2009年1月29日 下諏訪から富士見
下諏訪宿
朝7時出発。遠く奥秩父の山から日が昇る。八ヶ岳が朝日に美しい。下諏訪までの切符を買い、7時20分富士見始発松本行きの電車に乗り込む。もう一年近く電車に乗ってないので、遠い旅に出かけるような高揚した気分だ。甲州街道を下諏訪から東京まで歩く第一日目であるから、そう感じるのも自然だろう。茅野を過ぎると学生で車内は一杯になる。下諏訪で下りて、急ぎ足で中仙道と甲州街道の合流点を目指す。
諏訪大社の下社で家族の幸運と旅の無事を祈願し、いよいよ甲州街道に踏み出す。 気分は爽快である。眼下に薄く氷結した諏訪湖を眺めながら、遠くには北アルプスの白い山々を望む。下諏訪から上諏訪にかけては、家並の間から諏訪湖がよく見える。
諏訪の海の氷の上の通ひ路は神の渡りて解くるなりけり(堀川百首)
春をまつ諏訪の渡りもある物をいつを限りにすべきつらヽぞ(西行、山家集)
最近は、温暖化か、春を待つ御神渡りどころか、小規模な御神渡りを見ることすら稀になってきた。
御神渡り知らぬ子どもの世となりて地球の自然いかになり行く
諏訪湖の水質は、流域の下水道が完備され、数十年前に比べると見違えるほどきれいになってきた。この20年間で、有機物による汚濁状況(化学的酸素要求量)は約30%改善し、リン濃度は約1/3に低減した。しかし、諏訪湖の持つ本来の美しさが、周囲の無秩序ともいえる開発とともに損なわれてしまったのは残念である。諏訪湖を見ていると、近代化が進む以前の諏訪湖の姿に思いを馳せたくなる。
諏訪湖周辺から八ヶ岳山麓一帯には、縄文遺跡が広範囲に分布している。縄文人は、美しい森と湖と、それを囲み聳える山々からなるこの自然をどのように見ていただろうか。彼らは自然は精霊に満たされ、美とともに神秘的で恐ろしいものを感じたに違いない。そこから自然への信仰が生まれていった。
諏訪大社の成り立ち
諏訪大社の成り立ちは謎に満ちている。古代からの歴史が重層的に絡み合い、時代ととに変化しながら諏訪の信仰が続いてきた。それゆえに、専門家の間でも様々な謎解きが今も続いている。
諏訪大社は上社の本宮と前宮、下社の秋宮と春宮の四社からなる。上社本宮の祭神は建御名方神(たてみなかたのかみ)、前宮と下社の祭神は八坂刀売神(やさかとめのかみ)である。
建御名方神は鉄や治水の進んだ技術をもつ出雲族の族長で、諏訪の土着部族の族長である洩矢神を征服しようとした。この戦いは諏訪湖を出た天竜川の両岸に対峙して行われ、陣の跡が藤島神社と洩矢神社として奉られている。
『諏訪大明神画詞』によれば、このとき洩矢神は鉄の輪で、建御名方神は藤の枝で力比べをしたが、藤の枝が勝った。それで洩矢神は建御名方神に国を譲ったとある。 建御名方神の死後、神として祀られるようになり、上社本宮が作らたのであろう。建御名方神の子孫たちは神原(前宮)に住み、大祝(おおほうり)として本宮に仕えた。
『諏訪大明神画詞』によれば、建御名方神は衣を脱いで八歳の童男に着せて大祝と呼び、「我において身体なし、祝をもって身体とす」と神勅があったとある。これ以来大祝は現人神となり、大祝を務める建御名方神の血筋を神氏といい、中世以降には諏訪氏を称するようになった。やがて時代とともに諏訪氏が大祝と政治的・軍事的権力を握るようになり、諏 訪の支配者となった。諏訪大社上社の成り立ちは、大雑把に言うとこのようになるようだ。
一方の洩矢神は神長官となって、祭祀の実権を握った。神長官は洩矢神を祖先とする守矢氏が世襲した。洩矢神の一族は御左口神(ミサクジ)という精霊が守屋山にいると信じ、ミサグジの崇りを畏れた。このミサグジという精霊を山からおろしたり物に付けたりできるのは、洩矢神だけであった。
古代社会において、洩矢神はその呪術の力により、部族を支配していたのであろう。ミサクジを祀るミサクジ総社が、守屋山の麓にある神長官の屋敷の奥に今もある。主要な神事の多くは前宮の神原で行われるが、ミサグジはこの神事においても欠かせないものである。
守矢氏が祭祀を司るのであるから、上社の神事にミサグジを尊ぶ自然信仰の姿がそのまま残ったとしても不思議ではない。冬眠の蛙を生贄に捧げる蛙狩に神事とか、鹿の頭を捧げる御頭祭(おとうさい)はその一例であろう。
洩矢神と建御名方神の戦いに鉄の輪が出てくる。ミサグジの神器は左奈伎(さなぎ)の鈴という鉄鐸と鉄鈴と陰陽石である。建御名方神の藤の蔓は、出雲族の進んだ鉄の武器を象徴したものではなかろうか。古代社会における鉄は、今日では想像もできないほど神聖で貴重なものであったに違いない。
下社については、その成立過程がはっきりしないようだ。祭神の八坂刀売神の出生は不明である。金刺(かなさし)氏が下社の大祝を勤めた。金刺氏は信濃国造(くにのみやつこ)となり、現在の上田市下之郷にある生島足島神社付近をその拠点としていた。しだいに信濃にその勢力を伸ばしていくが、いつごろから入諏して湖北の地を支配するようになり、下社の大祝となったのかは定かでない。
『古事記』の「国譲り神話」に、力比べに負けて諏訪の地に逃げ込んだ神として建御名方神が突然に登場するが、これは大和朝廷を権威付けるためとも言われている。
それにしても、出雲のどちらかと言えばマイナーな神がどうして日本一の軍神として崇められるようになったのか、不思議でならなかった。『神長官守矢文書』に出てくる次の言葉を知って、その謎が解けた。 神は人の敬に依りて威を増し、人は神の徳に依りて運を添う 神はその神威を人に敬われることによって増すというのである。
神が始から神威を持っているのではい。また、神の徳にすがって運を増す人が出てこなければ、神の威信は高まらないのである。神と人との正の相互作用が、神社の格を高めるというのである。
諏訪大明神が戦神として名を馳せるようになるのは、平安時代からである。801年、坂上田村麻呂の蝦夷遠征で霊験があったとして、桓武天皇から諏訪神社に田畠山野各千町、稲八万四千束を毎年の神事の費用に当てるようにと宣旨が下されたとある。これは実際にかつての諏訪大社の寺領に相当するという。940年の将門の乱では、その功績により正一位に昇進した。このように次第に戦神としての神威を現していった。頼朝からも厚い信仰を得るようになり、鎌倉時代以降武神としてその地位は揺るがぬものとなった。その背後には、大和朝廷と結び付いた政治的なものがあったにせよ、大明神の神徳がなければそうはならなかったであろう。
上社と下社の関係も謎めいている。上社は神の山である守屋山の麓にあり、下社は砥川沿いにあり、砥川の支流の観音沢は霧ヶ峰の八島湿原に源を発する。上社と下社を結ぶ直線上に御神渡りが出現する。上社の祭神は男神であり、下社の祭神はその妃神である。そこからは、御神渡りで男神が妃神を訪れるというロマンチックな神話が生まれた。上社も下社も本殿はなく、上社は山を、下社は木を御神体としている。
下諏訪から岡谷にかけての諏訪湖北岸は、盆地が広がり川が流れ、稲作に適する地域である。下社は田の神の性格が強く、下社の奥宮である旧御射山社(もとみさやましゃ)は霧ヶ峰の八島湿原の一角に鎮座している。幻想的な八島湿原には水霊の神がいると信じられたのだろう。春になると霧ヶ峰から神が里に下りて稲作を見守り、冬になると山に帰ると信じた。これを具象的に表現したのが、春に秋宮から春宮に、秋に春宮から秋宮に神がお移りになる遷座祭である。下社の神は田の神であり、また水をもたらす山の神でもある。
このように上社と下社はその性格が異なっている。上社は男神で下社は女神。上社の大祝は現人神で下社の大祝は神官である。上社は原始的、神秘的、野性的で時として龍神でもあるのに対して、下社はどこか穏やかで優しさがある。上社は狩猟的で、下社は農耕的である。上社は山の神、下社は水や湖の神の性格が濃い。このように対照的な性格の二社が一つになって諏訪大社を構成している。そして、6年毎の御柱祭が諏訪大社に永続する生命を吹き込む。諏訪大社はこうだと一口では言えない、不思議で神秘的な神社である。
伝説によれば、縄文から弥生時代にかけて、この地を洩矢の神が支配していた。洩矢の神の氏神はミシャグチ神で、大きな岩や木に宿ると考えていた。その他にも足長の神や手長の神、高光姫命というような土着の神々が存在していた。
そこに鉄の進んだ技術をもつ出雲族の建御名方神が越の国から進入してきて支配するようになる。建御名方神は大国主神と越の国の女王沼名河比売(ぬなかわひめ)の子どもである。出雲族は先住民族とうまく融和し、自らは現人神(「大祝(おおほうり)」となり、洩矢一族には祭祀と行政をゆだね、強固な王国を築き上げた。 上社のある所は、洩矢一族の産土神のいます山である守屋山の麓でにあり、御渡りの起点にもあたる。諏訪湖は水の神が宿るところと信じられ、御神渡りは竜神の仕業であると信じられていた。 この時に諏訪大社の上社の原形が出来上がったと考えられる。上社の祭神は建御名方神で、磐座(いわくら)を本殿とし、神事には土着の自然信仰が色濃く残っているのはこの成立過程によるものであろう。
諏訪社が全国に広まり、中世には軍神として崇められた神としては、なにか力強さに欠け腑に落ちなかったが、諏訪王国が容易には大和朝廷に帰属しなかったことを、このような神話に仕立てたのであろう。桓武天皇の皇子有員(ありかず)親王が大祝になったという記録から、平安時代になってようやく大和朝廷の支配下に入った。この大祝の血筋を神氏といい、中世以降には諏訪氏と称するようになった。一方の洩矢氏のほうは祭祀を司る神長官職を世襲し、守屋氏として現在に続いている。
下社は砥川沿いにあり、砥川の支流の観音沢は旧御射山社のある八島湿原に通じる。また御神渡りの終点にも当たる。下社も上社と同じように、諏訪湖北岸を支配する一族の産土神から出発したのであろうか。それとも、金刺氏によって造られたのであろうか。ともかく、上社が男神であることから、下社の祭神はその妃神とし、御神渡りで男神が妃神を訪れるというロマンチックな神話を生んだ。
今の下諏訪から岡谷にかけての諏訪湖北岸は、盆地が広がり川が流れ、稲作に適する地域である。下社は田の神の性格が強く、下社の奥宮である旧御射山社は砥川の上流に当たる霧ヶ峰の八島湿原の一角に鎮座している。今でも幻想的な八島湿原には、水霊の神がいると信じられていた。下社には春宮と秋宮があるが、春になると秋宮から春宮に、秋になると春宮から秋宮に神がお移りになる遷座祭がおこなわれるが、この神事は春になると霧ヶ峰から神が里に下りて稲作を見守り、冬になると山に帰ることを意味している。下社の神は田の神であり、また水をもたらす山の神でもあった。
このように、神話の世界にまで遡り、複雑な成立過程を経てきた諏訪大社の成り立ちを想像してみると、どうも「建御名方命」は表向きの神で、本質は縄文時代以前に遡る、山の神あるいは水の神ではないかという気がしてならない。諏訪大社のお祭りには、信仰の原点に立ち返る素朴さと古代社会への回帰が感じられる。
諏訪家の本流である諏訪頼重は武田信玄に討たれ、頼重の孫であり信玄の子である武田勝頼は信長に滅ぼされ武田と諏訪はここに絶えた。しかし、頼重の従弟の諏訪頼忠は家康の信任を得て高島城主となり、諏訪三万石は明治維新までその地位を全うする。嫡流は絶えたといえども、諏訪家は残った。これも諏訪大明神の霊験であろうか。
街道歩きに戻る
下諏訪から上諏訪までの旧街道は、歴史の時間経過を感じさせる家並みが続く気持ちの良い道である。途中、街道筋にある浄土宗寿量院と、諏訪の歌人島木赤彦の家に立ち寄る。赤彦の家は早朝なのでまだ閉まっていた。
上諏訪に入ると、街道沿いに鎮守の森に囲まれた先宮神社がある。鳥居の右側の石碑に先宮神社と彫られている。大きくはないが由緒ある佇まいの神社である。高光姫命(たかてるひめのみこと)、別名を稲脊脛命(いなせはぎのみこと)を祀る。この神社にも「国譲り」の神話が伝えられており、この地の先住民の神が建御名方神の侵攻に抵抗したが敗れ、国を譲り、この地から出ないことを約して許されたという。今でも、神社の入口の小川には橋が架けられていない。
出雲族が諏訪に入ってきた時に、これと戦った先住民がいた。その先住民の神が、先宮神社の原形なのである。下諏訪の高木から上諏訪の大和にかけての一帯は、山が引っ込み、諏訪湖に向かって南西に緩やかな傾斜地が広がっている。諏訪で好きな所に住めるとしたら、この辺を選ぶであろう。そういう場所である。この辺りには縄文遺跡がいくつか出土しているように、古くから集落ができていた。洩矢神とは別の神がこの地を支配していたことは間違いない。
先宮神社を少し行った先に、兒玉石神社がある。小さな神社であるが、「諏訪の七石」の一つに数えられる大きな石が、拝殿を半ば隠して座っている。大石は全部で五つある。この神社も先宮神社と同じように、この地の先住民の信仰から始まったと言われている。この大石が磐座だったのだろう。今は建御名方神の子孫を祀っている。
街道筋には立派な寺が幾つもあることを始めて知る。堂々とした寺が兒玉石神社のすぐ上に見えるので立ち寄った。温泉寺という訝しげな名前であるが、れっきとした由緒ある寺で、高島藩の菩提寺として二代藩主諏訪忠恒によって寛永17年(1640年)に建立された。高島城は明治になって解体されたが、寺が明治3年に焼けた時、門と能舞台が移築された。これが寺に風格を添えている。寺からの諏訪湖の眺めは素晴らしくよい。湖水の背後の山の合間から、雪を被った穂高連峰も望まれる。寺の奥に歴代藩主の墓所がある。墓所の下方の桧の大木の下に和泉式部の墓というのがあるが、これは本当だろうか。丸い石の上に、苔むした三角帽子のような石が乗っかった墓で、風流な趣味の良い形をしている。丸石に刻まれた墓記銘を判読できないが、由緒ある人の墓であることは明瞭である。
温泉寺の参道を下り指月庵の前を通る。高島藩の別邸だったところで、江戸時代中期の日本庭園が有名である。今日は休日で閉まっている。いつか見に来ないといけない。
旧道を進むと、宅地化による崖崩れを防ぐための巨大なコンクリート壁が現れる。五十二里塚跡の碑があり、その先の諏訪郵便局の隣に、石造りの大鳥居がある。手長神社という面白い名前の神社の入口である。長い石段を登っていくと、上諏訪中学校の横に手長神社がある。拝殿の左に廊が伸び、右にもう一つの社殿を構えた立派な神社である。拝殿の立川流の彫刻も見事である。今も地元の人たちに厚く崇拝されている様子がはっきりと感じられる。
手長の神は足長の神の妻神で、もともとは夫婦神として一体で祭られていた。鎌倉時代に桑原郷が上桑原と下桑原に分割されたときに、手長神社としてこの下桑原に移された。足長神社のほうは元の場所に残っている。手長神社の祭神は手摩乳神(てなずちのかみ)、足長神社の祭神は足摩乳神(あしなずちのかみ)で、建御名方神の祖先である出雲の神であるが、建御名方神が諏訪に進入する以前は、先住民の土地神として祀られていたと考えられている。もとの地である上桑原周辺には、縄文遺跡が点在しているから、先住民族の神が存在したことは確実であろう。
旧道の手長神社の鳥居の横に、温泉が湧き出ている大きな手水鉢がある。このあたりは温泉が湧き出るので「うばがふところ」と呼ばれていた。また、古墳時代から平安時代にかけては、諏訪湖の水位が今より高く、この辺りまで広がっていた。「網掛け石」という漁師が網を繋いだという石がここにあったが、今の諏訪湖の岸辺に移された。
足長の神が手長の神を背負って、諏訪湖で貝や魚を獲っていたという伝説が伝えられているが、諏訪湖の沼地で漁をする姿を具象化したのかもしれない。現在は、旅の安全、健脚、争いの調停を祈る神となっている。出雲族が信仰したアラハバキ神という鉄を生み出す神ではないかとも一説には言われている。その後の大和朝廷の支配が強まるとアラハバキ神が否定され、二つの神を作り出したということである。
霧ヶ峰への道の手前で、高国寺、浄土宗の貞松院、法光寺、正願寺を見て回る。寂れつつある上諏訪の商店街をしばらく進み、諏訪清陵高校の下を過ぎ、JRの踏み切り手前で旧道へ入る。
旧道は山際を通る静かでのんびりした道である。時たま車が通るが、気になるほどではない。ところどころ石垣のある古い民家を見かけたり、常夜灯があったり、庚申塚や道祖神があったりして、ここが甲州街道であったことを随所に感じることができる。
桑原の交差点で霧ヶ峰への道と交わるが、この交差点の手前に足長神社への参道がある。長い石段を上り、霧ヶ峰の道を横切りまた石段を登ると、足長神社の拝殿・本殿と舞屋がひっそりと建っている。手厚く祭られている手長神社に比べると、足長神社は全く忘れ去られたようだ。元はここに足長神社と手長神社が一体で祭られていたのである。足長神社は山腹にあるので、諏訪盆地を一望できる。すると、足長神社と上社の位置関係が偶然ではないように思われてくる。当時は諏訪湖がこの辺りまで広がっていた。すると、ちょうど守屋山と上社本宮の対岸に足長神社が位置するのである。諏訪湖東岸は武居大友主一族が支配していたとも言われている。とすれば、洩矢神が諏訪湖西岸で、武居大友主一族が東岸で、建御名方神の諏訪進入に抵抗したとしても不思議ではない。先宮神社がそうであったように、足長神社、手長神社も元は抵抗した先住族の神を祭っていたのかもしれない。足長の神が手長の神を背負い、諏訪湖で魚や貝を獲っていたと言い伝えられているが、先住民の漁の神だったのかもしれない。
足長神社の背後の山上には桑原城址がある。諏訪氏の居城だった上原城の支城である。諏訪頼重は武田晴信に攻められ、上原城を焼いて桑原城に退去するが、開城し降伏した。この戦の様子は、頼重に同行した神長守矢頼真の『頼真書留』に詳しく残されている。 頼重は武田信虎の娘を妻とし、信虎と連合して、信州の佐久や塩尻などを着々と領地にしていった。信虎を追放した後、武田晴信(信玄)は信州攻略を狙っていたので、頼重が邪魔だった。そして何よりも諏訪大明神の神威が欲しかった。頼重の度重なる信濃攻めで兵が疲弊しているのに加え、諏訪が一枚岩ではなく、高遠頼継は諏訪支配に野心があり、下社と上社の関係はよくなかった。頼重はこの虚を衝かれた。 頼重は、「甲州・高遠・下宮(下社)が同心にて討入り」の内報を受ける。俄には信じられず、真偽を確かめているうちに四日がたった。晴信勢は御射山に陣をはり、すぐに攻めようとはしない。物見を出すと、武田勢はその数2千騎、兵が2万。これに対する頼重勢は、度重なる戦いでくたびれてよれよれの150騎に兵はわずか7~800人である。多勢に無勢であり、頼重は上原城に籠もるつもりはなく、武士らしく見事に討ち死にする覚悟を決めた。夜駆けを進言するが、頼重はそうしなかった。「頼重の運はこれで尽きた」と神長頼真は記している。やがて武田勢が上原城からも見える向かいの尾根の上に陣を移すと、それを見た諏訪勢のほとんどが逃亡してしまった。高遠頼継が杖突峠を越えて進入し、麓にある安国寺の門前に火を放つ。このままだと挟み撃ちにされるから、桑原城に退却して勝機をつかもうとの進言に、頼重は不承不承に退却をする。桑原城へ移ると、残りの兵も逃げて城は空っぽ同然で、最期まで忠誠を尽くす者ばかりが20人ほど残っただけだった。結局、武田の和睦に応じることになる。
戦いらしい戦いは一度も無く、頼重は破れた。頼重は甲府に送られ、そこで切腹する。晴信は頼重の武勇を恐れたのである。辞世の歌は
おのずからかれはてにけり草のはの主あらばこそ又もむすばめ
諸人は頼重を文武の人、屋形号の侍であったと惜しんだとある。 この時世の歌は、万葉集にある、天智天皇や藤原鎌足らの謀略にあい反逆罪で絞首された有馬皇子の歌
磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む
を引いている。 嫡男である虎王を大祝にという頼重の願が結ばれることはなかったが、諏訪大明神のご神威か、諏訪家は再興し幕末まで高島藩主として諏訪を治めた。
11時20分、頼重院の階段で諏訪盆地を眺めながら早い昼食。今朝自分で作った若布ふりかけの握り飯がうまい。境内には頼重の墓があり、その手前に新田次郎の かげろうや頼重の無念ゆらゆらと の句碑がある。武田に滅ぼされたのはさぞ無念であったろう。一昨年、NHK大河ドラマ『風林火山』ブームで、諏訪のいたるところに「風林火山」の幟がはためいた。諏訪頼重の無念は娘の諏訪御料人(ドラマでは由布姫)に引き継がれた。信玄の側室となって生まれた武田勝頼は、信玄亡きあとの武田を引き継ぐが、織田信長によって滅ぼされ、武田氏は滅亡する。平家の滅亡を思い起こさせる、戦国武将の無常の世界がここにある。
もし、信玄が病死せず長生きしたら、天下を取れただろうか。甲斐の国は内陸にあって都から遠すぎるうえに、周囲を強敵に囲まれていた。信濃を掌握しても、それは次の上杉との対立の火種となった。今川と北条とは何とか同盟関係を保ってはいたが、川中島での度重なる上杉との合戦は、勝負の付かない消耗戦だった。織田信長を倒したとしたら、上杉、北条、徳川がおとなしく従ったであろうか。
諏訪氏の居城であった上原城址のふもとにある曹洞宗頼岳寺に立ち寄る。大きな木立の中の山門から石段を登ると左側に池があり、その傍らに芭蕉の
名月や池をめぐりて夜もすがら
の古い句碑がある。これは深川の芭蕉庵での作であるが。芭蕉は、『野ざらし紀行』の帰路や、『更科紀行』で、信州を訪れている。芭蕉の高弟で、温厚篤実な人柄から芭蕉にも信頼された岩波曽良は諏訪の人である。『鹿島紀行』に随行し、『奥の細道』の随行では『曽良旅日記』を残している。これゆえであろうか、信州には俳句愛好家が多い。県下には220基もの芭蕉の句碑があり、全国一だそうである。そのうち32基が諏訪地方にあるという。
上原城址は電車から幾度となく見ているが、改めて見ると、なるほど諏訪盆地を眼下に見据え、要害の地であることがよくわかる。その場所に行かなければわからないことである。 後日、上原城址を見てみたくなり、茅野側から登った。麓から小一時間の登りである。現在この一帯は、上原城址の後方にある永明寺山に公園が整備されてレクレーションの場となっている。上原城は急峻な山上にあり、空堀や三重の郭の跡が残っている。典型的な山城で、堅固な城であったと想像される。しかし、頼重はこの城を使う機会もなく、晴信に降伏した。歴史は勝者の信玄を称える。敗者の側からみれば武田が憎いであろうが、不思議と諏訪での信玄の評判は悪くない。信玄の治世下で諏訪が安泰であったことと、諏訪大明神を尊崇し、諏訪の血を引く勝頼が武田を継いだことによるのだろう。
上原城址からは、正面を守屋山と杖突峠の山並みが塞ぎ、その下に諏訪盆地が広がる。諏訪大社の上社が、守屋山の山麓に見える。諏訪湖の向こうには遠く北アルプスを望み、富士山が富士見高原の上に頭を覗かしている。八ヶ岳は永明寺山の陰で見えないが、眺めのよい所である。原村から見ると、上原城址は、霧ヶ峰高原から直線に延びる長い山筋の先端に位置していることがわかる。この地はまた、ほぼ南北に甲州街道が通り、これと交差して東には大門街道が上田に通じ、西には杖突街道が高遠を経て伊那に通じている。交通の要衝でもあった。
街道筋からは離れるが、ここから大門峠に行く街道沿いに御座石神社がある。この神社は建御名方神の母である奴奈川姫命(ぬなかわひめのみこと)が大門峠を越えてこの地に入り、ここで休んだという神話による。奴奈川姫命は翡翠の霊力を持つ越の国の女王で、この女王と大国主命の間に生まれたのが建御名方神である。建御名方神が母を偲び濁酒を家臣と酌み交わした故事から「濁酒祭」が有名である。
12時30分、茅野着。下諏訪から2万歩。駅前のショッピングビルの無料休憩所で一休みする。電車を待つおばあさん仲間が、信州の田舎言葉で話しこんでいる。
駅を出て上川の橋を渡る。橋からは、中央線の鉄橋の向こうに、御柱祭の「木落し坂」が見える。これは上社の木落し坂で、下社の木落し坂は中山道沿いの山中にある。「木落し」は下社のほうが規模が大きく、見ごたえがある。「木落し」は御柱祭のなかでも最も興奮し高揚する瞬間である。上社の8本の御柱は、この坂で「木落し」をして、宮川を「川越し」して、本宮の四隅と前宮の四隅に建てられる。
国道に合流し、坂を上り詰めると、坂室交差点のところに酒室神社がある。この神社は御射山祭の前夜祭で濁酒をふるまう酒の神である。この先で旧道は左に折れ、中央線のガードを潜ると、しばらくの間山沿いの静かな道になる。旧道は再び中央線を越えて、木船の部落に入る。木船の名は、かつてここは湖であったことに由来するようだ。
茅野から木船を経て金沢宿までは、ところどころ国道を歩かされ閉口する。金沢宿の手前で、寒天を作っている工場を覗くことにした。この辺りは「寒天の里」と呼ばれ、冬の田んぼで寒天を干す。今でも地元のお百姓さんの冬の農閑期の副業となっている。写真を撮っていたら、それは寒天ではなく、寒天をとった後に残る天草の澱を固めたものだと教えられた。これに天草に混ぜて再び煮ると、寒天として再生されるのだという。
寒天の歴史は、現在のヒット商品の開発にも通じるものがあって興味深い。寒天は1685年、京都伏見で偶然に発明された。伏見の旅館美濃屋の主人美濃太郎左衛門が、トコロテンを外に放置しておいたところ凍結し、これが臭みがとれ美味で見た目も美しいので、黄檗山万福寺の隠元禅師に試食してもらったところ大変気に入り、「寒天」と名づけられたと言われている。その後、大阪(現在の高槻市)の宮田半兵衛が製法を改良し普及させた。信州には、天保年間(1830~1843年)に、諏訪群玉川村の行商人・小林粂左衛門が丹波で製法を習得して持ち帰り、農家の副業として広めた。ここの冬の乾燥した寒い気候が適しているため、次第に産業として定着していった。
1881年に、コッホによる寒天を使った細菌培養法が開発されると、世界的に寒天需要が広がるようになった。明治38年(1905年)になると中央線が茅野まで開通し、原料の天草の入手も容易になり、生産量が拡大して茅野は世界一の寒天の産地となったのである。偶然による発見、製造方法の改良、最適な製造地、大きな需要、そして物流という、新技術が発明され実用化に至るまでの条件がうまく揃った一例であろう。最近のダイエットのための寒天ブームよりはるか以前に、すでに寒天ブームがあったのである。
金沢宿
2時20分、金沢宿到着、下諏訪から約3万歩。長泉寺で休憩。ローソンで買っておいたあんぱんを食う。歩いて腹が減った時のあんぱんは本当にうまい。
金沢宿は国道が走り、大型トラックが頻繁に容赦なく通り過ぎる。金沢宿の家は街道から奥まっていないため、歩道も満足にないから、歩くのも命がけである。車がうるさくて住めないため、人々は奥の部屋に住むか、道路から離れた所に家を建て替えて生活している。表から見るこの町はまるで廃墟のような有様である。意匠を凝らした古い建物も朽ちるに任されているのは、見るに忍びない。国道が町を破壊した一例である。昭和の中頃までは梅並木があったそうである。国道の拡張と舗装工事で伐られてしまった。舗装されるまでは土埃で悩まされた。それでも時折路線バスが通るくらいだったのである。
金沢宿からは金沢街道が分かれている。金沢街道は、金沢峠を越え、御堂垣外(みどうがいと)、高遠を経由して伊那に通ずる。甲州街道は参勤交代で諏訪藩、高遠藩、飯田藩の三藩が利用しただけであるが、この金沢街道は高遠藩と飯田藩が参勤交代で使用する公道であった。この方が杖突街道経由よりはるかに近道である。高遠藩の参勤交代では、一日目の宿泊は台ヶ原であった。江戸まで5泊6日というから、かなりの早足である。「下に、下に」の参勤交代のイメージとはだいぶ違う。宿泊を減らし経費を節約する経済的理由は大いにあったに違いない。現在の金沢街道は車道となり、金沢峠にある千代田湖や入笠山へ行く道として地元の人に利用されている。
金沢宿の下諏訪側の入口の歩道がなくなるあたりで、横道を少し北へ入ったところに、如意輪観音が建てられている。これは本陣の四代目小松三郎左衛門を供養するためのもので、今でも花が供えられ町民に慕われている。延宝6年(1678年)、三郎左衛門は隣村との山争いに奔走し、そのため伝馬を怠ってしまい、高島藩によって町民の前で磔の刑に処せられた。小松家は断絶し、白川家が本陣を引き継いだ。本陣跡は金沢小学校へ通じる交差点の角にある。本陣跡の表示は、「金鶏の湯」、「金沢公園」と大きく書かれた案内板に隠れてひっそりと立っている。
金沢宿の外れから旧道を登り、エプソンの寮を過ぎると、一里塚が当時の面影を残している。樹齢三百八十年以上という二本のケヤキの大木が、道の両側に冬の枝を空に広げていた。甲州街道で一里塚がほぼ当時の姿で残っているのは唯一ここだけである。山の中で開発が進まなかったことが幸いした。
一里塚を過ぎるとすぐに御射山神戸(みさやまごうど)の部落に入る。ここも真ん中を国道が走り、集落はまるで廃村のような趣を呈している。どの家も国道から引っ込んだ所で生活を余儀なくされているのだ。
御射山神戸はその名前が示すとおり、諏訪大社の主要神事の一つで、8月26日から29日にかけて行われる上社の御射山社祭に奉仕する部落である。御射山社祭になると、御射山神戸の部落では軒先に花笠を飾る。上社の御射山社は中央道の諏訪南インターから約1Km東方にある。インターを出て八ヶ岳の方へ進むと、左手に松並木が見える。これが参道である。松並木の参道は、御射山神戸の集落から御射山社まで約2Km続いていたが、現在はインターからの約300mが残るだけとなってしまった。
御射山社は鬱蒼とした森の中に鎮まっている。神霊を感じさせる厳かな桧の森である。競馬や流鏑馬をした跡や、会津公が見物したという跡などが残っている。ちなみに下社の御射山社は霧ヶ峰の八島湿原にあったが、不便ということで山麓に移された。八島湿原に続く草原の一角には、旧御射山社(もとみさやましゃ)として今も残っている。鎌倉武士が集まり盛大に祭りが行われた観覧席の土盛りの跡を見ることができる。
御射山神戸のほぼ中央に御射山神戸八幡神社がある。御射山祭の最後の神事が行われるところでもある。ここに御射山祭の穂屋を詠んだ芭蕉の句碑が、本殿の右手前にある。これと同じ句の句碑が、御射山社の穂屋の近くに建てられているが、こちらの方が本家である。
雪ちるや穂屋の薄の刈残し
穂屋とは薄で編んだ仮小屋で、御射山社祭のあいだ神官たちはここに寝泊りする。「信濃路を過ぐるに」とあるが、芭蕉が冬に信濃路を訪れた記録は無い。御射山祭は旧暦の7月であるから、雪はまだ降らない。芭蕉は推敲を重ねるから、詩的想像が季節を冬としたのであろうか。
御射山神戸を過ぎると街道は再び旧道に戻り、入笠山のふもとの静かな高原地帯へと登っていく。このあたりはよく散歩するので、飽きるほど見慣れた景色であるが、今日はいつもとは違った新鮮な感じがする。下諏訪から甲州街道を一日中歩いてきて、その続きのなかで見ると、何か始めて見るかのような、いつもとは違った景色が見えてくる。町や国道の喧騒からようやく開放され、自然に囲まれた本当にのどかな所だと実感する。富士見高原の西端、入笠山の山麓地帯である。入笠山は花の百名山として知られ、スズランの群生地として有名である。頂上からは360度の展望が楽しめる。
カゴメの工場を過ぎると、原の茶屋の家並みが見えてくる。原の茶屋とは良く名づけたもので、原の中にある茶屋のイメージは今でもなるほどと思わせる。古い民家がまだ数軒残っていて、往時の面影を辛うじて伝えている。原の茶屋の入り口に今も残る民家が原の茶屋発祥の地で、ここに一軒の茶屋を建て「原の茶屋」と名付けたことが始まりである。下諏訪から歩いてくると、足も疲れてくるし腹も減る頃である。当時の旅人はここでほっと一息入れたことであろう。
原の茶屋は明治から大正期、アララギ派の歌人が夏に投宿したことで有名であるが、今は寂れてしまった。アララギ派の足跡を後世に残すために、富士見公園に歌人直筆の歌碑が立てられている。大正11年に伊藤左千夫
寂しさの極みに堪へて天地に寄する命をつくづくと思ふ
昭和12年に島木赤彦
みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ
昭和40年に斉藤茂吉
高原に足を留めて目守らむか飛騨のさかひの雲ひそむ山
の歌碑が立てられた。富士見公園は明治13年、明治天皇巡幸を記念して造営されたもので、木立に覆われた心地の良い静かな公園である。ちなみにここにも芭蕉の句碑
目にかかる時やことさら五月富士
がある。箱根の関を越える時の作であるが、富士見から五月晴れの日に、青々とした山の間に見る残雪の富士はまさにこの句の通りである。
街道筋からは少し離れるが、富士見公園の裏手一帯は富士見の古い別荘地帯である。明治43年、御射山神戸出身の政治家、小川平吉が帰去来荘を塚平に造営したのが始まりである。帰去来荘には、犬養毅、近衛文麿、長谷川如是閑、田山花袋等々の政界や文芸界の名士が頻繁に訪れていた。小川家とは親戚の元宮沢首相も、若いときに夏を過ごしている。大正13年には、犬養毅が帰去来荘から続く丘の上に白林荘を造営した。その後、この周辺に彼を慕って政界・財界の風流人たちが次々に別荘を建てた。この地で閣議が行われたとの話も伝わっている。今も帰去来荘や白林荘はそのまま残っているが、その他の別荘は廃屋となったり、新しい人たちが移り住んだりしている。白林荘の向かいは、岩波書店の別荘地であるが、今は木が生い茂った空き地となっていて、「岩波書店」の見慣れた書体の表示だけが入口に立っている。7月になる帰去来荘や白林荘には、山百合が群生して咲く。一見の価値がある美しい風景である。ベネディクト修道院の本部も、東京の雑踏を離れ目黒からこの別荘地に引っ越してきて、アメリカ人の修道士が幾人か生活している。レンガ造りの美しい建物である。 ついでにであるが、富士見高原病院はかつての結核療養所で、堀辰雄の代表作『風立ちぬ』の舞台となったところであり、画家竹下夢二の51年の生涯を閉じたところでもある。富士見に中央線が開通してから、大正、昭和の初期にかけて、富士見は文化人の集まるところであった。今も、街道の西の入笠山山麓には、大学の先生の別荘が多くある。
原の茶屋を過ぎ、富士見の塚平に残された貴重な広い野原に突き当たる。旧道はこの野原を突っ切っていたが、今は三菱マテリアルの所有になり、道は消えて迂回するようになっている。この原の窪地は、今でも雨が降ると湿地帯のようになる。安永9年(1780年)、三井透関という富士見乙事生まれの甲府の商人が、私財を投入して塚平から原の茶屋にかけて新道を整備した。馬100頭、人足1860人、飯炊き120人の大工事であったという。観音窪と呼ばれるこの野原の端の旧街道の道筋に、この道の完成を記念して建てられた見事な馬頭観音の石仏が残されている。街道筋では最高の馬頭観音像ではないかと思う。馬頭観音が見守るこの貴重な野原は、いつまでも残したい。斉藤茂吉の歌を思い出す。
八千くさの朝なゆふなに咲きにほふふじ美が原にわれは来にけり
この辺りから富士山が見え始める。富士見の名の通り、大きな富士山が前方に浮かんで見える。東には八ヶ岳がその全容を現わしている。八つのピークが明瞭に認識できるのは富士見からで、最もまとまりのある姿で八ヶ岳を眺めることができる。この辺りの甲州街道からは、南アルプスは甲斐駒の頂上がほんのわずか覗くだけであるが、茂吉の歌にあるように、原の茶屋からは、北アルプスの穂高連峰から槍ヶ岳にかけて望むことができる。甲州街道から八ヶ岳の裾野の方にほんの少し移動するならば、富士山、八ヶ岳、南アルプス、北アルプスの日本を代表する名峰を一つの場所から見ることができるようになる。こんな所は日本でも富士見高原だけだろう。
3時50分、塚平の一里塚に到着。下諏訪から48,600歩。この一里塚は江戸から47里で、修復されたものではあるが、一里塚の姿を残している。甲州街道で一里塚の原形が見られるのは、塚平と御射山神戸の一里塚だけである。
家に着く。今日一日の甲州街道の道程はおよそ24Km、歩数は43,543歩、所要時間は休憩も入れて約8時間であった。
2009年2月6日 富士見から韮崎
7時10分出発。手袋をしていても手が冷たい。塚平にある一里塚を過ぎると、とちの木の防風林の松が、浮世絵の風景画を見るような枝ぶりで並んでいる。1800年頃植えられたというから、樹齢は200年ほどになる。北風が強く作物が育たないので、高島藩に申し出て植えられた。とちの木の部落の「とち」は草冠の下に子どもの「子」を書くが、漢和辞典には載っていない。栃の木の横に茶屋があり、二十歳くらいの子もちの女性がかいがいしく働いていたことから、十十子で「とち」と呼ぶようになったと言い伝えられている。
瀬沢からとちの木へ歩いてみるとわかるが、坂がきつく、ちょっと一休みしたくなる所である。 この辺りの地形は複雑で急峻である。八ヶ岳から流れ出る立場川の谷と、南アルプスから流れ出る釜無渓谷が合流し、釜無川の谷となる。戦国時代には立場川は堺川と呼ばれ、甲斐と信濃の国境であった。
この釜無川の谷の八ヶ岳側は、七里岩と呼ばれる溶岩台地を釜無川が浸食してできた断崖となり、南アルプス側は前衛の山が迫り、韮崎まで文字通り七里ほども続く。『甲斐国志』によると、韮崎は「片山七里岩連綿と長く細く韮の葉の如く延びたる岩鼻屈然として尽くるところなれば韮前と名づく」という。甲州街道は、標高960mの塚平から、とちの木、瀬沢、机の集落を経て、標高約700mの蔦木宿まで一気に下っていく。
とちの木から瀬沢にかけての傾斜地は、武田晴信と信濃の連合軍が戦った古戦場である。「瀬沢合戦」と呼ばれるこの合戦は、1542年、諏訪頼重、小笠原長時、村上義清、木曽義昌らの信濃勢が結託して、武田晴信を相手に起こしたとされるが、武田方の勝利に終わった。当時の街道筋から考えて、武田軍は中の棒道を通り、乙事(おつこと)道を下り急襲したと考えられる。乙事は標高1000m、瀬沢は800mくらいであるから、地の利を生かしての急襲である。瀬沢は鎌倉街道が通っていたから、信濃勢は鎌倉街道を南下してきたと想像される。激しい戦いであったようで、『甲陽軍鑑』によれば、武田側は1621人の首を上げたと言われている。農民は九つの穴を掘って埋葬したと伝えられ、「九つ塚」と呼ばれる塚の一部が残っている。大正時代までは、甲斐から墓参りの人が九つ塚を訪れていたという。 こんな所で、このような血なまぐさい死闘があったと思うと、もし自分がこの戦いの中にいたとしたら、どうしただろうかと想像して、恐ろしい気持ちになる。勇敢に戦うよりも、命が惜しく逃げまどったのではないだろうか。
急な坂を下ると瀬沢の集落である。旅人の休憩所として茶店などが四軒ほどあったそうである。瀬沢は耕地に乏しく、わずかな農業のほかは、山仕事や炭焼きで生計を立ててきた。
立場川の橋を渡ると、立場川と釜無渓谷の合流地点に出る。ここから机、平岡を経て、上蔦木宿へ向かう。 途中、平岡の釜無川の土手に「明治天皇巡幸野野立所」の碑を見つけた。明治十三年六月、山梨県、長野県、三重県、京都府などの民情視察のための巡幸が行われた。今は近くを国道が走り、殺風景な田んぼの中の土手際である。どこといって特に景色の良い場所でもないが、行程の中間点であったのだろう。
甲州街道を歩いていると、沿道の各地で明治天皇が水を飲まれた「御膳水」の碑に出会う。茅野、原の茶屋にもあった。街道筋には湧水が多いから、天皇は各地で名水を召し上がれらたことになる。
旧道が国道に合流し、塩原温泉へ渡る橋の袂に出る。その橋の正面にアララギ派の歌人、森山汀川(ていせん)の生家跡に歌碑が建てられている。森山汀川はここに生まれ育ち、この地で活躍した
昨日よりも青みをもちてにこり波吾か目の前にたきちくるかも
蔦木宿
そこから田んぼと国道の間の旧道を少し進むと上蔦木宿に入る。上蔦木宿は痛々しいほど衰退している。崩壊するに任されていると言ってもよい。この宿ほど悪条件が重なったところは珍しい。第一に、鉄道から離れ駅が遠くにできたこと。鉄道開通と共に寂れてしまい、本陣の大阪屋は先を見越して富士見の他所にさっさと移ってしまった。第二に、国道が宿の真ん中を走っていること。ひっきりなしにトラックが軒をかすめて疾走していく。歩道も十分でないから恐くてとても歩けない。金沢宿や御射山神戸がそうであったように、人々は道路から離れた奥に住み、町の表情は死んでしまっている。第三に、上蔦木宿は釜無川が侵食した狭い谷筋にあるため、発展の余地が全くないことである。高齢化が進み、家を継ぐ人がいない。町屋造りの廃屋が目立つ。まるで歯が抜けたように、空き地があちこちにできている。宿場の保存活動も全く無いわけではなく、屋号を記した木の札が各戸に掛けられてはいるが、宿場がこんな状態ではかえって痛々しさが増すばかりだ。それでも、宿場の裏筋に回れば、今も土蔵造りの建物が軒を並べていて、昔の面影を感じさせてくれる。
発展しえない町ゆえに、宿の入り口の二つの桝形路ははっきりと残っている。なんとなく魚の骨だけが残ったという感じがしないでもない。 ここにも明治天皇巡幸の御膳水の碑がある。その案内には、上蔦木は八ヶ岳からの湧水が多く、明治期には16箇所に水道施設を作り、戦後まで飲料水として使っていたと記されている。
そこに並んで与謝野晶子の歌碑が建てられている。
白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな
与謝野晶子もここを訪れていたのだ。通産大臣与謝野馨書とある。
8時40分、曹洞宗三光寺で初めての休憩を取る。ここは標高727m、富士見でもここまで来ると暖かくなる。もう椿と紅梅が咲いていた。この先、探梅が楽しみだ。
上蔦木を過ぎ、ゆったりとした静かな山麓を進むと、すぐに下蔦木になる。日蓮宗真福寺の前を通り下蔦木の部落に入る。村はずれに、「武川筋逸見筋合流点」の道しるべが残っている。「へみみちにらさきまでむしゅく」と刻まれている由である。そういえば、ここは武川筋(甲州街道ルート)と逸見筋(須玉、長坂、小淵沢を経るルート)の合流点になるのだ。その逸見筋には韮崎まで宿屋が無いという注意書きである。
そのすぐ先には日蓮上人の高座石というのが残っている。日蓮上人が身延に庵を構えていた時、蔦木にも教えを広めに来たのであろうか。この石に腰掛けて説法をしたという言い伝えがある。一人では登れないほどの大きな石である。
蔦木宿には芭蕉の句碑が二基ある。いずれも句碑があることを知らなければ見過ごしてしまう。句碑を見つけたとしても判読が難しい。解説の立て札でも立ててくれるとありがたいのだが。一つは、上蔦木の北の桝形を出た国道端の、十九夜という屋号の跡地の隣にある。
川上とこの川しもや月の友
これは、芭蕉の句碑というよりは、この辺りの村人の俳句を刻んだと思われる句碑の上部に、この芭蕉の句が刻まれている。釜無川の上流と下流に、月を眺めた風流人がいたのだ。二つ目は、下蔦木の真福字の境内にある。
御命講や油のような酒五升
御命講(おめいこ)とは、十月十三日、日蓮上人の忌日をいう。油のようなは美酒の形容である。 三つ目は、日蓮上人の高座石の入口のところにある。
かやぶきの隣ありけり蔦紅葉
釜無川を渡ると国界、これより甲斐路である。国界にあるセブンイレブンの横には、大型トラックが駐車している脇に、
目に青葉山ほととぎす初がつお
と刻まれた江戸時代の俳人山口素堂生誕の地の石碑が無造作に建てられている。 この碑の前を旧道に入り、田園の中を行くとすぐに上教来石(かみきょうらいいし)に入る。
その入り口に山口関の跡がある。1546年、武田信玄の伊那攻略の時に作られたとあり、それ以後、信州口の見張りとして使われていた。天保七年(1836年)大飢饉となり白野宿で犬目兵助らが首謀者となり「郡内一揆」が勃発した。郡内とは今の都留市を中心とする甲斐の東部地域をいう。一揆は甲州全域に広がり「甲州騒動」となった。この「甲州騒動」の折、群集が山口関に押し寄せたが、番士が防がず通したので咎を受けたとある。この番士は後に台ヶ原屯所の初代屯所長に取り立てられた。犬目兵助も全国を逃亡したが、後に郷里に戻った。
上教来石から下教来石に入る。ここまで来ると、雪を被った甲斐駒の真白な峰が目に付くようになる。甲斐駒が良く見えるところに、「明治天皇御小休所後」の碑がある。鳳凰三山も右前方に大きく見えてくる。
10時20分、サントリー白州蒸溜所の入り口に到着。ここまで、19,134歩。甲斐駒、鳳凰三山、八ヶ岳を見ながら休憩する。サントリー白州蒸溜所はガイドツアーがあり、ウイスキーや蒸留水の製造過程を見学できる。ツアーの最後にはウイスキーの試飲もあるが、車で来るところであるから、ドライバーには辛い。白州は「名水100選」に選ばれている尾白川が流れている。尾白川渓谷から幾つかの美しい滝を作りながら流れ出てくる。この水は、甲斐駒ヶ岳を源流とし、花崗岩質の岩で濾過されるので透明度が高い。
山を眺めたり、民家の庭を眺めたりしながら進む。陽だまりには黄梅が早くも咲いている。ようやく白州町白須上に入る。やがて白須下になり、いよいよ台ヶ原宿である。
台ヶ原宿
11時25分、台ヶ原着。宿場に入ると、つるや旅館の明治・大正時代を思わせる旧館が目に入る。こういう建物は子どものころの記憶に残っているのだろうか、無性に懐かしさを感じる。中ほどに田中神社というのがあり、その石段の陽だまりで昼食にする。25,238歩、足には心地よい疲労を感じる。この田中神社には、元禄3年、茶壺道中が宿泊したとのことで、したがって由緒ある神社であると案内に記されていた。元禄ならば、茶壺道中もたいそう華やかであったに違いない。
台ヶ原の街並みは宿場の面影を色濃く残すが、当時の建物はほとんど残っていない。ただ、数軒古い立派な屋敷が残っている。酒屋七賢の北原家もその一つで、明治天皇の御在所にもなった当時の屋敷が保存されている。酒蔵とともに屋敷の中を見学することができる。北原家は寛延二年(1749年)、高遠から分家して当地に酒屋を開いた。昔は試飲が無料だった。普段は口にしない高級酒をこの時とばかり試飲したものである。全ての酒を試飲した剛の者もいいた。最近は有名になり観光客が増え、有料になってしまったのは残念である。甲州街道を歩いて行くと、甲府盆地のいたるところで「七賢」のブランド名を目にすることになる。七賢の先に本陣跡があるが、碑があるのみで、その場所には洋風の家が宿場の雰囲気にそぐわない様子で建っている。
台ヶ原宿を抜け、国道を横切り旧道に入る。台ヶ原を尾白川に沿って進む。尾白川は名水100選に選ばれるだけあり、澄んだ水が美しい。田園を直線に伸びる道を振り返ると、台ヶ原宿の家並みが遠ざかる。左前方には七里岩が続くが、今日の目的地の韮崎はまだ見えない。
やがて尾白川橋で国道と合流し、すぐ旧道に入ると上三吹である。上三吹を過ぎ、国道を横切ると下三吹に入る。上三吹、下三吹には、手入れの行き届いた日本庭園の植え込みが美しい民家が多い。落ち着いた豊かな感じの部落である。七里岩の上に八ヶ岳が美しい。近くには舞鶴松で有名な万休院があるが、今日は立ち寄らない。
街道筋から外れるが、三吹の南に隣接する武川柳沢は、柳沢氏発祥の地である。柳沢氏は武川衆と呼ばれる武川筋に住んでいた土豪で、武田氏滅亡のときは多くの者がそうしたように山小屋に隠れ逃れた。本能寺の変後、家康が北条氏直と甲斐を取り合って争った時、武川衆の60騎が参戦し家康のために働いた。この功績により武川衆は武士として徳川に取り立てられた。 その子孫である柳沢吉保は、五大将軍綱吉の寵愛を受け、小姓から側用人に抜擢される。そして大老格までになる栄達をなし遂げる。宝永元年(1704年)、吉保は六代将軍家宣の後継として、甲府藩十五万石の藩主となった。吉保の藩政のもとで、甲府の城下町としての整備が急激に進んだようだ。
この時期に甲府を訪れた荻生徂徠は、市街は良く整い、商店は繁盛し、人々の姿や振る舞いは江戸と変わる所がないと述べている。 綱吉亡き後は、吉保は隠居し家督を長男の吉里に譲った。吉里は、藩主として甲府に住む初めてにして唯一の大名である。吉里も藩政に力を入れ、検地や用水整備など農業拡大政策に力を入れた。甲府の武家人口はこの時期が最大になり、街も繁栄し、甲府始まって以来の繁盛と評されるまでになった。また、能を演ずるなど、活発に文化活動も行った。享保9年(1724年)、8代将軍吉宗の享保の改革で甲斐は直轄地となったため、吉里は大和国郡山藩主に移封となった。
柳沢父子の藩政は20年であったが、学問と教養に優れた名君として高い評価を得ている。吉保の墓は、恵林寺にある信玄の墓の隣にある。甲府藩は、柳沢吉保、吉里父子の時代が、最も輝いていたのではなかろうか。その後は、幕府の直轄地として甲府勤番と代官支配となった。甲府勤番は素行の悪い旗本の左遷の役職というようなことが言われるまでになるのである。
国道と合流し、大武川橋を渡ると武川町牧原である。牧原の部落は七里岩の麓に延びている、落ち着いた集落である。民家の庭や生垣を楽しみながら進む。もう紅梅が咲いている。この辺りは落ち着いた生垣や日本庭園を持つ家並みが続く。甲斐は気候も温暖で豊かな感じを受ける。これと比べて、信州の富士見の家並みは貧弱で、庭や生垣の手入れも行き届かず、荒れるに任されている。ところが甲斐に入ると、白須や三吹や武川は豊かな感じで、家並みも立派で庭や生垣の手入れが行き届いている。山間地で耕作地に乏しく、気候も厳しい信州富士見の部落は貧しかったのであろう。今でもその貧しさを、村の風景として引きずっている。
大和時代から平安時代には、甲斐には三つの御牧があった。真衣野牧、穂坂牧、柏前牧である。真衣野牧は武川の牧原一帯にあったとされる。穂坂牧は七里岩の向こう側、新府城址の東方にある穂坂町にあった。柏前牧は清里の南、高嶺町念場ヶ原にあったとされる。11世紀終わりごろまでは、甲斐の御牧から朝廷に馬を献上していた。この馬を貢馬というが、天皇に披露する行事を「駒牽」、逢坂の関に迎えに行くのを「駒迎」と言った。
日本書紀歌謡に「甲斐の黒駒」が歌われている。雄略天皇13年(468年)、真根(まね)という大工が天皇の怒りに触れて危うく殺される所を、過ちに気づいた天皇が、赦免の使いを甲斐の黒駒で駆けつけさせて、間一髪助かったとある。そこで天皇の歌われた歌が
ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば命死なまし甲斐の黒駒
今流に言えば「甲斐の黒駒」は高級ブランドであったのだ。さしずめ高級車「レクサス」といった感じか。
万葉集にも、柿本人麿歌集の歌として黒駒が登場する。
遠くして雲居に見ゆる妹が家にいつか至らん歩め黒駒
平安時代前期の歌人紀貫之の歌にも登場する。
都までなつけてひくはをがさわらへみの御牧の駒にやあるらん
源氏物語にも、須磨で謹慎中の源氏のもとに親友の三位の中将(頭の中将)が訪ねて来るが、その時の土産として、源氏は黒駒を三位の中将に与える場面が出てくる。「黒駒たてまつり給。」、「世にありがたげなる御馬のさまなり。」。この黒駒も、甲斐からはるばる運ばれ、駒牽され、源氏に下賜されたのであろうか。
駒迎はたいへん賑々しかったようだ。芭蕉の『更科紀行』の木曽路で
桟や先づおもひいづ馬むかへ
や、蕪村にも
駒迎ことにゆゆしや額白
がある。ただし、このころの貢馬は、信州望月の牧からの信濃駒であった。甲斐の御牧は、武田氏の台頭とともに鎌倉時代には武田氏の私牧になっていった。
古代、甲斐駒が都に運ばれるルートは複数あったようだ。一つは、宮坂、河口湖、籠坂峠を経て東海道へ出るルートである。このほかにも、富士見町に残る記録によれば、甲斐から伊那に至る石堂越えという古道があった。入笠山の尾根を通る道で、尾根筋の堂ヶ平には旅人を助けるため観音堂と六地蔵石幢が建てられていた。古道が使われなくなると観音堂は麓に移され、現在も木之間観音堂として残っている。「甲斐石堂越えの人馬の難儀するを助けた」という伝承が木の間に伝わっている。
黒沢川の手前で国道に合流し、すぐ宮脇の旧道に戻ると、そこに偶然一里塚跡の小さい碑を見つけた。甲府より六里なので六里塚ともいうと記されている。
宮脇を抜け国道の小武川橋を渡る。橋の上から七里岩と甲斐駒を望む。橋の上に東京から158Kmの道標が立っている。ここから円野町(まるのまち)上円井(かみつぶらい)である。上円井の部落を過ぎ、穴山橋の手前で国道を横切りると下円井に入る。ここまで来ると、前方に富士山が大きく見えてくる。
下円井に入るとすぐ徳島堤という水路に出会う。しばらく徳島堤に沿って、富士山を見ながら進む。徳島堤はこの少し上流、小武川が釜無川に合流する地点から取水し、武田の里を突っ切り、櫛形町の曲輪田(くるわだ)まで、全長約17Kmの農業用水路で、徳島兵左衛門が開削したことによりこの名がある。 徳島兵左衛門は江戸深川の商人で、上円井から鰍沢まで水路を開削し、荒地の新田開発と富士川までの舟運を実現させようという、遠大な構想を企画した。
一、開墾された田畑から一反につき一~二分を水代として徴収、
二、新開地の年貢額の十分の一を受け取る、
という条件で、完成後には水代と年貢の一部を徴収する権利を得て、寛文5年(1665年)、兵左衛門の私財により工事が始められた。2年後の春には飯野南橋(旧白根町)まで通水させたが、この年に兵左衛門は工事から突然手を引く。堰の開削に成功されて、水代や年貢を兵左衛門に取られるのが惜しくなった甲府藩が抹殺した、という説があるが、穿った見方かもしれない。後の工事は甲府城代に引き継がれ、有野村(旧白根町有野)の矢崎又右衛門に命じて工事を続行させ、寛文10年(1670年)に完成した。なんと矢崎又右衛門も工事の為に私財を投げ打ったが、甲府藩が約束を違えたため、不遇のうちに生涯を閉じたという。 この工事の完成により豊かな水が流れ、「月夜でも焼ける」と言われた干ばつ地帯に美田の開発が進み、地域農民の生活は飛躍的に向上した。徳島堰はその後いく度も復旧や大改修が行われ、昭和に入ってからも上水道の整備や灌漑施設の整備が行われ、現在も釜無川右岸地域の農業や生活を支えている。
この辺りは土蔵造りの民家が多い。下円井の外れの戸沢へ下る坂の入り口に、立派な石垣の高くそびえた屋敷があった。石垣の組み方に風情があり、実に趣のある屋敷である。枝ぶりのよい白梅が咲いていて、梅の香がする。梅の香は不思議と懐かしさを誘うのはどうしてだろうか。
戸沢橋を渡り円野町入戸野(につとの)に入る。2時20分、徳島堤の傍で休憩する。
入戸野を過ぎると韮崎櫛形豊富線の道路を進むようになり、しばらくして旧道に戻ると清哲町折居の部落になる。左前方の七里岩の上に、ようやく今日の目的地韮崎にある東京エレクトロンの工場が見えてくる。段々畑の向こうに富士山が美しい。
清哲町から南に続く丘陵地帯は武田の里である。822年に、石清水八幡宮を勧請した武田八幡宮がある。清和源氏を祖とし、八幡太郎源義家と新羅三郎源義光の兄弟から枝分かれして、前者は源頼朝へ、後者は武田信玄へと繋がる。当時常陸国に進出していた義光の子義清は、常陸国武田郷にいたので武田を姓とした。武田冠者義清である。したがって、武田発祥の地は甲斐国ではなく、常陸国である。常陸国での勢力争いの結果、武田義清とその子清光は甲斐に配流される。これが武田氏の甲斐土着の始まりである。
その後の武田氏の変遷は複雑である。義清の子ども達が、甲斐各地に本拠を求め、その地名を姓にしていく。安田氏、加賀美氏、小笠原氏などである。そのなかで、清光の子信義が清光の後継者となる。武田太郎と称し武田の里を本拠地とし、武田八幡宮を武田の氏神とした。武田信義は当時頼朝と拮抗するほどの勢力を持ち、富士川の戦いでは主力部隊として平氏を敗退させた。
しかし、頼朝が鎌倉幕府を開くようになると、信義も含め甲斐源氏の有力者は次々に頼朝によって排斥されていく。そうした中においても頼朝の信任を得る者もおり、その一人が武田信光で、この信光が甲斐武田の中心勢力となっていく。 鎌倉期の武田氏は、鎌倉御家人として鎌倉幕府の支配下に置かれていく。この時代の武田氏は主に二大勢力に分かれた。一つは石和を本拠地とし「石和」を称した「石和流武田氏」、もう一つは、安芸守護職を任じられ安芸国に拠点を構えた武田信時の系列である「信時流武田氏」である。
鎌倉幕府が倒れ、南北朝の内乱時代を経て足利尊氏が政権を確立していく過程で、南朝方に味方した石和流武田氏は滅び、尊氏側に就いて戦った信時流武田氏が中心勢力となっていく。信時流武田氏の武田信武は安芸守護であったが、甲斐守護をも兼任するようになり、甲斐での基礎を固めることになる。
しかし、守護としての武田氏も決して安泰ではなく、有力支族によってその地位は脅かされ続ける。そして信玄の父である武田信虎になって、ようやく甲斐は統一されるのである。
折居を過ぎて射撃場の横を下り、釜無川に架かる桐沢橋を渡る。この辺りの釜無川は川幅が広がるに任されており、水辺がよく残されている。荒々しいが自然で美しい川の風景である。桐沢橋の上から見る富士山は大きくまた優美である。八ヶ岳の姿も美しい。雪を被って白く輝いている。
桐沢橋の正面の七里岩の上に新府城址がある。新府城は武田家の最後の砦として真田昌幸が築城した。武田勝頼は新府城で決戦に挑もうとするが、織田・木曽連合軍に攻められ落成したばかりの城を焼いて敗走する。本能寺の変後には、家康が北条軍と対峙するためにこの新府城に入城している。その後、家康は武田氏のゆかりの若神子で北条軍と和睦をすることになる。
橋を渡り、国道を横切ると下祖母石(しもうばいし)に入る。釜無川と七里岩に挟まれた細長い集落である。下祖母石には古い家並みがまだ残っている。ここはもう韮崎宿に近い。畑の中に、南無阿弥陀仏の石碑が丸裸でぽつんと立っていた。注連縄が巻かれていたから、大切に守っている人がいるのだろう。それにしても阿弥陀様に注連縄は面白い。神も仏も同じなのであろう。
国道に合流し、しばらく車に悩まされながら進み、七里岩トンネルの交差点を過ぎると、ようやく韮崎の町になる。本町の交差点から中央町を進むと、やがて韮崎の駅に到着する。4時20分、51,426歩の行程であった。4時32分、小淵沢行きの電車に乗り込む。全行程は約33Km、9時間歩いたことになる。
十返舎一九の『方言修行金草鞋』で、韮崎から諏訪までの道中を次ぎのように紹介している。「このかい道より木そのすはへ出るまでひら道にして、いたってよし。けっく、えどよりかうふへゆく道中よりこの道中はやまさかもなくやどやなどもきれいにて、みちのけしきもいたってよし。」
韮崎からは上り一方であるが、峠はなくアップダウンもほとんど無い。富士山、南アルプス、八ヶ岳が見えて景色もよい。台ヶ原、蔦木、金沢の宿屋はきれいだったようだ。
2009年2月11日 韮崎から甲斐大和
街道を歩き始めて3回目となる。家にいると体がうずうずしてまた歩きたくなる。芭蕉の『おくのほそ道』の一節「片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず」をふと思い出した。
今日は、甲州盆地の西の端から東の端まで、ほぼ一直線に横断する。ほとんどが街中である。自然の中もいいが、町の風景を見ながら歩くのも楽しいものだ。
信州と甲州
信州人は信州が一番いいところだと思っている。「信濃の国」という歌がある。行事などがあると皆でこの歌を歌い、郷土を誇らしく思うのだ。信州は山に囲まれて、隣の市でさえ見えない。だから、井の中の蛙で、どこよりも自分のところがいいと思う傾向がある。甲州より信州のほうがいいと思っているのだ。
地理的に比較すれば、長野県は山梨県に比べ面積は3倍、人口は2.5倍で、南北に長いから気候風土も多様である。従って、単純に比較することは公平ではない。共通しているのは山国だということである。森林面積比は両県共に78%で、ほとんどを森林が占めている。これからの行程は山梨県を横断する。この目で山梨県を確かめる良い機会である。
古代において、都人から見た信濃と甲斐はどんな風だったのだろうか。いずれも都から遠い山国である。信濃国は万葉集に
信濃路は今の墾道(はりみち)刈株(かりばね)に 足踏ましなむ履(くつ)着(は)けわが脊
と詠われているように、ようやく信濃への道が開かれたが、道が悪いから切り株で足を怪我しないように気をつけて行っておいでと、妻が夫を信濃の国へ送り出したのだ。『続日本記』によれば、和銅6年(713年)美濃・信濃の二国の堺は道が険しく、往還に難儀なので木曽路を通す、という記述があるから、この頃の歌であろうか。
一方、甲斐国を見てみると、古今和歌集に四つの歌が登場する。甲斐守であった小野貞樹(おののさだき)は、甲斐は山が高いので雲がはれることないように心が晴れず侘しい思いをしていると都人に伝えてくれと、都に帰る人に言付けている。
宮こ人いかにととはば山たかみはれぬくもゐにわぶとこたへよ
凡河内躬恒(おおしかうちのみつね)も894年に甲斐権少目に任ぜられて、「かひのくにへまかりける時に、みちにてよめる」として
夜をさむみをくはつしもをはらいつヽ草の枕にあまたたびねぬ
と、旅の辛さを歌っている。
信州人は甲府をいいところだとはあまり言わない。富士見からは、松本と甲府はほぼ等距離であるが、甲府に出かける人は少ない。松本のほうが甲府よりお洒落な街と感じている。しかし、こうなったのは最近のことである。信州のイメージが一般的に高まったのは、夏の清涼な気候風土や高原の爽やかさが避暑地として人気を呼んだことと、登山ブームやスキーブームのおかげではないか。また教育県といった紋切型の評価もイメージアップに一役買っているように思う。
太宰治は、昭和13年(1938年)井伏鱒二の仲人で結婚し、しばらく甲府市に住んだ。このとき書かれた短編『新樹の言葉』の冒頭で、当時の甲府のことを「派手に、小さく、活気のあるまちである。よく人は、甲府を「擂鉢底」と評しているが、当たっていない。甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。」と評している。甲府はハイカラで文化的なまちであった。そういえば、母が昔は松本から甲府に買い物に行ったと話していた。
両国の名所、名物を比べてみると面白い。「信州りんご」対「甲州ぶどう」、「北アルプス」対「南アルプス」、「上高地」対「富士五湖・富士山」、「信州蕎麦」対「ほうとう」、「善光寺」対「身延山」と、なかなか良い勝負である。
古今和歌集には、
わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山にてる月をみて
と姨捨山が詠われている。浅間山が『伊勢物語』に登場する。
信濃なる浅間の嶽にたつ煙をちこち人の見やはとがめぬ
木曽の懸橋は西行法師の『山家集』に詠われている。
波と見ゆる雪を分けてぞ漕ぎ渡る木曽の懸橋底も見えねば
さらに二つの甲斐歌が古今和歌集に載っている。
甲斐がねをさやにも見しがけヽれなくよこほりふせるさやのなかやま
甲斐がねをねこし山こし吹く風を人にもがもやことづてやらん
奈良時代から平安時代においては、信濃国も甲斐国も少数の歌人が訪れることはあっても、噂に聞くだけの遠い山国であった。 『
源氏物語』の第二帖『箒木』に登場する、信濃国園原にあるという伝説上の箒木は、 新古今和歌集に10世紀前半の歌人坂上是則の歌に見られる。
園原やふぇせ屋におふる箒木のありとはみえてあはぬ君かな
鎌倉時代からは、甲斐のほうが文化的にも政治的にも経済的にも進んでいたのではないだろうか。京都からは遠くても、駿河経由なら甲斐の方が信濃よりは行きやすかったであろうし、鎌倉、江戸からは隣国である。そのせいか、甲州には由緒ある神社仏閣が多い。信州にも同じ源氏の木曽義仲はいたが、武田信玄のような武将は生まれなかった。江戸時代においては、松本藩は外様であったが、甲斐は幕府の直轄地であった。蕎麦くらいしか自慢できなかった信州に比べて、気候が温暖な甲州のほうが、農作物も豊富であったであろう。
韮崎宿
6時24分発の高雄行きに乗車。有明の月が入笠山の上のまだ明けきらない空にほのかに輝いている。富士見から韮崎にかけての中央線の車窓からは、南アルプスがよく見える。とりわけ日野春からの南アルプスはいつ見ても美しいが、今日のは頂上が朝日に輝き荘厳なまでに美しい。
6時58分韮崎着。さっそく韮崎の「平和観音」を仰ぎ見ながら街道に入る。平和観音は昭和36年に、市民の平和を願い建立された。冬の早朝の冷気が気持ちよい。街道筋から東に茅ヶ岳がよく見える。ここは茅ヶ岳の麓であることに気付かされる。 韮崎宿は町の中心街に変貌したため、本陣跡は眼科医院になったりして宿場の面影は消えているが、所々にそれと思わせるものは残されている。モダンな建物の横に土蔵のある昔の建物があったりする。
交差点に「鰍沢横丁」の石碑を見つけた。ここから鰍沢を通って駿河に至る「みのぶ道」が分れていた。明治36年(1903年)、中央線が開通するまでは、江戸(東京)への船運による輸送路として人馬の往来が盛んで、茶屋などが並び火鰍沢横丁として栄えていたとある。
釜無川と笛吹川が合流して富士川となる。富士川の船運は、家康が角倉了以に富士川水路の開削を命じたことから始まる。甲斐の年貢米を江戸に運ぶためである。 角倉了以は京都の豪商であるが、商人としてよりも水運の開発者としての方が有名である。1606年、角倉了以は丹波の木材や米などを舟便によって京へ運ぶために、保津川(大堰川)開掘の願いを出し、わずか6カ月で竣工させた。その工事に当たっては人任せでなく、自ら石割斧を振るって仕事にあたったと言われている。この優れた開削技術が幕府に認められ、翌年には富士川の開削を命じられた。その後、天竜川の開削も行っている。1611年には、方広寺大仏殿再建のための資材輸送を命じられるが、鴨川は舟運には不向きであった。そのために高瀬川を7万5千両の資金を投入して開削した。高瀬川の完成により、大阪難波から淀川を伏見まで遡り、伏見から京都の二条まで舟で物資を輸送することが可能となり、大阪から京都までの水運が開けた。
富士川の開削により、甲斐のみならず信濃の諏訪や松本の米も富士川で運ばれるようになった。これらの米は、みのぶ道を馬の背で鰍沢まで運ばれ、そこから船で清水港に集められ、江戸に送られていた。米以外にも、煙草や木炭などの産品も運ばれるようになる。信濃の産品を鰍沢まで運ぶために、「信州中馬(ちゅうま)」という自分の馬で物資を運び駄賃を稼ぐ信州の農民が、甲州街道に進出し始めた。帰り船では、山国には貴重な塩や海産物が運ばれた。江戸後期になると、身延詣が庶民の間で盛んになり、身延山への足としても船運が盛んに利用されるようになった。石和宿からも笛吹川経由で船で下ったようだ。
蕪村の句
甲斐がねや穂蓼の上を塩車
こんな風景が目に浮かぶ。
韮崎宿の先の街道筋には、今は私立病院や警察署や総合運動場など公共施設が立ち並んでいる。線路沿いに進むと塩川に出る。この辺りからは視界が開け、韮崎の地勢を一望することができる。 塩川橋を過ぎると、旧道が分岐して双葉町宇津谷の金剛地という集落に入る。こういう集落にはどこもそうであるが、昔の屋敷がまだ残っている。いつまでも残っていてほしいと思う。途中に芭蕉の句碑があると聞いていたがうっかり通り過ぎてしまった。右手に「船形神社」と呼ばれる諏訪神社がある。大きな石鳥居は応永4年(1397年)建立といわれる古いものである。
8時10分、「泣き石」で休む。武田勝頼が新府城を焼いて落ち延びるとき、この石の上から勝頼夫人が焼ける城を眺めて涙を流したことによるといわれている。泣き石は、双葉町役場前の街道沿いに今は置かれている。
中央線の下のレンガ造りのトンネルを潜ると、竜王町になる。旧道を行くと、自性院というこぢんまりとしているが手入れの行き届いた感じの良い曹洞宗のお寺がある。寺のベンチに腰掛けて一休みする。この辺りからは、鳳凰三山の左横に北岳や間の岳と思われる真白な峰が姿を現すようになる。
古い民家の残る街道をさらに進むと、竜王新町の丘の上に出る。ここは中央道の双葉SAのすぐ近くで、周辺は竜王赤坂ソフトパークというハイテクの工業団地になっている。富士山が正面に大きく見えるが、今日は暖かく霞がかかっている。竜王へ下る所に「赤坂供養塔」という高さ4.3mの大きな石に「南無阿弥陀仏」と大書した石碑が建っている。幕末に念仏講の信者たちが建てたものだと記されている。街道筋には、このような念仏講や庚申講など、庶民の信仰の跡をいたるところで見ることができる。
竜王駅が見えてくる。安藤忠雄設計のモダンな建築物である。周辺の建物が殺風景なために、せっかくの建築物が周囲になじんでいない。格好だけで使い難いという人もいるが、便利さと機能だけを求めると、無味乾燥なつまらないものになってしまう。こういうところに、お金を掛けてでも良い物を作ろうとした竜王町とJRの決断には敬意を表したい。
竜王駅近くにある郵便局の駐車場の縁石に座って休憩する。その向かいにあるファミリーマートでトイレを借りる。街中を歩く時は、休憩場所とトイレ探しには苦労する。
9時20分、ここまで14,418歩。 この先の甲州街道は甲府まで52号線となる。街中を貫通する幹線道路で、歩道は狭く車は多く、歩くのには閉口する。中央自動車道を潜ると、甲府市の道路標識が目に入る。貢川(くかわ)の岸辺でほっと一息する。やがて「芸術の森公園」が見えてくる。緑の木立に覆われた広大な敷地に、文学館や美術館の立派な建物が見える。これだけのものを造るとはさすが甲府市であると感心する。気持ちがよいので、公園前のベンチに座って一休みする。 殺伐とした街筋にマクドナルドがあった。街道筋で初めて見る都会的風物である。
甲府宿
荒川橋を渡ると、いよいよ甲府の中心部に入る。ここからは道幅が広がり、すっきりとした現代風の街並みに変貌する。随分すっきりしていると思ったら、電柱が無い。地中化されているのだ。そういえば、韮崎宿も電柱が地中化されていた。余談であるが、本当に電柱が多い。街道筋から景色を撮ろうとしても、電線で邪魔されない所は皆無である。富士山の写真を撮ろうとしても、電線が写らないところを捜すの至難の業である。電力供給や便利なインターネットと引き換えに、知らず知らずのうちに風景を犠牲にしてきたのである。税金の無駄遣いを止めて、電線の地中化を推進してもらいたいものである。21世紀の公共工事は、20世紀の効率主義で破壊した自然や町の風景を元通りにすることであってほしい。
甲府の中心部、相生歩道橋の手前の交差点で、「西 志んしゅうみち」、「南 みのぶみち」と刻まれた、復元されたと思われる新しい道標を見つけた。江戸時代以前、甲府から他国へ通じている古道は、甲斐九筋と呼ばれて9筋あった。この内、信州へ通じるのは穂坂路、棒道、逸見路で、今の甲州街道に当たる武川筋は韮崎からなのか、甲斐九筋には入っていない。しんしゅうみち甲州街道は江戸時代になって整備された新しい路である。身延へは、駿州往還(河内路、身延道)が通じていた。 甲府から駿河にいたる往還は三本ある。駿州往還(身延道、河内路)、中道往還(右左口路)、若彦路である。この道標は、駿州往還を示している。駿河に至るには、中道往還が最短距離である。九一色郷商人で知られた上九一色村を通る。この村は米が取れず、年貢は木工製品の販売などで稼いで金納していた。次第に中道往還や甲州街道を中心にして、馬を用いた物品の販売と流通を駿河、信州、関東諸国へ拡大していく。家康から商売免許の朱印状が与えられ、その特権を利用して各地で商売を活発に行った。
相生歩道橋を越える。甲斐の首都甲府にふさわしい、整然とした道路が交差している。甲州街道と交差する道は、甲府駅にぶつかる。裁判所の方へ曲がったが、道を間違えたらしい。甲州街道はもう少し先で枡形に曲がるようだ。都市部になると街道の面影は無く、どれが街道筋なのか分からなくなる。 裁判所の通りを直進すれば、甲府城跡の舞鶴公園を通り、躑躅ヶ崎館跡と武田神社に行くことができる。今回は街道を歩くことが目的なので、立ち寄らないことにする。
甲府城は豊臣秀吉の命で築城され、関が原合戦後は徳川のものとなった。当初は御三家が城主となる特別な城であったが、柳沢吉保が城主となり、それ以降は甲斐の国が幕府直轄地となって、甲府勤番と呼ばれる幕府の役人が管理する城へと変わっていった。甲府城は明治に入り、殖産興業政策の犠牲となって取り壊され、甲府駅の開業で分断される運命を辿ることになる。当初は天守閣があったのではないかと言われている。もし天守閣があったなら、簡単に取り壊されることはなかったであろう。 外様大名の松本城は天守閣が残り、観光名所であるばかりでなく、今も松本市の文化的精神的な支柱となっている。これに対し、幕府直轄の甲府城は天守が無く、石垣しか残らなかった。同じく幕府の直轄地であった駿府城の運命と似ている。駿府城の天守も度重なる火災で焼失して再建されることはなかった。今は堀が残るばかりで駿府公園となっている。権力に近いものほど、栄え易くまた滅び易いということか。
金手駅近くで街道が再び枡形に曲がるが、そこに天尊躰寺という寺がある。11時、22,821歩、天尊躰寺の鐘撞堂の石段に座って早い昼食にする。天尊躰寺は信玄の父信虎が1520年代に建立した寺である。尼寺を思わせるような、小さいがよく整った美しい寺である。武田の家臣で、後に家康に召し抱えられ、全国の金山開発や街道整備などに活躍した大久保長安の墓や、甲州藩士で上教来石出身の山口素堂の墓があることでも知られている。
街道は善光寺駅横で小さく枡形に曲がる。ここを左に進めば甲斐善光寺であるが、先を急ぐので立ち寄らない。信州人は、長野の善光寺の他に甲府にも善光寺があることをほとんど知らない。例え知っていたとしても、眼中に無い。本家の信濃善光寺と比べると貧弱であるだけでなく、信玄が戦火を恐れていう名目で、本尊を甲斐に持ち帰り建てた寺だからでもあろう。本尊は秀吉の死後ようやく信濃善光寺に戻された。戻したのは家康ではないかと想像される。武田氏の弔いをしたり、旧武田家臣を重用することで甲斐の人心を掌握したように、信州人の心にも配慮したことは十分に考えられる。
酒折駅の手前で街道から少し入り、中央線の踏切を渡った所に酒折宮がある。酒折宮のご神体は日本武尊である。日本武尊が酒折宮に宿泊した話は『古事記』や『日本書紀』に登場する。古事記歌謡を引用しよう。
「即ち(日本武尊)が其の国より越えて甲斐に出で、酒折宮に坐しましける時、歌日ひたまはく、 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる とうたひたまひき。爾に其の御火焼の老人御歌に続ぎて歌ひて白はく、 日日並(かがな)べて夜には九夜日には十日を とうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東国造を給ひき。」
酒折宮が連歌発祥の地であると案内に書かれているが、この歌に因るのであろう。
酒折宮から山梨学院大の前を過ぎると、石和までは単調で殺伐とした道路歩きが延々と続きうんざりする。それにしても、都市郊外の新開発された道路沿いはどれもこれも味気なく無個性である。経済効率第一主義で、店舗や事務所を安く作ることを優先した結果であろう。そこには街並みの風景や統一感を大切にしようという考えが入る余地は全くない。安い建材を用いて手早に造られた建物は、どれも薄っぺらく味気ない。一つ一つはきれいでも、隣の建物と全く調和していない。竜王駅の安藤忠雄設計の建物とまではいかなくとも、もう少し街並みを配慮した設計を建築家には期待したい。
石和宿
ようやく平等川に到着。平等川にかかる甲運橋のたもとに、「これより石和温泉郷」と書かれた大きな案内が目に入る。その手前のこんもり茂った樹の下に幾つかの石碑があり、その脇に万延元年(1860)に建てられたという道標が残っている。大老井伊直弼が襲撃された「桜田門外の変」の年である。「左 甲府身延山」、「右 富士山大山」と判読される。江戸後半になると、富士講、大山詣、身延山詣が庶民の間にも広まり、庶民の旅行者の往来が盛んであったのだ。
石和駅入口の交差点を過ぎると、石和宿の通りは開放感のあるさっぱりしたきれいな通りになる。ここも電線が地中化されている。交差点のすぐ先に赤い鳥居が見える。石和八幡宮である。八幡宮は源氏が氏神として崇拝した。鎌倉の鶴岡八幡宮は1063年源頼義が石清水八幡宮を勧請したものであるが、石和八幡宮は武田信光が1192年、鶴岡八幡宮をこの地に勧請したものである。武田信光は頼朝の信任を得ることで、甲斐武田氏の中心勢力となり、石和を本拠地とするようになった。石和は鎌倉街道の起点でもあったから、鎌倉幕府の御家人となった武田氏には地の利もよかったのであろう。これより石和は石和流武田氏の本拠地となっていく。その後も石和八幡宮は武田氏の厚い信仰を受けたが、織田軍によって焼かれ、後に家康が再興したと言われている。
石和八幡宮の先のバス停の所に、「史跡石和本陣跡」の石碑が、今は駐車場となっている金網のフェンスに邪魔をされて建っている。案内によれば、明治16年、明治天皇巡幸の御在所として予定されていたものが、直前の6月6日に火事に遭い消失したとある。現在は駐車場の脇に土蔵だけが残っている。
今まで本陣跡を幾つか見てきたが、日本橋に向かって左側にあるのが多い。 本陣跡の斜め向かいに、足湯が作られ、誰でも自由に足を浴びることができるようになっている。足を休ませていこうかとも思ったが、先を急ぐので止めた。
石和宿を抜けると笛吹川へ出る。すっと道路ばかり歩いていたので、広い川原の開放感がなんとも言えず気持ちよい。街道筋を少し離れることになるが、河川敷につくられた遊歩道を歩くことにする。笛吹川は奥秩父の山々を源流とし、東沢渓谷や西沢渓谷を作って流れ出てくる。笛吹川の名前は、木下惠介監督の映画『笛吹川』で始めて知った。戦国時代、笛吹川のほとりに住む貧農の五代にわたる約六十余年の物語で、深沢七郎の小説『笛吹川』を映画化したものである。中央線で笛吹川の鉄橋を渡るたびに、どういうわけかいつもこの映画を思い出した。
12時55分、笛吹川の遊歩道で二回目の昼食を取る。ここまで32,711歩。 葛飾北斎の富岳三十六景で、甲州街道からのものは二枚ある。一枚は「甲斐伊沢暁」、もう一枚は「甲斐犬目峠」である。伊沢は現在の石和のことで、ここから眺める暁の富士山と笛吹川を背景に、旅に出立する旅人が描かれている。富岳三十六景のなかでも秀作だと思うこの絵は、どこから描いたのであろうか。旅人は右に向かっているから、甲府あるいは信濃か身延へ行くのだろう。信濃ならば、次の宿は台が原であろうか。当時の人は健脚だから、蔦木宿まで行ったかもしれない。
笛吹川の河川敷に、「中聖牛」と呼ばれる甲州伝統治水工法の説明パネルがあった。三角形や三角柱を複雑に組み合わせた巧妙な構造である。長い試行錯誤の結果編み出された構造なのであろうが、大規模な治水に役立ったとは思われない。当時の甲斐には高度な治水技術はまだ育っていなかった。釜無川と笛吹川の氾濫に悩まされ続けたから、信玄は治水工事に心血を注いだ。竜王町の釜無川には、信玄堤が残っている。信玄の功績は、治水事業を河川流域の全体にわたって、広範囲かつ組織的に行ったことにある。武田信玄の有名な言葉に「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」があるが、領民に負担をかけないために、躑躅ヶ崎館の他に城を築かなかった。守るための城を築かず、攻撃こそ最大の防御であることを実践した。
長い笛吹橋を渡り、笛吹川に合流する日川沿いに一宮町田中の集落を進む。この日川の上流が今日の目的地である鶴瀬宿である。ここはいたるところ桃園である。一宮町では江戸時代から桃の栽培が行われていた。桃の花の咲くころであったらと思うが、今はようやく梅が咲き始めたばかりである。
蕪村の句
甲斐がねに雲こそかかれ梨の花
梨の花を、今なら梅の花、4月ならば桃の花とでも言いたいところである。
栗原宿
日川橋を渡りしばらく進むと街道は栗原宿へ入る。2時15分、39,889歩、栗原宿到着。旧甲州街道栗原宿の案内がなければ、どこが宿場跡なのか皆目見当がつかない。それほど跡形もなく、ぶどう園に変貌している。
ここからは勝沼宿まで、ぶどう園が続く。まさにぶどうの里である。江戸時代にも甲州街道沿いにはぶどう園があって、ぶどうを売っていたようである。しかし、当時の交通事情ではぶどうの輸送は大変だった。馬の背で六日ばかりかけて江戸城に納められた。残りは江戸庶民に水菓子として売られていた。江戸中期の勝沼の葡萄栽培面積は15ha程度だったようだ。2007年の山梨県のぶどう栽培面積は、4,330 haであるから、現在の0.35%ということになる。
勝沼宿
3時丁度、46,807歩で勝沼宿に入る。電柱に「甲州街道勝沼宿」の表示があるので、ここからだとわかる。勝沼宿は韮崎からここまでの中では最も当時の面影を残している。明治天皇巡幸の御在所にもなった勝沼学校跡、ようあん坂、洋風建築の旧田中銀行、三階建ての土壁が崩れかけている土蔵、格子のある町屋風の建物など、宿場であったことを今に伝えている。
日川の断崖の上の、勝沼一帯を見渡せる見晴らしのよいところにある勝沼氏館跡を訊ねた。武田信虎の弟(信玄の叔父)で、目付けとしてこの地域を支配していた。戦国武士の館の構造を知る貴重な史跡として、国の史跡に指定されている。広い館跡には堀や柱跡などの遺構が残っており、建物の配置などを知ることができる。
勝沼宿を過ぎ、国見坂を上って国道を進むと大善寺が見えてくる。養老二年(718年)行基が勝沼を訪れたとき、薬師如来の像を刻んでその像を安置したことが大善寺の始まりとされている。夢枕で薬師如来が行基にブドウ栽培を教えたという伝説があり、ぶどう寺の異名がある。甲州ぶどうの始まりとされる。鎌倉時代に建立された檜皮葺きの薬師堂は国宝に指定されているが、また日を改めて景徳院と合わせて訪れることにしよう。
大善寺には、落ち延びる途中の武田勝頼が一泊している。今日の行程は、奇しくも勝頼一族の敗走の道を辿ったことになる。私の一日は気ままな散策であったが、勝頼一行にとってはどんなにか辛く苦しい一日であったであろう。
井上靖は短編『天目山の雲』の中で、勝頼の敗走を次のように語っている。 「女たちにも輿はなかった。勝頼の室も慣れぬ山道を、一歩一歩拾っていった。その夜は、柏尾の、武田家と血縁関係にある理慶尼の庵室に泊まった。勝頼、信勝、勝頼の室、小山田信茂、その母が家の中に入り、他の者は戸外に眠った。その夜から翌朝にかけて逃亡者が多かった。 翌日、勝頼は柏尾を出発、駒飼に移った。駒飼で七日間を過ごした。小山田信茂は、勝頼を迎える準備のために母を伴って出発したが、彼は再びそこに姿を見せなかった。・・・」 勝頼は岩殿に向かおうとするが、裏切った小山田軍に阻まれる。やむなく、日川渓谷に逃げ込むが、織田軍の追跡の前に夫人と、長男信勝と共に自刃することになる。この時、夫人は19歳、信勝は16歳、勝頼は37歳であった。
裏切った小山田信茂は武田氏滅亡後、信長に拝謁するために甲斐善光寺に行ったが、信長の怒りを買って斬られてしまった。小山田氏の運命は、いずれにせよ滅びるしかなかったのである。裏切りで生き延びようとして、結局は命も名をも失うことになってしまった。徳川家康は勝頼一族を哀れみ、最期の地に景徳院を建てて菩提を弔った。
大善寺のすぐ上方、深沢に架かる柏尾橋のたもとに柏尾の古戦場がある。1868年3月6日、甲府城を占拠した官軍を迎え撃つために、近藤勇率いる新撰組と会津藩兵からなる幕府軍甲陽鎮部隊が勝沼宿に布陣し戦った。しかし、幕府軍は破れ敗走することになる。日川沿いの勝沼宿から鶴瀬宿にかけては、険しい山と谷で行く手を阻まれる。敗北し追い詰められる者にとっては、逃げ場のない容赦のない地形である。
鶴瀬宿
鶴瀬宿まではしばしば大型トラックに煽られながら国道を歩く。この辺りは国道と中央道に挟まれて、深い日川の谷があるだけである。しかしそんな厳しい地形でも、段々のぶどう畑を営んで生活している。トンネル横のもう使われなくなった吊り橋を見ながら、車を気にしながら進むと、ようやく鶴瀬宿の集落に入る。
4時20分、深い谷間はもう夕暮れになりかけていた。
谷深き鶴瀬の宿は暮れはてて夕日残れる初鹿野の山
日川に架かる立会い橋を渡る。美しい谷であるが、その向こうには産業廃棄物の処理場のようななんとも汚らしい作業場のような建物が散在している。本来は美しい谷間であったが、上方を中央道が走るようになって環境は一変した。美しい山里は、町では存在が許されない生業の集積場に変わってしまった。関所跡があると聞いていたが、すっかり忘れて通り過ぎてしまった。
笹子峠への旧道を右に見ながら、大和橋を渡ると、駅の手前に諏訪神社がある。1744年に本殿は再建されたとあり、拝殿の奥にある本殿は、実に精緻な彫刻で装飾されている。背後には神木の朴の木と、杉の巨木の切り株が残っている。今は寂れた山村であるが、宿場として栄えていた時代には、このような豪華な細工を施した神社の建造が可能であったのだ。しかし、谷の奥の寒村となった今は、手入れも行き届かず荒廃するに任されている。経済力の乏しい山村では、維持管理もままならないであろう。大明神も、鶴瀬宿を多くの人馬が行き交った昔の繁栄を夢見ているようだ。 4時35分、今日の終点である甲斐大和駅に着く。総歩数は53,896歩、9時間35分の長旅であった。
2009年2月18日 駒飼宿から大月
駒飼宿
7時20分、甲斐大和の駅を出発。セブンイレブン横から国道を下り、笹子峠への県道入り口に向かう。県道に入るとすぐ右側に旧道らしき道があるので、そちらを登っていく。やがて石垣だけが残る家の跡があり、甲州街道駒飼宿の表示が現れる。
案内板によれば、駒飼宿には32軒の家があった。駒飼は今でも宿場の面影を残す、山間の小集落である。本陣と脇本陣の跡が、空き地となって残っている。この宿場の本陣は、初めて右側にある。日本橋に向かって左側の法則は成り立たないようだ。養真寺という寺があるので、立ち寄ってみる。宿場と山の間にへばり付いた小さな寺である。境内から見上げると、これから登る笹子の山が朝日に輝いている。
宿場を出ればもう山である。山道になる手前の天狗橋のたもとに、芭蕉の句碑がある。
秣負ふ人を栞の夏野哉
栞は枝折のことで、枝を折って道しるべにすることである。芭蕉が奥の細道の道中で、那須の黒羽というところでの句である。秣と駒の結びつきで選んだのだろう。しかし、駒飼宿は、夏野というよりは険しい谷である。芭蕉には馬の句が多い。芭蕉は旅の人で、旅は馬と切り離せなかった。芭蕉の旅の苦労を知る俳句を二つだけ選ぶと、
徒歩ならば杖つき坂を落馬かな
冬の日や馬上に氷る影法師
ついでながら、一茶の『おらが春』の馬の句になると
馬迄もはたご泊や春の雨
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
とユーモラスであるが、当時の宿場の一風景を彷彿とさせる。
笹子峠への県道を登る。日川の山々に朝日が射して、葉を落とした雑木の茶色が美しい。眼下に見る駒飼宿にはまだ日が当たっていない。やがて県道はゲートに差しかかる。12月5日から4月中旬までの冬季、車は通行止めとなる。歩く者にとってはありがたい。九十九折の県道を進むと、杉木立の中に「桃の木茶屋跡」の標柱が現れ、少し先の橋を渡ると、復元された峠道を登るようになる。所々で踏み跡が乏しくなる道を辿りながら進む。雨が降って沢が増水すると、足を濡らしそうな所もある。昨夜は凍みたので、道には霜柱が立っている。人も車もいない静寂な山の中に、さくさくと霜柱を踏む音だけが響いている。
冬枯れの笹子峠に朝日射し霜柱踏む音のさやけし
「甘酒茶屋跡」を過ぎると、有形文化財となっている笹子邃道の入口に出る。ここから山道を登ると、天神宮の赤い鳥居を左に見て峠に到着する。 峠に立つ。9時10分、9,922歩、駒飼宿から2時間かかった。
峠は雑木で覆われているので、枯れ枝の間から雪を被った南アルプスの嶺々を見ることができる。峠は狭く、地形は急峻である。20頭くらいの馬を常備していたというのはどのあたりだろうか。峠の標高は1096mで、甲州街道の最高地点である。2番目は富士見の原の茶屋で960m、その間にある甲府が260m、3番目は小仏峠の548mであるから、甲州街道はアップダウンの激しい道である。
峠を下る。歩きやすいようにランニングシューズで来たが、この峠の道だけは足の踏ん張りが利かず、木につかまりながら県道まで下る。県道の途中から、指導標に従ってよく整備された峠道をしばらく下ると、「矢立の杉」である。まだ細い杉林の中に、9mの胴回りはある樹齢千年を越す老木が堂々と立っている。中は空洞で、根元のあたりは傷んでいる。幹も途中で折れてはいるが、風格と威厳があり神々しさを感じる。神さぶという形容がぴったりする大樹である。葉は青々として、老いてなお盛んである。
冬木立矢立の杉の青さかな
矢立の杉を下った所に、三軒茶屋の跡があり、ここに明治天皇の野立て跡の碑が建っている。この説明文が面白い。天野治兵衛家で野立があり、この聖跡を永久に保存したいが、中央線の開通で寂れ、家の存続は不可能になった。せめて碑だけでも建てて後世に残すことにした、という文面である。廃屋にせざるを得なかった主人の無念さが伝わってくる。
雑木が葉を落としているので、山中は明るくて気持ちが良い。葉が茂る夏は気がつかないが、藤の大木があちこちで木に巻きついている。これが大蛇のようだ。
蛇の如冬木にからむ藤のつる
再び県道を下り、笹子町黒野田の新田集落に入る。それほど高くはないが、親しみの持てる甲斐の山々に囲まれた小さな集落である。山の雑木の落ち着いた冬枯れ色が、快晴の青空の中に美しい。国道と合流する辺りに来ると、「矢立の杉」と書かれた青色の幟が、随所に立てられている。大月では、岩殿山、猿橋、そしてこの矢立の杉が、観光の目玉である。
黒野田宿
追分の集落を過ぎ国道を歩くが、なかなか黒野田宿がない。国道が中央道のすぐ下を走るようになり、とっくに通り過ぎてしまったのかと思う頃、普明禅院の前に出た。門の脇に、頭の欠けた、見落としてしまいそうなほどの木の標柱があり、「一里塚跡 黒野田」と書かれている。
普明禅院は、小さな田舎びた親しみのもてる寺である。狭い境内は生活の匂いがして、禅寺とはちょっと思えないところが面白い。11時、19,023歩。ここで昼食とする。門の脇に最近のものと思われる芭蕉の句碑がある。お寺によれば、もともとは笹子峠の山中、三軒の茶屋付近にあったが、破損して、かたつむり以外の頭の部分が分からなくなっていた。それを地元とこの寺で復元しようと言うことで、当寺院に最近立てたということである。
「行くたびにいどころ変わるかたつむり」
とあるが、どうも芭蕉の句とは思われない。 芭蕉のかたつむりの句では、須磨の鉄拐山で詠んだ
かたつぶり角ふりわけよ須磨明石
がある。 寺の横の黒野田橋を渡ると、黒野田宿が始まる。本陣跡を捜したが標識がない。町の人に聞くと、「明治天皇が泊まられた家のことですか。このあたりの人は本陣と呼んでいますよ」と、堂々とした門を右端に構えた大きな旧家を教えてくれた。なんの表示もないが、なるほどこれは本陣であったに違いない。ここの本陣は街道の右側である。
本陣の先に、笠懸地蔵と呼ばれている、分厚い板状の笠を頭に置いた風変わりなお地蔵さんがある。案内の由来によれば、安政二年(1853年)建立とある。天保の飢饉で起こった郡内一揆と関係があるのではないかとのことである。
黒野田には、江戸時代から伝わる人形浄瑠璃が「追分の人形芝居」として今も守られている。淡路の人形浄瑠璃は藩主蜂須賀家の庇護によって全国各地を巡演した。最盛期の18世紀中頃には、座数40、人形遣い930人を数えたという。淡路の人形浄瑠璃はこの頃に黒野田にも伝えられ、村落の若者たちによって受け継がれてきた。しかし明治になり、文明開花の風潮に圧されて人形浄瑠璃は急激にすたれていった。これを惜しんだ追分の天野忠甫は、人形浄瑠璃を残すべく、芸を磨くために東京の西川伊三郎に入門した。明治20年に西川伊久造の芸名をもらった天野忠甫は、村に戻り座を興した。これが現在に伝わる「西川一座」である。明治期の二度の水害で、人形衣装や小道具などをほとんど流出してしまい、廃絶の危機に陥った時があったが、天野忠甫は私財を投じて各地から人形や衣装を買い求めた。今は五代目が西川一座を引き継いでいる。人形浄瑠璃は各地に広まっていったが、そのほとんどは消滅してしまった。この黒野田に伝統芸能として生き残ることができたのは、ひとえに人形浄瑠璃に情熱を傾けた天野忠甫という、一人の人間の存在による。
笹子駅を過ぎたところに、明治38年創業の「みどりや」という鄙びた菓子屋がある。そこで笹子名物の笹子餅を買った。学生時代、実家のある松本と新宿を往復していた頃、電車が笹子トンネルに差し掛かると、肩から提げた箱に笹子餅を並べた車内販売のおじさんが乗り込んできて、「笹子餅はいかがですか」と独特の調子で売り歩いていたのを思い出す。何時乗っても同じおじさんだった。買っている人を見たことがなく、気の毒に思ったものだ。長い列車だから、何個かは売れたのだろう。何時だったか、隣の人が買って、私に分けてくれたことがある。甘さがほどよくおいしいと思った。
そのうち何年もたって、そのおじさんを見かけなくなった。このことを思い出し、笹子を通ったら買って食べようと決めていた。 まだ笹子峠越えのころ、笹子峠の茶屋で「力餅」として売られていたが、明治36年、中央線の開通により峠の交通は途絶えて、いつか忘れられてしまった。当時の蒸気機関車では笹子トンネルを抜けるのに10分程もかかり、乗客は煤で苦しめられた。そこで乗客に元気を出してもらおうということで、「笹子餅」として販売を始めたということである。
笹子の外れの笹子川橋のところに、笹一酒造の大きな建物とみやげ物店酒遊館がある。この入口に「世界一の大太鼓」ギネスブック登録とある大太鼓が置いてあり、酒作り工場を見学した観光客が代わる代わる叩いている。口径4.8m、胴長4.95m、重さ2tの大太鼓である。
国道の吉久保入口の交差点で、吉久保の集落に入る。ここはかつて「葦ヶ窪」、別名を「阿弥陀海道」と呼ばれていた。ここは湿地帯で葦が生い茂っていたので「葦ヶ窪」の名がある。「葦が窪」が「阿弥陀海道」と言われるようになったのは、行基菩薩の作といわれる阿弥陀仏を安置する阿弥陀堂が村の南にあったからである。「阿弥陀が谷(あみだがやつ)」と言ったのが次第に訛って「海道(がいとう)」の字を当てるようになったということである。
昔は葦ヶ窪に葦ヶ池という池があった。ここには葦ヶ池に因んだ親鸞上人念仏塚がある。親鸞上人がこの地に立ち寄った折、葦ヶ窪の地頭小俣左衛門重澄から娘「しな」の成仏を懇願された。しなは阿弥陀堂に篭って修行する修行僧に恋をしたが、受け入れられず、悲しみのあまり葦ヶ池に身を投げた。このしなが毒蛇となって旅人を苦しめた。親鸞上人が、南無阿弥陀仏と書いた石を池に投げ入れると、しなは成仏したと言い伝えられている。この話は、安珍と清姫の道成寺伝説が元になったものであろう。安珍が修行僧に、清姫がしなに、法華経が南無阿弥陀仏になっている。浄土真宗を広めるための説話であったかもしれない。
吉久保(阿弥陀海道)は、石垣に趣があり、古い民家も多く、美しい集落だ。韮崎から蔦木の間にある教来石、白州、武川などの国道から離れた街村は、昔ながらの家屋敷が残り、どの家の生垣や日本庭園も手入れの行き届き、美しい集落を形成している。このような美しい日本の風景を発見するのも、街道歩きの楽しみの一つである。こういう所を歩くのは本当に気持ちが良く、嬉しくなる。残念ながら、笹子から大月にかけては国道沿いが多く、このような静かで美しい集落はここだけであった。
白野宿
立派な社殿を持つ「子神社」前を通り、石垣の上に風格のある二層の山門を持つ「宝林寺」を過ぎると、白野宿になる。12時30分、25,500歩。古い家並みが、宿場であった面影を残している。全体に貧しい感じは否めない。地元のご老人に本陣跡を尋ねたが知らないという返事だった。ここに住む人たちにも宿場の記憶は薄れているのだろう。白野宿は、今は中央道が通っている山麓と笹子川に挟まれた狭隘な土地で、田畑を耕す土地すらない所である。宿場だけで成り立っていたのだろう。
白野宿は郡内一揆の発端となった所として知られている。歴史によれば、「天保7年(1936年)8月14日、都留郡上谷村(都留市)の米商人など6軒の打ちこわしをきっかけとして、8月20日、下和田村の次左衛門(武七)と犬目宿の兵助を頭取として、甲州街道沿い22ヵ村農民2000人余は、白野宿(大月市)に蜂起した。」とある。1833年から1839年にかけての天保の飢饉でのことである。同年には、三河加茂でも大規模な一揆が起こった。大坂で大潮平八郎の乱が起こるのはこの翌年である。
白野宿から初雁宿までは、ところどころ歩道もないような国道をひたすら歩くことになる。振り返ると、白野宿の背後の中央道の上方に、ゆったりとした山容の滝子山が聳えている。いつか登ってみたい山だ。落葉樹の山だから、秋の紅葉は美しいであろう。
初雁宿
1時に中初雁宿に着く。明治天皇御小休跡とあるから、これが本陣だろうか。特に見所のないところであるが、その先の初雁小学校前に芭蕉の句碑が建っている。
山賤のおとがい閉るむぐらかな
貞亨2年(1685年)、野ざらしの旅の帰路、木曽から甲斐路を歩いたときの、「甲斐山中」での作である。顔までも伸びている蔓草の生い茂る山中で、無愛想な山里の人に行き遇ったときの情景が目に浮かぶ。もう一つ、「甲斐の山中に立ちよりて」として
行駒の麦に慰むやどり哉
を残している。芭蕉は、江戸の大火で芭蕉庵を焼け出され、弟子の一人であった郡内の谷村藩国家老に招かれて、天和3年(1683年)の半年間を郡内の谷村で過ごしている。この時の旧知を訪ねたのであろうか。その主人への挨拶である。芭蕉には馬の出てくる句が14ばかりあるが、駒を使ったのはこれだけである。甲斐は名馬の産地として知られていたから、「甲斐の黒駒」を思い浮かべたのであろう。 この時の谷村に行く道中で、「甲斐の郡内といふ処に至る途中の苦吟」として
夏馬(かば)ぼくぼく我を絵に見るこころ哉
が残されている。これが後に
馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
と推敲を重ねている。夏の暑い日に馬にまたがってのろのろと難渋しながら郡内に向かったのであろう。芭蕉は乗馬が苦手であったようだ。
下初雁宿
1時20分、下初狩宿に着く。30,338歩。
下初狩は山本周五郎の誕生の地であると聞くから、そこを訪れてみた。生家が保存されているものと思い期待して行った。街道沿いの、街道より窪んだ敷地に、どっしりとした構えの力強く大きな旧家が建っている。家の左横にある堂々たる門が目を引く。その家の前に、山本周五郎生誕の地の標識が立っている。
明治36年(1903年)に、山本周五郎はこの地に生まれた。その時の清水家(本名)はすでに没落し、一家は窮乏のどん底にあったという。4年後には大洪水があって、山津波で家は泥に埋まり、祖父母など家族四人を家と共に失った。その後、一家は東京に移った。この家は後に建てられたものである。山本周五郎は生誕に関することを語るのを好まず、初雁村の生まれであることを隠していたという。そのためか、生誕地の標識があるだけで、この地に生まれたという事実を伝えているだけである。この標識すら山本周五郎にとっては迷惑なことかもしれない。
下初雁宿はこれといって見所のないところであるが、宿外れの中央線の踏み切り横に、江戸時代後期に建てられた、室町時代の僧侶道興の歌碑がある。修験道の寺である聖護院門蹟の座主であった道興は、文明19年(1487年)東国を行脚した。初雁を通過した時に、帰雁を見て詠んだ歌である。
今はとてかすみを分けてかえるさにおぼつかなしやはつかりの里
霞の中を北へ帰っていく雁がぼんやりと見えるとともに、旅の人もまた不安な思いをしていたのかもしれない。大月にある岩殿山は、小山田氏が城を築く前は、聖護院の修験道の山であった。
歌碑の先で、甲州街道は甲州砕石の採石場の中に消えて行く。砕石を運ぶベルトコンベアーの下を潜り、砕石場の道路と区別がつかなくなっている。採石場から先の旧道は、今も笹子川に沿って南側の山際を通っているが、洪水で一部が流され現在は通過できないと、土地の人に教えられた。花咲宿までは国道を歩くしかない。大月署を過ぎるころから、岩殿山が見えてくる。今日の終点の大月である。
上花咲宿
下花咲宿
河口湖へ行く中央道を潜り、上花咲宿と思われるところを過ぎ、さらに大月インター入口を過ぎると、左に下花咲宿の星野家住宅が見えてくる。
星野家住宅は、両脇を藍屋とスカイラークで挟まれ、そこだけがタイムスリップしたように、まるで博物館のように建っている。 2時40分、36,884歩。星野家住宅の裏庭で休憩する。裏には井戸や土蔵があり、旧家の昔の暮らしぶりを髣髴とさせる。本陣、庄屋、問屋を務めた家柄であり、天保6年に焼失したが、すぐに建て替えられた。建て替えられたからこそ、今日まで残っているのかもしれないことを思うと、火事が幸いしたと言えなくもない。塞翁が馬であろうか。
国道脇に一里塚跡がある。甲州街道筋の一里塚はほとんどが消えてしまい、跡さえはっきりしない所が多い。下諏訪宿からここまでの一里塚で原型を留めているのは、御射山神戸の一里塚と塚平の一里塚の二つだけである。
富士急線を越すと追分である。大月は交通の要衝で、甲州街道と、郡内谷村を経て上吉田へ向かう富士道との分岐点である。主要な分岐点であったから、追分には多くの石碑が残っている。「右 甲州道中、左 富士道」の道標が幾つも見られる。
江戸から吉田までは約30里であるから、3~4日の行程である。富士詣はそれから富士登山を行うのであるから、少なくとも7泊8日は必要であった。今日の登山コースに例えれば、熟練者健脚向きコースということになろう。しかし、レジャーのない時代であったから、庶民は何年もお金を貯め、道中を楽しみながら歩いたに違いない。
大月宿
追分を過ぎると、大月の市街地に入る。メインストリートは鄙びていて、いかにも地方都市の商店街の趣である。ここでも「矢立の杉」の青い幟を見かた。
3時20分、大月駅に到着。ちょうど韮崎行きが発車間際で、これに飛び乗った。39,772歩、今日の行程は短めであった。初雁のあたりで、リニアモーターカー実験線のトンネルの切れ間を目にすることができる。今日歩いた甲州街道に沿って、都留市の山中にトンネルを掘り実験線が通っている。外から見えないから、関心がなければ気付かない。甲州街道を、鉄道が、国道が、高速道路が走る。やがてはリニアーモーターカーが走るようになる。
2月22日 大月から藤野
7時10分、大月駅を出発。大月は、郡内の中心地であった谷村に通ずる交通の要衝であるばかりでなく、相模と武蔵に備える重要な軍事的拠点であった。しかし、大月は旅籠二軒程度の小さな宿で、中央線の開通により市街化が進んだから、宿場としては見るべきものはない。
甲斐国は大きく国中(くになか)と郡内の二つの地域に分けられる。国中は甲府盆地を中心にした甲斐の東部一帯を、郡内は笹子峠をこえた甲斐の西部一帯を指す。現在の大月市、都留市、上野原市、富士吉田市が郡内に当たる。郡内の中心は都留郡の谷村であったから、単に郡内というと谷村を指す場合が多い。
戦国時代には、谷村に武田の重臣小山田氏が本拠を置き谷村館を構えていた。武田氏滅亡後は、一時期家康が甲斐を支配するが、秀吉の天下統一後は秀吉の支配下に置かれ、谷村城が築かれた。江戸時代になると、徳川譜代の鳥居氏に次いで秋元氏が72年間にわたり藩主を勤めた。
郡内は山間地で耕作地に乏しく、農業生産力が低い。秋元氏の治世下において、農業用水路の開削が行なわれた。桂川の水をせき止め城下に引き入れた大堰は、猿橋まで延長され、穀倉地帯を生み出した。また、農業に代わる産業育成のために、養蚕を奨励し機織技術の改良に力を入れた。これが「郡内縞」として知られる絹織物へと発展していく。江戸後期には郡内縞が江戸で人気を博するようになる。1704年、柳沢吉保が甲府藩主となると、谷村は幕府領となって吉保の支配するところとなり、谷村城は撤去されて城下町は商業の町へと変貌していった。
芭蕉が谷村藩家老に招かれて谷村に長期滞在したことや、上谷村における打ちこわしが郡内一揆のきっかけとなったことは前に述べた。
茶壺道中に少し触れよう。将軍家のお茶は、初夏に、宇治から中山道を通り、下諏訪から甲州街道を経て江戸へ運ばれた。この時、茶壷の一部は大月の追分から谷村に運ばれ、谷村城の属城である勝山城の茶壷蔵で夏の間保管された。谷村での保管は、天保の改革までの約100年間続いたが、これが廃止されると茶壺道中は中山道経由となり、甲州街道は使われなくなった。茶壷道中はほぼ250年間に渡って続いたが、大名行列に優先すると定められ、大変権威のあるものだった。参勤交代では、三藩が甲州街道を使っただけだから、茶壺道中は数少ない公式行事の一つであったであろうが、沿道の人々は大変迷惑もしたようである。「ずいずいずっころばし胡麻味噌ズイ、茶壷に追われてトッビンシャン、抜けたらドンドコショ、・・・・」は、庶民が戸を閉めて、じっと通り過ぎるのを待っていた情景を歌っていると解されている。
大月の商店街を進み、三島神社の横を通る。「大月」の名前はこの神社にある「槻」に由来するそうだが、三島神社にはもうケヤキの大木は残っていない。 三島神社からは岩殿山が間近に見える。岩殿山の記憶は、学生時代の中央線から見たときの驚愕に始まる。電車からだと岩壁を見上げることになるから、切り立って見える。こんなすごい岩山が、北アルプス以外にこんな所にもあるのかと、単純に驚いた。それ以来、岩殿山は単に姿かたちの特異な岩山としか見ていなかった。
霊山を思わせる地には必ず寺院が建立される。岩殿山にも9世紀末に天台宗の円通寺が造られ、13世紀には聖護院の修験道の山となった。16世紀になると、武田氏の傘下となった小山田氏が城を築いた。武田氏にとって、天然の要塞である岩殿城は、相模の北条氏、駿河の今川氏、武蔵の上杉氏に備える重要な軍事的拠点であった。大月は相模、武蔵に通じる交通の要衝である。武田勝頼が最後を頼んだのは岩殿城であったが、小山田氏の裏切りでそれも果たせなかった。江戸時代になると甲斐は幕府領となった。江戸城が危機に陥った時には、甲州街道を甲府に逃げ込む途中の要害となったであろう。
駒橋発電所の巨大なパイプの下を通過する。電車からはよく目にしていたが、近くで見るのは始めてである。東京電力が明治40年に建設した水力発電所である。建設当時は、今で言うハイテクとして、地元の人の自慢だったに違いない。
駒橋宿
7時50分、駒橋宿着。ひっそりとした宿場の感じがよい。国道から外れたのが幸いであった。宿場からは岩殿山を正面に望む。岩殿山から右へ、百蔵山さらに扇山へと連なる山並みは、高くはないが、やさしくゆったりと広がる。岩殿山の背後には、雪を被った奥秩父の山々が連なる。猿橋までの間、水平に低く広がるこの山並みの景色が、心を引きつけて離さない。今は開発が進んでしまったが、実に美しい所である。
猿橋宿
猿橋宿を通って猿橋に向かう。当時の猿橋宿は、橋の見物客で賑わったといわれるが、今はもう宿場の面影は消え、田舎風の商店街に変わっている。
8時50分、猿橋着、9,813歩。桂川はここで突然のように切り立った岩壁に挟まれ、景勝の地を創り出している。狭い断崖に、猿橋の他に国道の橋や水路など四つの橋が懸かっている。これが猿橋だけなら絶景であったろうにと悔やまれる。岩国の錦帯橋、木曽の桟とならんで日本三大奇橋として知られるが、外観はさておき、構造力学的には理にかなっている。アーチ型の橋と同じ原理である。それを岩壁に木を差し込んで実現したアイデアが見事である。百済からの渡来人志羅呼(しらこ)の発案という。「美しいものは合理的である」は真理であろう。
国道を鳥沢宿へ向かう。猿橋からは邪魔な国道の橋であるが、皮肉にもここから見る猿橋の景色はすばらしい。猿橋が懸かる深い渓谷の向こうに岩殿山があり、その背後に奥秩父の山々が広がる。この高さと奥行きと広がりのある三次元の景観は、めったにあるものでは無い。
鳥沢への途中で、桂川が大きく北に湾曲している所に精進場の跡があるので、川まで下りてみる。「川に車で行けます」の手書きの案内を当てにして下りてみると、ちょうどそこが精進場であった。石碑や石仏が残っている。富士講の人たちは、ここで身を清めたのである。 国道は桂川に沿って鳥沢宿へと南下して行くが、ここから猿橋方面を望むと、岩殿山や遠くの奥秩父連山がまるで風景画のように展開している。桂川の対岸にある山の形が、なんとも言えずに良い。丸みを帯びた山が、どことなく中国的である。
上鳥沢宿
9時50分、上鳥沢宿、14,519歩。この宿は国道沿いではあるが、建物が奥まって建てられていたためか、古い建物が幾つか残っており、当時の面影を今に伝える。本陣跡や、一里塚跡などを見ながら、下鳥沢宿へと続く街並みを進む。宿の中程に、中央線の鳥沢駅があるが、小ぢんまりとした木造の建物が好ましい。いつまでも残してほしい建物である。「小林畳店」と大きな看板を掲げた畳屋さんがあった。古い家をそのまま作業場にしている。このように、古い建物を大切に使い続けているのを見るのと、心が自然と和んでくる。
下鳥沢宿
福地八幡神社で早い昼食とする。いつもの事ながら、神社や寺の石段が、街道歩きの休憩場所となる。 下鳥沢も当時の家を幾つか残しており、宿場らしさの濃い街並みである。
下鳥沢を過ぎた所で、甲州街道は旧道となり、国道20号線から大きく離れる。 旧道は北へ向かってひたすら山を登る。中央道の下を通り抜けると、街道は中野の集落へ入る。さらに原田の集落まで登ると、背後に富士山が見えるようになる。甲府以来、初めて見る富士山である。さらに山谷の集落へと上りが続く。
この鳥沢宿から犬目宿までの旧道は、今日一日の行程の白眉であった。車道で
はあるが、車はたまにしか通らない。緩やかな坂道が、カーブを描きながら山の中に続いている。富士山を眺めながら、のんびりと静かな街道歩きを満喫できるところである。鳥沢駅から上野原駅までのハイキングコースとしても楽しめる道だ。早春の柔らかな日差しを浴びて歩くのもよいものであるが、新緑や紅葉の頃もすばらしいだろう。下諏訪を出発してから初めて、街道歩きのグループに出会った。
自然に囲まれた気持ちの良い道を歩いていると、取りとめの無いことを考え始める。昔の旅人は一日に十里を、ただ黙々と歩いたのだろうか。様々な事を考えながら歩いたのではないだろうか。歩く事は頭に良い刺激を与える。じっとしていても思い付かないようなことが、ふと頭に浮かんだりする。日常の束縛から離れて心が自由になると、突然アイデアが生まれる事がある。昔は、何をするにも歩かねばならなかったから、考える時間はたっぷりとあった。しかも、絶えず頭によい刺激を与えながらである。旅の歌人、旅の俳人も、地方の風物や風景や人情に触れ、旅情のなかに創作意欲を高めながらも、また歩く事が創作を助けたのではないかと思う。商人なら新しい商売のことを、職人なら細工の工夫を、旅の芸人は新しい芸を、絵師ならば新しい画風を、旅の中から生み出していったのではないかと、こんな事を考えながら歩いた。
現代人はぼんやりすることがなくなった。寸暇を惜しんで、何かをしていないと落ち着かない。何もすることがなければ、テレビのスイッチを入れてしまう。歩く時も音楽を聴いたりしている。ひっきりなしに携帯のメールをチェックする。ゆっくりと時間をかけて何かをするという事がなくなってしまった。時には、車も、電車も捨てて、街道を歩いてみることは、価値のあることではないだろうか。
十返舎一九の『方言修行金草鞋』には、旅籠が汚かったり、食事がひどかったり、道中でひどい目に会ったりした話が出てくる。旅は、決して快適なものではなかったが、旅の道連れで旅人同士の触れ合いがあった。現代人の快適な旅行よりも、はるかに豊かなものがあったと想像される。
上りはさらに続く。石畳の残る旧道や恋塚(一里塚跡)を経て、君恋温泉の入口に着く。この辺りが頂上であろうか。ここからはゆるい坂道となり、しばらく下っていくと「ここより犬目宿」の立て札に出会う。
犬目宿
11時35分、犬目宿の法勝寺、22,415歩。ここから富士山を望む。犬目宿は山の中の、静かで美しい集落である。扇山を背にしたなだらかな山麓に集落が連なっている。暮らしてみたいと思わせるような村である。今でこそ、中央道談合坂SAの近くであるが、中央道が出来る以前は、全くの山の中であったであろう。現在は車の恩恵か、里と変わらない普通の暮らし振りである。
本陣跡を探したが標識がない。村の人に尋ねたら、義民兵助の生家を指して、そこではないかと教えられた。仕方がないので、行きつ戻りつしながら、庭で作業をしている人に尋ねたら、ようやく本陣跡だという場所を知ることが出来た。法勝寺に近い、宿の入り口の所である。
犬目宿の外れに、平助の墓の指導標があったので立ち寄る。墓は、村外れの富士山がよく見える眺めのよい高台にある。ここから見る裏山の風景も実によい。梅の花が山里のあちこちで咲き始めている。紅梅、白梅が景色に色を添えている。
犬目宿は、これといって耳目を集める物のない村であるが、「郡内一揆」の首謀者の一人である兵助の出身地ということで知られる。兵助は命を賭けて村を助けたが、今も村の知名度アップに貢献している。一揆のもう一人の首謀者である下和田の武七は、自首して獄死したが、兵助は逃亡を選んだ。逃亡は信州、北陸、山陽、四国、近畿を経て木更津に至った。そこで寺子屋を開いて十数年間暮らし、故郷へ戻った。義民として村民が密かに庇護したのだろう。彼は十数年間を故郷で過ごし、維新前年に71歳の天寿を全うしている。逃亡中は巡礼者に変装したり、宿泊先では読み書きやそろばんを教えたりしたようだ。当時としては教養人であったことが、身を助けた。逃走前に道中手形を入手できたことから、村人の支援があったのだろう。幕末になると庶民の旅行も多くなっていたことも、逃亡を可能にした。また幕府の統制も緩くなっていたのであろう。
犬目宿を出て、安達野から矢坪までは山道の旧道を歩く。眼下に談合坂のSAが見える。東京に車で行く時には、いつも談合坂で一休みするのを習慣にしているが、このすぐ横に宿場と街道があるとは全く思いもしなかった。歩くことは、発見の連続であるが、これもその一つである。
葛飾北斎の『富岳三十六景』犬目峠は、どこから見たのであろうか。犬目峠は犬目宿と野田尻宿の間にあると聞くが、その場所がどこなのかわからない。今日歩いたなかでは、犬目宿を外れた、平助の墓のあたりから見る富士山が、特に印象的だった。
矢坪坂の古戦場跡を通り、中央道の橋を超えて中央道沿いに進む。荻野の一里塚跡を過ぎると、左手に旧道が見える。中央道を再び越え旧道を下ると、野田尻の西光寺に着く。
野田尻宿
1時5分、西光寺で休憩、28,933歩。早昼を食べたのでそろそろお腹がすく。半日歩くと本当に腹が減る。当時の人々はどんな食事をしていたのだろうか。一時間に一里歩いて300Kカロリーを消費するとして、8時間歩けば、2400Kカロリーの消費になる。これをご飯に換算すると、茶碗で10杯分以上になる。庶民の旅では贅沢もできなかったであろうし、山中の甲州街道では、大した食事は出なかったであろう。
安藤広重の『広重甲州道中記』に、野田尻宿の夕食のメニューが出てくる。それによると、塩あじ半切れ、汁菜、平氷どうふ、いも汁、飯とある。朝、昼、晩とご飯を三杯は食べないと、腹は持たなかった筈である。蛇足ながら、安藤広重は「へのような茶をくんで出す旅籠屋は、さてもきたなきのた尻の宿」と酷評している。十返舎一九も韮崎から先の甲州街道を、「江戸より甲府へゆく道中よりこの道中は山坂もなく宿屋などもきれいにて」、と言っているから、旅籠はよっぽど汚かったのであろう。
西光寺の門前、中央道の土手の下にある「お玉の井戸」の伝説の碑を見て、野田尻宿へ入る。野田尻も山中の静か集落であったであろうが、今は中央道の真下の村となってしまった。明治19年に大火に遭ってほとんど焼失したとあるが、古い家も残っており、宿場の面影は留めている。街道を歩いていると、街道や宿場には、そうではない所とは違った「街道の匂い」とでもいうものが残っていることに気が付く。だから、旧道かどうかは、なんとなく見分けられるものである。火事くらいでは、その「宿場の匂い」を消し去ることはできないのだ。
甲州街道は、中央道によって分断されてしまい、このあたりからは完全に消え去っている。野田尻宿の終わりかけた所で、旧道は中央道に向かって進み、トンネルの中に消えて行く。ここから大門の集落までは、中央道沿いに新しくできた道路を歩くことになる。 途中に長峰砦跡がある。案内板と句碑などが整備されている。長峰とは鶴川宿の南方から犬目の矢坪に至る尾根筋をいう。長嶺砦は中世の山城であったが、その歴史は不明とのことである。史跡のほとんどは、中央道の工事で破壊されてしまった。その中には、甲州街道も含まれている。ここは、武蔵、相模が甲斐と国境を接する所であるから、国境警備の山城の一つであったことは確かだろう。戦後時代には、武田信玄の家臣で上野原を拠点としていた加藤氏が警護していたと言われている。
2時、大門の観音堂で一休みする。ここにはトイレとベンチがあり、街道歩きの休憩にはもってこいである。杉の大木があり、その下に甲州街道の案内図が設置されている。大門は簡素であるが静かで落ち着いた集落である。梅の花が美しく咲いている。どの家の梅もきちんと刈り込まれており、手入れが行き届いている。
大椚の一里塚跡を過ぎ、中央道の架橋を再び渡る。片側3車線に拡張された中央道の先に広がる上野原の町を見ながら新道を行くと、旧道の入口があることに気付く。竹林のある旧道を下っていくと鶴川宿である。
鶴川宿
2時40分、鶴川宿、36,041歩。鶴川宿は鶴川の川留めに備える川渡りの宿であった。そのためか、なんとなくうらぶれて寂れた感じのする宿である。もう当時の建物は残っていないが、宿場の雰囲気は残されている。昭和初期までは、どこの宿場もそうであったように、鶴川宿も軒をきれいに連ねていた。このあたりも養蚕と絹織物業が盛んで、最盛期にはどの家も蚕を飼い、道を塞ぐほどに桑の葉が溢れていたという。
宿場を出ると鶴川となる。渡し場は今の鶴川橋より下流にあった。中央道の高架の下と鶴川橋の中間点辺りであろうか。鶴川橋を渡り、上野原宿へ至る坂道を登りながら振り返ると、鶴川宿もまた山の中の集落である。山の中と言えば、鳥沢宿を出てから鶴川宿まで、自動販売機が一つもなかったように思う。知らず知らずのうちに、自動販売機はあって当たり前に思うようになってしまった。あのけばけばしいデザインの機械が、街の景観をどれだけ損なっているか、改めて思い起こすのであった。
鶴川入口の三叉路にある歩道橋を渡って旧道に入る。上野原本町で国道に合流する。ここは、案下道(あんげみち)への分岐点である。案下道はまたの名を陣馬街道というが、八王子へ通じる甲州街道の裏街道である。
武田信玄の姫君が甲斐、駿河、相模の三国同盟の証として、相模の北条氏に嫁入りする時、この上野原が引き渡しの場所であった。送る側、受け入れる側双方の人数は、1万5千人に及んだというから、大変な騒ぎであったであろう。上野原は甲斐と相模の境にあり、山峡を通る甲州街道には珍しく広がった台地状の地形であるから、引き渡しの場所になったのであろう。街道を歩いてくるとこの事が実感される。
上野原宿
3時15分、上野原宿、38,786歩。上野原宿は完全に商店街に変貌している。宿場の面影を最後まで残していた脇本陣の若松屋も、近年になって取り壊されたという。名物酒饅頭の店が何軒かあるので、酒饅頭を買う。
江戸時代の中期には上野原宿に郡内織の市が立った。一と六の日を市日としたので六斎市と呼ばれ、郡内唯一の市として賑わったという。
商店街を過ぎ、旧道へ入る。一里塚跡を過ぎて、いかにも旧道らしい木立の前で休憩する。
旧道を下っていくと、鬱蒼とした鎮守の森が見えてくる。諏訪神社である。少し荒れた感じではあるが、大木の木立が神社に風格と威厳を感じさせる。諏訪神社の創立は12世紀中ごろと伝えられている。この地には、諏訪から移住した上原氏がいた。その上原氏と、ここの支配者であった古郡氏により、諏訪神社が勧請されたと言われている。諏訪神社が全国に広まっていく一つの典型例であろうか。平安時代の終わりには、諏訪神社はすでに武勇の神として名を馳せていた。
桂川へ下る急坂の途中に諏訪番所跡がある。これで、甲斐における三番目の口止番所ということになる。信州口の山口番所、郡内口の鶴瀬番所、そして相模口であるこの諏訪番所である。天領である甲斐は、幕府の監視の目も厳しかったのであろう。番所跡から境川橋へ下る道筋から見上げると、関所を設けるには最適な険しい地形であることがよくわかる。
境川橋の上では、魚釣り禁止の注意書きにも拘わらず、たくさんの人が釣りを
していた。橋の上から見る桂川上流の眺めは幽玄な趣がある。橋から下は相模川となる下流の眺めは、一変して川と谷が織りなす地形がダイナミックである。舟が相模湖へ向かって下って行く。景色が大きいので、舟は頼りないくらいに小さく見える。
境川橋は渡らずに、国道に向かって谷を登るが、この坂は一日歩いた足にはなかなかきつい。名倉入口でようやく国道と合流する。 しばらく国道を行くが、車は多く歩道は狭く、あまりいい気分ではない。左手の山際に御留坂を登る古道の入口が見えたので、ガードレールを跨いで逃げ込むように古道に入った。古道を過ぎると、関野宿である。
関野宿
4時30分、関野宿、46,734歩。実に小ぢんまりとした宿で、御手洗団子の一粒分といった感じである。関野宿は、甲州街道の中で最も小さな宿ということである。それも明治時代の度重なる火災で焼失してしまった。
宿場から、中央線に架かる青色のペンキ塗りの歩行者用橋を渡ると、古道に通じている。関野からの相模湖の景色を眺めようと思って、見通しのよい橋の上に出たら、それが偶然にも古道に通じる道であった。 街道には「街道の匂い」がある。いったん物に着いた匂いが容易に消えないことがあるように、「街道の匂い」は残り続ける。市街地の開発や道路建設のように、積極的に破壊しない限り、生活のゆっくりした変化のなかでは、とくに残そうと努力しなくても、「街道の匂い」は消えるものではない。匂いとは、佇まいといってもいいかもしれない。歴史を経た家並みや木立や道の佇まいといったものが、街道であったことを知らしてくれる。道端に道祖神や石仏があれば、それはもう確実である。街道の役目を終えて、一世紀は経過したが、一世紀くらいでは匂いは消えない。完全に消え失せる前に、なんとか保存の努力をしたいものである。
旧街道を完全に辿るのは難しくなってきた。インターネットで詳細な地図を公開してくれているので、大変助かるが、地図では表現しにくいところもあるから、現地に行ってみないとわからないことも多い。そういう時は、街道の匂いを嗅ぐことである。感覚を研ぎ澄まし、注意力と観察力を鋭くして五感を働かして歩いていると、なんとなく街道に残るかすかな匂いを嗅ぎつけることができる。ここが旧道であろうと見当がつくのである。こうして、実際に進んでみて、旧道であることが分かった時は楽しいものである。野田尻宿の出口や、関野宿の出口は案内が無いので分かりにくい所であるが、偶然も手伝って、探り当てることが出来た。
中央線を跨ぐ歩道橋を渡り、線路沿いに古道を進むと、新興住宅地になる。やがて弁天橋からの道路に合流すると、すぐに藤野駅である。 4時50分、藤野駅着。藤野駅は新しい駅舎になっていた。本日の総歩数は47,343歩、行程距離25.4Km。上りが多く、距離の割には疲れた。5時の甲府行きに飛び乗る。
3月1日 藤野から八王子
8時35分、藤野駅出発。曇っていて寒い。国道を進む。歩道が狭く、車を気にしながらの歩行が続く。相模湖とその背後に広がる台地と家並みや、雪をうっすらと被った丹沢山塊の眺めに元気付けられて、沈みがちな気持ちを鼓舞しながら進む。
藤野から見る相模湖の景色は、地形の変化に富んでいて好きな所だ。藤野中学校のところで旧道に入るが、すぐまた国道に戻る。沢井川に架かる吉野橋を渡る。橋からはるか下に、釣り人が何艘ものボートを浮かべている。色とりどりのボートと緑色の水面とのコントラストがきれいだ。
江戸時代には、吉野橋より50mほど下流に、小猿橋という猿橋に似た橋が架かっていた。地形と地質が悪く、建て替えには苦労したという。江戸末期になると幕府からの建て替え費用は乏しくなり、宿場で捻出したとある。八王子の千人同心も工事の指揮に当たった。明治になってから新小猿ができたが、吉野橋の完成により消滅してしまった。名物が一つ無くなったわけである。
吉野宿
吉野宿に入るが宿場の面影はもはやない。かろうじて現存している旅籠「ふじや」と、その向かいにあった本陣の土蔵が残るのみである。吉野本陣は五層の楼閣で堂々たるものであったようだが、今は写真でその当時の威容を偲ぶしかない。まだ時間が早く「ふじや」は開いていない。仕方なく見学は諦める。
「ふじや」の先で、鈎の手に左に曲がり旧道に入ると、角に高札場跡の柱が立っている。しばらく旧道を進むことになるが、道の脇には石仏や石碑が点在し、ところどころ竹薮や木立が残されているので、街道の雰囲気を感じさせてくれる。旧道はなだらかな山麓へと登っていく。相模湖が眼下に望まれ、遠く丹沢山塊の峰は昨夜降った雪で白い。畑には梅が咲き、蜜柑が黄色く実っている。空気は冷たいが、早春の明るい風景が広がっている。
景色を楽しみながら歩いていくと、旧道は中央道を越えて山の道になる。橋沢、貝沢を越えていく。貝沢あたりは完全な山道になる。貝沢を過ぎ、中央高速の下の細い取り付け道を潜りぬけると、与瀬上宿である。
与瀬上宿
9時20分、与瀬神社に到着、10,779歩。大きな鳥居が、ただの神社でないことを感じさせる。中央道の上に架かる広い階段を上り、さらに鬱蒼とした木立のなかの石段を上り詰めると、厳かな空間に社殿が鎮座している。与瀬神社の創立年代は不明という。神像の台座に享禄(1530年頃)の記載があるというから、遅くとも戦国時代には創建されていたことになる。「与瀬の権現様」とも呼ばれているのは、吉野の金峰山寺の本尊である蔵王権現を勧請したからである。蔵王権現は7世紀、修行者の役行者(えきのぎょうじゃ)が創出した、釈迦如来・観音菩薩・弥勒菩薩の三体を合体した、神とも仏ともつかない不思議な尊体である。与瀬神社の祭神は日本武尊ということであるから、創立年代も縁起もよくわからない不思議な神社である。元禄年間には壮麗な社殿が整備されて、街道を往来する旅人は必ず参詣したというから、霊験あらたかであったのは間違いない。
与瀬宿
与瀬神社の参道を下ると、国道である。「甲州道中与瀬宿」の道標があり、ここが宿場跡だということがわかる。与瀬宿は木材の川流しや舟運で成り立っていた、旅籠六軒の小宿であった。本陣は武田の旧臣坂本家が勤め、鮎料理が評判であったという。
『広重甲州道中記』によれば、「与瀬の宿入口茶屋に休、あゆのすしをのぞむ。三人手つだい出来上がり出す。甚だ高価、其の代りまづし」とある。本陣の鮎寿司ならば、広重の口に合ったかもしれない。こんな山峡の小宿では、相模川で獲れる鮎が最高のご馳走であったのであろう。
与瀬宿を過ぎると相模湖の駅前商店街になる。桂北小学校のところで旧道に入る。このあたりは道標が整備されており、「えんどう坂」までは辿れたが、その先で旧道を見失ってしまった。地元の人に教えられるままに、中央道を越えて山の道に入ったのが間違いだった。 小仏から犬目まで、中央道は甲州街道を貫くように建設されている。高速道路のルート設定が、甲州街道のルート設定とほぼ一致しているのは興味深い。上野原・鳥沢間では、中央線と国道20号線が桂川沿いに進むので、また小仏峠では国道20号線が迂回したので、甲州街道から大きく離れている。その時代の土木工事の水準、政治的理由、経済性、乗り物の性格が、こういう結果になったのであろう。 中央道の建設で、甲州街道はところどころで分断されてしまった。追跡する犬が、川で匂いを見失うようように、かすかに残された街道の匂いが、分断された所で完全に消されてしまう。わずかな手懸りを頼りに、街道を辿ることができないのである。
山麓の畑の中をのどかな道が続く。長福禅寺という寺の前を通る。やがて下りになり、紅梅白梅の咲き乱れる畑に出た。そのまま通り過ぎてしまうのが惜しいほど美しい。梅の咲く畑の向こうには、木々で覆われた谷を相模川が細く流れ、遠くに桂橋のアーチ型の橋桁が見える。相模川の両岸は台地となり、住宅地が広がっている。自然の中に、人間が造った物がうまく溶け込んで、じつによく整った美しい風景が広がっている。このような、予想もしない素晴らしい景色を発見するのも、街道歩きの醍醐味だ。下の集落の中に大きな屋根の民家が見えるので、そこを目がけて道を下ると、小原宿本陣の裏に出た。
小原宿
11時35分、小原宿本陣着、16,287歩。本陣「清水屋」は、問屋と庄屋も兼ねていた。どっしりとした構えの、見るからに本陣らしい建物である。神奈川県下では唯一の本陣の残存建物であるというから、本陣が残るのは奇跡にも近い。
甲州街道で本陣が現存しているのは、下花咲宿「星野家」、小原宿「清水屋」、日野宿本陣の三つだけである。玄関右の広間には雛人形が飾られ、人けのないがらんとした建物に華やかさを添えている。本陣とはいえ、座敷は上段の間、中の間、控の間しかない簡素な造りである。座敷の庭にある、徳川家から拝領したというドウダンの刈り込みは、葉を落としてはいるが見事である。右手奥に囲炉裏があり、子どものころよく遊びに行った親戚の農家を思い出し、懐かしさのあまりしばらくそこに座っていた。二階では養蚕をしていたのであろう、当時の道具類が置かれている。私が子どものころの昭和30年代は、まだどの農家でも養蚕が盛んだった。蚕が一斉に桑の葉を食べる音が、薄暗い部屋に響いていたのを思い出す。
本陣を出て、小原宿を歩いてみる。国道端にしては驚くほどよく保存されている。本陣が残っていることと、相模湖、高尾山、小仏峠、陣馬高原などの観光地に近く、訪れるハイカーや観光客が多いことが、小原宿を保存しようとする気運を高めているのであろう。小松屋、伊勢屋、湊屋といった屋号のある家が、宿場の雰囲気を醸し出している。同じく国道端にある信州蔦木宿などは、屋号を残してはいるが、訪れる人がいないから衰退する一方である。この二つの宿の運命は対照的である。
小原宿は相模川の河岸段丘の崖上にある。宿場の東端から見る相模川の谷の風景は実に美しい。平安時代の初め、隆弁僧正が諸国遍歴でこの地を訪れた際、京都の八瀬や大原に風景が似ているため、与瀬、小原と命名したという言い伝えがある。自然美としては、京都よりはこちらの方が上であろう。
江戸時代風の建物に造られた資料館「小原の郷」を見学する。ここから国道を進み、国道が大きくカーブを描く手前の底沢バス停の所で、美女谷鉱泉への道に入る。中央線のガードを潜ると、この山の上に一里塚があったことを示す標識が立っている。甲州街道はこの道ではなく、山の上を通っていた。本陣を出たところで、山の方に曲がり、中央道の上の山中を通っていた。現在この古道は消滅してしまっている。小仏峠へ登る古道までは、迂回路を歩くことになる。
中央道の高架の下を二度通る。車で走っているときは気付かないが、下から見上げると、事故でもあったらどうなるのだろうと思うほど、ものすごく高い所を走っている。空に伸びた細長いコンクリートの橋脚が、道路を支えている。大地震に耐えるのだろうかと、ふと心配になるほどである。江戸時代を想像しながら街道を歩いていると、現代の建築技術や土木技術の、破壊的なほどの凄まじさを感じざるを得ない。
迂回路の途中から、「東海道自然歩道甲州道中コース」へ入る。甲州街道のなかでこの山道だけが、ほぼ当時のままの姿を伝えているのではなかろうか。街道としての役割を終えたあとも、ハイキングコースとして多くの人が歩き続けたから、古道が残った。道は、歩く人がいなくなれば数年で消滅してしまう。歩く人がいれば、永久に存在し続ける。
中高年の団体登山の一行に出会った。百人以上の集団登山である。皆さん元気なのは大変けっこうだが、こんな団体で来なくてもと思う。山は少人数で静かに登りたい。私は、好きな所で好きなように足を止められない集団登山はどうも苦手だ。
1時50分、小仏峠に到着。23,342歩。寒い日であるが、日曜日であるからか、数グル ープのハイカーが休憩している。かつて多摩ニュータウンの南大沢に住んでいたころ、家族で高尾山から小仏峠を通って陣馬山までハイキングをした。そのころを思い出し、懐かしさで思わず胸が一杯になった。当時のことが、走馬灯のように次々と思い出される。峠からは懐かしい多摩地方の市街地が見える。
北条氏照は小仏峠から一里ほどの山裾に八王子城を築いた。小仏峠に警備隊を常駐させていたことがある。信玄もここに関を設け、相模からの人の出入りを監視したことがる。
小仏峠は標高548m、武蔵国と相模国の国堺である。永禄10年(1568年)、武田信玄が北条氏を攻めた時、別動隊の小山田信茂は大月から小仏峠を越え相模国に侵入した。不意を衝かれた北条氏照の軍勢は敗退する。後から押し寄せた武田勢にも攻め立てられ、滝山城は三の丸まで陥落し、北条氏照は二の丸まで追い込まれた。このとき氏照と武田勝頼が槍をあわせたと伝えられている。その後、北条氏照は平山城である滝山城の不利を悟り、小仏峠から一里ほど北東の山裾に山城を築いた。この城に八王子を祀ったことが「八王子」という地名の由来となった。
峠を下る。こちら側の道のほうがなだらかだ。2時35分、宝珠寺。ここには都天然記念物「小仏のカゴノ木」がある。カゴノ木はクスノキ科の常緑樹で、樹皮が剥がれて鹿の子模様になるのでこの名がある。幹は枯れたが、何本かの新しい枝が成長し、その枯れた幹の周りを取り巻いたので、まるで一本の幹のように見える。周囲4m、樹高23mの大木となっている。妖怪のような怪奇な外観の老木である。
小仏宿
南淺川の清流に沿って下る。人家が現れてくるが、この辺りが小仏宿であろうか。宿場の面影は全く無く、案内板もない。ここは梅の里である。梅園があちらこちらで満開を迎えている。枝振りの良い梅を写真に撮ろうとするが、梅園の上を中央線と中央道が走っているため、どうしても邪魔となる架線と道路が写真に写ってします。うまくこれを避けても、今度は電線が入ってしまう。結局、梅の写真を撮ることを諦めた。豊かな暮らしと引き換えに、美しい日本の風景は至る所で損なわれている。そのかわり、電車の窓からみる梅林はきれいであろうが。
駒木野宿
「甲州街道念珠坂」の石碑と新しい赤い前掛けを着たお地蔵さんの前を通り、3時50分、駒木野着、32,799歩。小仏関所跡。駒木野も関所跡が無ければ宿場であったことを気付かせるものは何も残っていない。
信玄は関所を小仏峠に設けて、相模国からの出入りを厳重に監視したが、徳川幕府になってから関所はこの駒木野宿に移された。下諏訪からは四番目の関所である。この関は、江戸への出入りを監視するものであるから、とりわけ重要だったであろう。「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。「手形石」と「手付き石」が残されている。手形を手形石に乗せ、手付き石に手を付いて許しを待ったという。幕府の威光を借りた役人の物々しい態度が目に浮かぶ。
小仏も駒木野も、山間の静かな里であった。しかし今は、中央線が走り、中央道ができて、美しい里は騒々しくなってしまった。その上に更に圏央道の建設が進められている。住民は反対運動をしているが、彼らには心より同情したい。 やがて高尾山方面からの国道と合流する。静かな街道歩きは、これで終了する。
ここからは、都会の喧騒の中をずっと歩くことになるが、歩道は広く歩きやすい。高尾からはイチョウ並木となる。このイチョウ並木は、大正天皇を多摩御陵に埋葬する時に植えられた。今は大きく育ち、国道の喧騒を和らげてくれるだけでなく、街に落ち着きと風格を与えてくれる。
高尾駅を過ぎて旧道に入る。こちらの入口は車の進入を禁止している。旧道の街並みは静かで落ち着いている。歩道と車道に段差が無く、タイルの模様だけで識別しているのが都会らしく洒落ている。車の交通量が少ないから、歩きやすく気持ちが良い。歩道の端には清流が流れている。
国道に合流するが、イチョウ並木のお蔭で、国道歩きは意外と快適である。ようやく、千人町となり、追分に到着。追分の陣馬街道口に千人同心の碑が建てられている。
1599年、大久保長安は武蔵国の国境警備と治安維持の重要性を家康に進言した。こうして旧武田家臣を中心に結成されたのが千人同心である。百人のグループが十組からなり、身分は武士というよりは農民に近く、主として警備を行う集団であった。1991年に大久保長安は八王子に所領を与えられ、陣屋を置いた。石高は8千石であるが、実質は9万石だったという。この陣屋の跡が秋川街道の先を進んだ中央線脇にある。
大久保長安は甲州街道の各地でその名前が出てくる。この人も数奇な運命の悲劇のひとであった。長安は祖父と父が猿楽師の家に生まれた。一家は甲斐に流れ信玄の猿楽師として仕えた。このとき長安はその実務の才能を信玄に見出され、行政官として税務や黒川金山の採掘で活躍した。
武田滅亡後は、家康に取り立てられ大久保忠隣の与力となって、武田滅亡後の甲斐の再建に手腕を振る。堤防の復旧、新田開発、金山開発、身延道の川運開発に尽力し、数年で甲斐を立て直した。
その後の長安は家康に重用され、その活躍は目覚しいものがある。主な役職を列挙すればその能力と実績は明らかである。
関東代官頭、大和代官から始まり、甲府奉行、石見奉行、美濃代官、佐渡奉行、勘定奉行、伊豆奉行を務め、老中にまで上り詰める。人脈も広く、その権勢から「天下の総代官」と称された。この間、佐渡金山、土肥金山、石見銀山などの全国の金銀山の開発と運営、街道の整備などを行う。一里塚の設置、一里=36町の度量衡の制定、宿駅や伝馬制度は長安の業績である。極めて有能な行政官であり、経営者であり、戦略的発想の持ち主であった。
しかし、晩年は悲劇が待っていた。次第に家康の信頼を失い、代官職を次々と罷免された。69歳で病死するが、死後に晒し首となり、七人の息子は処刑され親戚関係の大名も改易となった。これを大久保長安事件という。金山の奉行時代、金を横領し蓄財したとの疑いであるが、事実は違うというのが定説である。
当時大久保忠隣と本多正信・正純父子の勢力争いがあり、本多方が大久保方を追い落とすために仕掛けた陰謀ではないかとも言われている。大久保長安にも陰謀を仕掛けられる隙があった。家康の寵愛のもとに金山奉行となり、大の派手好きであったことが、疑いを持たれる原因となった。人の嫉みもあったかもしれない。権限に溺れがちな代官への見せしめとして、綱紀粛正を狙ったとも言われている。大久保忠隣も失脚し、本多正信が権力を掌握するが、二年後には正信も死亡する。大久保長安の墓は甲府の天尊躰寺にある。
金山秘話とでも言おうか、金山に関わった者には悲劇が付きまとう。働くものには過酷な労働と悲惨な死が待ち受け、金山の役人にも幕府を支える最高機密事項に関わるだけに、数奇な運命が付きまとう。
大久保長安はその能力と実績にもかかわらず、今も汚名を晴らせていない。大久保長安事件の印象があまりにも強烈だからであろうか。柳沢保良もそうだが、この大久保長安も、あまりに権勢を持ちすぎた人間に対する世間一般の評判はどうも芳しくない。
横山宿
八王子の商店街を歩く。商店街には老舗が目に付く。八幡宿辺りの加島屋のどっしりした土蔵造りの店などはその代表格である。しかし、八王子の町としての歴史は江戸時代からである。
平安時代には、横山荘を核として形成された武士集団である横山党が勢力を張った。鎌倉時代になると大江氏や北条氏の一族の支配下に移り、室町時代には関東管領上杉氏の家臣である大石氏が支配した。戦国時代、大石定久は北条氏康の次男氏照を養子に迎えた。秀吉による小田原攻めのとき、八王子城の北条氏照も小田原城に入り、兄の氏政と共に敗北し北条氏は滅びる。八王子城も上杉景勝や前田利家によって陥落した。
その後、家康の領地となり、甲州口を守る軍事的拠点であることから直轄地となった。そして大久保長安を代官頭に据え、八王子の町造りが本格的に行われることになる。1650年ころまでには、八王子十五宿が完成された。 安政6年(1859年)に横浜が開港され、絹の輸出が始まると、八王子は絹の町として繁栄するようになる。もともと八王子周辺の農家では米の他に養蚕が盛んであったから、この地は絹糸や絹織物の生産地として栄えていた。また八王子宿は、上野、武蔵、甲斐、信州などの絹糸や絹織物の集積地としても繁栄していた。絹の輸出が始まることで、八王子は絹の生産地および中継地として、一層賑わうようになった。
私が多摩ニュータウンの一角にある南大沢団地に住んでいた頃、八王子はまだなんとなく田舎っぽい洗練されない町だった。しかし、1990年以降、駅周辺の再開発が急激に進み、八王子はすっかり現代風のお洒落な街に変身した。その後の八王子の変貌振りを少し見たいとは思ったが、甲州街道を歩く事が主たる目的なので、ともかく国道沿いを横山宿へと進んだ。5時30分、横山宿。42,942歩。
3月2日 八王子から調布
6時20分、ホテルを出発。ようやく日の出。横山宿の鈎の手を歩く。早朝の都会はまだ寝覚めていないが、車の往来は既に一日の活動が始まっている事を感じさせる。
八王子駅から真っ直ぐ甲州街道に進み、鉤の手に曲がるところに、新町竹の鼻の一里塚跡があり、その向かいに永福稲荷神社がある。この神社は9月6日に、江戸時代から続く「しょうが祭」が開催される。生姜は邪気を払う薬味とされており、生姜を神社に奉納したことが祭りの始まりとされる。
淺川に架かる大和田橋を渡る。橋の上には、1945年、8月2日の空襲で投下された焼夷弾の跡が残り、記念として保存されている。私は戦後生まれであるから戦争を知らない。戦争があったことすら忘れがちである。このような戦争の生々しい跡を保存し、戦争を絶えず思い起こさせることは大切である。現代は橋をさっと渡ってしまうが、当時は、飛び石伝いに川原を渡った。
国道を進む。イチョウ並木がここにもある。時折、土蔵のある旧家を見かける。イチョウ並木が消えると、日野市に入る。コニカミノルタの工場や日野自動車の工場前を過ぎて、旧道に入る。大坂上通りを進む。大坂上通りを下りきると日野駅にぶつかる。旧道は線路を真っ直ぐ突っ切っていたが、今は日野駅を迂回することになる。通勤でごった返す駅を抜けて、西の地蔵を見てから宝泉寺を訪ねる。
日野宿
宝泉寺から旧道を抜けて国道を進み、八坂神社を過ぎると日野宿本陣である。7時40分、8,937歩。今日は月曜日で本陣は休館日であった。本陣の建物は瓦屋根のどっしりした重量感のある建物である。本陣の向かいに、問屋場と高札場の跡がある。
東の地蔵で左折し、日野渡船場跡に向かう。今はモノレールが走る立日橋のすぐ下流が 日野の渡し跡である。現在は案内板が立てられているだけで、渡しの面影は全くない。時代劇によく登場する、渡し場に続く葦の生えた川原に茶屋のある風景が展開していたのであろう。朝江戸を出発した旅人は、その日のうちに日野の渡しを渡リ終え、日野宿か横山宿で一泊目を迎えた。日野の渡しを渡ると、初めて江戸を出たことを実感したという。
大正15年(1926年)、日野橋が開通するまで渡し舟が使われていた。そのころの多摩川は、川の色が変わるほど鮎が泳いでいたという。まだのどかな田舎であった。
立日橋を渡る。今日は空気が澄み、真白な富士山がよく見える。頭上をモノレールが通過してゆく。なんとなくのんびりしたモノレールは、この橋からの風景と似合う。
そのまま甲州街道を行かずに、普済寺と諏訪神社に寄り道をすることにした。立日橋を渡り終えたところから残掘川の遊歩道を進む。朝からずっと車の行き交う道を歩いてきたので、この遊歩道はなんとも言えず気持ちが良い。しばらく雑踏を忘れ、開放感に浸ってのんびり歩く。通歩道のベンチで最初の休憩を取る。
8時45分、13,900歩。29号線を渡ると桜並木になる。今は枯れ木であるが、桜の時期は桜見物の人で賑わうに違いない。桜の並木道はやがて中央線にぶつかる。ここを右に段丘を登ると普済寺の墓地にでる。墓地をぐるっと回って普済寺に入る。
立川宗恒がここに居城を構え、1353年に一族の菩提寺として建立したのがこの普済寺である。境内には立川氏の館跡の土塁が残っている。関東地方では、平安時代の御牧や荘園を核として武士集団が形成されていった。室町時代には、武蔵七党といわれる七つの同族的な武士団が存在していたことが知られている。その一つである西氏に属したのが立川氏である。武蔵の武士団は平安時代後期から戦国時代まで、この地に勢力を張っていた。しかし秀吉の小田原城攻めの時、武士団は北条側に付き、八王子城に篭って戦ったため、多くは滅びた。立川氏もこの時に滅亡した。
普済寺の本堂は火災にあって焼け、最近建てなおしたばかりでまだ真新しい。普済寺には1361年に作成された国宝の六面石憧がある。境内には寺宝の説明があるだけで、どこにあるのか案内が無い。そこで社務所に尋ねると、本堂の裏に案内してくれた。「観光目的の寺ではないので案内はしていませんが、ご自由にご覧下さい」と言ってくれた。本堂の裏にある庭園の池のほとりに堅固な建物が造られ、そこに国宝の六面石憧が大切に保管されている。ガラス越しに見るようになっているが、けっして見やすいとはいえない。背丈ほどある秩父青石の板を六角柱に組み合わせ、二面に仁王像が、四面に四天王像が刻まれている。
普済寺から静かな住宅街を抜けると、諏訪神社の森が見えてくる。鬱蒼と木々が茂る長い参道を進むと、木塀で囲まれ、白石を敷き詰めた広い神域の正面に拝殿がある。立派な神社である。甲州街道沿いの諏訪神社としては最大規模を誇る。811年に、諏訪神社を勧請したというから、坂上田村麻呂が夷賊遠征で諏訪神社の霊験があったとして、桓武天皇より神領を賜ったのと時期が重なる。諏訪神社の神威が朝廷にも認められ始めたころに当たる。安政4年(1857年)に造営された拝殿は、1994年に不審火で焼失したが、2002年に再建された。諏訪大社の御射山社祭の8月28日に合わせて、例大祭が行われる。諏訪神社の奥には諏訪の森公園があり、神域一帯が鬱蒼とした鎮守の森となっている。今となっては極めて貴重な、都会に残された緑の空間である。これも諏訪大名神の神徳と言ってよいであろう。
諏訪神社からは奥多摩街道を甲州街道に向かう。10時10分、旧甲州街道に合流する。20,355歩。日野橋交差点からは、殺伐とした国道をひたすら歩くことになる。 国立市へ入る。街道脇に上谷保村の常夜燈がある。常夜燈は街道筋のいたるところで見るころができるが、現在の街灯のような役割をした。だが、村の中にある常夜燈は火除けが目的である。上谷保村常夜燈は火伏せの神である秋葉大権現を祀ったもので、村を火災から守るために、油屋に置かれたものである。秋葉神社に由来するこの火除けの信仰は、五代将軍綱吉の治世以降に全国に広まった。宿場でも、火災に遭わなかった所はないくらい火事が多かったから、火除けの信仰は現実的であった。
国立の国道筋は味気ない。それだけに谷保天満宮はひときわ目を引く。谷保は
「やぼ」と読む。菅原道真が大宰府に左遷された時、三男道武は谷保に配流になった。延喜3年(903年)菅原道真の死後、道武が父の像を刻み、廟を建てて祀ったのが始まりと言う。東日本では最古の天満宮で、亀戸天神、湯島天神とともに、関東三大天神と称されている。明治41年、有栖川宮が先導して谷保天満宮まで「遠乗会」と称するドライブを開催した。昇殿参拝し安全祈願の後、無事戻られたということから、交通安全発祥の地とされている。
国道の右側に「関家かなどこ跡」の案内がある。江戸時代から明治初期まで鋳造を営んでいた。鋳物三家の一つということである。梵鐘、仏像、鍋釜などを鋳造していた。国道の左側には、板塀で囲まれた立派な門構えの旧家(本田家)が残っている。本田家は江戸時代より馬の調教や獣医などを家業としていた。国道筋には時折古い家屋敷を見かけるが、この本田家は、建物の規模と保存状態の良さからひときわ目を引く。
国立インター入口を過ぎて府中に入る。熊野神社がある。小さな神社であるが、神社の裏手では古墳の修復作業が行われていた。古墳の上に丸石をびっしりと敷き詰めて、元の姿を再現している。この古墳は上円下方墳といい、外観は四角型の台上にドーム型の蓋が乗ったような構造をしている。7世紀前半のものと判明し、この構造の古墳としては国内最大で、最古であるという。他の同型の古墳は、7世紀後半~8世紀前半の2例(奈良県,静岡県)があるだけである。切石を使った横穴式石室の入口が発見され、この時期の古墳として珍しいという。2005年7月に国指定の文化財(史跡)に指定された。
本宿から旧道になる。今までの国道とは打って変わって静かな通りになり、ようやく生きた心地がする。生垣で車道と隔てられた歩道を行くと、梅の街路樹になる。いま梅がちょうど満開である。 やがて分倍河原の踏切を渡る。分倍河原は「分倍河原の戦い」といわれる歴史に残る二つの戦いの古戦場である。一つは鎌倉幕府の滅亡を決定付けた戦い、もう一つは関東地方を戦国時代へと導く遠因を作った戦いである。 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の挙兵により鎌倉幕府倒幕の「元弘の乱」が始まる。 元弘3年(1333年)、新田義貞率いる倒幕軍と北条泰家率いる幕府軍が分倍河原で対陣。一時は幕府軍が優勢になるが、新田軍の急襲により幕府軍は壊滅的な敗北を喫する。これが「分倍河原の戦い」で、鎌倉幕府軍の敗北を決定的にする元弘の乱の中心的な戦いであった。幕府軍は鎌倉に退却し切通しを封鎖して守りを固めるが、稲村ヶ崎から進入した新田義貞によって破れ、鎌倉幕府は東勝寺にて滅亡、元弘の乱は終結する。
室町時代の分倍河原の戦いは、享徳4年(1455年)の鎌倉公方と関東管領の勢力争いで、1483年まで続く関東の内乱「享徳の乱」の幕開けとなった。関東での鎌倉公方、関東管領、室町幕府の三つ巴の勢力争いは、やがて戦国時代へと展開していくことになる。
分倍河原を過ぎると、高安寺という大木が茂り竹林に囲まれた、いかにも歴史
を感じさせる風情のある寺がある。街から一歩足を踏み入れただけで、不思議なほど静寂な空間が現れる。ここだけが過去に戻ったようだ。歩きつかれた足を休め、ほっと一息入れる。
ここは、平将門の乱を平定した功績で武蔵守となった藤原秀郷の館跡で、その後「見性寺」という寺になった。室町時代に入り、足利尊氏は夢想国師の提案により、鎌倉幕府の滅亡に至る「元弘の乱」および南北朝時代の争乱による戦死者を弔い、天下に太平をもたらすために、各国に安国寺と利生塔を建立した。その時に、足利尊氏はこの見性寺に武蔵国安国寺の地位を与え、1348年に「高安寺」と改めた。その縁で現在でも足利氏の紋所が使用されている。また尊氏の法号である「等持院」の扁額が本堂に懸かっている。この寺は崖上にあり、多摩川から多摩丘陵を望む要害の地にあるので、「分倍河原倍の戦い」などで城砦として使われた。 源頼朝の怒りを買い鎌倉入りを許されなかった義経が、京都に向かう途中しばらく見性寺に滞在した。弁慶は義経の赦免祈願の大般若経を書写したといわれ、その大般若経は谷保天満宮に残されている。「弁慶硯の井」というのは、その時に清水を汲んで墨をすった古井戸跡である。
府中宿
11時30分、棒屋の坂 野川弁慶橋。11時35分、中宿、府中高札場跡、札の辻と問屋場跡がある。
12時05分、昼食 ケヤキ並木 12時30分、大国魂神社 大国魂神社は街道随一の規模を誇る神社である。府中市の中心に位置することもあって、多くの人がお参りしたり散策したりしている。今まで街道筋で見てきた幽寂なたたずまいの神社とは一味違う、都会のにぎやかな神社である。それでも、ずっと奥にある拝殿までいくと、厳かな神域となる。
大国魂神社は景行天皇41年(111年)5月5日創立という。神のおつげにより「大国魂大神」を武蔵の国魂(国の守り神)として祀ったのが始まりである。この大国魂大神は大地の神であり大国を治める神である「大国主神」の別名でもある。大化改新で国府がこの神社内に置かれた。国司による武蔵国ないの神事の便宜のために、国内の神を合祀したので「武蔵総社」となり、さらに武蔵の主な六社を祀って「武蔵総社六所宮」となった。5月5日の行われる「くらやみ祭」で、8基の神輿が繰り出す神輿渡御は有名である。 武蔵国の守り神であるから、関東の武将たちに崇拝された。源頼朝も妻正子の安産祈願をしたり、社殿の造営をしている。
1062年の前九年の役では源頼義、義家が戦勝祈願を行い、戦勝のお礼参りにケヤキの苗千本を植えたのは有名な話である。現在の「馬場大門ケヤキ並木」は慶長年間に家康が馬場を寄進し、その両側の土手にケヤキを植えたものである。戦国時代から江戸時代初期まで府中に馬市が立ち、関東における軍馬の主要な供給地となっていた。馬場の寄進は軍馬の調達に対する家康の御礼であった。家康は社領500石を寄進し、社殿の造営も行っている。明治4年に「大国魂神社」と改名された。
大国魂神社は由緒正しき神社であるが、一方では現実主義が感じられて面白い。国の建設に当たり守り神を創設したり、国司の便宜のために国内の神々を一箇所に集めたりというのは、いかにも自由でおおらかで現実主義の神道らしさがある。
府中競馬正門前駅への通りを過ぎると八幡町となる。この辺はもと「八幡宿」という集落で、「六所宮(大国魂神社)」の社領であった。旧甲州街道に面して「国府八幡宮」と書かれた大きな石柱と鳥居あり、参道の奥に鬱蒼とした森が見える。八幡宮の総本山は大分県宇佐市にある「宇佐神宮」である。大仏建立のとき東大寺の鎮守社として「手向山八幡宮」を勧請した。東大寺は総国分寺であるから、各国の国分寺でも守護神として八幡宮が創建された。これが「国府八幡宮」である。
八幡宮は全国で最も分社数が多い。祭神は応神天皇、神功皇后、比売神(ひめのかみ)であることから、皇室の祖神とされ、皇室の血統である源氏の氏神となった。そして次第に武士の間に広まっていった。もう一つは、781年に、神仏習合から八幡神は仏教を保護する八幡大菩薩であるとされた。これにより全国の寺の守護神として急速に広まっていった。
上石原宿
調布 行人塚 1時55分、上石原に到着。ここからが布田五宿である。布田五宿は長さ3キロメートル余りで、街道沿いに街並みができていた。旅籠は幕末でも9軒しかなく、本陣も脇本陣もない中継地点としての小さな宿であった。ということは、江戸を出立した人の多くは日野の渡りを過ぎ、日野宿か横山宿まで行ったということである。
下石原宿
上布田宿
下布田宿
近藤勇座像のある西光寺前を通り、下石原を経て、2時15分、小島一里塚跡、40,002歩。日本橋から六番目の一里塚である。 日野橋からこの辺りまでの甲州街道沿いには、かつて農家であったに違いない敷地が広い家がまだ多く見受けられる。土蔵が残っている家も30軒以上は見受けられた。かつて農村地帯であった名残が今も消えないで残っている。都市化が街の姿を完全に変えたのは、都心から調布までであるようだ。
天神通商店街を通り布田天神へ立ち寄る。かつての天神通りは梅並木で、江戸
まで聞こえる名所であったという。今は人通りの多い繁華街となっている。布多天神社の創建はわかっていないが、延長五年(927年)に制定された『延喜式神名帳』にその名がある。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)であった。天神となったのは文明九年(1477年)で、多摩川の洪水をさけるために現在地へ移した時に、菅原道真を合わせて祀った。江戸時代には布多天神社は布田五宿の総鎮守となり、五宿天神と呼ばれて親しまれていた。 豊臣秀吉が小田原攻めをした時、秀吉が布多郷に無法な行いや放火などを禁止した「太閤の制札」が残っている。
今日の街道歩きは布田天神までとし、深大寺へ足を伸ばす。野川を渡り、しだれ梅の見事な斉藤家の庭を拝見し、3時15分、深大寺に到着、44,646歩。
深大寺は寺そのものよりも門前の雰囲気がよい。趣のある深大寺通りを進むと、名物の深大寺そばが軒を並べている。これだけの店があると、事前に評判の店を調べておかないと、どこに入ったらよいのか迷うばかりである。客が沢山入っていそうな店に入る。帰りは深大寺通りを進み、味の素スタジアム、調布飛行場、マラソン折り返し点を見てホテルへ向かった。
3月3日 調布から日本橋
国領宿
6時50分、ホテル出発。昨日までの行程である布田神社へ急ぐ。7時15分着。3,391歩。
成田山常性寺に立ち寄る。瀟洒でいかにも都会の寺という感じがする。今まで見てきた地方の大きな伽藍をもつ堂々とした寺とは趣が異なっておもしろい。ここに馬頭観音塔があるというので捜してみた。野ざらしかと思ったらお堂に安置され、比較的新しい感じの四角い石柱に馬頭観音像が彫られている。甲州街道沿いでは、富士見塚平の観音窪にあるものとここのものが双璧だろう。1824年に、近郊の村人と八王子の縞買商人たちによって、馬の埋葬地に供養のために建てられたが、後に常性寺に移された。
常性寺からすぐの国道沿いに千年藤で有名な国領神社があるので、回り道をする。藤の季節ではないが、どんな木か興味があるので見たいと思った。樹齢400~500年という老木で、欅に絡んでいたが今はぶどう園のように鉄製の棚になっている。5月の連休ころが見ごろという。
7時50分、布田五宿を過ぎ、国道と合流。ケヤキ並木が続く国道を進む。ケヤキ並木は昭和30年代、東京オリンピックに合わせて、道路整備のために植えられたが、40年以上が経過し見事な並木を形成している。仙台のケヤキ並木や府中のケヤキ並木など、緑になると街に落ち着きと風格が備わった高級感を与える。落ち葉の処理や、枝が茂ることの厄介さはあるが、すばらしい緑陰を与えてくれた先人に感謝しなければならない。
並木道は都会のものであるようだ。田舎では、町の周囲に自然はあっても、町中の道には木が一本もない。夏のかんかん照りの時など通りを歩くのに暑くてやりきれない。街路樹を植えようと思っても、財政的、住民の理解などの条件がクリアーできないのである。
滝坂下交差点の先、滝坂小学校の前辺りから左に旧道が残っている。300mほどであるが、八王子以東では唯一昔の街道の面影を残す道となった。滝坂は有数の難所として古くから有名だった。雨が降ると濁流が滝のように流れるのでこの坂の名前が付いたという。傾斜を緩くするために現在の新道がつくられたので、北側に旧道が残された。坂上で馬宿を営んでいた川口屋による瀧坂の碑が、旧道の入口(坂の上)に建てられている。日本橋から横山宿(八王子)までは平坦であるが、この滝坂、日野の大坂そして谷保の天神坂が急峻な坂であったという。今は、道がならされているが、当時は荷車などでは難儀したのであろう。
国道に戻り、キューピーマヨネーズの仙川工場の前を過ぎると、仙川駅入口の交差点になる。この角のセブンイレブンの壁際に、一里塚跡の碑がある。ここにあることを知らなければ、見過ごすであろう。仙川三叉路で再び旧道に入る。千歳烏山を過ぎた辺りの日本橋に向かって右の歩道の脇に、「武州千歳村大橋場跡」と書かれた銅製の橋の親柱と、「下山地蔵尊」が忘れ去られたように立っている。名主であった下山一族の建てたものだという。全く別世界に変貌してしま
った甲州街道の数少ない名残である。
上高井戸宿
9時5分、10,401歩、上高井戸で国道と合流し、ここからは首都高速の下を歩くことになる。ケヤキ並木が続いているのと、道幅がゆったりしているので、思ったほどの威圧感や圧迫感は無い。この合流地点のすぐ先に、日本橋より4里の一里塚跡がある。もう4里かと思うと、嬉しさというよりも一抹の寂しさを感じてしまう。
下高井戸宿
9時25分、下高井戸を通過。高井戸宿といっても、現在の地名からここに宿があったのだと想像するしかない。当時を思い浮かべる何の手がかりも無い。
9時40分、下高井戸駅前に立ち寄り、ドトール・コーヒーを見つけたので休憩する。現在の甲州街道の沿道には、座って休めるような所は皆無である。駅前商店街に寄り道するより方法が無い。
代田橋付近で、玉川上水の断片が残っているのを見ることができる。
笹塚を過ぎ、牛窪地蔵尊前を通る。かつてこの地で牛裂きの刑という残忍な刑が実施されたとは知る由も無い。ここが窪んだ地形なので、牛窪と言われるようになった。幡ヶ谷周辺の農民の雨乞い行事の場所でもあった。大都会の真ん中にあっては、そこが血に染まった場所であろうがなかろうが、気にする人はいないだろう。現在の繁栄の真っ只中にあっては、歴史の時間的連続性は完全に絶たれている。牛窪地蔵尊は、1700年ころ疫病がはやったとき、刑で殺された悪人の崇りだとされ、子どもの安全を願い、霊を慰めるために建立されたという。古代にまで遡る諏訪大社のミサグジではないが、つい最近まで霊とか崇りが本当に恐れられていたのである。牛窪地蔵尊の横には、道供養塔が立っている。街道に感謝の念を持ち、旅の安全を願う道路そのものを供養する、江戸時代の庶民の道への思いを感じることができる。現代人は道路建設に大金をつぎ込むが、感謝の念は皆無である。ブルトーザーやダンプカーの、機械が造ってくれるからであろう。
11時5分、東京オペラシティの前を通過。コンサート専用ホールを持つ超高層複合ビルで、レストランやオフィスが入っている。映画館ではなく、コンサートホールが複合商業ビルと一体になっているところが日本らしい。経済活動があっての芸術である。
このコンサートホールは、基本コンセプトから始まり設計にも関与した作曲家の武満徹を記念して、正式名を「東京オペラシティコンサートホール:タケミツメモリアル」という。超高層ビルの奥にあるのが新国立劇場で、オペラ劇場と、中劇場、小劇場がある。知らない人にはややこしい巨大施設である。
日本にも西洋音界の悲願であったオペラ専用劇場がようやくができた。これで日本の西洋音楽は名実共に西洋に追いついたと言えようか。日本人演奏家の実力が世界一流レベルになってから久しい。
しかし、クラシック音楽は日本に深く浸透し文化の一翼を担うようになったとはいえ、今も一握りの音楽愛好家のものである。特にオペラは、言葉の壁があり、文化・歴史の違いがあり、少々大げさな所があり、その他のクラシック音楽のように浸透することは難しいであろう。クラシック音楽界悲願のオペラハウスができたのは、全く経済成長の賜物である。
オペラシティのある初台交差点の角にある吉野家で牛丼を食う。吉野家が牛丼を出し始めた頃食べて以来である。あの当時は脂身の多い肉で、味も濃く、これは健康的でないと思った。それ以来、こういうものは食べなくなった。
一昨年、狂牛病騒ぎで、アメリカ牛の輸入禁止となり、牛丼の発売が中止されたことがあった。オーストラリア牛があるのにと思ったが、アメリカ牛の肉で無ければ牛丼の味が出ないと言うことであった。その時、それほど牛肉にこだわるような高級料理でもないのにと、不思議に思った。
それを思い出し、急に食べてみたくなった。歩き続けて、カロリーを消費している時であるから、肉だけの食事でもいいだろうと安心して食べることができる。店に入った。「こちらのテーブルからお座り下さい」の表示の下に、端に座る。昼食にはまだ早い時間なので、客はまばらであるが、いかにもこういう店に入りそうな若者や中年サラリーマンやちょっとうらぶれた感じの老人が黙々と食事をしている。
メニューはいろいろ新しいものが増えていたが、迷うことなく牛丼の大盛りを注文した。味は当時より改善され、薄味になったように思う。牛肉の脂身も気になるほど多くはなかった。残念ながら、アメリカ牛でなければの理由は見出せなかった。
新宿駅南口を通過。学生時代から帰省や、買い物や、遊びでここには数え切れないほど来ているが、このようにただ素通りするのは初めてだ。新宿は人が多すぎて、最近ではめったなことでは来ないが、街道歩きで通過するのは普段と全く
違った感覚があり、雑踏も気にならない。
内藤宿
11時45分、新宿3丁目通過、23,328歩。「新宿元標ここが追分」と書かれた歩道に埋め込まれた銘板を、交差点を一回りして見つける。写真に収めようとしたら、こんなものには無頓着な人待ちの若い女性が、銘板を踏みつけている。
ここから青梅街道が青梅、大菩薩峠を経て、甲斐の酒折まで通じていた。甲州裏街道とも言われ、距離的には甲州街道より2里ほど近い。青梅街道も、江戸時代になってから大久保長安によって整備された街道の一つである。
内藤新宿ほど様変わりしたところはないのではないか。高層ビル、人の群れ、大型店、デパート、専門店と、繁栄の頂点に達した観がある。多様なものが無秩序に乱立し、しかも全体として破綻することなく、日々変容し続ける、巨大な生き物のような町である。新宿の雑踏は好きではないが、その活力には圧倒される。100年に一度の経済危機が叫ばれているが、外面的にはどこが不況なのかと思う。人類史においても、繁栄の頂点にいることは間違いない。
内藤新宿は甲州街道と青梅街道の追分として繁栄したが、飯盛り女のいる一種の色町としても繁盛した。1764年には風紀の乱れから、将軍吉宗によって宿駅を廃止されるに至っているが、8年後には田沼意次によって上納金を条件に再開された。この伝統は消し去られることはなく、歌舞伎町に引き継がれた。歴史というものは、容易に滅び去る一面と、簡単には消し去ることのできない一部とがある。
高遠藩内藤氏の江戸屋敷跡にできた新宿御苑を過ぎた所の、四谷四丁目交差点の手前に、四谷大木戸跡碑がある。ここからが江戸の町であった。一日に千駄の茅を刈ることができたことから千駄ヶ谷の名が付いたというから、この辺りは、茅や薄などが茫々と続く寂しいところであった。現在のビルが並ぶ大都会からは、当時の姿を想像することは難しいが、今も甲州街道沿いに残る山間部の集落の風景が、横山宿から内藤新宿宿までの間に続いていたと思えばよいであろうか。
四谷大木戸には玉川上水番所が置かれていた。玉川上水は羽村堰で取水し、四谷大木戸までは水路で、ここからは石樋や木樋の水道管で江戸市中まで供給された。現代流に言えば、水道局の水質管理事務所であろうか。
江戸は世界で一番清潔な町であったことは意外と知られていない。パリやフィレンツェやベニスをみればわかるように、街並みは美しいが、上水や下水やトイレの問題は決して清潔ではなかった。
四谷駅をぐるっと回って麹町へと進む。江戸時代の麹町は町屋が並び、商人や大工・左官などの職人の住む街だった。呉服、下駄、筆や墨、人形、菓子、薬、蕎麦屋、鰻の蒲焼、鰹節などの店が軒を並べていた。ここ来れば、江戸の生活に必要なあらゆるものが揃うショッピング街であった。街道の北側には寺院が建ち、南側は旗本屋敷で固められていた。
1時、半蔵門。お堀が美しい。この堀と石垣と松の木からなる端正な景観は、日本の代表的な美ではないだろうか。白砂青松の海岸を思わせる。植栽の手入れの行き届いた堀端を歩きながら、思わず「江戸」にやってきたという思いが湧く。
半蔵門は麹町門と当初は言われていたが、この門の警備を服部半蔵正成・正就父子が担当したことから半蔵門と呼ばれるようになった。服部家の部下である与力30騎、伊賀同心200名が門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる街道沿いを固めていた。
戦国時代においては、甲州街道は武蔵国と甲斐国を結ぶ軍事的な道であった。これを基礎にして、幕府直轄の五街道の一つとして整備された。半蔵門を出てそのまま街道を西に進めば、小仏、笹子を経て天領の甲府城に至ることができる。いざと言う時の軍事道路としての役割があったのであろう。
甲州街道の整備に中心的な役割を演じた大久保長安は、関東と甲斐を一体化するための幹線として考えていた。甲州街道は当初こそ軍事的な、あるいは幕府の公用道路としての色彩が強かったかもしれない。
しかし、江戸中期になると、農業生産や地場産業が発達し、信州や甲斐や多摩地域と江戸を結ぶ産業道路として、また高尾山、富士山、身延山へ詣でる講中の往来が盛んになり、観光道路として賑わうようになった。信州中馬や九一色郷商人なども盛んに往来するようになるのである。
三宅坂を下りながら、最高裁判所や国会議事堂や官庁街を眺めながら、ここが日本の首都であることを実感する。テレビのニュースでしか見ない世界が、眼前に存在している。ここで日本の進路が決定されているのである。学問、芸術、スポーツ、経済だけでなく、政治や行政においても、日本人として誇りに思え、世界からも評価されるように頑張ってもらいたいものだ。
桜田門を見ながら、日比谷の角を曲がる。内堀通りを進み、二重橋を見ていこうと思ったが、今回は甲州街道を辿ることにした。お堀と丸の内のオフィス街はいつ見てもきれいである。普段はそれほどにも思わなくても、海外旅行をして日本に戻ってくると、東京の街は本当にきれいだと思う。特に丸の内周辺はしっとりとした雰囲気がある。
和田倉門前を通り、大手町で曲がって永代通りを進む。首都高の下に橋が見えたので、もう日本橋かと思って行くと、どうも様子が違う。一石橋であった。偶然ではあるが、この橋のたもとに「迷子しらせ石」というのがある。この辺りは盛り場で、迷子が多かったと見える。石柱の正面には「満よひ子の志るべ」、片面に「知らする方」、その反対側に「たづぬる方」と刻まれている。迷い子を探す人はここに紙を貼った。心当たりのある人は、反対側にその返事を書いた紙を貼った。江戸庶民の知恵である。今なら、ぺらぺらした掲示板であろうが、石造りであるから永久に残るものを作った。
日本橋
1時55分、日本橋に到着、34,593歩。下諏訪宿から日本橋まで歩き通した。感激というほどのものではないが、一抹の感慨はある。「日本国道路元標」の前で記念撮影をしようと思い、通りがかりの人にシャッターを頼もうとするが、忙しなく足早に通り過ぎる人ばかりで、取り付く島がない。一刻を惜しんでいる感じが伝わってくる。何人かの人に断られた。ようやくゆっくりと歩いて来る人を捕まえて、写真を撮ってもらうことができた。忙しく余裕の無い大都会の真ん中は、甲州街道をとぼとぼ歩いてきた人間には、どうも居心地が悪く落ち着かない。現代人の中に江戸時代の人間が一人混じっているといった感じでもある。
日本橋まで来ればもう用は無い。感慨に耽ることも無く、お土産に日本橋の近くの寅屋で羊羹を買い、帰りの電車に乗るために東京駅へ急いだ。
甲州街道の標準旅程は、江戸を出てからの宿泊は、横山、猿橋、石和、台ヶ原で、4泊5日だったというから、1日平均40Kmを歩いたことになる。一般の旅行者は、観光地を寄り道して行ったであろうから、もう少し長かったであろうが、かなりの健脚である。
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