠原家は江戸時代から醤油醸造や肥料商を営む豪商で、現在の建物は明治28年に建てられた。戦災にあったが、母屋と石蔵3棟が残った。これらが国の重要文化財に指定されている。母屋は、外壁に黒漆喰と大谷石が使われ、太い木材をふんだんに使った贅沢な建物である。まだ数百年は持つと思われる。とりわけ45cm角の欅の大黒柱が目を引く。この大黒柱は、一階の帳場から二階を貫き、二階の座敷の床柱にもなっている。母屋に隣接して、新蔵、文書蔵、石蔵の三つの蔵が並んでいて、外壁は大谷石で覆われている。石の継ぎ目に白漆喰を塗りこみ、それが粋な装飾となっている。
 旧篠原家を出て、二荒山神社に詣でて、東武百貨店で食料を買い込み、ホテルに戻る。 

9月27日、土曜日、二日目 宇都宮宿から喜連川宿まで 28.2Km 喜連川泊  

 5時30分にホテルアーバングレイスを出発。早朝に、街角にたむろしていた若者グループに写真撮影を頼まれる。最初若い女性に頼んで断られ、それで私に頼んできた。一見外国人風の奇妙なグループだった。
 昨日見学した旧篠原家前から真っ直ぐに伸びている白沢街道を行く。これがかつての奥州街道である。白沢街道は、大型チェーンの飲食店などが並ぶ、地方都市郊外の変哲もない道路風景であるが、国道119号線を越えると道路幅が狭くなり、田舎らしい自然の風景が現れる。

 
 海道町のファミリーマートでカフェラテを飲む。トイレがきれいで感心する。店員の対応も気持ちがよく、こういうちょっとしたことで元気が出てくる。歩道も広く、よく整備されていて歩きやすい。この辺りから、俄然街道歩きの気分が乗ってくる。海道町は桜や銀杏や桧などの街路樹が植えられていて気持ちよい。
 白沢町に入ると緑が多くなる。白沢宿の入口に、「やげん坂」というのがある。坂の形が漢方薬を砕くのに使う「薬研」に似ていたからだという。日本橋から30里という標識がある。

白沢宿

 8時、白沢宿に着く。通りの両側にきれいな水の用水路が流れ、街路は整然と整備されている。用水路には所々に水車が回っている。当時の建物こそないが、宿場の面影をどことなく残して整備された、宿場の街づくりの模範例だと思う。
 徳川軍の上杉攻めの時、鬼怒川の川越の案内役を庄屋の福田家が仰せつかり、その功績が認められてこの地に白沢宿を設けることが許可された。白坂宿の名物は、鬼怒川の鮎と牛蒡汁であった。

 
 清流の川を渡ると白沢宿は終わる。しばらく行くと西鬼怒川に出る。この橋の袂に「鬼怒川の渡し跡」がある。一里塚跡を見ながら直進すると、鬼怒川にぶち当たり土手に沿った道となる。土手道を行くと、河原に下りる道があり、そこに「鬼怒川の渡し」の標識が半ば雑草に埋まり傾きかけて立っている。
鬼怒川の阿久津大橋を渡り、さくら市に入る。鬼怒川では釣り人たちが流れの中に入り鮎釣りをしている。街道筋では、「おとり鮎」を売る店の幟を見かけた。
阿久津大橋を渡り、少し先の信号を左折して125号線を進むと、将軍地蔵の小さな森がある。そうめん地蔵ともいい、坊さんが日光詣での帰りに素麺を無理やり食べさせられたのを、将軍地蔵が現れて救ったという昔話や、源義家が鬼怒川を渡るのを将軍地蔵が現れて助けたという言い伝えが残っている。

 
 ここから国道4号線を越える道が分からず、通りかかった地元の女性に道を尋ねたら、全くの嘘を教えられた。この将軍地蔵の森を「お伊勢の森」だと言い張り、この道を行けばよいと自信たっぷりに言うから、おかしいとは思ったが方角的には合っているので、言う通りにした。やはり全くの食わせ者で、街道とは違う道を歩かされてしまった。氏家宿に通じる181号線には出ることができたが、一筋違う道であった。

氏家宿

 10時20分、氏家宿に到着。伝馬町、本町、仲町、穀町、上町と続く。
仲町に「寛方・タゴール平和公園」がある。鄙びた田舎町に不似合いなくらいのモダンな建造物である。荒川寛方(1878~1945)はこの地に生まれた仏画で有名な日本画家である。アジャンタ壁画や法隆寺金堂壁画の模写でも知られる。インドの詩人でノーベル文学賞受賞者であるタゴールの知遇を得て、インドに渡り日本画を教えた。「荒井寛方氏へ 愛する友よ ある日 君は客人のように 私の部屋に来たった 今日 君は 別れのときに 私の心の内奥に来た ロビンドロナト・タゴール」という選別の詩が刻まれている。

 
 穀町の光明寺にある不動明王坐像を見て、上町の会津街道との追分を右折する。少し行ったところに、庄屋の村上家の門と、豪商の滝澤家住宅がある。村上家の門には、享保8年(1723年)の大洪水で水没した跡が残されている。水位1.8mのところにできた水跡がいまだに残っている。滝澤家住宅はあいにく閉館中であった。鐡竹堂、蔵座敷、長屋門が残っていて、明治天皇巡幸の安在所にもなった。

 
 氏家宿から喜連川宿までは293号線を、農家の庭先や大谷石の蔵や稲刈りの終わった田園風景などを見ながら進む。293号線を離れ旧道に入る所に、明治10年に東京・塩釜間の水準測量をした時の高低標(水準点)が残っている。そこに昔から建っていた石仏の台座を水準点として利用したもので、当時の測量で158.0866mであったと記録されている。下3桁と4桁は意味があるまい。
 

 293号線から離れ静かな旧道を進むと、早乙女坂にさしかかる。ここは那須氏・塩谷氏と宇都宮氏が戦った古戦場である。早乙女坂を上り、やがて下ると道標があり、右手の山の中へ入る旧道が残っている。奥州街道で唯一残された山道を行くと、山中に牧水と親交のあった当地の歌人高塩背山の歌碑と高塩家の墓がある。これを過ぎて野草の咲き乱れる山道を下り、道路に合流してそのまま道形に進めば喜連川宿の境の荒川に出る。しばらく荒川沿いに進み、連城橋を渡れば喜連川宿である。

喜連川宿

 1時25分、喜連川宿に到着。足利家代々の墓のある龍光寺に立ち寄る。喜連川氏は足利尊氏の後裔で、貴種であったことから秀吉や家康からも優遇された。喜連川を名乗るようになったのは、秀吉によりこの地を賜ったことによる。
観光案内所で地図をもらい、御用堀、連光院、寒竹囲いを見てまわる。御用堀は弘化元年(1844年)に9代藩主喜連川熙氏(ひろうじ)によって、防水と農業用水の水路として造られた。清水が流れ、錦鯉が放流され、風情のある風景を作り出している。連光院は小体な落ち着いた寺院である。寒竹囲いの家は数軒しか残されていないが、実に趣があってよい。京都の寺の生垣を髣髴させる。6代の喜連川茂氏が、板塀よりも経済的であるということで広めた。べっ甲垣とも言う。
喜連川宿は城下町でもあり宿場でもあり温泉町でもあるが、不思議なことに町並みからは何も感じられない。辛うじて城下町の品格は保たれているが、宿場の面影はなく、温泉町の猥雑さもない。今夜は、喜連川温泉のホテルニューさくらに泊まる。
 

9月28日、日曜日、三日目 喜連川宿から鍋掛宿まで 31.2Km 黒磯泊  

 7時30分、朝食のバイキングを腹いっぱい詰めこんで出発。朝食の質はなかなかよかった。
 内川を渡り114号線を行く。緩やかな上りが続き、途中から歩道がなくなり、やがて下りになる。車が絶えずやってきて煩い。下りきり、つまり喜連川宿から一山越えると、25号線に合流する。
 25号線には広い歩道があり歩きやすく、周囲には田園風景が広がり、旅の心を浮き立たせてくれる。立派な長屋門と生垣のある家がある。

 
 やがて下河戸で右の114号線に入り、大田原へと進む。道祖神などがあり、車も少なくなり、俄然のどかな道になる。こうやって歩くのが旅本来の姿だと思う。奥州路は特に旅を感じさせるものがあるように思う。静寂さと物寂しさのなかに、故郷に帰ったような落ち着きを感じる。北に向かっているということが、そのように感じさせるのかもしれない。「源氏ボタルの里入口」という案内板がある。なるほど、ここならホタルがいかにもいそうだ。
 

 9時25分、大田原市へ入る。下河戸で48号線に合流する。その手前に「与一の里銘木選 高久宅ツツジ群」と書かれた標識を目にする。樹齢200年だという。そこから30分ほど歩き、「きらり佐久山農産物直売所」で休憩する。屋根のあるベンチがあり、街道歩きでは実に得がたい休憩所である。ここで一息つく。
 ここは道路の分岐点で、街道は一番左の道を進む。あまりに日が強いので、サングラスに変える。佐久山城跡1.1Kmの標識や、佐久山温泉などある道を進み、交差点で佐久山前坂を直進すると佐久山宿に入る。

佐久山宿 

 10時20分、佐久山宿に到着。宿場の痕跡すらなく、見るべきものもないようだ。ただ、この地の出身者の大きな石碑だけが目立つ。書道家の豊道春海生誕の地の碑と、日本最初のフランス語学者村上英俊生誕の地の碑である。大きな碑がいかにも田舎らしく、ちょっと侘しさを感じさせる。
 佐久山宿はすぐに終る。宿境の坂を下り、立派な浄土真宗の正浄寺を左に見て箒川を渡る。所々で清水の小川が流れていて、その風情が昔を思い出させてくれる。この辺りの川の水はどこも驚くほど澄み切っている。清流にしか棲めないイトヨという魚の生息地だそうだ。
 

 「那須与一の郷」右11Kmの標識がある親園交差点を過ぎて、親園集落(八木沢村)に入る。親園集落は経済的に豊かなのであろう。立派な門構えの家が多く、生垣や植え込みもよく手入れが行き届いている。今までの街道筋の中で最も生活の豊かさを感じさせる町である。「蒲蘆(ほろ)の碑」というのがある。蒲蘆とは蜃気楼のことで、文化9年(1812年)に、兵士の蜃気楼が現れたという伝説による。「町初碑」というものもあり、「此町初寛永四卯年」と刻されている。ここは江戸時代から豊かな農村であったに違いない。

 
 百村川(もむらかわ)を渡る、この川も水がきれいだ。川には鴨が多い。「浅香三丁目」の交差点のところに、セブンイレブンとコインランドリーがあり、ベンチが置かれている。ここで牛乳を買い、家から持ってきたゴマ煎餅とりんごをかじり軽い昼食とする。朝食をたっぷり摂ったので、合計すれば必要カロリーは足りていると思う。

 鹿島川という細い清流を渡ると、大田原宿に入る。入口に忍精寺の鬱蒼とした木立が見える。薬師通りを進む。

大田原宿

 12時45分、大田原宿に着く。何もない殺風景な町並みで、殺伐とした感じがして、衰亡しつつある地方の町という印象を受ける。宿場の中央付近に「金燈篭」という大きな燈篭が残っている。大田原宿の唯一の見ものかもしれない。桝形の旧道を進み、大久保木戸跡の石碑があり、宿場が終わる。
 

 蛇尾川(さびがわ)を渡る。水のきれいな広い川である。すぐに中田原工業団地が開け、富士電機の工場の横を行く。まだ暑い秋の日差しを背中に浴びて、72号線をひたすら北上する。北に向かっているので、陽射しをまともに受けないのがせめてもの幸いである。途中に、樹齢約400年「小滝の高野槙」の大木がある。その横には金木犀の大木もあり、甘い香りを街道にまで放っている。奥州街道沿いの家にはよく金木犀が植えられている。丁度花の咲く時期で、街道を歩いていると至る所で金木犀の香りが漂ってくる。

 
3時、那須塩原市に入る。今日の目的地の鍋掛宿までの72号線の道は長く感じる。周囲の風景にも少し飽きてくる。途中に、「右1.6Km白鳥の羽田沼」の表示や、「伝説の大うなぎ樋沢の大沼」の表示などがある。漸く鍋掛の一里塚を過ぎ、愛宕神社(鍋掛神社)を通り、3時半ころ黒磯に通じる34号線との交差点にたどり着いた。今日の行程は31.3Kmとそれ程でもないが、晴天で27度と9月末としては暑い日だったのできつかった。
 今日の宿泊地は黒磯で、まだ4Kmほど歩かなければならない。幸いにも、日に二往復しかない「ゆ~バス」というのが走っていて、途中からバスに乗ることができた。

9月29日、月曜日、四日目 鍋掛宿から白河宿まで 31Km 白河泊  

 4時半にホテルトップスを出る。まだ暗い。暁闇にどこからか金木犀の香りが漂ってくる。34号線を約4Km歩いて、昨日の72号線との交差点に出る。ここにあるファミリーマートでカフェラテを飲み、一服する。

鍋掛宿

 5時50分、歩き始めると漸く日が昇り始める。すぐに鍋掛宿になる。鍋掛宿はよく整った町並みを形成している。頭を丸くした縦長の石を歩道と車道の間に埋め込んでいる。これが町並みを引き立てている。宿場の中ほどに芭蕉の句碑が建てられている。
 野を横に馬牽むけよほとゝぎす
この句は『奥の細道』で、鍋掛から那須の殺生石に行く途中の那須野で読んだ句である。宿場にある寺からは朝の勤行の太鼓の音が聞こえてくる。

 
 鍋掛宿を出るとすぐ那珂川に架かる昭明橋を渡る。那珂川は渓谷のように切り立っており、ここを渡渉するのは大変だっただろうと想像する。橋の上から眺める那珂川の風景はは大変美しい。

越堀宿

 那珂川を渡れば越堀宿である。つまり、那珂川の両端に、鍋掛宿と越堀宿とがある。川越の宿だったのだろう。越堀宿は、ありきたりの田舎の集落で、此れといったものは何もない。宿の出口に「桝形の地」と書かれた石碑があるくらいである。「征馬之碑」と「殉教軍馬之碑」と刻まれた大きな石碑が目につく。
 堀越宿を出ると、街道は坂道となり林を抜けて行く。車の往来は少なく、静かな曲がりくねった道路が、集落や田んぼの中に続いている。道路は次第に山の中に入っていく。近くの集落からは、朝のラジオ体操の音楽が聞こえてくる。山中の道はやがて富士見峠に達する。樹木が生い茂っているので見晴らしは利かない。鍋掛宿からの道は静かな山間の道で、ハイキングにも適している。

 
 富士見峠を越えると、寺子の一里塚がある。日本橋から四十二番目の一里塚で、飯をこんもりと盛ったような塚の上に、貧相な木が植えてある。一里塚周辺は公園として整備されていて、東屋風の休憩所が建てられている。ここで一休みする。
 すぐに余笹川を渡る。橋の袂には「余笹川見晴らし公園」があり、平成11年9月14日に両陛下がこの地に行幸されたときの記念碑が建てられている。
 山村の道が続く。時々通る車を除けば、長閑な山村風景が続く。ここに来て初めてハイキング気分に浸れる。芦野温泉2Kmの標識がある。一坂上ると那須町の標識がある。静かなちんまりとした山村の黒川集落を抜けて黒川を渡る。   

 
 上り坂になり、坂の途中に「夫婦石」という大きな石が路傍にある。石のすぐ後ろには家が建ち、今は空き家で廃屋になろうとしている。私有地だから仕方がないのだろうけれど、街道筋の石碑などの周りには、建物が無神経に建てられているのをしばしば見かける。しかも決まってその建物は貧弱で見苦しい。住民の意識の低さもあろうが、生活を優先しなければならない現実がそれを強いるのだろう。
 上り坂が続き、右手の林に「瑞穂農場芦野分場」と書かれた大きな木製の案内板が見える。坂を上りきったところに、「夫婦石の一里塚」の塚だけが残っている。この坂を下ると平地が開けてきて、芦野宿が見えてくる。
 

 田んぼの中の街道を進むと、294号線の柳の街路樹が遠望される。右手の穏やかな山の端には、二つの岩壁が周囲の風景に不似合いな様子で突き出している。鏡山というこの山は、突き出た岩壁が鏡餅に似ているからだという。294号線を越え、奈良川を渡れば、芦野宿の入口の角に出る。

芦野宿 

 8時40分、芦野宿に着く。桝形を経て仲町通りを進む。これまでの大方の宿場がそうであったように、芦野宿も殺風景で風情はないが、静かで落ち着いた雰囲気がある。ただこの宿場の特筆すべき特徴は、各戸の門口に、実に豪勢な屋号を刻んだ石造りの標柱が建てられていることだ。上に行くほど細くした四段の石積みで、最上段は家の形をしていて、そこに屋号が刻まれている。この石は芦野石といって、この地で産する。なるほどここは石の文化が根付いているのだ。これこそ文化というものだ。

 
 宿場の中ほどの本陣跡には、この田舎町には不似合いなくらいモダンな石造りの石の美術館「ストーンプラザ」がある。地元産の芦野石を使った美術館で、そこだけが都市のような空間になっている。時間がないので見学は割愛して素通りした。

 
 宿を外れ、奈良川の細い流れを再び渡ると294号線に合流する。正面には遊行庵と直売所と無料休憩所があって、その先の田んぼの中に、遊行柳の木立が見える。
 遊行柳は、『奥の細道』に「清水流るるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る」とあるそのままに存在している。西行法師の歌碑、芭蕉の句碑、蕪村の句碑などが建てられている。
 道の辺に清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ (西行)
 田一枚植て立去る柳かな (芭蕉) 
 柳散清水涸石処々 (蕪村)
柳の木陰で暫く休憩し、西行や芭蕉に思いを馳せた。秋とはいえ、強い日差しに木陰は気持ちよい。時間がまだ早いのか、二人の観光客が来ただけで、彼らもすぐに立ち去ってしまった。
 

 先を急がなければならない。柳を見返りながら白河に向かう。白河宿まではひたすら294号線を辿ることになる。
 集落があれば、そこに入る道が旧道である。最初の集落の出口付近の木立の中に「べこ石の碑」というのがある。芦野宿の問屋であった戸村右内忠恕(ただひろ)が嘉永10年(1848年)に撰文し建立したもので、庶民の生活の教えなどが約3500文字刻まれている。惜しむらくは、この「べこ石の碑」に接して倉庫が建てられていることである。

 
 294号線を行くと右方向へ分岐する道があり、「白河関」の標識がある。この標識に従って奈良川を渡り板屋集落に入る。本当に田舎らしい集落を過ぎる辺りの坂の入口に、「諭農の碑」が建っている。これも戸村右内忠恕の建てたもので、忠恕の農民への生活の教えが刻まれている。この碑に接して、農家の物置が建てられている。どうも「諭農の碑」の教えを忘れているようだ。「諭農の碑」の向かいには、板屋の一里塚跡がある。
 

 板屋からは高瀬、脇沢と、暫くの間車から開放された静かな街道歩きを楽しめる。木陰も多い。脇沢を過ぎて294号線に合流すると、路傍に素朴な脇沢の石地蔵が立っている。
 294号線を進む。右に三ヶ村公民館、白井石材の大灯籠、左の山腹に寺のような建物、アイランドリゾート那須の看板などを過ぎて、「白河関」の道標に従い左方向の寄居集落へ入る。大島家の表札が掛かった屋敷がある。このような田舎には不釣合いな規模の塀で囲まれている。もう人が住んでいない気配がする。
 再び294号線に戻ると、泉田の一里塚跡が公園のような一角になっている。この一里塚は塚だけが残り、樹は植えられていない。11時45分、とにかく昼食のための座る所と木陰を見つけ、仕方なくここで昨夜買ったぶどうパンとチーズをかじる。
 

 ここを出てすぐに、寄居大久保の道標に従い旧道へ入る。右手には平沢石材工業の砕石所跡が見える。道のすぐ右脇には、大谷石を砕石した跡が残っている。大谷石で作った小さな家の形をした祠のようなものを農家の門口で見かけた。道の辺には石仏が立ち、「初花清水」という清水の跡が道端にある。
 人形浄瑠璃の『箱根霊験躄仇討』に出てくる初花が飲んだとされる清水である。初花は足の不自由な勝五郎の妻で、勝五郎が兄の敵を討つのを助けて、箱根で仇討ちを遂げさせるという実話に即した物語である。この辺りには「いざり勝五郎 車にのせて 引くよ初花 箱根山」という田植え歌が残っている。
 

 「初花清水」を過ぎて294号線に合流する。暫く行ったところで明治天皇休憩所の案内に従い、右手の旧道に入る。山中集落の入口に立派な土蔵が建っていて、その中に明治天皇の安在所として使われた座敷が保存されている。この集落では、朽ちかけたこの辺では珍しい洋風の建物を見つけた。
 

 集落を出ると、白坂宿まで294号線を歩くが、山間の道で歩道も広く歩きやすい。左手の岩の上に「明神の地蔵様」を見ながら坂を上る。この坂を上りきったところが下野国と陸奥国の境で、ここから福島県になる。この国境の両側に、それぞれ「境の明神」が建っている。下野側が玉津島神社、陸奥側が住吉神社である。国境には白河二所関があったが、関所の跡を印す碑が右手の林の中に建てられている。

 
 ここから道は下りになり、少し行った左手に、「衣がえの清水」がある。弘法大師が身を清め衣替えをしたという清水で、今は草に覆われて見る影もない。
福島県に入ると、「除染」の表示を目にするようになる。改めて、原子力発電所の事故を思う。離れたところに棲んでいると感じにくいが、除染の現場を目の当たりにすると、原子力災害の深刻さを思い知る。除染で出た土を処分しているらしい現場も目にした。

白坂宿

 13時20分、白坂宿に着く。戊辰戦争で戦死した大垣藩士の碑などがある。白坂宿は何もない。何も残っていない。ただの町といったところだ。 
 白坂宿を過ぎ、山間の曲がりくねった道路をひたすら進む。昔からの古い「馬頭観世音」碑の横に、新しく「牛頭観世音」碑が建てられている。牛馬を供養するためであろう。両方に菊の花が飾られていた。竹林の中にもお地蔵さんが祀られていて、これにも花が添えられていた。信仰心を感じる土地柄だ。
 

 曲がりくねった山間の道が続く。ようやく皮籠集落のある里に出る。左手に、「金売吉次兄弟の墓」と伝えられる墓の案内板が出ているが、街道から少し離れているようなので素通りする。牛若丸を平泉に案内した吉次である。この辺りで盗賊に襲われ殺害されたのを農民が葬ったと言い伝えられている。
 鍋掛宿を出て8時間歩き、初めてコンビニ(セブンイレブン)に出会う。あんぱんと牛乳を買い、少し先の何かの碑が建っている木陰を見つけてエネルギー補給をする。
 相変わらず山間の道が続く。ようやく、新白河駅と南湖に通じる289号線との交差点に差し掛かる。正面に稲荷山の小高い森が見える。左手には白河モールのベイシアの巨大な駐車場が広がっている。

 
 稲荷山の麓で、街道は右に大きく迂回する。ここが白河口で、戊辰戦争のあったところである。会津、仙台、棚倉と薩摩、長州、大垣の間で大激戦があり、東北勢が敗退した。「戦死墓」と大書された文字が大きな石碑に刻まれている。ここには官軍側の戦死者の墓が建てられている。

 稲荷山の裾を迂回して、白河宿の入口である新町に入る。新町は九番町から一番町へと進むが、四、五、六と八番がない。ここは「鉄砲町」ともいわれ、鉄砲鍛冶などが住んでいて、城下の防衛の役割もあった。新町では昭和初期以前に建てられたと思しい大きな家を目にする。街道は右に直角に曲がり天神町となり、白河宿へと入る。角には「月よみの庭」という石の庭が作られている。

白河宿

 3時20分、白河宿に着く。中町を進む。寂れてはいないが、繁華な街というのでもない。地方の雑駁な小都市である。新白河ができて、町の中心はそちらに移ってしまった。白河駅の手前を右に入ったところに、大正4年に建てられた白河へリストス正教会の瀟洒な建物が残されている。
 枡形を経て本町に入る。左手に、脇本陣柳屋跡があり、格子戸の奥には蔵屋敷が残されている。柳屋の横が「勧工場」で、建物の一部が残っており、今は「加藤せともの店」になっている。「勧工場」は明治時代に造られたもので、現在の百貨店である。当時はたいそうハイカラであったろう。「勧工場」の向かいには本陣芳賀家の跡がある。本町を進むと、左手に荻原朔太郎の妻美津子の生家がある。兄の大谷忠一朗も詩人であった。

 
 白河宿を抜け、阿武隈川を渡り、女石追分まで足を伸ばす。4時、鍋掛宿を出て10時間、かなり疲れたが、これで奥州街道を歩き終えたことになる。
 帰りは小峰城に立ち寄る。城と石垣は、先の東日本大震災で崩壊し、現在修復中である。石垣の規模からして、勇壮な名城であっただろうと想像する。城の広場を横切って、37号線に出て、今夜の宿泊地である新白河駅前のホテルサンルートへ向かう。

 9月30日、月曜日、五日目 白河の南湖公園、白河関跡   

 ホテルサンルートから昨日歩いた奥州街道の新町を通り、七番町の先で南湖へ
の道に入る。天気予報は完全に外れあいにくの雨であるが、傘を差すかどうかの小雨である。車は通るが静かな住宅街を進むと、南湖の西端に出る。

南湖

 先ず、翠楽苑に向かって時計回りに進むことにする。一周は約2Kmある。雨で煙っているが、それがかえって深みと奥行きを与え、南湖の風景をより印象的にしてくれる。人もほとんど見かけない。灰色の湖面に対岸の山が映り、手前には睡蓮の葉が広がっている。なんとも美しい絵のような風景である。

 
 南湖は、白河藩主の松平定信が、享和元年(1801年)に、湿地帯であった大沼に堤を築いて造園した。庶民にも開放し、身分の差がなく楽しめるようにした。実に開明的な名君であった。定信は、将軍吉宗の孫に当たり、英明であったことから、一時は次期将軍の話があった。南湖は、今風に言えば、英国式風景庭園ということになろう。イングリッシュガーデン流行りであるが、日本にも英国に優るとも劣らない庭園文化があったことを銘記すべきだ。

翠楽苑

 1Kmほど歩くと、翠楽苑に着く。1995年に造営された、まだ新しい本格的な純日本庭園である。いわゆる伝統的な池泉回遊式庭園で、水の流れ、滝、石組み、植え込み、のどれをとっても見事に作られており、京都の名園にも匹敵しそうな出来栄えである。時とともに、深みを増してさらによい物になっていくであろう。松楽亭や秋水庵の茶室もあり、抹茶の接待を受けることができる。
 翠楽苑を出て、南湖神社を見て、南湖に戻る。定信は17の景勝地を選び、その場所には名称と和歌が刻まれた碑が建てられている。場所ごとに対面の風景が変わり、それが湖面に映って夫々が特徴ある違った絵のように感じられる。いつまでも飽きの来ない美しい風景である。

白河関

 南湖の東端を出て、232号線のバス停「南湖東口」から、日に二往復しかない10時50分着のバスに乗り白河関跡へ向かう。雨のせいか乗客は私一人である。
 白河関でバスを降りると、白河関跡は目の前にある。白河神社の一対の狛犬が据えられた入口を入ると、すぐ右手に「古関蹟」の石碑が目に入る。寛政12年(1800年)に、南湖を造営した松平定信によって建てられた。それまで白河関がどこに在ったのか分からなくなっていたのを、現在の場所であることを特定したのは定信の考証によるものであった。定信の功績は偉大であったと言うしかない。

 
 白河関はこんもりとした山で、白河神社の境内になっている。遊歩道に従って右方向に進むと、樹齢800年の従二位の杉の巨木が聳えている。従二位藤原家隆が植えたとされる杉である。
 坂を上ると途中に、芭蕉の『奥の細道』から白河関の部分の抜粋が刻まれた石碑が建っている。
 「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。
 卯の花をかざしに関の晴着かな  曾良」


 坂を上りきると白河神社の本殿がある。お世辞にも立派とは言えないうらぶれた姿をしている。本殿の左手前に、白河関にまつわる有名な三つの和歌が刻まれた歌碑が建っている。
 便りあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越へぬと(平兼盛) 
 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白河の関(能因法師) 
 秋風に草木の露をはらわせて君が越ゆれば関守もなし(梶原影季)
 

 神社の右方向には、空堀の跡や土塁の跡が発掘されており、関の守りを固めていたことが分かる。
 鬱蒼と茂った木々の道を辿って神社の裏手を行くと、新しく開発された「関の森公園」に出る。村興しとして建設した感じのするこの公園には、古い民家が移築され、花木が植えられている。なんとなく雑な感じのする園庭である。みやげ物店や休憩所があるが、建物は立派であるが中身が追いついていないようだ。せめて「道の駅」くらいの内容にしないと、やっていけないだろう。観光客を見縊ってはいけない。
 

 12時15分、関の森公園発のバスで帰る。白川本町で降り、大原庄助さんの墓を見て、大黒屋で名物の「だるま最中」を土産に買い、白川駅に向かう。
白川駅は大正9年に建設された実に瀟洒な建物である。かつては賑わったこの駅も、東北新幹線が開通して新白河駅ができたために、今は無人駅である。白川駅から黒磯行きの電車に乗り、今回の旅を終える。